授業づくりJAPANの「日本人を育てる授業」
わたしたちは誇りある日本人を育てたい。真の国際派日本人を育てたい。
服部剛の道徳 2 「ペリリュー島の戦い」(崇高な精神)
2014/12/22 (Mon) 19:16
■中学校学習指導要領「道徳」の内容2「主として他の人とのかかわりに関すること、の(2)「温かい人間愛の精神を深め、他の人々に対して思いやりの心を持つ」にあたる教材開発です。服部氏は「崇高な精神」という副題を添えています。
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【道徳ワークシート】 「ペリリュー島の戦い(崇高な精神)」
組 番 氏名( )
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1 下の写真は「パラオ共和国」の島々です。日本から、グアム経由で約8時間かかる南洋の島国です。
どんな印象を持ちましたか?
パラオの島々


日本・パラオ・ペリリュー島
日本統治時代のパラオの女性
● 今日は、この島のお話です
☆まず【資料1】を読みましょう (資料は基本的に教師が範読します)。
2.中川隊長の発言をどう思いましたか?
┌──────────────────────────────────┐
│
└──────────────────────────────────┘
☆ 【資料2】を読みましょう。
3.【資料2】を読んで、日本兵の気持ち、島民の気持ちを想像して書いてみましょう。
日本兵:
─────────────────────────────────────────
島 民:
─────────────────────────────────────────
☆【資料3】と【資料4】を読みましょう。
4.今日のお話で学んだことは何ですか。感想を書きましょう。
──────────────────────────────────────────
──────────────────────────────────────────
──────────────────────────────────────────
──────────────────────────────────────────
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道徳資料「ペリリュー島の戦い」
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【資料1】─────────────────────────────────────────
日本とパラオ
1920年代のパラオの町並み
遠い南の島パラオに、日本の歌を歌うパラオ人のお年寄りがいます。
「みんな あそこで死んでいったんじゃ…」
そのお年寄りは、沖の島を指差しながら、つぶやきました。大東亜(だいとうあ)戦争(太平洋戦争)の時、この人は村の若者たちと日本軍の陣地作りに参加しました。当時、パラオは日本の統治下にあったからです。やがて、数百倍の戦力を持つアメリカ軍が押し寄せ、激闘の末、日本軍は全員が玉砕(ぎよくさい)(全滅)しました。
◇
パラオ諸島は最初はスペイン、次いでドイツの植民地でした。第一次世界大戦(1914年)でドイツに宣戦布告した日本は、パラオのドイツ守備隊を降伏させます。
戦後、国際連盟はパラオを「委任統治領(いにんとうちりよう)」として日本に面倒を見させることにしました。
当時のパラオ先住民の人口は、約6000人。スペインの植民地になる前は約6万人だったといいますから、いかに白人の植民地政策がひどいものだったかわかるでしょう。
日本は、パラオに南洋庁を置き、稲作や野菜、くだものの栽培を伝えました。また、缶詰やビールなどの工場を建設。道路を造り、橋を架け、電話をひき、学校、病院をつくるなど、数々のインフラを整備しました。パラオ人は文字を持っていなかったので、小学校では日本の教科書を使って、日本語教育をしました。小学校1年で九九を暗唱できたといいます。日本教育を経験した人は「学校の厳しいしつけが人生に役立った」といっています。
◇
1941(昭和16)年、日米戦争が始まり、パラオのペリリュー島は、日本にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また、日本の防衛圏(ぼうえいけん)として重要な拠点でした。
一方、アメリカ軍にとっては、フィリピン奪回(だつかい)の最大の障害がペリリュー島の日本軍基地だったのです。
アメリカ太平洋艦隊は、ニミッツ提督の指揮のもと、ペリリュー島の攻略に乗り出しました。この時点で、ペリリュー島の住民は約900人。米軍が迫りくることを知った住民たちは話し合いました。彼らは、白人統治の時代と日本統治の時代の両方とも経験しています。日本兵と仲良くなって、陣地作りでともに汗を流し、日本の歌を一緒に歌って交流を深めていた住民たち。彼らの決断は…、「大人も子供も、力を合わせて日本軍とともに戦おう!」でした。
いつも温厚で優しい隊長なら、自分たちの頼みをきいてくれるに違いない。きっと一緒に戦うことを許してくれる…。
意を決した住民の代表たちは、ペリリュー島守備隊長の中川州男(くにお)大佐をたずねました。そして、中川隊長に「自分たちも一緒に戦わせてほしい!」と申し出ます。
それを聞いた中川隊長は、驚くような大声をあげて答えました。それは…、
「大日本帝国の軍人が、貴様(きさま)ら土人(どじん)と一緒に戦えるかっ!」
住民たちは驚きました。
「日本人は…、仲間だと信じていたのに、見せかけだったのか…」
→道徳ノートの2へ
【資料2】─────────────────────────────────────────
中川隊長の気持ち ・ 島民の気持ち
中川州男隊長

「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」という中川隊長のひどい言葉。
仲間だと信じていた日本人に裏切られた思いで、悔し涙が流れました。
そして数日後、住民たちがパラオ本島に避難するため、ペリリュー島を去る日がきました。
しかし、港に見送りの日本兵の姿は一つもありませんでした。住民たちは、がっかりして船に乗り込んでいきます。そして、出港の合図が鳴り、船が岸辺を離れました。
すると、次の瞬間です。ペリリュー島に残る日本兵の全員が、ジャングルの中から浜に走り出てきました。そして、住民たちと一緒に歌った日本の歌を大声で歌いながら、ちぎれるほど手を振って見送っているではありませんか。ともに過ごしてきた兵隊さんの顔、顔、顔…。なんと、先頭には笑顔で手を振る中川隊長の姿。
その時、船上の住民たちはすべてを理解しました。
「日本の兵隊さんたちは、我々の命を助けるために、あんな態度をとったのだ」と。
遠く岸辺に見える日本兵に向かって、住民たちも、ちぎれんばかりに手を振り続けました。誰もが泣いていました。
→道徳ノートの3へ
【資料3】─────────────────────────────────────────
ペリリュー島の戦い
1944年9月12日、ペリリュー島の戦いが始まりました。
「日本軍1万人」対「米軍4万8000人」。
米軍の持つ火力は、日本軍の数百倍です。まずは猛烈な爆撃と艦砲射撃を日本軍に浴びせます。その砲弾は、何と17万発・4000トンに達し、ジャングルは完全に焼き払らわれました。一人の日本兵を倒すのに1589発の砲弾を使用した計算になるそうです。
9月15日、「3日で占領する」と豪語した米軍海兵隊2万8000名が上陸を開始しました。
対する日本軍は、どうしていたのでしょうか? 実は、地下深く穴を掘り、米軍の上陸を待ち構えていたのです。自在に往き来できるようにトンネルでつないだ地下壕(ごう)や洞穴は、何と500ヶ所以上。一人用の壕「タコツボ」も無数に掘り、ペリリュー全島を要塞化していたのです。中川隊長の統率はみごとでした。
米軍上陸直後、水際(みずぎわ)での戦闘は壮絶(そうぜつ)でした。米軍の第1次上陸部隊は大損害を受け、退却を余儀(よぎ)なくされるほどでした。米兵の血で海岸が赤く染まり、今でもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。
10月30日、米軍第1海兵師団が全滅。主力部隊が損失率4~6割を超え、「戦闘能力喪失(そうしつ)」で、差し替えが続きます。とうとう米軍はその上陸作戦史上、最大の損害を出してしまいました。
3日で占領するはずだった戦いは、70日も続く激戦になりました。その間、日本軍には補給が一切(いつさい)ありませんので、徐々に劣勢に陥っ(おちい)ていきました。米軍の火炎放射器と手榴弾(しゆりゆうだん)によって、日本軍の洞穴陣地は次々と落ちていき、ついに食料も水もなくなりました。
11月24日、日本軍は弾薬・兵力ともに尽き、中川州男(くにお)隊長は玉砕(ぎょくさい)を決意して、自決しました。享年47でした。
残存兵力55名による最後の総攻撃に際して、ペリリュー島から日本本土に向けて電文が送られました。その言葉は「サクラ サクラ」。
ペリリュー島守備隊全員が、桜花のごとく散ったことを、遠い本国に知らせたのでした。
こうして11月27日、ついにペリリュー島は米軍に占領されました。
アメリカ軍の司令長官ニミッツは、命を捧げて愛する祖国を守ろうとした日本兵に強く心を打たれ、ペリリュー島守備隊の勇戦を讃(たた)えて、次の詩を作っています。
この島を訪れるもろもろの国の旅人たちよ
故郷に帰ったら伝えてくれよ
日本軍人が全員玉砕(ぎよくさい)して果てた
この壮絶極まる勇気と祖国を想う心根(こころね)を
◇
┌────────────────────┐
│ 日本軍 戦死者 1万695名
│ 米 軍 死傷者 1万786名
│ (戦死者2336名、負傷者8450名)
│ 島の住民 死者・負傷者 0名
└────────────────────┘
ペリリュー島の戦いは、住民に1人の犠牲者も出さなかったことで知られています。
終戦後、パラオはアメリカに統治されることになりました。
しかし、1993年、ついにパラオは独立を果たします。独立にあたって、国旗を制定することになり、国民からデザインを募集しました。その結果、日の丸とよく似た今のデザインが採用されました。
周囲の青は太平洋の海の色。真ん中の黄色い円は満月を表しています。
パラオ共和国 国旗

【資料4】──────────────────────
なぜ、パラオ国旗は日の丸に似ているの?
■国旗の制定について、パラオ人のお話
《 私たちは国旗の選択にあたり、相当苦心しました。応募者はことごとく各島の人々でしょう。それぞれの旗にパラオの歴史と伝統が現れていました。
だから、選考委員は真剣でした。選考に日数をかけました。でも、この旗に決まりましたのは、日本の国旗に一番似ておりましたので、最大の人気が集まりました。
日の丸のところを黄色一色にしたのは月を表し、他の縁(ふち)は海なのです。
この旗の持つ心を申し上げましょう。月は太陽が出ませんと輝くことはできません。つまり月は太陽によって支えられ、月としての生命を持ちます。
太陽とは、率直に申し上げれば日本国なのです。海に囲まれたパラオという国は、日本の太陽の反射によって輝かねば生きられないのです。(中略)
我々はまた、戦争中に日の丸を抱えて強力な米軍と交戦した日本軍将兵の勇敢さと純粋さに、大いなる魅力と尊敬を捧げておるのです。
英霊(えいれい)は私たちに、勇気と国を想う心があれば、アメリカよりも強くなれることを教えて死んだのです。そのことも、この国旗は我々に教えているのです。 》
(「ペリリュー神社再建由来記」より)
◇
パラオ国旗は、日本とパラオの深い友好関係を示していることがわかりますね。
ところで、パラオ国旗をよく見てください。この満月は、「日の丸」と違って、中心から少し左にズレています。何でだと思いますか?
「日本に失礼だから」と、わざと中心をはずしたのだそうです。
パラオの人々の控(ひか)え目な性格が伝わってきますね。
→道徳ノートの4へ
******************************************
かんたんな授業の解説
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●服部先生の道徳は、こねくりまわして生徒を誘導し、よい子だけが先生が求めている答えを予想して発言する授業ではありません。そういう授業がどこかにあるあもしれませんが。
素晴らしい資料を生徒に読ませて、素直な感想を書かせるだけです。
まじめな子もそうでもない子(笑)も身を乗り出して資料にのめり込みます。
そして、今の日本では見たことも聞いたこともない、これまで教えられたことのない真実に自分で気づきます。
そこにいるのは、今は思い出すことを禁じられているが、昔はあたりまえだった日本人(われわれの親・祖父母・曾祖父母)だからです。
ここにいるのは、あなたがたのおじいちゃん、ひいおじいちゃんなんだよと言えばそれだけでわかり、感動があります。
そして、その感動が心を動かすのです。
教師が説明したり、押しつけたり、無理矢理納得させたり(ありえない!)する必要はありません。
そこがこれまでの道徳との違いです。
●ワークシートの問いについて解説します。
1
「きれいな島だなあ」「泳いでみたい」「おもしろい形の島だ」「日本からはずいぶん遠いね」「聞いたこともなかった」など自由に書きます。
2
「ひどすぎる!」「島民がかわいそうだ」「この隊長、許せん」など、たいがい怒ります。少年というのは、世界中どこでも正義感がとても強いのです。
3
◆それそれ、率直な予想を書きます。
4
◆パラオ人が日本にせる深い思いは歴史が培ったものです。このような史実を日本人は知りません。戦後、教えてはならないとされた教育内容の代表だからです。
パラオと日本のギャップはあまりにも大きすぎます。
だからこそ、生徒は新鮮で素直な感想を書き綴ります。できればいまの自分たちの姿とくらべて、自らを振り返ってほしいところです。しかし、それを無理強いしないようにしましょう。素直に思ったことを生徒たちは書きます。
わたしたちは、勉強の成績に関係なく彼らの書いたことに感動させられます。
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◆この授業、やるなら今がチャンスです!
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■天皇陛下 パラオ大統領と会見■
平成26(2014)年12月17日 20時43分(NHKニュースWEB)

天皇陛下は、17日、来年訪問する方向で調整が進められているパラオの大統領と会見されました。
16日から日本を訪れているパラオのレメンゲサウ大統領は、17日昼前、天皇皇后両陛下のお住まいの御所を訪れ、天皇陛下の出迎えを受けました。
戦後70年を迎える来年、両陛下は、太平洋戦争の舞台となったパラオを戦没者の慰霊などのため訪問される方向で調整が進められています。
会見では、レメンゲサウ大統領が、「来年は戦後70年でもあり、パラオ大統領として、また、パラオ国民を代表して、天皇皇后両陛下をぜひお招きしたい」と改めて両陛下の訪問を招請し、天皇陛下は「ご招待をいただいたことを心から感謝します」とこたえられたということです。
また、天皇陛下が、終戦までのおよそ30年間、日本の統治下にあったパラオに、多くの日本人が移り住んでいたことを話題にされると、大統領は、「パラオ固有の文化、伝統、習慣と、日本人がもたらしたものがうまく融合して今のパラオにも残り、日本のことばも残っています」と述べたというとです。
このあと天皇陛下は、皇后さまと共に大統領を昼食に招き、1時間半にわたって懇談されたということです。
ことしは、ミクロネシアとマーシャル諸島の大統領も来日して御所を訪れていて、両陛下は、太平洋戦争の舞台となり、戦後60年での訪問先として検討されたパラオを含む3か国の大統領と親交を深められました。
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●「授業づくりJAPAN」(日本の誇りと歴史を伝える授業づくりの会)は、自由主義史観研究会の20年間の研究と授業づくりの成果を継承しています。
自由主義史観研究会の公式ホームページ「教科書が教えない歴史」には、膨大な量の資料が蓄積されています。どうか尊公にしてください。
●自由主義史観研究会のHP「教科書が教えない歴史」(http://www.jiyuushikan.org/)
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【道徳ワークシート】 「ペリリュー島の戦い(崇高な精神)」
組 番 氏名( )
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1 下の写真は「パラオ共和国」の島々です。日本から、グアム経由で約8時間かかる南洋の島国です。
どんな印象を持ちましたか?
パラオの島々
日本・パラオ・ペリリュー島
● 今日は、この島のお話です
☆まず【資料1】を読みましょう (資料は基本的に教師が範読します)。
2.中川隊長の発言をどう思いましたか?
┌──────────────────────────────────┐
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☆ 【資料2】を読みましょう。
3.【資料2】を読んで、日本兵の気持ち、島民の気持ちを想像して書いてみましょう。
日本兵:
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島 民:
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☆【資料3】と【資料4】を読みましょう。
4.今日のお話で学んだことは何ですか。感想を書きましょう。
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道徳資料「ペリリュー島の戦い」
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【資料1】─────────────────────────────────────────
日本とパラオ
遠い南の島パラオに、日本の歌を歌うパラオ人のお年寄りがいます。
「みんな あそこで死んでいったんじゃ…」
そのお年寄りは、沖の島を指差しながら、つぶやきました。大東亜(だいとうあ)戦争(太平洋戦争)の時、この人は村の若者たちと日本軍の陣地作りに参加しました。当時、パラオは日本の統治下にあったからです。やがて、数百倍の戦力を持つアメリカ軍が押し寄せ、激闘の末、日本軍は全員が玉砕(ぎよくさい)(全滅)しました。
◇
パラオ諸島は最初はスペイン、次いでドイツの植民地でした。第一次世界大戦(1914年)でドイツに宣戦布告した日本は、パラオのドイツ守備隊を降伏させます。
戦後、国際連盟はパラオを「委任統治領(いにんとうちりよう)」として日本に面倒を見させることにしました。
当時のパラオ先住民の人口は、約6000人。スペインの植民地になる前は約6万人だったといいますから、いかに白人の植民地政策がひどいものだったかわかるでしょう。
日本は、パラオに南洋庁を置き、稲作や野菜、くだものの栽培を伝えました。また、缶詰やビールなどの工場を建設。道路を造り、橋を架け、電話をひき、学校、病院をつくるなど、数々のインフラを整備しました。パラオ人は文字を持っていなかったので、小学校では日本の教科書を使って、日本語教育をしました。小学校1年で九九を暗唱できたといいます。日本教育を経験した人は「学校の厳しいしつけが人生に役立った」といっています。
◇
1941(昭和16)年、日米戦争が始まり、パラオのペリリュー島は、日本にとって、グアムやサイパンの後方支援基地として、また、日本の防衛圏(ぼうえいけん)として重要な拠点でした。
一方、アメリカ軍にとっては、フィリピン奪回(だつかい)の最大の障害がペリリュー島の日本軍基地だったのです。
アメリカ太平洋艦隊は、ニミッツ提督の指揮のもと、ペリリュー島の攻略に乗り出しました。この時点で、ペリリュー島の住民は約900人。米軍が迫りくることを知った住民たちは話し合いました。彼らは、白人統治の時代と日本統治の時代の両方とも経験しています。日本兵と仲良くなって、陣地作りでともに汗を流し、日本の歌を一緒に歌って交流を深めていた住民たち。彼らの決断は…、「大人も子供も、力を合わせて日本軍とともに戦おう!」でした。
いつも温厚で優しい隊長なら、自分たちの頼みをきいてくれるに違いない。きっと一緒に戦うことを許してくれる…。
意を決した住民の代表たちは、ペリリュー島守備隊長の中川州男(くにお)大佐をたずねました。そして、中川隊長に「自分たちも一緒に戦わせてほしい!」と申し出ます。
それを聞いた中川隊長は、驚くような大声をあげて答えました。それは…、
「大日本帝国の軍人が、貴様(きさま)ら土人(どじん)と一緒に戦えるかっ!」
住民たちは驚きました。
「日本人は…、仲間だと信じていたのに、見せかけだったのか…」
→道徳ノートの2へ
【資料2】─────────────────────────────────────────
中川隊長の気持ち ・ 島民の気持ち
中川州男隊長
「帝国軍人が、貴様ら土人と一緒に戦えるかっ!」という中川隊長のひどい言葉。
仲間だと信じていた日本人に裏切られた思いで、悔し涙が流れました。
そして数日後、住民たちがパラオ本島に避難するため、ペリリュー島を去る日がきました。
しかし、港に見送りの日本兵の姿は一つもありませんでした。住民たちは、がっかりして船に乗り込んでいきます。そして、出港の合図が鳴り、船が岸辺を離れました。
すると、次の瞬間です。ペリリュー島に残る日本兵の全員が、ジャングルの中から浜に走り出てきました。そして、住民たちと一緒に歌った日本の歌を大声で歌いながら、ちぎれるほど手を振って見送っているではありませんか。ともに過ごしてきた兵隊さんの顔、顔、顔…。なんと、先頭には笑顔で手を振る中川隊長の姿。
その時、船上の住民たちはすべてを理解しました。
「日本の兵隊さんたちは、我々の命を助けるために、あんな態度をとったのだ」と。
遠く岸辺に見える日本兵に向かって、住民たちも、ちぎれんばかりに手を振り続けました。誰もが泣いていました。
→道徳ノートの3へ
【資料3】─────────────────────────────────────────
ペリリュー島の戦い
1944年9月12日、ペリリュー島の戦いが始まりました。
「日本軍1万人」対「米軍4万8000人」。
米軍の持つ火力は、日本軍の数百倍です。まずは猛烈な爆撃と艦砲射撃を日本軍に浴びせます。その砲弾は、何と17万発・4000トンに達し、ジャングルは完全に焼き払らわれました。一人の日本兵を倒すのに1589発の砲弾を使用した計算になるそうです。
9月15日、「3日で占領する」と豪語した米軍海兵隊2万8000名が上陸を開始しました。
対する日本軍は、どうしていたのでしょうか? 実は、地下深く穴を掘り、米軍の上陸を待ち構えていたのです。自在に往き来できるようにトンネルでつないだ地下壕(ごう)や洞穴は、何と500ヶ所以上。一人用の壕「タコツボ」も無数に掘り、ペリリュー全島を要塞化していたのです。中川隊長の統率はみごとでした。
米軍上陸直後、水際(みずぎわ)での戦闘は壮絶(そうぜつ)でした。米軍の第1次上陸部隊は大損害を受け、退却を余儀(よぎ)なくされるほどでした。米兵の血で海岸が赤く染まり、今でもこの海岸は「オレンジビーチ」と呼ばれています。
10月30日、米軍第1海兵師団が全滅。主力部隊が損失率4~6割を超え、「戦闘能力喪失(そうしつ)」で、差し替えが続きます。とうとう米軍はその上陸作戦史上、最大の損害を出してしまいました。
3日で占領するはずだった戦いは、70日も続く激戦になりました。その間、日本軍には補給が一切(いつさい)ありませんので、徐々に劣勢に陥っ(おちい)ていきました。米軍の火炎放射器と手榴弾(しゆりゆうだん)によって、日本軍の洞穴陣地は次々と落ちていき、ついに食料も水もなくなりました。
11月24日、日本軍は弾薬・兵力ともに尽き、中川州男(くにお)隊長は玉砕(ぎょくさい)を決意して、自決しました。享年47でした。
残存兵力55名による最後の総攻撃に際して、ペリリュー島から日本本土に向けて電文が送られました。その言葉は「サクラ サクラ」。
ペリリュー島守備隊全員が、桜花のごとく散ったことを、遠い本国に知らせたのでした。
こうして11月27日、ついにペリリュー島は米軍に占領されました。
アメリカ軍の司令長官ニミッツは、命を捧げて愛する祖国を守ろうとした日本兵に強く心を打たれ、ペリリュー島守備隊の勇戦を讃(たた)えて、次の詩を作っています。
この島を訪れるもろもろの国の旅人たちよ
故郷に帰ったら伝えてくれよ
日本軍人が全員玉砕(ぎよくさい)して果てた
この壮絶極まる勇気と祖国を想う心根(こころね)を
◇
┌────────────────────┐
│ 日本軍 戦死者 1万695名
│ 米 軍 死傷者 1万786名
│ (戦死者2336名、負傷者8450名)
│ 島の住民 死者・負傷者 0名
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ペリリュー島の戦いは、住民に1人の犠牲者も出さなかったことで知られています。
終戦後、パラオはアメリカに統治されることになりました。
しかし、1993年、ついにパラオは独立を果たします。独立にあたって、国旗を制定することになり、国民からデザインを募集しました。その結果、日の丸とよく似た今のデザインが採用されました。
周囲の青は太平洋の海の色。真ん中の黄色い円は満月を表しています。
パラオ共和国 国旗
【資料4】──────────────────────
なぜ、パラオ国旗は日の丸に似ているの?
■国旗の制定について、パラオ人のお話
《 私たちは国旗の選択にあたり、相当苦心しました。応募者はことごとく各島の人々でしょう。それぞれの旗にパラオの歴史と伝統が現れていました。
だから、選考委員は真剣でした。選考に日数をかけました。でも、この旗に決まりましたのは、日本の国旗に一番似ておりましたので、最大の人気が集まりました。
日の丸のところを黄色一色にしたのは月を表し、他の縁(ふち)は海なのです。
この旗の持つ心を申し上げましょう。月は太陽が出ませんと輝くことはできません。つまり月は太陽によって支えられ、月としての生命を持ちます。
太陽とは、率直に申し上げれば日本国なのです。海に囲まれたパラオという国は、日本の太陽の反射によって輝かねば生きられないのです。(中略)
我々はまた、戦争中に日の丸を抱えて強力な米軍と交戦した日本軍将兵の勇敢さと純粋さに、大いなる魅力と尊敬を捧げておるのです。
英霊(えいれい)は私たちに、勇気と国を想う心があれば、アメリカよりも強くなれることを教えて死んだのです。そのことも、この国旗は我々に教えているのです。 》
(「ペリリュー神社再建由来記」より)
◇
パラオ国旗は、日本とパラオの深い友好関係を示していることがわかりますね。
ところで、パラオ国旗をよく見てください。この満月は、「日の丸」と違って、中心から少し左にズレています。何でだと思いますか?
「日本に失礼だから」と、わざと中心をはずしたのだそうです。
パラオの人々の控(ひか)え目な性格が伝わってきますね。
→道徳ノートの4へ
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かんたんな授業の解説
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●服部先生の道徳は、こねくりまわして生徒を誘導し、よい子だけが先生が求めている答えを予想して発言する授業ではありません。そういう授業がどこかにあるあもしれませんが。
素晴らしい資料を生徒に読ませて、素直な感想を書かせるだけです。
まじめな子もそうでもない子(笑)も身を乗り出して資料にのめり込みます。
そして、今の日本では見たことも聞いたこともない、これまで教えられたことのない真実に自分で気づきます。
そこにいるのは、今は思い出すことを禁じられているが、昔はあたりまえだった日本人(われわれの親・祖父母・曾祖父母)だからです。
ここにいるのは、あなたがたのおじいちゃん、ひいおじいちゃんなんだよと言えばそれだけでわかり、感動があります。
そして、その感動が心を動かすのです。
教師が説明したり、押しつけたり、無理矢理納得させたり(ありえない!)する必要はありません。
そこがこれまでの道徳との違いです。
●ワークシートの問いについて解説します。
1
「きれいな島だなあ」「泳いでみたい」「おもしろい形の島だ」「日本からはずいぶん遠いね」「聞いたこともなかった」など自由に書きます。
2
「ひどすぎる!」「島民がかわいそうだ」「この隊長、許せん」など、たいがい怒ります。少年というのは、世界中どこでも正義感がとても強いのです。
3
◆それそれ、率直な予想を書きます。
4
◆パラオ人が日本にせる深い思いは歴史が培ったものです。このような史実を日本人は知りません。戦後、教えてはならないとされた教育内容の代表だからです。
パラオと日本のギャップはあまりにも大きすぎます。
だからこそ、生徒は新鮮で素直な感想を書き綴ります。できればいまの自分たちの姿とくらべて、自らを振り返ってほしいところです。しかし、それを無理強いしないようにしましょう。素直に思ったことを生徒たちは書きます。
わたしたちは、勉強の成績に関係なく彼らの書いたことに感動させられます。
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◆この授業、やるなら今がチャンスです!
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■天皇陛下 パラオ大統領と会見■
平成26(2014)年12月17日 20時43分(NHKニュースWEB)
天皇陛下は、17日、来年訪問する方向で調整が進められているパラオの大統領と会見されました。
16日から日本を訪れているパラオのレメンゲサウ大統領は、17日昼前、天皇皇后両陛下のお住まいの御所を訪れ、天皇陛下の出迎えを受けました。
戦後70年を迎える来年、両陛下は、太平洋戦争の舞台となったパラオを戦没者の慰霊などのため訪問される方向で調整が進められています。
会見では、レメンゲサウ大統領が、「来年は戦後70年でもあり、パラオ大統領として、また、パラオ国民を代表して、天皇皇后両陛下をぜひお招きしたい」と改めて両陛下の訪問を招請し、天皇陛下は「ご招待をいただいたことを心から感謝します」とこたえられたということです。
また、天皇陛下が、終戦までのおよそ30年間、日本の統治下にあったパラオに、多くの日本人が移り住んでいたことを話題にされると、大統領は、「パラオ固有の文化、伝統、習慣と、日本人がもたらしたものがうまく融合して今のパラオにも残り、日本のことばも残っています」と述べたというとです。
このあと天皇陛下は、皇后さまと共に大統領を昼食に招き、1時間半にわたって懇談されたということです。
ことしは、ミクロネシアとマーシャル諸島の大統領も来日して御所を訪れていて、両陛下は、太平洋戦争の舞台となり、戦後60年での訪問先として検討されたパラオを含む3か国の大統領と親交を深められました。
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●「授業づくりJAPAN」(日本の誇りと歴史を伝える授業づくりの会)は、自由主義史観研究会の20年間の研究と授業づくりの成果を継承しています。
自由主義史観研究会の公式ホームページ「教科書が教えない歴史」には、膨大な量の資料が蓄積されています。どうか尊公にしてください。
●自由主義史観研究会のHP「教科書が教えない歴史」(http://www.jiyuushikan.org/)
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服部剛の道徳 1 「焼き場の少年・幼いマリコに」
2014/12/15 (Mon) 18:26
◆しばらくの間、服部剛(横浜市・中学)さんの道徳を紹介していきます。徳目3-3( 人間の気高さ・克服する強さ)です。
学習用のワークシートと学習資料のセットですので、明日の授業で使うことができるでしょう。もし追試されたら、結果をご報告いただければ幸いです。みんなでよりよいものを目指していきたいと願っています。
【ワークシート】 「アメリカ人が見た日本人」
組 番 ( )
●この写真は、1945年の占領下、長崎県で撮られたものです。ジョー・オダネルというアメリカ軍のカメラマンが撮影しました。

(『トランクの中の日本 ― 米従軍カメラマンの非公式記録』より)
1.次の点に注目して、写真から気がついたこと をメモしよう。
①少年の顔つき
②少年の服装
③少年の姿勢
④おんぶされている幼児
■気がついたこと
■少年は、どんな気持ちで立っているのだと思いますか? │
☆ここで【資料1】を読みましょう。
2.【資料1】を読んで、思ったことや考えたことを書きましょう。
3.敗戦と飢餓(きが)の中で、日本人はアメリカ人にどんな態度をとったでしょうか。想像で書いてください。
☆ここで【資料2】を読みましょう。
4.【資料3】を読んで、今の日本の状態や自分自身に照らしてどう思いましたか。
******************************************
道徳資料「アメリカ人が見た日本人」
【資料1】ジョー・オダネルが見た直立不動(ちょくりつふどう)の少年
この写真は、終戦直後の長崎で撮られたものです。原爆が投下された直後のことでした。撮影したのは、ジョー・オダネルというアメリカの従軍カメラマンです。オダネル氏は、19歳の時にアメリカ海軍軍人として大東亜戦争(だいとうあせんそう)(太平洋戦争)に参戦しました。
日本軍による真珠湾(しんじゅわん)攻撃を知って、敵国日本に敵愾心(てきがいしん)を燃やしていた青年ジョー・オダネルは、日本の敗戦とアメリカの勝利を太平洋の海上で聞きました。
「ざまあみろ! ジャップめ!」 (※ジャップ:日本人への侮蔑(ぶべつ)語)
「ようやくこれでアメリカに帰ることができるぞ!」
そう思っていた矢先、彼は敗戦直後の日本の調査を命じられました。敗戦後の日本で彼らアメリカ人一行が見たものは、自分たちが想像していたような日本人たちではありませんでした。
少年の足元に「ひも」のようなものが見えます。その前では原爆によって殺された人々の死体が焼かれていました。この少年は死体を焼く「焼き場」の前に立っているのでした。
この時の様子をオダネル氏は次のように言っています。
佐世保(させぼ)から長崎に入ったわたしは、小高い丘の上から下を眺(なが)めていました。すると白いマスクをかけた男たちが目につきました。男たちは五十センチほどの深さに掘った大きな穴のそばで作業をしていました。荷車(にぐるま)に山積みにした死体を石炭の燃える穴の中に次々と投げ入れていたのです。
十歳くらいの少年が歩いてくるのが目にとまりました。おんぶひもをたすきに掛(か)けて、幼子(おさなご)を背中にしょっています。弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやって来たという強い意志が感じられました。しかも足ははだしです。
少年は焼き場のふちまで来ると、硬(かた)い表情で目を凝(こ)らして立ち尽(つ)くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、五分か十分も立っていたでしょうか。白いマスクの男たちが静かに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解(と)き始めました。この時わたしは、背中の幼子(おさなご)が既(すで)に死んでいることに初めて気づいたのです。男たちは幼子(おさなご)の手と足を持つとゆっくりほうむろうとするように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動(ちょくりつふどう)の少年のまだあどけないほおを赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇(くちびる)に血がにじんでいるのに気がついたのは。少年があまりきつくかみしめているため、唇の血は流れることもなく、ただその下唇(したくちびる)に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりと焼き場に背を向けて、沈黙のまま去っていきました。
(「目撃者の眼」より)
☆この写真は、戦争で弟を失い、その弟をたった一人で焼き場に火葬しに来た少年の写真だったのです。両親はどうしたのでしょうか。やはり、死んでしまったのでしょうか。少年に身よりはあるのでしょうか…。
【資料2】「焼き場に立つ少年」
私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。
あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか。この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。
アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動(ちょくりつふどう)の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術(すべ)もなく、立ちつくしていた。
(『トランクの中の日本』より)
「その後のオダネル氏」
わたしは言葉さえかけることのできなかったこの少年が気になって仕方がありませんでした。自分で慌(あわ)てて着たようなしわしわの服、はだしの足、おんぶひももよじれてかかっていました。もしかしたら家族をみんななくしてしまったのかもしれない。服を着せてくれるお母さんはもういないのか、家はあるのだろうか、考えれば考えるほど気になります。
そこでわたしは日本の新聞にこの写真を載(の)せてもらいました。「どなたかこの少年を知りませんか?」という問いかけを添(そ)えて知り合いに頼んで何度も載(の)せてもらいました。でも、なんにも反応はありませんでした。わたしにこれほどの衝撃(しょうげき)を与えたこの少年は、たった一枚の写真を残していなくなってしまったのです。
長崎に三か月滞在(たいざい)し、それから広島に行きました。そこでも悲惨(ひさん)な写真をたくさん撮りました。わたしは戦争の写真を撮りながら、自分にこう言い聞かせてきました。これは将来のために撮るのだと。わたしの見たものをみんなに見せるために撮るのだと。カメラはわたしの眼だったのです。
日本に行くまで、わたしは日本人を見たことがありませんでした。終戦直後、日本に初めて行ったわたしは、日本人の丁寧(ていねい)さにただただ驚きました。大変な時に、これほど礼儀正しい国民がいるでしょうか !
一九四五年の九月から七か月間の日本滞在の後、何度も日本に行きました。友達も増えました。五十年以上のつきあいになる友人もいます。
戦争は二度と繰り返してはなりません。原爆は決して落とすべきではありませんでした。戦争終結に必要だったと言う人がいます。でも、だれが何と言おうと、わたしはこの眼で見たのです。原爆でやられたのは、老人と女たち、そして子供たちだったのです。原爆が必要だったわけなどありません。わたしは、死ぬまでそのことを言い続けるつもりです。なぜなら、You don'tforget what you saw.(見たものは忘れない)から。
(「目撃者の眼」より)
☆終戦直後、オダネル氏が見た日本人は、自分たちアメリカの攻撃によって徹底的に痛めつけられ、家族や親戚(しんせき)・友人らを失ったというのに、アメリカ人に対して温かく、親切に接する日本人の姿でした。そして、そのような時に出会ったのが、写真の少年だったのです。
【資料3】靴(くつ)磨(みが)きの少年 一片(いっぺん)のパン「幼(おさな)いマリコに」
(2007.11.6 産経新聞「【やばいぞ日本】」より)
81歳、元ハワイ州知事(ちじ)、ジョージ・アリヨシ氏から手紙が届いた。親殺し、子殺し、数々の不正や偽装(ぎそう)が伝えられる中、アリヨシ氏の訴えは、「義理(ぎり)、恩(おん)、おかげさま、国のために」に、日本人がもう一度思いをはせてほしいというものだった。終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。
手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。
彼が最初に出会った日本人は、靴(くつ)を磨(みが)いてくれた7歳の少年だった。言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と2人で過酷(かこく)な時代を生きていかねばならないことを知った。
東京は焼け野原だった。その年は大凶作(だいきょうさく)で、1000万人の日本人が餓死(がし)するといわれていた。少年は背筋(せすじ)を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、空腹(くうふく)の様子は隠(かく)しようもなかった。アリヨシ氏は兵舎(へいしゃ)に戻(もど)り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗(ぬ)るとナプキンで包(つつ)んだ。持ち出しは禁じられていた。だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包(つつ)みを渡した。少年は「ありがとうございます」と言い、包(つつ)みを箱に入れた。彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋(たず)ねた。少年は「おなかはすいています」といい、「3歳のマリコが家で待っています。一緒(いっしょ)に食べたいんです」といった。
アリヨシ氏は手紙で「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわずか一片(いっぺん)のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と書いている。
彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。しかし、日本には2カ月しかいなかった。本国で法律を学ぶことを選んだからだ。
そして、1974年、日系人(にっけいじん)として初めてハワイ州知事(ちじ)に就任(しゅうにん)した。
のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配した。メディアとともに消息(しょうそく)を探したが、見つからなかった。「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴(くつ)磨(みが)きの少年の名前は知らなかった。私は彼に会いたかった」。
アリヨシ氏の手紙には「荒廃(こうはい)した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概(きがい)と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲(ぎせい)を象徴(しょうちょう)するものだ」と記(しる)されている。
そして、今を生きる日本人へのメッセージが、最後にしたためられていた。
「幾星霜(いくせいそう)が過ぎ、日本は変わった。今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。ほとんどの人びとは、両親や祖父母(そふぼ)が新しい日本を作るために払った努力と犠牲(ぎせい)のことを知らない。すべてのことは容易(ようい)に手に入る。そうした人たちは今こそ、7歳の靴(くつ)磨(みが)きの少年の家族や国を思う気概(きがい)と苦闘(くとう)を、もう一度考えるべきである。義理(ぎり)、責任、恩(おん)、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ」。
「凛(りん)とした日本人たれ」。父母が福岡県豊前(ぶぜん)市出身だった有吉(アリヨシ)氏の祖国への思いが凝縮(ぎょうしゅく)されていた。
(凜(りん)=引きしまっていること)
■焼き場の少年やマリコの兄から学ぶ事は何でしょうか。
たった一人で、自分の弟を丁寧(ていねい)に埋葬(まいそう)し、生きていこうとする「生きる力強さ」「勇気」。そして、苦難(くなん)にたじろがず、貧しさを分かち合う「思いやり」「無私(むし)の心」「隣人(りんじん)愛」…。
自ら(みずか)の努力と気概(きがい)で、日本人は敗戦と飢餓(きが)という未曾有(みぞう)の危機を乗り切りました。
それから66年、今の社会に広がる忌(いま)まわしい事件の数々…。
日本人はどうなってしまったのでしょうか!?

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【ワークシート】 「アメリカ人が見た日本人」
組 番 ( )
●この写真は、1945年の占領下、長崎県で撮られたものです。ジョー・オダネルというアメリカ軍のカメラマンが撮影しました。
(『トランクの中の日本 ― 米従軍カメラマンの非公式記録』より)
1.次の点に注目して、写真から気がついたこと をメモしよう。
①少年の顔つき
②少年の服装
③少年の姿勢
④おんぶされている幼児
■気がついたこと
■少年は、どんな気持ちで立っているのだと思いますか? │
☆ここで【資料1】を読みましょう。
2.【資料1】を読んで、思ったことや考えたことを書きましょう。
3.敗戦と飢餓(きが)の中で、日本人はアメリカ人にどんな態度をとったでしょうか。想像で書いてください。
☆ここで【資料2】を読みましょう。
4.【資料3】を読んで、今の日本の状態や自分自身に照らしてどう思いましたか。
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道徳資料「アメリカ人が見た日本人」
【資料1】ジョー・オダネルが見た直立不動(ちょくりつふどう)の少年
この写真は、終戦直後の長崎で撮られたものです。原爆が投下された直後のことでした。撮影したのは、ジョー・オダネルというアメリカの従軍カメラマンです。オダネル氏は、19歳の時にアメリカ海軍軍人として大東亜戦争(だいとうあせんそう)(太平洋戦争)に参戦しました。
日本軍による真珠湾(しんじゅわん)攻撃を知って、敵国日本に敵愾心(てきがいしん)を燃やしていた青年ジョー・オダネルは、日本の敗戦とアメリカの勝利を太平洋の海上で聞きました。
「ざまあみろ! ジャップめ!」 (※ジャップ:日本人への侮蔑(ぶべつ)語)
「ようやくこれでアメリカに帰ることができるぞ!」
そう思っていた矢先、彼は敗戦直後の日本の調査を命じられました。敗戦後の日本で彼らアメリカ人一行が見たものは、自分たちが想像していたような日本人たちではありませんでした。
少年の足元に「ひも」のようなものが見えます。その前では原爆によって殺された人々の死体が焼かれていました。この少年は死体を焼く「焼き場」の前に立っているのでした。
この時の様子をオダネル氏は次のように言っています。
佐世保(させぼ)から長崎に入ったわたしは、小高い丘の上から下を眺(なが)めていました。すると白いマスクをかけた男たちが目につきました。男たちは五十センチほどの深さに掘った大きな穴のそばで作業をしていました。荷車(にぐるま)に山積みにした死体を石炭の燃える穴の中に次々と投げ入れていたのです。
十歳くらいの少年が歩いてくるのが目にとまりました。おんぶひもをたすきに掛(か)けて、幼子(おさなご)を背中にしょっています。弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。
しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。重大な目的を持ってこの焼き場にやって来たという強い意志が感じられました。しかも足ははだしです。
少年は焼き場のふちまで来ると、硬(かた)い表情で目を凝(こ)らして立ち尽(つ)くしています。背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。
少年は焼き場のふちに、五分か十分も立っていたでしょうか。白いマスクの男たちが静かに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解(と)き始めました。この時わたしは、背中の幼子(おさなご)が既(すで)に死んでいることに初めて気づいたのです。男たちは幼子(おさなご)の手と足を持つとゆっくりほうむろうとするように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。
まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。それからまばゆいほどの炎がさっと舞い立ちました。真っ赤な夕日のような炎は、直立不動(ちょくりつふどう)の少年のまだあどけないほおを赤く照らしました。
その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇(くちびる)に血がにじんでいるのに気がついたのは。少年があまりきつくかみしめているため、唇の血は流れることもなく、ただその下唇(したくちびる)に赤くにじんでいました。
夕日のような炎が静まると、少年はくるりと焼き場に背を向けて、沈黙のまま去っていきました。
(「目撃者の眼」より)
☆この写真は、戦争で弟を失い、その弟をたった一人で焼き場に火葬しに来た少年の写真だったのです。両親はどうしたのでしょうか。やはり、死んでしまったのでしょうか。少年に身よりはあるのでしょうか…。
【資料2】「焼き場に立つ少年」
私は彼の肩を抱いてやりたかった。しかし声をかけることもできないまま、ただもう一度シャッターを切った。急に彼は回れ右をすると、背筋をぴんと張り、まっすぐ前を見て歩み去った。一度もうしろを振り向かないまま。
あの少年はどこへ行き、どうして生きていくのだろうか。この少年が死んでしまった弟をつれて焼き場にやってきたとき、私は初めて軍隊の影響がこんな幼い子供にまで及んでいることを知った。
アメリカの少年はとてもこんなことはできないだろう。直立不動(ちょくりつふどう)の姿勢で、何の感情も見せず、涙も流さなかった。そばに行ってなぐさめてやりたいと思ったが、それもできなかった。もし私がそうすれば、彼の苦痛と悲しみを必死でこらえている力をくずしてしまうだろう。私はなす術(すべ)もなく、立ちつくしていた。
(『トランクの中の日本』より)
「その後のオダネル氏」
わたしは言葉さえかけることのできなかったこの少年が気になって仕方がありませんでした。自分で慌(あわ)てて着たようなしわしわの服、はだしの足、おんぶひももよじれてかかっていました。もしかしたら家族をみんななくしてしまったのかもしれない。服を着せてくれるお母さんはもういないのか、家はあるのだろうか、考えれば考えるほど気になります。
そこでわたしは日本の新聞にこの写真を載(の)せてもらいました。「どなたかこの少年を知りませんか?」という問いかけを添(そ)えて知り合いに頼んで何度も載(の)せてもらいました。でも、なんにも反応はありませんでした。わたしにこれほどの衝撃(しょうげき)を与えたこの少年は、たった一枚の写真を残していなくなってしまったのです。
長崎に三か月滞在(たいざい)し、それから広島に行きました。そこでも悲惨(ひさん)な写真をたくさん撮りました。わたしは戦争の写真を撮りながら、自分にこう言い聞かせてきました。これは将来のために撮るのだと。わたしの見たものをみんなに見せるために撮るのだと。カメラはわたしの眼だったのです。
日本に行くまで、わたしは日本人を見たことがありませんでした。終戦直後、日本に初めて行ったわたしは、日本人の丁寧(ていねい)さにただただ驚きました。大変な時に、これほど礼儀正しい国民がいるでしょうか !
一九四五年の九月から七か月間の日本滞在の後、何度も日本に行きました。友達も増えました。五十年以上のつきあいになる友人もいます。
戦争は二度と繰り返してはなりません。原爆は決して落とすべきではありませんでした。戦争終結に必要だったと言う人がいます。でも、だれが何と言おうと、わたしはこの眼で見たのです。原爆でやられたのは、老人と女たち、そして子供たちだったのです。原爆が必要だったわけなどありません。わたしは、死ぬまでそのことを言い続けるつもりです。なぜなら、You don'tforget what you saw.(見たものは忘れない)から。
(「目撃者の眼」より)
☆終戦直後、オダネル氏が見た日本人は、自分たちアメリカの攻撃によって徹底的に痛めつけられ、家族や親戚(しんせき)・友人らを失ったというのに、アメリカ人に対して温かく、親切に接する日本人の姿でした。そして、そのような時に出会ったのが、写真の少年だったのです。
【資料3】靴(くつ)磨(みが)きの少年 一片(いっぺん)のパン「幼(おさな)いマリコに」
(2007.11.6 産経新聞「【やばいぞ日本】」より)
81歳、元ハワイ州知事(ちじ)、ジョージ・アリヨシ氏から手紙が届いた。親殺し、子殺し、数々の不正や偽装(ぎそう)が伝えられる中、アリヨシ氏の訴えは、「義理(ぎり)、恩(おん)、おかげさま、国のために」に、日本人がもう一度思いをはせてほしいというものだった。終戦直後に出会った少年がみせた日本人の心が今も、アリヨシ氏の胸に刻まれているからだ。
手紙によると、陸軍に入隊したばかりのアリヨシ氏は1945年秋、初めて東京の土を踏んだ。
彼が最初に出会った日本人は、靴(くつ)を磨(みが)いてくれた7歳の少年だった。言葉を交わすうち、少年が両親を失い、妹と2人で過酷(かこく)な時代を生きていかねばならないことを知った。
東京は焼け野原だった。その年は大凶作(だいきょうさく)で、1000万人の日本人が餓死(がし)するといわれていた。少年は背筋(せすじ)を伸ばし、しっかりと受け答えしていたが、空腹(くうふく)の様子は隠(かく)しようもなかった。アリヨシ氏は兵舎(へいしゃ)に戻(もど)り、食事に出されたパンにバターとジャムを塗(ぬ)るとナプキンで包(つつ)んだ。持ち出しは禁じられていた。だが、彼はすぐさま少年のところにとって返し、包(つつ)みを渡した。少年は「ありがとうございます」と言い、包(つつ)みを箱に入れた。彼は少年に、なぜ箱にしまったのか、おなかはすいていないのかと尋(たず)ねた。少年は「おなかはすいています」といい、「3歳のマリコが家で待っています。一緒(いっしょ)に食べたいんです」といった。
アリヨシ氏は手紙で「この7歳のおなかをすかせた少年が、3歳の妹のマリコとわずか一片(いっぺん)のパンを分かち合おうとしたことに深く感動した」と書いている。
彼はこのあとも、ハワイ出身の仲間とともに少年を手助けした。しかし、日本には2カ月しかいなかった。本国で法律を学ぶことを選んだからだ。
そして、1974年、日系人(にっけいじん)として初めてハワイ州知事(ちじ)に就任(しゅうにん)した。
のち、アリヨシ氏は日本に旅行するたび、この少年のその後の人生を心配した。メディアとともに消息(しょうそく)を探したが、見つからなかった。「妹の名前がマリコであることは覚えていたが、靴(くつ)磨(みが)きの少年の名前は知らなかった。私は彼に会いたかった」。
アリヨシ氏の手紙には「荒廃(こうはい)した国家を経済大国に変えた日本を考えるたびに、あの少年の気概(きがい)と心情を思いだす。それは『国のために』という日本国民の精神と犠牲(ぎせい)を象徴(しょうちょう)するものだ」と記(しる)されている。
そして、今を生きる日本人へのメッセージが、最後にしたためられていた。
「幾星霜(いくせいそう)が過ぎ、日本は変わった。今日の日本人は生きるための戦いをしなくてよい。ほとんどの人びとは、両親や祖父母(そふぼ)が新しい日本を作るために払った努力と犠牲(ぎせい)のことを知らない。すべてのことは容易(ようい)に手に入る。そうした人たちは今こそ、7歳の靴(くつ)磨(みが)きの少年の家族や国を思う気概(きがい)と苦闘(くとう)を、もう一度考えるべきである。義理(ぎり)、責任、恩(おん)、おかげさまで、という言葉が思い浮かぶ」。
「凛(りん)とした日本人たれ」。父母が福岡県豊前(ぶぜん)市出身だった有吉(アリヨシ)氏の祖国への思いが凝縮(ぎょうしゅく)されていた。
(凜(りん)=引きしまっていること)
■焼き場の少年やマリコの兄から学ぶ事は何でしょうか。
たった一人で、自分の弟を丁寧(ていねい)に埋葬(まいそう)し、生きていこうとする「生きる力強さ」「勇気」。そして、苦難(くなん)にたじろがず、貧しさを分かち合う「思いやり」「無私(むし)の心」「隣人(りんじん)愛」…。
自ら(みずか)の努力と気概(きがい)で、日本人は敗戦と飢餓(きが)という未曾有(みぞう)の危機を乗り切りました。
それから66年、今の社会に広がる忌(いま)まわしい事件の数々…。
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