「夫役」(ぶやく)という奴隷制度

 

長い前フリ(しかも超ローカルネタ)で恐縮ですが・・・・

W杯の舞台にもなった埼玉スタジアムを訪れ、あまりの交通の便の悪さに辟易した方も少なくないかもしれません。市の中心部に用地が確保できるわけがないため、かなり東のはずれの辺境(?)に建設することになったのは当然の成り行きでしょう。

ところで、最寄駅(あんまり近くもないが)である埼玉高速鉄道「浦和美園駅」からではなくJR京浜東北線経由で埼玉スタジアムに訪れたことのある方は、直通バスの車窓から広大?な田園風景を目にして「やっぱウラワは田舎じゃ」と思われたかもしれません(^^;

その昔、(旧)浦和市東部から川口市北部の水田地帯には「見沼」という大きな農業用水用の溜池がありましたが、これは日照りになれば簡単に干上がり、雨が続けば近隣の水田を飲み込む厄介な存在でした。また江戸中期には米需要の増大により、江戸近郊の農村は米の増産が求められていました。

そこで徳川吉宗の命を受けた「井沢弥惣兵衛」という旗本は、「見沼」を干拓し新田を開発しました(これが「見沼田んぼ」という、旧大宮〜浦和地区から川口市へまたがる水田地帯になりました)。さらに「見沼代用水」という、利根川を水源として埼玉県を南北に縦断する総延長約60kmの用水路を建設しました。

しかし、驚くべきことにこの大事業はなんと約半年間でほぼ出来上がってしまったそうです!これは近隣の農民を無給の労働によって総動員した成果だと思われます・・・・。

 

明治以前の日本には、夫役(ぶやく。負役・賦役とも)という「労働課役」がありました(もちろん日本だけではないが)。労働の対価として賃金が支払われるのではなく、納税の一環として労働力を提供させられるシステムがあったのです。たとえば白土三平の超大作「カムイ伝」では、農民がこの強制労働に借り出されるシーンが度々登場します(ちなみに、農民を厳しく監視する役が「非人」という被差別階級でした。徳川幕府は被支配層を分断する巧妙なシステムを構築していたのです)。江戸時代の民衆は「年貢」だけでなく、この奴隷的労働にも苦しめられていたのです。

明治維新によってこの制度は消え去りましたが、それから40数年後、ユーラシア大陸の一部に植民地を獲得した日本は、初期段階に於いてその地の民衆に対し、この「夫役」という実に東洋的な、つーか封建社会的なシステムの適用を復活させたのです。

 

もちろん、

江戸時代の「夫役」による「見沼代用水」の建設などの公共事業が、農業を発展させ、ひいては農民の生活向上にもつながる(はずの)ものであったように、

日本が朝鮮半島にて行なった「夫役」の行使による公共事業も、朝鮮を近代化し、且つ又朝鮮人の生活向上にも役立つ(はずの)ものであったと思います。多分。

しかし「夫役」に動員された民衆の苦痛は耐えがたいものだったのです。

 

・・・・・

反骨の士である“耕堂”中野正剛は、著作「我が観たる満鮮」(大正四年五月二十八日 政教社)にて、

「夫役」の実態をレポートしています。

 

・・・・試みに一歩地方へ踏出せば憲兵に対する怨嗟の声は、至る所の巷に充てり。余は先日湖南線視察の途次、其第一日を大田に暮らしたるが、忽ち同地に於て憲兵の弊の一例を発見したり。大田の市街を西に去りて公州に向ふの一道路あり、当時よりの商習慣によりて可なりの往来あり、夙に坦々たる大道となれり。然るに忠清南道の警務部長は大田橋より見渡して、之と並行する他の直線道路を設けたり。其理由とする所は、当来の道路が屈曲蛇行するは、前方を直視するに不便なりと云ふ一事に帰せり。

(中略)

而して此道路を開くには、人民の土地を没収し、人民に負役を課せざる可ならず、其困難は警務部長が机上に鉛筆を弄して、直線道路を書くの比に非ざるなり。然れども斯の如き人民の怨嗟は毫も上に達せられず、且又人民の為に苦痛を訴えんとする新聞紙もなし。是に於てか警務部長は軍隊的に其成績を報告して曰く、大田より公州に向ひて直線道路を開く、一路坦々軍隊の通過に対しては、別して便利を興ふと。総督は遂に此れ以上の報告を得る能はず。

大田にて憲兵専制の実例を目撃せし余は、世人の憲兵に対する怨嗟の、決して偶然ならざるを感じたり。然れども更に南下して江景に到り、諸種の事情を見聞するに及びて、余が曩に(さきに)大田にて目撃せしが如き事例は、此地方一円に行はるる尋常茶飯事なるを知り、喫驚禁ずる能はざるに至れり。

(中略)

且又同地方を巡覧して憲兵の施設を見れば人民が憲兵に対して積怨を抱くの、決して無理ならざるを首肯し得べきものあり。曩に(さきに)大田に於て示せし例の如く、憲兵が机上にて計画せし道路を目し俗に鉛筆道路と言ふ、鉛筆道路は鮮地内随所に之を発見し得べし。憲兵の之が開設を命ずるや、頗る厳格にして、先ず任意に道路の経由すべき地域を決定し、人民に命じて其土地を寄付せしむ、而して後愈々工事に取懸かるや、再び命令を発して負役を募るなり。 百姓は自己の田地を没収せられ、剰へ自己の労力を提供して、自己の田地を潰すを怨めども、如何せん官憲の命ならば、之を拒むに由なきなり。中に最も可憐なるは、一日一食をすら難しとする鮮人が、弁当を携帯して、終日無賃にて駆使せらるるの一事なり。彼等の或者は三里、五里、十里の遠方より召集せられたる有り、固より極貧の民ならば労役に出でたりとて宿屋に泊る資力なく、終日爪を囓りて労役したる後、夜は果敢なき露宿の夢を結ばざる可からざるなり。嗚呼斯くの如き細民の苦痛何の機関によりてか、之を仁者に訴へんや(P-52〜55)

 

・・・・このように、運悪く道路建設予定地に住んでいたものはその土地を没収され、その上道路建設のための無償強制労働に動員されていたのです。こうした民衆への圧迫は1919年の3.1独立運動の呼び水の一つとなりました。この点について、運動を弾圧していた「朝鮮憲兵隊司令部」自身が指摘していますので少々引用します。

 

 大正八年 朝鮮騒擾事件状況

大正八年六月憲兵隊長警務部長会議席上報告、朝鮮憲兵隊司令部

(昭和44年9月20日発行復刻版・極東研究所出版会)

 

★忠清南道   九.鮮人間に唱へらるる不平及希望(P-394)

1.日韓併合を今尚不平とし韓国の復讐を希望するもの

2.賦役の多きを非難するもの

 

★全羅北道   一.不平(P-396

17.夫役賦課に対し其の負担大なること、出役に際し甚しく酷遇すること、殊に近年労銀高騰の際の夫役は苦痛とする所なりと言ふ者多し

 

★慶尚北道 (P-404)

五.道路修繕に要する賦役は古来の慣習なるも往時は居住地の附近に於て少数日の賦役に過ぎさりしに、新政に於ては遠隔の地に長時日に亘り賦役を課せらるる如きは苦痛に堪えず、往々農繁期を顧慮せられざるは殊に然りとす

六.道路改修に際し無断にて田を道路敷に使用したる後寄付を強制せらるるは不条理なり、殊に小作農の田を無償収用せられ貧民の家屋を毀壊せらるるが如きは、人民を窮境に陥らしむること著大なり(倭館張吉相の如きは慶尚南北道に於て道路に収用せられたる田三百八十斗落にして悉く事後承諾を強ひられたりと云ふ)。又寄附したる田に対し数年に亘り課税せらるることあり

 

★慶尚南道   一.不平事項 (P-412)

10.國力に副はざる急激の施設を為すため夫役の使用甚だしく現下朝鮮の状況は貧富の懸隔甚だしく、夫役に出るものは多く貧困者にして其の日の生活費を需むるに急なるものにして夫役代納金を納むる余力なきものなることは勿論なり、而して此の夫役は年中を通すれば数十日の日数となり細民は益々生活難に追はるるに至る

 

★咸鏡南道  二.希望 (P-428)

6.近来賦役を課せらるること多し、今少しく其の度数を減せられたし

 

・・・このように「夫役」とは単に民衆に苦痛を与えるだけではなく、その生活基盤を根底から破壊するものだったのです。また没収した田畑からも「数年に亘り課税」していた事例もあったそうですが全く鬼畜にも劣る所業と言えるでしょう。

 

日本にとって明治維新とは封建制度との決別であり、近代化の幕開け・・・だったはずです。しかし欧米を模倣してユーラシア大陸の一部に待望の植民地を得た途端、「夫役」というあきれるほど前近代的な奴隷制度を導入してしまった面に着眼すれば・・・封建の世から全く何の進歩も無かったかのようです。

しかし植民地獲得競争に遅れて参入したこの国は、「夫役」を欠かすことは出来なかったのでしょう。「國力に副はざる急激の施設を為」そうと思い立ったため、「夫役」なくして朝鮮を植民地経営することは不可能だったのでしょう。全く日本には植民地経営など身の程をわきまえぬ行為だったのです。

 

 

(日本茶歴史ボード19296より。2004/09/12)

(「我が観たる満鮮」及び「朝鮮騒擾事件状況」は東京都立図書館にて閲覧&コピーした)

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