11月上旬から中旬ごろの気温になるでしょう。
あの日未曽有の災害に襲われた人々と町の証言記録。
第35回は宮城県岩沼市と名取市の境に位置する仙台空港です。
2011年3月11日午後3時56分。
仙台空港は大津波に襲われ水没。
しかし地震発生から津波が来るまでの間自分たちの任務を果たそうと必死に闘った男たちがいました。
災害時に被害調査や救助をすべく緊急出動する空の男たちです。
離陸を求められた防災ヘリコプターは格納庫に閉じ込められてしまいました。
整備士たちは命懸けの作業を決断します。
地震の20分後空港は閉鎖され滑走路の安全確認をする者もいなくなりました。
海上保安庁のパイロットたちは飛行機を飛ばすため自ら滑走路の安全を確認しに向かいました。
(乗組員)10mだな。
しかしその努力の間も津波は空港に迫っていました。
(乗組員たち)うわ〜!うわっ!お〜!地震が発生し大津波が空港を飲み込むまでの70分間。
空の男たちの証言記録です。
海岸線から僅か1キロの場所に建つ…滑走路の傍らには海上保安庁の仙台航空基地など多くの航空関連の施設が建ち並んでいます。
その中の一つに飛行機のパイロットを養成する航空大学校仙台分校があります。
あの日上空にいた航空大学校の訓練機は離着陸の訓練を繰り返していました。
訓練機で学生を指導していた…管制塔に着陸すると連絡した時違和感を覚えました。
管制塔から返事がない間に訓練機の高度は150mまで下がります。
地面はすぐ目の前まで迫っていました。
実はこの時仙台空港は震度6強の激しい揺れに襲われていました。
訓練機がそのまま着陸していれば大きな事故になったかもしれません。
着陸の寸前で上昇した訓練機。
管制塔から空中待機を命じられたあと新たな指示を受けました。
仙台空港に戻る事ができなくなった訓練機はやむをえず福島空港に向かう事になります。
地震による被害で閉鎖された仙台空港。
幸いこの時空港を出発する旅客機も空港に向かってくる旅客機もありませんでした。
地震発生の3分後宮城県に6mの大津波警報が発令されました。
午後3時6分には仙台空港は閉鎖管制塔からの撤退も始まります。
ところがこの時航空機を空に飛ばそうと悪戦苦闘を始めた男たちがいました。
民間の航空会社東邦航空です。
東邦航空は災害発生時に緊急出動するヘリコプターの管理・運用を担当していました。
民間放送局の報道ヘリコプターや道路や河川などの被害を調査する国土交通省・東北地方整備局の…あの日東邦航空の整備士保科正尚さんはみちのく号の点検作業をしている時に揺れを感じました。
保科さんは当時10人ほどいた整備士たちのあとに続いて格納庫の外に飛び出しました。
保科さんたちはヘリコプターを飛ばす準備を始めました。
ところが一つ大きな問題が発生していました。
みちのく号の前にあったシャッターだけが動かなくなっていたのです。
宙づりになったシャッターは重さ500キロ。
このままではみちのく号を飛び立たせる事はできません。
シャッターをつっていたのは小指ほどの太さのワイヤーです。
保科さんは決断しました。
シャッターにロープを巻きつけた保科さん。
ヘリコプターを牽引する車を使って引っ張ってもらう事にしました。
車を運転した…大きな危険があると心配していました。
(取材者)何に?
(取材者)じゃあ結構見てる方も…。
意を決しワイヤーを切断した保科さん。
(落下音)その瞬間シャッターは大きな音を立て落下しました。
ワイヤーも暴れる事なく保科さんも無事でした。
シャッターが撤去されたあとみちのく号と4機あった民放の報道ヘリコプターは次々と外に引き出されます。
整備士たちの点検が始まりました。
地震直後から報道ヘリコプターは出動を求められていました。
しかし整備担当の後藤さんは丁寧に点検しないと飛ばす事はできないと判断します。
一方みちのく号は地震の揺れに耐え建物や他のヘリコプターに接触する事もありませんでした。
点検は機体の表面を確認する程度で済みました。
間もなく機長と副機長が乗り込み離陸準備が始まります。
(ラジオ)岩手県の釜石大津波警報が岩手県には出ています。
沿岸付近の方は早く安全な高台に避難をして下さい。
午後3時14分大津波警報が10m以上に変更されました。
みちのく号の整備士で撮影の担当でもあった榊原利二さんもテープや機材の準備に追われる中大津波の情報を耳にします。
それでも保科さんたちは津波に大きな危機感は持っていませんでした。
午後3時15分みちのく号のエンジンがかかりました。
東邦航空から西へ200m。
ヘリコプターだけでなく飛行機も飛ばそうとしている男たちがいました。
海上保安庁の仙台航空基地です。
仙台航空基地の航空機は災害時の被害調査や被災者の救助などを行います。
基地長を務めていた田辺哲朗さんは地震のあとすぐに庁舎2階にあった運用司令室に駆けつけました。
災害発生時仙台航空基地は被害調査のため航空機を素早く発進させる決まりになっていました。
当時仙台航空基地には2機の飛行機と6機のヘリコプターがありました。
地震の前から飛行していた1機のヘリコプターには塩釜港方面の調査が指示されました。
指示を出したのは航空機の運用を管理する基地専門官の朝田学さんです。
続いて仙台港方面の状況を調査する中型のヘリコプターにはヘリテレと呼ばれる映像送信装置を取り付け撮影を指示しました。
更に別の小型ヘリコプターにも離陸準備を命令。
これらは翌日以降被災者の捜索や救出に活躍する事になります。
3機のヘリコプターに指示を出した朝田さん。
次に飛行機を出発させる事にしました。
行き先は三陸海岸です。
ところが飛行機をすぐに離陸させる事はできませんでした。
地震の揺れで滑走路が壊れている可能性があったのです。
そこで朝田さんは管制塔に滑走路の状態について問い合わせました。
ところが…。
管制塔では滑走路の状況を把握する事ができなくなっていました。
安全確認をするには朝田さんたちが独自に調査を行わなければなりません。
担当する事になったのは2人のパイロットでした。
大津波警報が発令されている中より海に近い滑走路へ向かう事になります。
2人は滑走路の点検作業を開始しました。
10mの大津波警報が流れる中東邦航空では避難の呼びかけが始まっていました。
みちのく号の撮影担当だった榊原さんは機材の準備を終え駐機場に向かっていました。
その時避難する整備士たちと擦れ違い声をかけられます。
榊原さんの背中を押したのはみちのく号のエンジン音でした。
榊原さんはみちのく号に駆け込みます。
乗組員4人が搭乗を完了しみちのく号が離陸したのは地震発生からおよそ40分後でした。
国土交通省の東北地方整備局に映像を送りながらみちのく号が最初に向かったのは仙台市の町の上空でした。
みちのく号から見えた仙台市の被害の様子は乗組員たちの予想とは違うものでした。
副操縦士の芦内修さんは阪神・淡路大震災の際もヘリコプターで調査を行った経験がありました。
30分間にわたる仙台市内の調査でみちのく号が撮影した被害は2件のマンション火災と緊急停車した新幹線の車両の様子でした。
このあとみちのく号は海岸方面へ向かうように指示を受けます。
そのころ海上保安庁の仙台航空基地の運用司令室に「巡視船まつしま」の無線が飛び込んできました。
あの日まつしまは福島県の相馬港で停泊中に地震に遭いました。
津波の被害から逃れようと水深の深い沖合へ船を走らせていました。
まつしまは10m以上の大津波と遭遇します。
(乗組員たち)お〜。
お〜。
うわっ。
お〜!おしっ!これ第2段来るからな。
両舷前進12度。
第2波まで1.5マイル。
両舷前進12度。
また来たよ。
まつしまの無線から船のいる位置を聞いた朝田さんは航空基地と津波の距離を海図を使って割りだしました。
その結果に朝田さんは驚きました。
滑走路の点検に出ていたパイロットの2人が海の異変に気付いたのは作業を終え車をUターンさせた時でした。
同じころ大津波警報を知りながら報道ヘリコプターの点検作業を続けていた東邦航空の後藤さんも津波に気がつきました。
後藤さんは同僚たちが避難していた隣の建物の屋上に駆け上がりました。
仙台空港の1キロ先にある海岸を襲った津波は午後3時56分仙台空港に到達しました。
津波は地上を覆い尽くしながら滑走路の奥へじわじわと広がっていきました。
これは朝田さんが仙台航空基地から撮影したビデオです。
最初水位が低かった津波は徐々に水かさを増しながら航空機や車を巻き込んでいきました。
朝田さんたちがいた庁舎2階に迫る津波。
隊員たちは屋上へ避難します。
東邦航空の4機の報道ヘリコプターを含め仙台空港にあった67機の小型飛行機やヘリコプターがこの津波によって流されました。
仙台航空基地は先に飛び立った3機のヘリコプター以外の航空機を全て失ってしまいました。
仙台空港が津波に襲われた2分後。
みちのく号は14キロ北にある七北田川上空を飛行していました。
その時乗組員たちは津波の襲来を目撃しました。
(東北地方整備局員)了解しました。
午後4時17分みちのく号は仙台空港上空に到着します。
みちのく号が飛び立った東邦航空をはじめ仙台空港にあった航空関連の施設も全て水につかってしまいました。
みちのく号はこのあとも被災地の映像を送り続けながら福島空港まで南下していきました。
震災から3年半以上が過ぎ仙台空港は以前と変わらない姿を取り戻しつつあります。
東邦航空の保科さんは今もみちのく号の整備を担当しています。
大震災の被害を撮影し続ける事でみちのく号はその任務を果たしました。
しかし保科さんにはあの時の思いが整理しきれないまま今も残っています。
庁舎1階と格納庫が浸水した…震災後2mかさ上げされた格納庫を新設しました。
大災害の時に活躍する事が任務である空の男たち。
今回の巨大津波では出来た事もあれば出来なかった事もありました。
それぞれの思いを胸に男たちは今日も仕事を続けています。
大地震の混乱の中で任務を全うしようとしながら全てをやり尽くす事ができなかった空の男たち。
その時の忸怩たる思いその時の痛みがこれからの行動にしっかりと生かされていくといいなというふうに思います。
さて東日本大震災の被害に遭った東北の沿岸部には旬の海の幸をふんだんに使った名物料理がたくさんありますよね。
それぞれの地域で料理自慢の浜のかあちゃんたちによる料理紹介しましょう。
川を遡上するさけ。
宮古市は本州でも有数の水揚げを誇ります。
このさけを余すところなく使った料理を作ってもらいます。
まずは3枚におろします。
ポイントはさけの中骨と昆布でとるだしです。
身や白子頭などとたっぷりの野菜と一緒に煮込んでいって最後はみそで味付けです。
はいどうぞ。
さけ汁の完成です。
さけのうまみがたっぷり!体の芯から温まりますよ。
さあ続いては…。
岩手県の山田湾。
この地区のカキいかだ震災前の8割まで復活しました。
今年は震災後に育てたカキの収穫です。
取れたてのカキの味を満喫するために素材そのままで頂きます。
待つ事およそ10分。
いちにのさん!はいどうぞ〜。
この磯の香りがたまりません。
お好みでしょうゆやレモンを添えて。
プリプリの食感ですよ。
海のすぐそばで頂くこのカキほんとにおいしいんですよね。
ここまでカキを復活させた漁師さんたちの力と元に戻ろうとする海の力を一緒に味わいたいものですよね。
浜のかあちゃんたちの名物料理は1分の番組で随時放送します。
これからも季節ごとに海の幸を使った料理を紹介していきます。
さあそれでは被災した地域で暮らす方々の今の思い。
福島県郡山市で暮らす皆さんの思いです。
郡山市で農業をしています。
原発事故で農業は大きな打撃を受けました。
今考える事は一歩先に進まなければいけないという事です。
だから今ブランド野菜の育成に力を入れています。
農業は楽しいです。
福島県の中央部にあります磐梯熱海温泉です。
震災から3年以上経過しても風評被害の影響を受けています。
震災前以上のおもてなしの心でお迎えするために旅館お店町内会が一体となった優しい町づくりを推進をしております。
金透小学校は震災により校舎の2/3と体育館が使えなくなりました。
そのような中特設音楽部が日本学校合奏コンクールにおいて文部科学大臣賞に輝きました。
ピンチをチャンスに!
(子供たち)楽しく!2014/11/30(日) 10:20〜11:08
NHK総合1・神戸
明日へ−支えあおう−証言記録 東日本大震災35▽仙台空港 津波まで70分の闘い[字]
大津波で水没した仙台空港。地震から津波到達までの70分間、航空機を離陸させようと苦闘する男たちがいた。防災ヘリ運用会社、海上保安庁職員たちの証言でつづる。
詳細情報
番組内容
あの日、仙台空港は大津波で水没する。しかし地震から津波到達までの70分間、被害調査用の航空機を離陸させようと懸命の努力をする男たちがいた。格納庫に閉じ込められた防災ヘリを外へ出そうと、危険を顧みずシャッターをこじ開けた整備士たち。空港当局が状況を把握できなくなったため、自ら滑走路の安全を確かめに赴いた海上保安庁のパイロットたち。自らの任務を果たそうとする空の男たちの闘いを証言でつづる。
ジャンル :
ドキュメンタリー/教養 – 社会・時事
ドキュメンタリー/教養 – ドキュメンタリー全般
情報/ワイドショー – その他
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