<核のごみ・現と幻>六ヶ所稼働が協定の焦点
<条件付け譲歩>
日本の原子力政策の歩みは、明治時代の不平等条約改正の取り組みにも似た日米原子力協定改定の歴史と重なる。その中心テーマが再処理。18年が期限の次期改定もその行方が最大の焦点だ。
1977年春、核不拡散政策の強化を表明した米カーター政権が、運転間近だった茨城県東海村の再処理工場に「待った」をかけた。
対米交渉を迫られた日本政府は外務省に原子力課を新設した。初代課長を務めた金子熊夫氏は「米政府・議会は日本の再処理について『核武装という隠れた意図があるのではないか』と考えていた」と振り返る。
難交渉の末、米政府は77年秋、日本が目指していた新たな再処理工場の建設を進めないことなどを条件に、東海再処理工場の2年間の限定運転を認めた。「日米安保体制にひびを入れたくない米側が最終的に歩み寄った」(金子氏)ためだ。
次のレーガン政権は日米同盟を重視。81〜82年に日本への制約を段階的に緩め、新再処理工場建設への道を開いた。83年12月、中曽根康弘首相(当時)は衆院選遊説先の青森市で、「下北半島を日本有数の原子力基地にしたらいい」と述べ、六ケ所村へのサイクル施設立地を事実上表明した。
<同意見直しも>
日本が次に目指したのは、国内で自由な再処理を可能とする「包括同意」。改定交渉は米の核不拡散強硬派の反発で難航したが、87年に合意。88年に発効し現在に至る。
「日本はエネルギー、米国は安全保障と、関心の対象が微妙に違っていた」。外務省審議官として包括同意交渉を担い、後に原子力委員会委員長代理を務めた遠藤哲也氏は交渉をそう振り返る。
遠藤氏は次期改定について「日本にたまり続けるプルトニウムをどうするかが焦点だ」と言い切る。「米側の懸念は日本のサイクル事業の停滞。米議会などで包括同意の見直し論が強まる可能性がある」とみる。
<取り戻し困難>
日本が保有するプルトニウムは13年末時点で約47トン。六ケ所再処理工場が稼働すればさらに増える。だが福島第1原発事故で国内の原発は停止したまま。プルトニウムを消費するには、ウラン燃料に混ぜて使うプルサーマルが必要だが、実施のめどは全く立たない。
政府は4月に決定したエネルギー基本計画で、高レベル廃棄物の減容効果があるとして、再処理を廃棄物対策の柱の一つに位置づけ、推進する方針を明確にした。しかし車の両輪となるプルサーマル計画については、電気事業連合会も「六ケ所再処理工場でプルトニウムが回収されるまでに検討する」と言うのみだ。
「包括同意を一度失えば、取り戻すのは難しい」と元外務省の金子氏は指摘する。サイクル政策が迷路を抜け出さない限り、「特権」の足元はおぼつかない。残された時間は決して多くない。
2014年12月21日日曜日
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