公的文書に見る朝鮮人強制連行の実態

 

戦時中に朝鮮人を労働者として移入した国策について、

「徴用」はともかく「自由募集」「官斡旋」による移入は本人の意思によるものだった!

という声も世間に少なからずあるが、本当はどうだったのだろうか?

 

三菱鉱業直島精錬所(香川県)の労務係だった石堂忠右衛門の「第一次朝鮮人労務者募集誌」にその実態を垣間見ることができる。

 

1939年9月、「自由募集」が開始され、石堂らは1940年3月、朝鮮の慶尚南道宣寧群を訪れ、警察署の太田部長に挨拶し、太田部長随行の元で群庁に出向き、割り当てする「面」(村のようなもの)・各面に於ける割り当て人数の決定を依頼し、募集を開始した。

しかし帰国を4日後に控えた22日になっても許可された80名には届かないため、石堂は太田部長に協力を要請し、太田部長は各面に電話で圧力をかけ、10名程度の員数を約束させた。

同日夕刻、石堂は警察署の原署長・大田部長らや、郡の要職者を接待し、「大いに胸襟を開いた」そうである。

慶尚南道は前年の不作が酷かった所なので多くの応募者が予想されたが、警察の協力無しでは予定人数の確保はできなかった。

石堂は「警察関係を離れ比較的権威なき面書記等の取扱いなりし為之亦募集事務進捗せざりき」と反省を書き留めている。つまり今後の募集に当たっては現地警察の全面的な協力が必要であると判断した。翌年2月の募集ではこの教訓が生かされ、警察の協力によって多数の応募者を得たようである。

 

1942年、「官斡旋」が開始され、石堂らは1943年慶尚南道厩山郡に出向き、旧知の白川警察部長を訪問し協力を要請した。白川部長は「大いに協力を言明」し、非協力的な面があればそこの責任者を糾弾し、また「高等係」を各面に派遣して供出を督励するなど、多大なる協力を行った。

石堂は日記に「本日も、凡西、大剣、青良方面に高等係を派し、督励方の由にて特別支援の熱意を示されたり」

と感謝の念を述べている。募集に当たり、駐在所の署長と面長が対象者の家を訪問、または警官の命令書を対象者に送付するなど、事実上の徴用に他ならなかった。

また、

「今次募集は面関係賄だけでも相当かさむものと予想される」「今夕警察及び郡接待会開催、十時頃まで大いに歓待す」「昨夜もあり、今日も宴会、十二時過ぎまで大賑わいなり」

と、接待に大忙しで、予想された接待経費を大きく超過した。

このような官民の癒着が「自由募集」「官斡旋」による強制連行を可能としたのである。

(以上、「百萬人の身世打鈴」より)

 

次のような強制連行の事実を示す企業の内部資料もある。

住友鉱業の「半島人移入雇用に関する件」(1939年9月22日)

 

1.募集事務―――総督府に於いては左記事由に基づき内地移住につき積極的援助をなす

 イ.労務者動員計画遂行に協力すること

 ロ.本年度南鮮一体の旱魃による救済のため

従って募集は募集取締規則に基づく各社の募集従事者による募集と言うことになつて居るが実務は前記事由により朝鮮官権によって各道各郡各面に於いて強制供出する手筈になつて居る、即ち警察に於て割当数を必ず集める之を各社の募集従事者が詮衡(選考のこと)することになって居る(朴慶植編「戦時強制連行・労務管理政策」@、P298〜299)

 

 

また当時の内務省の公的文書にも、強制連行の事実を示す記録がある。

・・・・「戦時期植民地統治資料F」より抜粋して引用。

 

復命書  嘱託  小暮泰用

依命小職最近の朝鮮民情並びに邑面行政の状況調査の為朝鮮へ出張したる処調査状況別紙添付の通りに有之右及復命候也

昭和十九年七月三十一日   管理局長 竹内偲治殿

 

要するに「小暮泰用」という人の出張報告書だね。国民総動員のしわ寄せを激しく受けた戦時下の朝鮮人の悲惨な生活について赤裸々にレポートしている。

 

二、都市及び農村に於ける食糧事情

朝鮮に於ける都市及び農村の食糧事情は深刻のものあり、其の実例として朝鮮に旅行しる時汽車の窓より望むるも沿線の林野に於ける松木の皮を剥ぎたるもの相当見受くることがあるが沿線にあらざる深山には尚多く近き将来に於て朝鮮の松木は或は枯死するのではないかと憂慮する人達も相当多い様である、併合以来故寺内総督を始め歴代総督は朝鮮の山林行政に相当力瘤を入れたる結果最近に至りては朝鮮の林相もようやく良好にになつて来たが昨今の食糧事情に依る此の現象は実に憂慮に堪えざるものあり」

 

日本支配下の朝鮮人は、木の皮を剥いで喰うほどの飢餓に晒されていたということである。

 

農村人及地方有志の忌憚なき意見を調査して見ると、従来大体に於て朝鮮は食糧の自給自足不能に非ざるに拘らず斯る現象を呈するは行政当局の其の措置宜しきを得ざるに基因する所多しと非難する地方もある、即ち配給、供出機構の不完全は勿論のこと、先づ其の衝に当たるものの情実又は実情を知らざる盲目的行政の結果なりと彼等は非難して居る」

 

民衆を苦しめる悪政への批判が溢れていたということだろう。

 

私が今回実地に於て調査して見た所から考へて端的に云ふと、朝鮮の食糧事情は都市に於ては配給の面が、農村に於ては供出の面が問題の全部を浮彫にしていると言つても過言ではないと思ふ。

勿論当局の食糧行政の行方としては供出量は生産高に依つて決定されることにはなつて居る、即ち生産高より農家人口の一人当たり一日何がしの消費引当量を農家保有量として剰余を供出量と定めこれを農家に供出を命ずることにしている

然るに今日朝鮮に於ける農業生産統計たるや大体にに於てそれは前年農村振興時代の柱算なる統計数字を基準として居るものにして衆目の見る所それは常に過大見積であると云ふ事に一致して居る、而も斯る過大なる生産統計の下に於て尚個々農家の収穫高を決定する上に於ても相当の努力が払はれて居るに拘らず多くは無意識的に希には意識的に凹凸を生ずる場合が相当に多いことも実情である

斯る基礎に於て個々の農家の具体的供出量が定められたる、そうして此の供出令は文字通り至上命令とされ供出の完遂は勧奨よりも強圧強権を加へて強ひられる場合が極めて多い状態である(P-26,27)

 

愚かしい戦争を始めて追い詰められつつあった日本には、朝鮮農民の生活実態など考慮する精神的余裕もなく、またそれを顧みる温情も無かったのであろう。

 

而も朝鮮の農民は純朴従順であつて、そこには涙ぐましい数々の実話実情も多い、或は明日の糧まで供出せる者あり或は彼等の何よりも大切なる農牛や家屋や家財道具等を売払つて闇買をしてまでも自己の供出割当数量を完遂る者も居る、従つて部落に於て勢力のある者、即ち所謂有力者其の他富豪権力者を除いては出来以外の時に於ける農村の食糧事情は殆ど窮迫の状態にある

従つて農業者にして朝飯夕粥は良い方で多くは糊口に苦しみ事自己の生産物は全部供出に献げ自分は大豆、小豆の葉や草根木皮にて辛じて延命し顔は腫れ上り正に生不如死の惨状を呈し空腹の為働く事も出来ず寝て居る者も少なくない状態である

斯の如き朝鮮農村の食糧事情よりして農民は生産しても自らは喰へない故に農村には増産意欲どころか厭農思想が相当濃厚であり生産物を隠匿せんとする傾向が強くなつて来た、そこで供出督励者は農家や農家の周囲を捜索し炊事時に不意打ち的に踏み込み炊事釜や食物を検査し果ては面、駐在所に呼出して迅問する等、全く朝鮮でなくては見ることの出来ない奇異なる現象を彼所此所に露出して居る、宜しく今後は農民に食糧を保護し産業戦士として処遇するのが急務であり之が結局増産の最も有力な途である様に思はれる」(P-28〜30)

 

侵略戦争を継続するためには、植民地の貧しい農民から食糧を強奪するしかなかったのである。

そして、以下に朝鮮人強制連行を巡る実情が述べられている。

 

六.内地移住労務者送出家庭の実情

従来朝鮮に於ける労務資源は一般に豊富低廉と云われて来たが支那事変が始まつて以来朝鮮の大陸前進兵站基地としての重要性が非常に高まり各種の重要産業が急激に勃興し朝鮮自体に封する労務事情も急激に変り従って内地向の労務供出の需要調整に相当困難を生じて来たのである、されに朝鮮労務者の内地移住は単に労力問題に止らず内鮮一体と云う見地からして大きな政治問題とも見られるのである

然し戦争に勝つ為には斯くの如き多少の困難な事情にあつても国家の至上命令に依つて無理にでも内地へ送り出さなければならない今日である、然れば無理を押して内地へ送出された朝鮮人労務者の残留家庭の実情は果たして如何であらうか、一言を以て之を云うならば実に惨憺目に余るものがあつと云つても過言ではない

蓋し朝鮮人労務者の内地送出の実情に当つての人質的掠奪的拉致等が朝鮮民情に及ぼす悪影響もさること乍ら送出即ち彼等の家計収入の停止を意味する場合が極めて多い様である、其の詳細なる統計は明らかではないが最近の一例を挙げて其の間の実情を考察するに次の様である

 

大邸府斡旋に係る山口県下沖宇部炭鉱労務者九百六十七人に就いて調査して見ると一人平均平均月七十六円二十六銭の内稼働先の諸支出月平均六十二円五十八銭を控除し残額十三円六十八銭が毎月一人当たりの純収入にして謂はば之が家族の生活費用に充てらるるべきものである

斯の如く一人当たりの月収入は極めて僅少にして何人も現下の如き物価高の時に之にて残留家族が生活出来るとは考へられない事実であり、更に次のようなことに依つて一層激化されるのである

(イ)、右の純収入の中から若干労務者自身の私的支出があること

(ロ)、内地に於ける稼先地元の貯蓄目標達成と逃亡防止策としての貯金の半強制的実施

及び払出の事実上の禁止等があつて到底右金額の送金は不可能であること

(ハ)、平均額が右の通りであつて個別的には多寡の凹凸があり中には病気等の為赤字収入の者もあること、而も収入の多い者と雖も其れは問題にならない程の極めて僅少な送金額であること

以上の如くにして彼等としては此の労務送出は家計収入の停止となるのであり況や作業中不具廃疾秒となりて帰還せる場合に於ては其の家庭にとつては更に一家の破滅ともなるのである(P-51〜53)

 

一家の大黒柱を連行された家庭は、仕送りを期待することも出来ず、また「一家の破滅」さえもたらすものだったということである。こうして日本は重要な後方兵站地であるはずの従来からの植民地にて、民衆の生活を破壊するような愚挙を重ね、自壊していったのである。

 

七.朝鮮内に於ける労務規則の状況並びに学校報国隊の活動状況

従来朝鮮内に於いては労務給源が比較的豊富であつた為に支那事変勃発後も当初は何等総合的計画なく労務動員は必要に応じて其の都度行はれた、処が其の後動員の度数と員数が各種階級を通じて激増されるに従って略大東亜戦争勃発頃より本格的労務規則が行われる様になつたのである

而して今日に於いては既に労務動員は最早略頭打ちの状態に近づき種々なる問題を露出しつつあり動員の成績は概して予期の成果を納め得ない状態にある、今其の重なる例を挙ぐれば次の様である

 

イ.朝鮮に於ける労務動員の方式

凡そ徴用、官斡旋、勤務報国隊、出動隊の如き四つの方式がある

徴用は今日迄の所極めて特別なる場合は別問題として現員徴用(之も最近の事例に属す)以外は行われなかつた、然し乍ら今後は徴用の方法を大いに強化活用する必要に迫られ且つ其れが予期される事態に至ったのである

官斡旋は従来報国隊と共に最も多く採用された方式であつて朝鮮内に於ける労務動員は大体此の方法に依つて為されたのである

又出動隊は多く地元に於ける土木工事例へば増米用の溜池工事等への参加に様な場合に採られつつある方式である、然し乍ら動員を受くる民衆にとつては徴用と官斡旋時には出動隊も報国隊も全く同様に解されて居る状況である(P-59〜61)

(中略)

ハ.動員の実情

徴用は別として其の他の如何なる方式に依るも出動は全く拉致同様な状態である

其れはもし事前に於て之を知らせば皆逃亡するからである、そこで夜襲、誘出、其の他各種な方策を講じて人質的掠奪拉致の事例が多くなるのである、何故事前に知らせれば彼等は逃亡するか、要するにそこには彼等を精神的に惹付ける何物もなかつたことから生ずるものと思はれる、内鮮を通じて労務管理の拙悪極まりなることは往々にして彼等の身心を破壊することのみならず残留家族の生活困難乃至破壊が往々であつたからである

殊に西北朝鮮地方の労務管理は全く御話にならない程惨酷である、故に彼等は寧ろ軍関係の事業に徴用されるを希望する程である

斯くて朝鮮内の労務規制は全く予期の成績を挙げていない、如何にして円満に出動させるか、如何にして逃亡を防止するかが朝鮮内に於ける労務規制の焦点となつてきている現状である(P-63〜64)

 

 

以上、朝鮮人強制連行とは、朝鮮民主主義人民共和国が行なった日本人拉致と、その悪質さは同等であった(規模については比較対照にすらならない)ことがお分かり頂けたと思う。

 

補足:上記のように、自らの食糧も事欠いているのに強制的な供出が求められるという悲惨な状況に於いてさえ、「徴用、官斡旋、勤務報国隊、出動隊の如き四つの方式」にて徴集されることは、「徴用は別として」「其れはもし事前に於て之を知らせば皆逃亡する」ほど嫌がれていたということであるが、上記の「現員徴用」とは、朝鮮半島内の工場や鉱山への動員かと思われる。これは1944年春、日本へ連行するための「徴用」に先だって実施されていた。

 

「重要工場、鉱山の一般徴用実施の前提措置たらしむる目的と併せて労務移動防止を期するため、本年(1944年)2月以降鮮内重要工場事業場の現員徴用を実施したるが、現在迄(8月20日)の徴用箇所、工場七三ヶ所、鉱山五六ヶ所、計一二九ヶ所にして社長以下従業員の徴用数一四七、四八〇人に達した」

(朝鮮史料研究会「朝鮮近代史料研究集成第三号」所収、第八十五回帝国議会説明資料

・・・朴慶植・著「日本帝国主義の朝鮮支配」より)

 

また、朝鮮植民地支配の初期には「夫役」という強制労働も行なわれていた。帝国主義日本にとって朝鮮民衆は、単なる牛馬に等しかったのである。

 

注記:このページは、「日本ちゃちゃちゃクラブ 歴史ボード」投稿番号16683、16858に加筆し再構成した(2004-3-31)。

「戦時強制連行・労務管理政策@」(朴慶植・編、アジア問題研究所)と、

「戦時期植民地統治資料F」(水野直樹・編、柏書房)については、

 東京都立中央図書館にて閲覧しコピーした。

 

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