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葬式で履歴書は読み上げられない–人気コラムニストが問いかける、社会的成功って本当に必要?

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葬式で履歴書は読み上げられない–人気コラムニストが問いかける、社会的成功って本当に必要?

人は誰しも2つの自己をもっている。コラムニストのDavid Brooks(デイビット・ブルックス)氏は、社会的成功を求める外的側面と、道徳的な価値に重きをおく内的側面といった2つの間で自問を繰り返すのが人間の基本的な性質であるという。時に相反する2つの自己のバランスをどのようにして保てばよいのか?(2014より)

【スピーカー】
コラムニスト 

【動画もぜひご覧ください!】
David Brooks: Should you live for your résumé … or your eulogy?

履歴書における「徳」と、追悼文における「徳」

デイビット・ブルックス氏:最近、履歴書における「徳」と、追悼文における「徳」について考えています。

履歴書における徳というのは、競争市場に持ち込む能力、つまり履歴書に書こうと思う自分の長所です。

追悼文における徳は、追悼の場で述べられるはずのことで、実際のところ一体どういう人物なのか、周囲とどのような関係を築いているか、勇敢かどうか、愛情の深さは、頼れる存在か、一貫しているか、といったような、より深い性質のものです。

わたしも含めて多くの人は、追悼文における徳のほうが重要だと考えているはずです。ですが少なくともわたしの場合、追悼文における徳を実際に重視しているかと言われると、答えは「ノー」です。

それでこうして考えているのですが、その際に、ジョセフ・ソロヴェイチクという思想家の意見を参考にしています。1965年に『信仰に導く孤独な男』という本を著わしたラビです。ソロヴェイチクは人間の性質には2つの側面があると指摘し、それぞれ「アダム1」、「アダム2」と名づけています。

「アダム1」は、世俗的で、野心的で、わたしたちの外面的な性質に関わるものです。何かを建設したい、創造したい、起業したい、革新を起こしたい、と考えます。

「アダム2」は、もっと慎み深いものです。善行を積むだけでなく、善き人間になりたいと考えます。神を尊び、創造や可能性といったものを賛美する心を持って生きることをよしとします。

「アダム1」は世界の征服を企みます。「アダム2」は神のお召しに耳を傾け、世の中に従おうとします。「アダム1」は達成感を味わい、「アダム2」は内面の調和や強さを重視します。「アダム1」は物事の道理を考え、「アダム2」はわたしたちが存在する理由を問います。

「アダム1」のモットーは「成功」、「アダム2」のモットーは「愛、贖罪、回帰」です。

外的な成功だけが評価される社会

ソロヴェイチクの見解では、この2つは互いに相容れないとされています。わたしたちは外的な成功と内面的な価値との間で、常に自問しながら暮らしています。少々気をつけなければならないのは、この2つの側面はそれぞれ異なる論理に基づいて機能しているという点です。

外的な論理とは、経済的な論理です。投入が生産に結びつき、リスクを冒して報酬を得るのです。内面的な部分では、道徳的な論理が作用しています。矛盾する場合も珍しくありません。

受け取るためには与えなければならず、内面の強さを得るためには外的な何かに身を委ねる必要があります。欲しいものを手にするためには欲望に打ち克たねばなりません。

自分の能力を発揮するには、自己を忘れて没頭する必要があります。自分自身を発見するには、自分を見失うぐらい夢中にならなければなりません。

わたしたちが暮らしているのは「アダム1」が好まれる社会で、「アダム2」は無視されがちです。問題は、そうなると人は狡猾な動物となり、人生をゲームのように考え、冷酷で計算高い生き物となるということです。そうありたいと願う自分と現実の自分との間の差異を知る平凡な存在になるのです。

願いどおりの追悼文は書いてもらえそうになく、それでも誰かにそれを期待しています。信念には深みがなく、感情も豊かではありません。本気で取り組もうと思えば一生をかけてもまだ足りないような仕事に本気で取り組むこともありません。

自分の弱さと向き合うことが重要

揺るぎない「アダム2」をどう形成するか、人格に深みをもたらすにはどうすればいいか。それに対する平均的な反応を、わたしは歴史から学びました。歴史を通じて、人は自身の過去に遡ります。人生で大切にしている時期に遡ることもあれば、幼少期に戻ることもあります。

過去を目指す心は、恥ずかしい思いをした瞬間に引かれる傾向にあるようです。罪を犯した時とか、身勝手な振る舞いをしてしまった時、怠慢な行為や浅はかな考えで行動してしまった時、怒りに我を失ってしまった時、自分を甘やかしてしまった時、人に媚びてしまった時、勇気を出せなかった時などです。

「アダム1」は強さの上に築かれます。「アダム2」は弱さに対峙することで成り立ちます。自分自身と向き合って、これまで何度も犯してしまった自身の罪、犯してしまいがちな過ち、そこから派生するさらなる過ちを見つけ出すのです。そうした罪と戦い、2度としないように取り組めば、その戦いや苦しみから人格の深みが生まれます。

2つの自己のバランス

しかしたいていの場合、わたしたちは自らの罪を認めることを教わっていません。自らの罪に向き合って、取り組み、克服する方法を教えてくれるような文化ではないのです。

わたしたちの暮らしている文化の精神性は「アダム1」のそれであり、「アダム2」に対する想いをはっきりと表現することがありません。

最後になりますが、この2つの側面、つまり「アダム1」と「アダム2」のどちらも十分に受け止めた人生に関して、ラインホールド・ニーバーがこのようにまとめています。

「やるべき価値のあることで、一生のうちに成し遂げられることなど1つとしてありません。それ故にわたしたちは希望に救われるのです。真実であること、美しいこと、もしくは善いことで、その道理が即座に認められるものは1つとしてありません。それ故にわたしたちは信仰に救われるのです。いかに有徳なことでも、1人で達成できることは1つとしてありません。それ故にわたしたちには愛という救いがあります。いかに有徳な行為でも、わたしたちの友や敵から見れば、わたしたちが思うほど有徳であるとは限りません。それ故にわたしたちは究極の愛に救われます。つまり、赦しです」。

ありがとうございました。

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