人は、誰もが集団に属して生きている。ほとんどの人は会社という組織に属しているが、それ以外にも、宗教から趣味から相互扶助からボランティア団体まで、活動的な人ほど多くの組織に属しているはずだ。

一方、社会とまったく接点がないように見える孤高の人であっても、最終的には「国」という組織に属している。

そう考えると、人間は組織から逃れて生きることができない生物であるとも言える。

ほとんどの組織には上下関係があり、責任者がおり、指導者がいる。階級がないとしても、中心人物となる人物は必ずいる。その人物が、組織の方向性を決めたり、組織内のルールや秩序を守らせたりするのである。

組織をまとめる方法はいくつもあって、百人百様でもある。それぞれの指導者が、自分に合った方法を採用して組織運営に当たっている。

しかし、世の中は常識人だけで構成されているわけではない。当然、中には異様な手法を取る指導者も出てくる。


崇拝を強制するような指導者が世の中に存在する


異様な組織運営の最たるものは、「自身の神格化」と「崇拝の強制」である。ドイツのヒトラーも、中国の毛沢東も、カンボジアのポル・ポトも、強烈な独裁で国を支配し、崇拝強制を国民に強制した。

こういった独裁体制は現在は通用しなくなりつつあるが、それでも絶滅したわけではない。たとえば、北朝鮮はまだそのような体制が続いている。

国家だけではなく、組織という名前の付く集団の中には、規模が大きくても小さくても、無理やり人を洗脳し、崇拝させるようなやり方をする指導者が星の数ほどいる。

これらの「強制崇拝」をする指導者は、あの手この手で人間を押さえつけて、その人の人生を奪う。

ひとりのトップがふんぞり返り、上層部が個人崇拝を強制し、関わっている全員が自分の人生を捨ててトップのために人生のすべてを捧げる。そんな狂ったような世界がある。

個人崇拝のある組織は、それがどんな組織であれ、絶対に近づいてはならないし、関わってはならない。なぜなら、他の誰でもなく、自分自身が奴隷にされるからだ。

誰かを盲目的崇拝するというのは、まさにその人の奴隷になるということだ。自分が誰かの歯車や、都合の良い人間になる。そんな馬鹿げた人生があるだろうか。

優れた人間を見ると、誰もが自然な尊敬の念を抱く。誰でも人生の中で尊敬する人をひとりやふたりは持つ。

しかし、神のような絶対的存在として「崇拝させられる」というのは、自然な尊敬とはまた別種のものだ。それは、異様なことなのだ。


誰かを盲目的崇拝するというのは、まさにその人の奴隷になるということだ。自分が誰かの歯車や、都合の良い人間になる。そんな馬鹿げた人生があるだろうか。

崇拝を強制する組織は、その人の人生を奪う


自分の人生を生きるというのは、迷い、ぶつかりながらも、自分の頭で考えて、自分の意思で行動することである。他人を崇拝して、奴隷になることではない。

誰かを崇拝せよ、と言われれば全身全力で反撥し、抵抗し、戦わなければ生きている意味がなくなる。抵抗しないと、身も、心も、金も、すべて奪われる。

崇拝するということ自体が危険なのに、それを強制させるのだから異様であると感じなければならないのだ。

崇拝を強制する組織は、そこに属する人の人生を奪う。それは人を「奴隷化」する。地獄だと言ってもいい。信じないものを強制されるほど、人間の尊厳を破壊するものはない。

たとえば、独裁国家は国民全員に指導者の崇拝を強制する。

独裁者やその一族を崇拝することは、どんな任務よりもまして優先される。国民は、あらゆる仕事、あらゆる法律、そして親兄弟よりも優先しなければならない。

その個人崇拝は全執行部によって徹底され、裏切り者は家族もろとも処刑される。市民・軍隊はすべてひとりの人間の指示によって行動し、自ら考えてはならない。

忠実に命令を執行しなければならない。そして、命令のためには生命を投げ出さないとならない。独裁者が「指導」したら、それがどんなに理不尽であっても従う必要がある。

しかし、考えなければならないことがある。

人間社会で、このような他人を強制崇拝や隷属化させる組織が存続できるというのは、逆に言えば、他人に隷属してもいいと考える従順な人がいるということでもある。


独裁者が「指導」したら、それがどんなに理不尽であっても従う必要がある。命令のためには生命を投げ出さないとならない。

なぜ「他人に人生を委ねてもいい」と思うのか?


誰も彼もが反逆者の精神があったら、強大な独裁者は生まれることはない。

独裁者が誕生するというのは、「他人に人生を委ねてもいい」という人も、大量にいるということだ。なぜ、そのような人たちが生まれるのだろうか。

実は、自分の人生を生きるというのは、とても大変で面倒なことだからだ。生き方を自分で決めて、生活を自分の力で成り立たせるというのは並大抵ではない努力が必要だ。

誰かに服従して、その誰かが食べさせてくれるのであれば、自分でどうするか考えるよりも「ラクでいい」と考える人が確かにいる。

指導者が独裁的であればあるほど、すべてを委ねて何も考えずに生きていける。ロボットや歯車になるというのは、責任はすべて独裁者に取ってもらえるということでもある。

もちろん、自分のやりたいこと、好きなことはできないが、責任は取らなくてもいいし、どう生きるかという「面倒なこと」を考える必要もない。

だから、我が指導者が「自身の神格化」と「崇拝の強制」を押しつけてきても、面従腹背でも何でもそれに従って、長いものに巻かれていくのだ。

ところが、人間の心は単純にできていないから、崇拝がこれでもか、これでもかと続くと、いずれは反撥心も不満も怒りも湧きあがっていく。

しかし、そのときに反撥しても、もう遅い。

崇拝することによって、人生のすべてを掌握されてしまっており、もうそこから逃れられなくなっているからだ。

崇拝に染まりきっていると、ある時点で、そこからもう抜け出せなくなってしまう。


指導者が独裁的であればあるほど、すべてを委ねて何も考えずに生きていける。ロボットや歯車になるというのは、責任はすべて独裁者に取ってもらえるということでもある。

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