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【社会】

震災も「秘密」 支援届かず 昭和東南海地震

2014年12月24日 07時08分

故郷の海を前に震災時の様子を語る三国憲さん。「黒い波が押し寄せてきた」=三重県尾鷲市内で

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 戦時下の一九四四年十二月、日本列島を昭和東南海地震が襲った。大被害は被災地以外にほとんど知られなかった。敵国や被災地以外の国民に知られることを恐れた国が情報統制したためだった。支援が不十分になり、被災者は不必要に苦しんだ。しかし、米国は地震の情報をつかんでいた。そんな震災の歴史は、真実を隠すことの愚かしさを伝えている。

 「遊び場やった海があんな恐ろしいもんになるとは」。三重県尾鷲市の元郵便局員三国憲さん(78)は眼下に広がる賀田(かた)湾を見てつぶやいた。穏やかな故郷の景色は七十年前のあの日、一変した。

 当時八歳。友人と外で遊んでいると突然、地鳴りがして立っていられないほど揺れた。高台の小学校まで逃げ、ふと入り江を見下ろすと、どす黒い津波が押し寄せていた。「ぼうぜんと見とるしかなかった」。家にいた六歳の妹の遺体は一週間後、沖合で見つかった。集落で二十人近くが犠牲になった。

 電気や電話は止まり、潮に漬かった玄米を海水で煮て空腹をしのいだ。当時でも災害が起きれば全国から支援が寄せられていたのに、この時はほとんどなかった。報道管制で新聞やラジオが被害を詳しく伝えなかったからだった。

 国立公文書館に当時の内務省警保局検閲課の勤務日誌が保管されている。新聞などに、軍需工場の被害などが分かる記事や災害の現場写真の掲載を禁じていた。工場でもかん口令が敷かれていた。国民の戦意喪失や敵国に被害が知られるのを防ぐ措置だった。

 だが、地震の揺れは各国の観測所で記録され、ニューヨーク・タイムズは翌日の一面で「中部日本を大震災が襲った」と報じた。

 映画「七人の侍」で準主役を務めた俳優土屋嘉男さん(87)は当時、学徒動員され、愛知県の中島飛行機半田製作所で働いていた。数日後、米軍が空からビラをまいた。「地震の次は何をお見舞いしましょうか」。筆でそう書いてあった。

 ショックを受けた。崩れた工場の下敷きになった仲間の顔が浮かんだ。「地震を口にしたら国賊と言われたのに、アメリカは知っていた。軍は何をやっているんだと感じた」。ビラは破り捨てた。

 情報が隠された地震からちょうど七十年後の今月、国民の知る権利を侵す恐れのある特定秘密保護法が施行された。土屋さんは「嫌な時代になってきている。今こそあの戦争の時代を深く知り、考えなくてはいけない」と訴える。 (横井武昭、写真も)

 <昭和東南海地震> 1944年12月7日午後1時36分、紀伊半島の南東沖で発生した。東日本大震災を引き起こした地震と同様の海溝型地震でマグニチュード(M)7・9。東海、近畿地方で死者・行方不明者は少なくとも1223人。三重県尾鷲市では9メートルの津波が押し寄せたとされる。

(東京新聞)

 

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