今ある無名の画家が残した絵が多くの共感を呼んでいます。
画家の名は…美術の教員をしながら絵を描き続けました。
画家を志しもがき苦しむ日々。
しかし願いはかないません。
転機となったのは妻子を養うためにやむなく就いた教員の仕事。
長野の高校で生徒たちと過ごす時間が宮の心に変化をもたらします。
生徒たちを連れてスケッチに出かけた野山。
絵を描くために大切な事は何か。
それを教えながら自分自身の絵を見つけていきます。
…という事を一生懸命おっしゃってたと思うんです。
知られざる画家宮芳平。
生涯貫いたその思いとは。
「日曜美術館」です。
今日は画家宮芳平です。
実は去年から生誕120年を記念した初めての大きな回顧展が開かれていまして一度「アートシーン」でご紹介をしました。
とても心に残る作品でしたよね。
でしたね。
本当に力強いけど素朴で…でも個性的で…。
あとは独特な色彩が本当に印象的でしたね。
でも実際に「アートシーン」の放送後番組宛てに「もっと作品を見たい」ですとか「もっと画家について知りたい」という多くの声が寄せられました。
その声にお応えしまして今日は宮芳平の生涯そして作品をじっくりと見ていきます。
さあまずは画家としての出発点です。
そこにはある文豪との交流がありました。
訪れたのは作家のドリアン助川さんです。
画集を見て宮芳平に惹かれその絵を実際に見てみたいと展覧会に足を運びました。
絵がそんなに売れたわけでもないし大きな名声得たわけでもないのに一生描き続けた人ですよね。
その逆境の中で一つの気持ちを貫いていくというのは大変な事だったと思うんですね。
当然苦悩もあったでしょうし画風も変わった事があるかもしれないし。
そんな中でどこに向かって彼は描き続けたのか。
その…燃焼していくところを見てみたいと。
去年8月から始まった各地を巡回する回顧展。
ああ…。
まずは20代の作品が並びます。
随分大きな作品で…。
点描というんでしょうか…。
ただこれよく見ても暗くて…。
女性の表情は分かるんですけどもぼんやりして…。
吸い込まれてはいくんですけどはっきりとした輪郭は見えない世界ですね。
大正3年21歳の時に描いた「椿」。
薄暗い部屋の中で赤いドレスを着た女性がソファーに腰を下ろしています。
目を凝らすと赤や緑小さな絵の具の点でキャンバスが埋めつくされています。
目が慣れてくるとこの赤がかなり雄弁に感じられてきましたね。
圧倒的なこの暗さの中でぼんやりと浮かんでくるこの赤。
この赤が自分のこれからの人生に対する不安の中で唯一おぼろげに光ってる…何でしょう。
火山の噴火口から底をのぞいた時にうっすら見えてるマグマのような。
これからの人生を絵筆で生きていくという決意をした宮芳平青年の血であり情念であり生命的なマグマでありそういうものがここに今でも込められて生きてるような…。
明治26年宮芳平は新潟の呉服商の家に生まれました。
8人兄弟の末っ子。
父末八は芳平を孫のようにかわいがって育てたといいます。
17歳の時家族の反対を押し切って画家を志します。
1年間浪人をして東京美術学校に入学しました。
二十歳のころ明るい色使いで印象派風に描いた女性像。
東京大正博覧会で初入選を果たします。
画家としてさい先のいいスタートをきりました。
そのやさき予期せぬ知らせが届きます。
父が亡くなったのです。
毎月仕送りをして期待をかけてくれていた父。
通夜の夜に描いた「自画像」。
「父の思いに報いるためにも画家として成功したい」。
しかしどこかうつろな目は未来への不安を表しているかのようです。
宮は政府が主催する公募展…仕送りが途絶え返す当てもない借金をして絵の具を買い大作に挑みました。
そして描き上げたのがあの「椿」です。
しかし結果は落選。
納得がいかない宮は大胆な行動に出ます。
突然ある人物の家に押しかけたのです。
それは文豪森外。
文展の審査委員長を務めていたのが外でした。
何の約束もなく訪ねてきた青年を外は快く書斎に招き入れました。
この時のやり取りを外は「M君」という主人公が登場する短編小説に書いています。
森外研究の第一人者山崎一穎さん。
外はこの時宮の素質を見抜いていたといいます。
やっぱり純粋さだと思います。
ひと言で言えば。
非常に澄み切った心。
絵自体は決してリアリズムで描かれた絵ではない。
むしろそんなに上手な絵でもない。
しかし何か思いのあふれる…。
ある種の若い青年のいちずな思い。
ここから物語が浮かび上がってくるような…。
そういう思いは外としては捉えてただろうし…。
自分の感情に対して正直なところ。
そこのところは確かに買ってるんだろうと思うんですね。
その後宮は折に触れて外を訪ね外も丁重にもてなしました。
外は知り合いの文化人の名刺を渡して積極的に会う事を勧め見識を広めるようアドバイスをしたといいます。
外が購入し生涯自宅に飾っていたという「歌」。
咲き誇る椿。
その下で男女が顔を寄せ合うロマンチックな作品です。
このころ宮は「友人たちが自分の絵を奇態だと言って笑う」と外に相談したといいます。
外はそれを聞いててね「ほほお」って笑って一旦「そうだね」って肯定するんですね。
「でも君毛虫は奇態だろう」と。
これは外の言葉ね。
「毛虫は奇態だろう。
しかし蝶になる。
君はうそ偽りないこの気持ちを積み重ねていけば最後には奇態な絵であってもやっぱり蝶になっていく」。
まさに宮芳平という人を外がどういうふうに見てたかどういうふうに期待してたかという事をよく表してると思うんです。
ああ…。
「椿」でやりきったかげの世界とは…バックは近いような色彩ですけどもでも受ける印象はもう全く違いますね。
この絵って自分の絵が仕上がった時にそれを目の前で見てる人の事もちゃんと考えてるというかこれを見る人の安穏をどこかで祈ってるような世の人との間に立ってる絵。
ですから彼は間違いなく前進してるという宮さんは前進してるという意識がこのころはすごいあったんじゃないでしょうかね。
今日のゲストは近代の日本美術がご専門の野地耕一郎さんです。
どうぞよろしくお願いいたします。
野地さんは去年から始まっている回顧展に関わられて率直に会場の人たちの反響はどのように受け止めていますか?こんな画家がまずいたのかという事ですよね。
ほとんどの人が初めて見る絵だったと思うんですね。
と言いますのも信州のいち美術教師として生涯をほとんど送りましたので…。
東京が中心だとするとそこで絵を見る機会が非常に少なかったんだと思うんですね。
ある意味で非常に新鮮な気持ちで見られるんだと思うんですね。
先ほどの点描の「椿」アクティブですよね。
これがもう…強烈なまでの点描ですよね。
つかれたように点描を重ねている。
最初に私も見た時にじゅうたんみたいに見えたんですね。
織物。
つまり縦横の糸を緻密に重ね合わせたような…。
それを絵筆でやっているというようなね。
当時点描主義というのが日本に入ってきていろんな画家が試みるんですがそれを宮さんという人が自分なりに変容させて自分の様式としてこれ描いてるんですね。
なので宮さんならではの点描表現なんだけれどもあまりにもこんが…「こん」は「魂」という意味もありますが魂込めすぎ…。
当時の宮さんはやはりいろんな事で悩んで…。
生活の面でも芸術の面でも悩んでいて…。
でも「今度はこういう絵が描きたいこういう絵で俺は表現するんだ」という強烈な意志を持っていたんですよね。
なのでそういう渦巻くような気持ちをタッチに込め出してる。
ストレートに出してるのね。
キャンバスの目に食い込ませるようにねじ込むように点描打ってるんですね。
だから本当にこの作品に懸けていたんだと思うんですね。
情熱を超えた怨念のような…若い時の「絶対これに懸けるんだ」という…。
例えは悪いですが抜き身の刀みたいな鋭さがありますよね。
ギラギラと輝いていて「寄らば斬るぞ」みたいなああいうところがあって…。
僕は青年ならではの特に大正期の青年の個性を前面に出そうとする気持ちがそのまま絵になったような絵だと思いますね。
夕焼けに染まる信州の山。
それまで自らの内面を見つめていた宮の絵は30歳を過ぎると大きく変わっていきます。
全然違う人ですよねもうね。
あの…真っ暗な中の僅かに見えるマグマのようなあの絵とこの絵ですよ。
大きな変化ですね。
どうですか?この青空の鮮やかさ。
25歳の時宮は恋人エンと結婚。
しかし絵は全く売れません。
そんな時知人から長野の高校で美術の教員にならないかと声をかけられます。
エンは肺病を患いながら洗濯の手伝いなどをして家計を支えていました。
宮は妻のためにその話を引き受ける決心をします。
29歳で移り住んだのは…この地が第ニのふるさととなります。
非常勤として3つの高校を掛け持ちしていた宮は放課後の僅かな時間を遣って教室で絵を描きました。
しかし東京の公募展に作品を送っても全く評価されません。
芸術家にとって職に就く事は堕落だと考えていた宮。
キャンバスに向き合いながら葛藤します。
当初2〜3年のつもりだった諏訪での生活は1年また1年と延びていきました。
そうした中宮を変えていったのは生徒たちの存在です。
「疑う事を知らない素直な子供たち」。
共に過ごす時間が何より大切なものになっていきます。
美術部で指導を受けた…宮の印象を今もよく覚えているといいます。
とにかく優しかった。
威圧的なところがないの。
「先生であります」というような。
みんな優しく受け入れて下さる。
だからとっても居心地がいいんですよ。
だから美術室にはほぼ入り浸っておりました。
宮は生徒たちを教室の外にもよく連れ出しました。
時には山に登り雄大な自然の中でスケッチをさせたといいます。
生徒たちよりスケッチに没頭していた宮。
やがて自分自身の自然を見る目も変わっていきます。
澄み切った青空のもと雪解けを始めた山。
春の息吹を大胆な筆で描きました。
「今雑草の頭を越えて大きな花が丈高く咲きました。
わたしはなぜこの花が好きなのでしょう。
わかりません。
紅にしろまた白にしろ純粋とはこのようなものだと教えてくれるような気がします」。
教え子の中沢さんには大好きな宮の言葉があります。
「形などいくら崩れていたっていい。
絵の命はそんなところにない。
むしろ崩れているところに本当に正しさがあると言いたいくらいだ。
だからあなた方は絵の稽古など必要じゃないんだ。
ただあらゆる情熱と根限りの誠実と力いっぱい投げ出して描いていけば良いんです。
それだけでどんな素人でも完全な芸術を生み得る。
否芸術とはその他にはないんだ」とおっしゃってる。
単なる形を写したんじゃなくてそこに気持ちを込める。
子供たちにね自分の思いを伝えていますでしょう。
そういうふうになってきたんだと思いますね。
さっきこの美術館の前の花壇にもかわいいクマンバチが何羽かブーンと飛んでたんですけどねかわいいんでずっと見てたんですけどこれクマンバチの視線ですね。
画家として成功したい。
画家として世の中に認められたい。
画家として誰もやってない事をやりたいという事じゃなくてそういう事じゃなくて今純粋にこの花を前にして蝶や蜂もいたでしょう。
香りもしたでしょう。
光も輝いてたでしょう。
それがうれしくてうれしくてしょうがない。
そういう細胞が喜んで描いてる。
金無いけど今日幸せだな俺という。
もうその無邪気な感じが伝わってきますね。
長野の美しく強い自然とあの教え子たちとの出会いからもう明らかに開けたというか抜けた感じが伝わってきますね。
絵の具と一緒に遊んでキャンバスに一緒に飛び込んでるという感じのね。
もう信州に行ってからの彼の絵というのはそういう点描主義とか何とか主義という理論じゃなくてね見たまま一つ一つの花なら花花びらから描いていって最終的にこういうふうな絵が出来てるわけですよね。
だから自然そのままを全部描きたいという気持ちがこの絵になってる。
だからグチャグチャとなってるんだけれども決して乱雑な感じはしませんよね。
その大きな要因となったのが自然というものとあともう一つ教え子たちである子供たちがいると思うんですがその子供たちからはどのような事を逆に教わっていったんだと…?「拙い」という事をすごく積極的に捉え始めるんだと思うんです。
つまり子供たちの絵を見るとやはり幼い拙い絵ですよね。
拙いという事は決して消極的な事ではなくてむしろ童心に返るという言葉があると思うんだけれども子供の頃生まれたままの資質というものをそのままうまくうまくうまく大人になっても持ち続ける事。
それが人間にとって最も大切な事ではないかと思い始めるんですね諏訪に行って。
それから「養拙」という言葉があるんですね。
「養う」「拙い」って書いて…。
「拙い」を「養う」。
…という事が大人になると必要なんだと。
子供の頃は別に拙いというのは自然なんだけれども大人になるとその拙さをすり減らしてくわけですよね。
だけどその拙さを養いながら大切にしていく。
そこに何か光があるだろうという事だと思いますね。
まさにその拙さを育み養えてるという事はやはり画家としての画力筆力というのもあったという事ですよね。
もちろんありますよね。
ただねやっぱりあんまり何と言うんですか芸術的なたくらみみたいなものはない絵ですよね。
例えばこの絵なんかもけしの花なんだけれど「けしの花」ってタイトルがなかったらリンゴにも見えるし椿が地面に落ちてるようにも見えるわけでしょ。
だから巧まずして描いた絵なんですよね。
でもけしの花はこう丸いから丸のように筆を動かして地面だと思いますけれども地面はやっぱり土色だからという子供の見方なんだけれども。
抽象画とはまた違う何か実感のようなものがねじんわりとくる絵だと思いますね。
ほんと結果先生になれてよかったですよね。
本人にとってはね。
堕落だなんておっしゃってましたけどね。
純化されていってるわけですからねどんどん。
77歳で亡くなるまで諏訪で暮らした宮芳平。
今もそのアトリエが残されています。
ここが当時宮芳平がアトリエに使った部屋で。
当時はグランドピアノとかそういうものが一切無くていつも大体この辺にキャンバスイーゼルを立てて絵を描いてたと。
このアトリエは定年後教え子や友人たちが建ててくれたもの。
35年にわたる教員生活。
非常勤で退職金もなく貧しかった宮のために多くの人がお金を出し合いました。
そこに座右の銘みたいな感じで自分で彫刻刀でこの文字を彫ってぶら下げてありました。
「ここは私の城であり私の砦である。
私はここで最後に死ぬんだ」というような…そういう。
まあそれがこのアトリエだったんじゃないかと。
73歳。
家族などから援助を受けヨーロッパと中近東を旅します。
若い頃から惹かれていた「聖書」の教えを実感するためでした。
ローマやエルサレムなど聖地を巡礼。
スケッチをしながら思索を重ね14枚の連作を描き上げました。
十字架に架けられたイエス・キリスト。
幼いイエスを抱いてロバに乗るマリアがヨセフと共に迫害から逃れる場面。
そして罪を背負いながら改心しイエスの死を見届けたマグダラのマリア。
「聖書」に登場する悲劇の女性を描いた作品に宮の特別な思いが込められているといいます。
それは肺病を患いながら8人の子供を生み47歳の若さで亡くなった妻エンへの懺悔の思いです。
教員になってからも貧しい日々。
宮はいい絵を描くためにはいい絵の具が必要だと高価な画材にお金をつぎ込みます。
エンは黙って支え続けました。
若い頃からどんなに貧しくても好きな絵を描けるよう尽くしてくれた妻。
葬儀の時宮は自らが描いた肖像画を遺影代わりに飾りました。
最後エンさんおばあちゃんが死ぬ時は苦しそうだった大変だったという。
洗面器いっぱいぐらい血を吐いて死んだらしいですけどね。
結核がだんだん重くなってきて医者が「栄養のあるものをとらせなさい」という事を言う。
まあ栄養のあるものというのが買えなかったんで。
絵のためとはいえ良くしてあげられなかった。
なかなか絵をなげうって看病に当たるとかねそういうふうにしてやれなかったというのは忸怩たる思いは引きずっていたんだと思いますけどね。
巡礼の旅のあと宮が描いたのは「聖書」に登場する女性たちの受難の物語。
夕日に浮かび上がる父と娘のシルエット。
父のために自らを神への捧げ物とする娘。
宮は罪深い父に自分自身をそして娘に妻の姿を重ねたのかもしれません。
聖地巡礼の旅に出たのもやはりその奥さんに対しての思い。
亡くなった奥さんにどうやって報いるのかというところですがやっぱりこれは宮芳平は「自分はいい絵を描くしかない」というやっぱりそこに結び付いていくわけなんですね。
…というふうに思ったんじゃないんでしょうか。
そして70歳を過ぎてから亡くなる直前まで描き続けたモチーフがあります。
太陽です。
77歳絶筆となった「黒い太陽」。
体調を崩した宮はこの太陽に黒い絵の具を塗ったあと入院。
末期がんを宣告され僅か半月後帰らぬ人となりました。
多分これは宮さん自身だと思うんですね。
宮さんの内側にこの太陽があったんだと思うんです。
一度も裕福になる事なく一度も名声が世に広まる事なく人生が終わろうとしていく。
でも絵を描き続けてきた自分。
気付いたら残ってたのは画家の魂としての太陽が自分の胸にさん然と輝いてる。
やっぱりこの太陽は亡くなった奥さんにとってもこの太陽こそ宮さんだったんだという気がしますね。
ある意味たくさんの人の魂が絵の具の中に入ってんだ。
ほんと一筆の重みというかそれが…。
確かにそうですね。
例えばこの磔刑のキリストですよねこれなんかもすごく分厚い絵の具を塗り重ねて何度も何度も筆をさしてやってるんですよね。
これはまあ人の形ですけれどもね「人の形になれなれ」って祈りながらタッチを加えている。
太陽なら太陽で「太陽になれなれ」というふうにね祈りながら描いてるような気がしますね。
もしかすると絵にはならないかもしれないというところを何とか絵にしよう人の形にしようリンゴにしようロバにしよう建物にしようというねそういう何かギリギリなところで描いていたような気がしますね。
ここまでくると厚塗りさえも超えてるようなもう重ねて重ねて…。
最初にあの「椿」という絵がありましたけれども点描という描き方はそれほど変わっていないんです。
最後までそんなに変わっていないんですね。
という事はやっぱり50年とか60年のその画業の中で人生を懸けてね一歩一歩を積み上げていって最後にどういうものにたどりついたかというのをあるいはどういうものにたどりつくべきかというものを宮さんはずっと考えていったんだと思うんですね。
まあいろんな事がありますけれども彼が最後にたどりついたのというのは最初はこう抜き身の刀のような鋭さがあるんだけどもうその刃もボロボロになっているんだけれども太くて頑丈で重みがあってね偉大なるなまくら刀なんだけれどもでも誰にも代えがたい何にも代えがたい何か人生と画業というものが一つに鍛えられた刀となってねこういう絵になってるのかなと思いますね。
そして最終的にたどりついていったのがこの太陽。
これこそまさにほんとにその祈りというものを筆にのせ描いたものなのかなと。
「無心な絵」と言ってもいいかもしれませんね。
そこに打算のようなものが全く入り込んでないですよね。
そこに多分初めて見る人たちは何か純真な野の花を見るようなそういう絵だというふうに直感するんじゃないですかね。
多分彼はこれで完成だとは思ってなかったと思うけれどもでも未完成な中にそこに純朴な自分がどれだけ出てるかという事をずっとやってきたわけですよね。
そこが今の人たちにとってすごく貴重な存在としてね心にしみこんでくるんだと思いますね。
今日は本当に貴重なお話をどうもありがとうございました。
2014/12/21(日) 09:00〜09:45
NHKEテレ1大阪
日曜美術館「野の花のように描き続ける〜画家・宮芳平〜」[字]
8月に放送し好評を得た宮芳平の特集をアンコール。生誕120年を記念した展覧会が各地で開かれたのを機に注目された宮の傑作を紹介、知られざる魅力に迫る。
詳細情報
番組内容
8月に放送し好評を得た「宮芳平」の特集をアンコール放送。生誕120年を記念した展覧会が各地で開かれたのを機に注目された画家、宮芳平。長野県で美術教師をしながら絵を描き続けた。若き日、森鴎外との交流のエピソード。生徒たちと過ごす中で自分自身の画風を見つけていった日々。そして、晩年、苦労をかけた妻への思いを込めた傑作。宮芳平の知られざる生涯をたどる。
出演者
【司会】井浦新,伊東敏恵
ジャンル :
趣味/教育 – 音楽・美術・工芸
ドキュメンタリー/教養 – カルチャー・伝統文化
映像 : 1080i(1125i)、アスペクト比16:9 パンベクトルなし
音声 : 2/0モード(ステレオ)
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