衆院選投票日に最高裁判所裁判官の国民審査も行われた。対象は十五人の裁判官のうち二〇一二年の衆院選後に任命された五人だ。「×」印が多ければ辞めなければならない。
しかし、投票用紙には裁判官の名前が並ぶだけ。本紙を含めて投票日前に、対象裁判官がどんな裁判に関与したか特集を組んで報道するが、日ごろなじみもないし、誰が誰だか、というのが有権者の本音だろう。
一九四九年の一回目から二十三回目の今回まで、罷免された裁判官がいないのは、優れた裁判官ばかりだったか、国民審査自体が形骸化しているかのどちらかだ。
しかし、この制度、憲法に定められた重い制度である。ときの政権が自らの思想や政治的思惑で任命し、国民の手では罷免できない米国の制度より、優れているとも言える。
ならばこの機会を使わない手はない。裁判官が「法の支配」を厳守するのは当然だが、国民の厳しい目を感じれば、国民の常識から遊離した判断などできないだろう。司法が変われば政治も変わり、生活も変わる。
もっとも、最高裁は国政選挙の「一票の不平等」に「違憲状態」判決を繰り返すが、国会側の動きは鈍い。国会が司法判断を軽視し続けるなら、三権分立は成り立たない。
国会は、国権の最高機関にふさわしい見識をそろそろ示したらどうか。国民審査を振り返りながら、そう思う。 (豊田洋一)
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