展覧会

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ポーラ銀座ビル5周年記念企画
『フジタ、夢をみる手』
2014年10月24日(金)-12月28日(日)
11:00-20:00(入場は閉館の30分前まで)
入場無料/12月17日(水)休館

レオナール・フジタ
「ラ・フォンテーヌ頌」1949年
©Fondation Foujita/ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2014
D0811

レオナール・フジタ「姉妹」1950年
©Fondation Foujita/ADAGP, Paris & JASPAR, Tokyo, 2014
D0811

レオナール・フジタといえば、1920年代のパリで「すばらしき乳白色」と絶賛された裸婦を描いた作品群で知られるほか、女性や猫を写実的に描いた作品を多く残しています。しかし、従軍画家として参加した第二次世界大戦後、再びパリをめざした頃から、物語を思わせる動物の群像や神話上の女性、子どもが主題とされるなど、その作風は明らかに変化をみせるようになります。
本展は、第二次世界大戦期を境にフジタ芸術にみられるようになる、想像力や創作性をいっそう拠りどころとする傾向へと光を当てました。この時期のフジタの画業については、その背景がこれまでほとんど明らかにされていませんが、主題の幅の広がりと画家の卓越した描写力により、豊かな表現性を獲得します。その意味で、多彩なイマジネーションに富んだ作品群は、あたかもフジタの手の夢想により生み出されたかのようです。 ポーラ美術館のコレクションの中から、1940年代後半から1960年代に制作された作品を中心に構成された本展では、昨年、ポーラ美術館に新収蔵された《グロテスク》をはじめとする2点(都内初公開)を含む、約40点をご紹介します。戦後のフジタとその芸術をめぐってみえてくる、新たな境地とその魅力をご堪能下さい。

作家プロフィール
レオナール・フジタ(藤田嗣治)1886-1968

1886年(明治19)、現在の東京都新宿区新小川町の陸軍軍医の家に生まれたフジタは、父の上司だった森鷗外の勧めもあり東京美術学校西洋画科に入学。当時主流であった明るい外光派風の洋画にあきたらず、1913年、26歳のときにフランスにわたります。
パリのモンパルナスに住んだフジタは、ピカソやヴァン・ドンゲン、モディリアーニらエコール・ド・パリの画家たちと交流しました。彼らに刺激され、独自のスタイルを追究するなかで、紙や絹を支持体とする東洋の絵画の繊細で優美な質感を、油彩で再現しようと思いつきます。手製のなめらかなカンヴァスの上に、日本画などで用いる面相筆と墨で細い輪郭線を引き、細やかな陰影を施した裸婦像は、「素晴らしい白い下地」(grand fond blanc)、あるいは「乳白色の肌」と呼ばれて絶賛されました。1919年にはサロン・ドートンヌに出品した6点の油彩画がすべて入選し、ただちに会員に推挙されるなど、フジタの作品はパリで大人気となりました。 1929年、凱旋帰国展のため16年ぶりに一時帰国。1933年以降は日本を活動の拠点とします。日中戦争がはじまると、従軍画家として群像表現による大画面の戦争画を制作しますが、戦後は画壇から戦争協力者として批判を浴び、失意のうちに日本を離れます。
日本には戻らないと決め、再びパリに暮らし始めたフジタは、1955年にフランス国籍を取得。1959年、72歳のときにランスの大聖堂でカトリックの洗礼を受け、レオナールという洗礼名を与えられます。最晩年には、ランスに感謝を示したいと礼拝堂「シャぺル・ノートル=ダム・ド・ラ・ペ」(通称シャペル・フジタ)の建設を志し、完成から2年後の1968年に没しました。

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