どうも、放火魔件炎上芸人です。
ネットで迂闊な発言をしている悪い子はいねぇがー!?
わりぃいごはあだまがらガソリンがぶせてひだるまにすっぞ~!
ここ数日異文化コミュニケーションを試みたのですが、やはり言葉が通じませんでした。周囲からも「まだ無駄なことをw」と言われ、実際そうだなぁと思いながら「無駄なことを一生懸命する」という境地に達していました。今日は冬至だし、過去の炎でも思い出しながらあったまろう。
ちなみに「批判をスルーするオレかっこいい」「さすがですね!」という流れがあり、仲間内で自分のアイコンを肴に騒いでいたのも非常に面白かったです。誰も中身に触れないのね。ただ、この件でひとつ明らかになったことがあって、それが「言及通知のオワコン化」ということです。古きよきトラックバック文化もこれに含まれます。ちょい長くなりそうですが書いていきます。
はてなユーザーを自称して煽るスタイル
実はこれ、少し前から観測できた行為でした。今年の夏の例のオフ会をやってる頃、某氏の名義上の彼女に憧れて二代目はてな女子を名乗るブログがありました。まるで増田の釣りのような記事をいくつか投函して例の宣言をしたあと、ぱったりと更新が止まっていたのですが非常にうさんくさいものでした。今回に比べれば非常にかわいいものでしたが。
そもそも「はてな村」というのは前回から散々言っているように「なんとなく集まったアカウントが交流をするうちにコミュニティが形成される」というところがなんとなくあって、変なことを言うと「またあの人か!?」みたいな反応があって「有名になってしまった」という揶揄を込めている現象だと思っている。だから「誰々さんが村民とか村民じゃない」とかそういうのはあまり意味がない。「ああ、アノ人ね」というのが大事。
だけどブコメ欄が見えないブログユーザーの間で「はてな女子」だの「はてな村民」だのが何か尊称のように扱われ始め、「はてな村民=影響力のある有名人」という意味に変わっているようだ。以前報告したように「増田=ネタっぽい生活的なことを扱った記事」という誤用*1が更に広まった感じがする。ちなみにあれ以降増田の誤用は見ていない。
「人それぞれだから定義しない」「議論するだけ無駄」
はてなブログも3周年に突入して、いろんな人が増えた。人口が増えるといろんな考え方が増える。だから、トラバ合戦だったりメタブタワーだったり言及通知のやりとりを見て「なんて野蛮な」と考える人も出てくる。それを見て「面倒くさい」とか「生きづらそう」とか「生徒会行くね」とか、そういう感想を持つのもまた自由。
ただ、見出しに上げた煽りへの返しが増えた気はする。今回の記事も「人それぞれだから定義しない」という言葉が出たのでここまで来ている。そもそもはてな村の定義の話以前の問題なんだけど、日本語が通じないので仕方がない。
「人それぞれ」を間違うと飛んでくるブーメランの話 - 無要の葉
覚えている人は覚えていると思うけれど、「ミニマリストの定義論争」が荒れた理由も見出しの言葉のせいである。そのときは「定義という言葉が押しつけがましくて堅苦しいのでよくない」というよくわからない終わり方をしている。 「僕はこういうのがミニマリストだと思うな。へー、君のミニマリストはそういうのなんだ、人それぞれだね!」でいいところなのに「定義定義うるさい人ってイヤぁねぇ」みたいなしなくていい逆ギレをかまされたである。「定義の中身」ではなく「定義をするという行為」を忌避していた。共通認識を持つことに何か不都合があったのかねぇ。
今回の件にもどってくると完全に「はてな村の定義」なんていう問題ではなく「わけのわからない論旨で人を踏み台にするのやめて」なんだけれど、何故か「定義の話はしていないしするだけ無駄」という返答しかないのである。日本語が通じないので仕方がない。
一応補足すると、「炎上芸人」という言葉の使われ方も怪しい。本来のトマト尊師のように「わざと反社会的な行為やモラルの欠如した言動や挑発的な見出しにより批難を浴びてアクセス数を稼ぐ人」という意味ではなく「言及通知によって他者を批評する人」という意味で使っている気がした。自分の知らない別の次元からアクセスしている可能性もある。
「批評はやめよう時間の無駄無駄」みたいなことをミニマリスト界隈でも言っていた。「他人のことは変えられないのだから他人を悪く言うのではなく自分の考えをプラスに変えよう、それか他人の悪いところではなく良いところだけを見よう」みたいな考えである。つまるところ、「参考になりました!」「だれさんのブログで宣伝!」くらいの意味でしか言及通知の意味がなくなる。「手斧?なにそれ怖い!」というよりプロボクシングや競技用空手を見て「暴力反対!」と言っている感じである。
トラバ・言及通知のオワコン化と新興勢力
元の意見がある程度しっかりしているのであれば、何か言われても言い返すことはできるし根拠のない罵詈雑言なら相手にしなければいい。それでも「議論は時間の無駄」というのであれば、言及通知など飛ばす意味はない。そもそも全世界に向けて記事を発信する意味はない。ブログなど時間の無駄。他人の趣味に対して「時間の無駄」というのも時間の無駄。実際に会えない他人と交流しようとするのも時間の無駄。本当に有意義なことでもしたかったらネットなんかやめて畑でも耕していればいい。
『ドラえもん』にはのび太が「口に出さなくても心は通う。ぼくがなにをしてほしいかなにを望んでいるか、そんな機械はないかしら。」とドラえもんに言って「口きくのもめんどくさけりゃ、もう死んでしまえ。」と怒られるシーン*2があるが、「何か言ったこと」に対しては責任が伴うもので、相手がそれを100%好意的に読み取ってくれる保証はないし、そのリスクも踏まえてネットに向けて発信している人のほうが多いはずである。それが面倒くさいなら口をきかない=ネットしないくらいしか方法がない。
他人と他人がコミュニケートする上で大事なのは「ある程度の共通認識」であって、それを便宜上「定義」と呼ぶならば、「人それぞれだから定義しない」という状態は「口に出さなくても心は通う」という状態と一緒であると思う。もちろん、これは議論の内容以前の問題である。「人それぞれ」であるから共通認識を作るために言葉を尽くすべきなのに、「人それぞれだから私たちは分かり合えない」と勝手にシャッターを下ろしているのである。都合の良いところだけ共感して、都合の悪いところは「批判キモイ」か見ないふり。
今後、こういう何かの言動に対して「意味がない」「時間の無駄」「もっと有益なことを」というクソリプ的な反応が増えることが予想される。個人的に「批判禁止!」の流れは「批判をする人はけしからん!」という「静かにしろと怒鳴る人が一番うるさい」構図になると思うし、マイナスのことを書けなくなるとかそれなんて言う言論統制っていう感じもする。それがヤだからこうやって記事を書いているのだけれど。「ブログには好きなことを書けばいいよ」という言説が聞いて呆れる。
そんで批判がないから無自覚に炎上スレスレの際どい記事を書いて「アクセス数すごい」「さすが誰さん!」みたいなブコメが展開され、身内ブクマがはびこり、「お前それマジで言ってんの」というコメントにはコメントの内容ではなく「ネガコメキモイねー」と身内で盛り上がる。オープンスペースに閉じたSNSが出現した感じである。
このままではTwitterで「無断フォロー禁止」みたいな感じで「無断言及禁止」みたいなアホらしいルールができる日もそんなに遠くないかもしれない。サードだのフォースだの言っていた分類で新しく括るなら、今後はこういうmixiみたいなノリの層がますます増えるんじゃないかなぁと思いました、まる。
*1:はてブ初心者のためのブコメ用語の話 - 無要の葉「増田」の項参照。