私たちは寝ているときには自分が生きているという意識はない。あるいは、気絶しているときは意識がない。意識がないというのは、自分の存在が確かめられないということだ。

意識はどこから来ているのか。私たちの意識は脳が作り出している。分かりやすく言えば、脳が死ねば意識も死ぬ。つまり、自分が自分であることを認識するためには脳が生きていなければならない。

死というのは肉体が活動を停止するということだ。肉体が活動を停止したら、当然のことながら脳も死ぬ。脳が死ねば意識というものは完全に消滅する。

意識が脳が作り出しているのであれば、脳が死ねば、意識を保ったまま他の世界に行くということは、事実上不可能であるということだ。

つまり、死ねば終わりである。「死後の世界」というものは、人間の意識が作り出した妄想で、そんなものはない。

しかし、それが分かっていても、死後の世界があるというのを信じたいのが人間である。


「死んだら何もなくなる」というのを認めたくない


人は自分の親しい人が死んでしまったら、その死を認めたくないので、「死んだら何もなくなる」というのを認めたくない人が多い。

親しい人が動かなくなる。肉体が腐っていく。しかし、それを認めたくない。その人が完全にこの世から消えてしまうなど、理不尽であるとも思う。

だから、肉体は死んでも、心が透明人間のようになって空間に漂っているのではないかと妄想する人も出てくる。人々はそれを「魂」と呼んだ。

人は風が吹いても、木の葉が揺れても、そこに「何かいる」と感じることがある。目に見えない魂がそこにいるのだと錯覚することもできるのである。

多くの宗教は、人々の感じるそういった錯覚や、死に対する恐怖や悲しみを察して、やがて誰も証明できない物語を作り上げるようになった。それが「死後の世界」である。

そしてあるとき、宗教家は「死後の世界」というのが、自分たちには役に立つ概念であることに気付く。

「死後の世界」にも天国と地獄があるということにすれば、「悪いことをした人は地獄に落ちる」と人々を脅して道徳を守らせることが可能になる。

さらに、「この宗教を信じていれば天国に行くことができる」と信じ込ませて、信者を奴隷のようにコントロールすることができる。いろいろ、都合がいいのである。脅しにもなるし、褒美にもなる。

だから、多くの宗教では「死後の世界」があるという与太話が、常識のように説かれるようになっていったのである。



トラジャ族は、遠いところに旅に出たと考える


インドネシアと言えば、東南アジアでも最大のイスラム教徒を抱える国だが、そんなインドネシアにも土着の宗教は根強く生きている。

世界中どこでも、キリスト教徒やイスラム教徒のような巨大宗教が外部からやってきても、現地では原始文化の元になったアニミズムが色濃く残っているものだ。

南スラウェシ州には、トラジャ族という民族が住んでいる。このトラジャ族もまた先祖代々のトラジャ族特有の宗教観がいまだに信じられて、独特の宗教観が残っている。

彼らは、人が死んでも死んだと認めない。死んだ人は、肉体から解き放たれて、「遠いところに旅に出た」と考える。旅に出たのだから、疲れると戻って来る日もあるだろう。

だから、彼らは3年ごとに先祖のミイラ化した遺体を掘り起こして棺から取り出し、きれいな衣服に取り替え、家族みんなで遺体を囲み、そして遠い昔に「旅」に出た先祖が戻ってきてくれたことを祝う。

この儀式は「マネネ」と呼ばれている。

トラジャ族からしてみれば、先祖は死んでいないことになっているのである。死の概念がまったく違う。数百年前に死んだ先祖も、彼らの心の中では存命しており、3年に一度の再会は、その証拠でもある。

遺体は、通常は腐って白骨化していくのだが、「マネネ」で使う遺体は、崖の上に棺を置いてミイラ化させる。そのミイラ化した遺体を「マネネ」に使う。

「死んでも死なない」ということを証明するかのように、彼らはミイラを作り、そして、「マネネ」の儀式でそれを祝う。トラジャ族は高地に住む民族であり、だから、そのようなことができたのだろう。

そういった世界もある。



「死んでも死なない」ということを証明するかのように、彼らはミイラを作り、そして、「マネネ」の儀式でそれを祝う。そういった世界もある。

自分が生きていたという証(あかし)がすべて消散


こういった異様な風習を見ていると、人間はつくづく「死」を認めたくないという気持ちや、「生」に対する執着心があることに気付く。

人間の文明は、意識を高度に発展させた文明である。人々は思考し、人々は感動する。そして、現代文明は先人たちの思いや感情を記録するための様々な方策を考え出してきた。

印刷物も、音楽も、カメラも、映画も、そしてインターネットも、実はその時々の人たちの「意識」を記録するためのものである。

意識は、それを生み出した人間が死んでも、何らかの方法で記録されて残る。記録されたものから、時代に広く膾炙したものが生き残り、そして次世代に受け継がれていく。

そうやって、ある特定個人の「意識」が受け継がれていくと、あたかも「意識」そのものが生き残っているような錯覚すら覚えることもある。

しかし、肉体には寿命があって、どんなに優れた人であっても、その寿命から逃れることはできない。その人はやがて生きることができなくなり、心臓の鼓動が止まり、脳が死ぬ。

脳が死ねば、自分が持っていた想い出、感情、愛、大切な気持ちも、一緒に消えていくことになる。

自分が生きていた想い出はまわりにいる人たちの心に残るが、その人たちも死んでしまえば、もう誰も自分のことを覚えてくれる人はいない。

自分が生きていたという証(あかし)がすべて消散する。それはあまりにも寂しく、空しく、やるせないこともである。

だから、私たちは自分が永遠に忘れられないために、そして生きていくために「死後の世界」を必要としているのかもしれない。私たちは、それにすがっているのかもしれない。



私たちは自分が永遠に忘れられないために、そして生きていくために「死後の世界」を必要としているのかもしれない。

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