12月20日の「今日のダーリン」

・なんだか、十一月、十二月と、
 ずいぶんたくさんの人たちに会って、
 ずいぶんたくさんの食事をしているような気がする。
 いや、気がするのではなく、会って、食べている。
 
 なにかを「たくさんやる」というのは、
 若いときには、とても必要なことだと思っている。
 本を読むでもいい、映画を観るでもいい、
 うまいと思ったものを食うことでもいい、
 遊ぶならバランスをこわすほど遊ぶのもいい。
 あれをすることでも、なにをすることでもいい。
 げっぷが出て、もういやだというほどやって、
 やっと「なんだか、もういいかも」なんてね、
 落ち着けるようになるものだと思う。
 それが、なにかから自由になるために必要なことだ。
 ちょっと足りないくらいがいい、なんてことは、
 実はまったく足りないのではないだろうか。
 嫌いになるくらい、それをする。
 消化しきれないなにかが体内にたまって、
 ひょっとしたら毒になるようなこともある。
 若いときには、それくらい行き過ぎてもかまわない。
 そうでないと、それを「眺める」だけで終ってしまう。
 それと「格闘する」ことのほうが、たぶん大事なのだ。
 
 そうやって、若さのあるうちに懲り懲りの目にあって、
 やっと「ちょうどよくやる」ほうがいい、と理解する。
 はじめから、そんなことわかっていた、と言うなかれ。
 はじめからわかっているようなことは、
 ぜんぜんわかってないことと同じようなものなのだ。
 
 「ちょうどよくやる」が、
 ちょうどよく見つからないうちに、年を経てしまって、
 やがては「ちょっと足りなめに」ということになる。
 たぶん、消化しきれないことがもたれるようになるのだ。
 腹にもたれたり、腹をふくらませたりするのは、
 また味わいたくなるという意欲を失わせる。
 若いときに必要なことの、逆のことが大事になる。

 その流れの順に逆らって、よく会い、よく食っている。
 これは、果たしてよいことなのか、わるいことなのか。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
なんにせよ元気でくたびれたりしているので、ま、いっか。