アメリカでは、どんなに銃の乱射事件が起きても、一直線に銃規制の検討にならない。

「銃を乱射する奴がいるから、自己防衛のために銃で身を守らなければならない!」という声の方が今でも大きい。

もちろん、「銃が野放しになっているから乱射事件が起きる。銃を規制しなければならないのだ」という意見もアメリカにもあって、誰も彼もが銃を求めているわけではない。

しかし、アメリカ人の400万人が全米ライフル協会(NRA)の会員であり、彼らが非常に強い政治力を持つのと比べると、銃規制の声はあまり積極的ではない。

これを理解するためには、「暴力」をどのようにとらえるのかという「世界観」が分かっていなければならない。

「暴力に対する世界観」が分かってくると、なぜアメリカ人がこれほどまで銃を切望するのかが分かってくる。そして、銃の所持には大反対の日本人との違いも浮き彫りになっていく。


暴力が身近にあるのかないのかで違いが生まれる


あなたは、自分が生きている世界は、どのような世界だと感じているだろうか。

「暴力」を主軸にして考えると、暴力が「ない」のが普通の状態と、暴力が「ある」のが普通の状態の、どちらがあなたの環境に合致しているだろうか。

人間社会は平和なときもあれば、戦争状態のときもあるし、平和な場所もあれば紛争の場所もある。

暴力が身近にあるのかないのかは、生まれた国や場所や時代によって違っている。その人の哲学や考え方は、その環境に影響される。

日本人の多くは「暴力がない状態が普通の状態」だと無意識に考えるのではないだろうか。しかし、アメリカ人の多くは、「暴力がある状態が普通の状態」だと無意識に考える。

この世界観は、人間の行動や考え方に大きな影響を及ぼす。たとえば、日本の治安がめちゃくちゃになって、暴力が蔓延する社会になったと思って欲しい。

あなたは歩いていても、いつ撃たれるか分からないし、いつ襲われるかも分からない。政府はこの状態に無為無策で、暴力は蔓延するばかりだ。

そんな状態が普通になってしまったら、いくらあなたが平和主義であっても、「自分には防衛のために銃が必要だ」と思うようになるはずだ。

銃が蔓延したらさらに治安が悪くなるかもしれない。しかし、それよりも、銃が蔓延する社会の中で自分だけが銃を持っていないというのは無防備だと考えるようになる。狼の群れの中の羊のように感じるのだ。

アメリカ人は、そういうのが「普通の社会」だと思っており、それが世界観になっている。どこかの誰かが気が狂っていきなり銃を乱射してくるかもしれない、というのは日本では単なる妄想だが、アメリカでは現実だ。



アメリカ大陸は、最初から暴力が日常だった


アメリカ人は、「アメリカで暮らすというのは、まさにジャングルの中で暮らすのと同じだ」と思っているフシがある。

メイフラワー号で最初にアメリカ人がやってきたとき、アメリカ大陸はネイティブ・アメリカンの大陸だった。そこにやってきたアメリカ人は、まわりは敵だらけだと思ったに違いない。

西部を開拓する中で白人たちは現地人と共存するのではなく、敵対して侵略する道を選んだから、よけいに「まわりは敵だらけ」になった。

まして政府などあって無きが如しであり、現地人が駆逐されたあとは、ならず者の白人が街を乗っ取ってアウトローの世界になって、開拓者同士が戦い合った。

アメリカ大陸は最初から血にまみれていた。暴力が日常だったのである。

だから、現在のアメリカ人は、他の国よりも非常に高い純度で「暴力の世界を生き抜いてきた人たち」の末裔だったと言い換えることもできる。

彼らの世界観は「暴力ありき」なのである。「自分の身は自分で守れ」が鉄則として染みついており、誰も自分を助けてくれないのであれば、自分が銃を取るしかない。

政府が助けてくれるなど頭から考えていないから、いざとなったら撃ち合う覚悟を持っている。普通のアメリカ人が、そうなのである。

だから、ギャロップ社の調査でも、銃器の販売は「緩和すべき」「あるいは現状維持」が55%もいるという結果になっている。半数以上のアメリカ人は、銃を求めている。

銃社会が治安を極度に悪化させているのは分かっていても、アメリカ人は「それでも銃があるほうがいい」と思っている。



銃が蔓延したアメリカ社会では銃規制は不可能?


自衛のためであるとは言えども、銃保持が拡大すれば、それ自身が治安を悪化させる。いずれ、それは自分自身の危険を増大させるというのは誰でも理解できる。

では、銃保持は間違っている考え方なのだろうか。

銃保持に賛成するNRAの会員の中にはこのような言い方をする人もいる。「銃保持と銃規制については、条件付きで考えなければならない」

「条件付き」というのは、いったいどういうことかというと、つまりこのようなことだ。

・すでに銃が蔓延している。
・普段でも治安が悪いか、悪化する恐れがある。
・戦争・内乱・紛争・騒乱状態である。

「そのような社会であれば、自衛のためにも銃の保持を認めなければならない。逆に、そうでない平和な社会なのであれば、銃は規制されなければならない」

すると、銃乱射事件が起きるようなアメリカ社会では「すでに銃が蔓延している社会」なのだから、「自衛のために銃を保持するのは当然」という理屈になる。

銃が蔓延する社会で銃規制すると、悪人だけが不正手段で銃を手に入れて、普通の人が銃が持てない。そうすると、防衛できずに犬死にするばかりである。

だから、銃規制はとんでもない、ということになる。

逆に日本では、銃は所持を認められていないし、戦争でも内乱状態でもない。治安も他の国に比べて良い。だから、逆に銃は規制しなければならないということになる。

どんな凶悪事件が起きても銃を求めるアメリカ人。
どんな安全な社会になっても凶器を規制する日本人。

暴力がそこに蔓延しているのかしていないのかで、考え方は180度違うものとなってしまうのだ。




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