「自分と同じ常識は世界のだれもが通じている」と思う人が日本社会をダメにしているのではないかとふと思った。
これは島国根性・村社会の染みついた田舎の人や、都会でも閉鎖的環境で育った人(たとえば物凄い富裕層の閉鎖的なコミュニティだったり、郊外団地の「鍵っ子」だったり)の特徴ではないかと思われる。
つまり、ある「一定のレベルの秩序」に毎日の大半を没頭させるとそういう状況に陥りやすいのだろう。「子どもが些細なことでケンカばかりすること」や「老人が気難し屋になること」の原因はまさにこれだ。
本来はこういうものは、成長と共に離脱していくのだと思う。
例えば私は、市内で最も富裕層の多い幼稚園に通ったため、幼稚園児の時点で「知らない世界」に気づいた。私は庶民なので親の「ママチャリの後ろ」に揺られてやってきたのだが、富裕層は自動車通園をしていて、BMWやアルファロメオやフォルクスワーゲンやベンツがモータープールをにぎわせていた。
同級生の家に遊びに行く約束をすると、ナンバープレートのひん曲がったバブル世代好みのボルボV7の助手席に乗せられた。市内の高級住宅街区にある友人宅は庭も広く、母屋はアメリカのドラマに出てくるような邸宅で、「衣装ケースだけで何帖もあるような子ども部屋」でありったけのオモチャをひっくり返しているだけで日が暮れたものだった。自分は庭のない借家に住んでいて、便所が1つしかなく、風呂がガスのごっつい機械で焚かせるようなレベルで、日産のセダンの新車を買って喜んでいるレベルだった。
「世界が違う」というのはそういうものである。住まいが違う。父親の会社が違う。母親の交友関係が違う。何もかもが根本から違うのだ。
もちろん富裕層はみんな「いい子」なため、ケンカはほとんどせず、安穏とした幼稚園時代を謳歌することができた。転園してくる子はみんな海外赴任者に連れてこられているから、外国の文化について教わることもできた。どいつもこいつも過保護のために貧弱で、私はいつも運動会で一等賞だった。
公立学校に進学すると、そこは一転して「庶民」だらけだった。市内のヤンチャ坊やだらけの幼稚園・保育園出身者にもまれることになった。彼らはみなゾンザイで、割と大っぴらにひどいことを言ったり、手荒な浜っ子である。ケンカっぱやいが、後を引くことはなく翌日になったらケロっとしている人間たちだ。
この小学校では、「下の人たち」を知ることができた。たとえば公営住宅に住んでいる子や「親が出来婚→離婚で流れ着いてきたレオパレスに住んでいる子」、長屋に住んでいる子(平成になってもまだ存在していて、今もある!)などである。
一方、「湘南ライフを満喫したい富裕層」が高級マンションや邸宅を構えたパターンの親が子どもをそのまま公立校に上げるという場合もあり、親がフジテレビ社員だったり、電通社員だったり、映画屋だったりする友人からあれこれ話を聞いたこともあった。
都市部は人口が流動的だ。毎学期、学年の10名ほどが転出し、休みが明けると10名が外からやってくる。関西弁の親友が九州に引っ越して、代わりに香港出身の女の子がやってきたりしていた。そうして終業式や始業式の朝礼はその紹介のためにやたら長くなりがちだっただが、この構造に6年ひたっていると、子どもの多様性から「世の中には多層性があるのだ」ということをなんとなく悟るのだった。みな自分たちは違う存在だとなんとなく察しつつも、妥協点を見出しあって、同じレベルの馴れ合いを楽しみに、ダベダベ言っていた。これが「湘南のガキ」の常識だ。親が受験教育に熱心な場合は私学に転嫁する子もいたが、たまに運動会などで学校に遊びに来ていた。
小学校高学年になると「お稽古」をやる子が自己実現をするようになる。
ダンススクールでヒップホップダンスを学ぶ子、相模大野のグリーンホールでピアノ発表会をやる子、私は武道をやっていたりもしたが、稽古場には稽古場の人付き合いがある。これを本格的に取り組む子はそのまんま中学以降も続けて行くのだが、だいたいの場合はどこかで限界を悟って辞めてしまう。
もう1つ重要な転機は高校だ。
中学は学区が持ち上がりなのでどうでもいいが、高校になると、「学区」が消滅することになる。実際にはあるのだが、市内の公立高校に進学しても、そこには市外から来る子も大勢いる。私立や通信なら都内に通うことだってありえる。
高校生の時点で「地元の可視範囲の現実のちっぽけさ」を知ることになるのだ。suicaを買ってもらい、学校や自宅からの最寄り駅前のゲーセンやカラオケで同級生と遊んだり、成城石井で変なジュースを買ったりするようになる。通勤ラッシュの作法を叩きこまれて、もみくちゃになって酔っ払いに絡まれたりもする。アルバイトをすれば、大人と一緒に働いて、「お客さんを相手にする」など、社会勉強になる。ブラック勤務で顔面蒼白の社員から社会の厳しさを教わったりもする。
この延長線上に大学があり、そして社会人がある。
こうなるわけで、普通の人間は「自分と同じ常識は世界のだれもが通じている」と思う人になんて絶対ならないはずだ。
そう思っていた。
だが、実際には、「自分と同じ常識は世界のだれもが通じている」と思う人は、子の日本には意外と多い。
大学に入って思ったのは地方出身者が「農耕民族精神」丸出しだったことだ。感覚としては「公立小学校のクラスのグループがいくつもある中での一番ダサい塊の馴れ合い」がそのまんま大人になったような人ばかりだった。そしてそういう子はみんな、初対面ではとても愛想が悪いが、ある程度やりとりをすると急に図々しくなり、家族でも立ち入らない個人の領域に平気で立ち入るような人間が多かった。
新潟とか福島とか北関東とかの中途半端に遠い地方の人ほどこの傾向があった。逆に過疎地の人は、心を入れ替えて東京に適応しようと頑張っていた。埼玉はよく「ダサいたま」と言われるが、春日部や川口の子は我々の「暗黙知の常識」が共有できるのに対し、東京より利根川の方が近い北埼玉の子はヤバかった。
そしてこれはネット原住民と物凄く似ている。
たとえばネトウヨは、異なる存在を排斥する時に、深読みをする傾向がある。「この人はAと言う常識をBという風に考えている。それはこの人がこれこれこういう事情があるからだ」という風にやたら具体性があり「負の深掘り」をしている。実際には「Aと言う常識をBと言う風に考えている」こと自体が誤解であり、そもそも「Aと言う常識」自体が世間一般では非常識だったりするのだが、事実を補強するためによってたかって異口同音の同調意見が集まるのだ。まるで部族のように。
もちろん田舎の人がすべてがひどいというわけではないし、保守派の中でもモラルのある論客は大勢いる。だが、傾向としては右翼の鈴木邦夫氏のいう「話し合えない人」のような人間は、ネット原住民と田舎者に物凄い多いのだ。
でも考えたら、「自分と同じ常識は世界のだれもが通じている」と言うことは存在しないのだということを、察して学びとることはあっても、学ぶ場面はない。自動車学校の教習みたいに資格のためにトレーニングすることはないし、「正しいハシの持ち方」とか「脳トレ」みたいに娯楽っぽく学ぶことでもない。
「自分と同じ常識は世界のだれもが通じている」と言う幻想を抱いた人が、自分と同じレベルにいる「自分と同じ常識は世界のだれもが通じている」という人とばかり内向的につるんでいて、ネットにつないでも自分に都合のいい意見やセンスばかり摂取するようになれば、それと矛盾する概念が存在するだけで不愉快になり、脊髄反射的に噛みつくのかもわからないが、そういう民度の低い愚か者は日本の社会の質を貶める脅威となりうるので、これを退治するための仕組みを作る必要があると、私は強く思う。語彙とかクドクドした文章表現力や年齢的な経験は豊富にあっても、自分と異なる存在を想像する力や受け入れる力が「神奈川県の公立小学校の3年生以下」だったら話にならないと思う。
当たり前だが、今の時代は岩手の内陸の僻地からでもネットにつなげて、そこから東京にダイレクトに情報をやりとりできる。それどころか、ニューヨークにも北京にもシドニーにもゴラン高原にもつなぐことができるわけで、90年代と違って貧乏な高齢者でも格安で高速インターネットにつないで楽しんでいる。そこで常識の共有なんてそもそも無理なのだ。
むしろ、「分と隣の家の人は自分と常識は何も通じないけど、Facebookのゲームで知り合ったシンガポールのチェンさんと実はそっくりさんなのかもしれない」とか考えた方がラクだと思うし、コスパも良いと思うし、可能性も広がるんじゃないか。
日本の中だって東京や横浜などの「都市部の常識」と裏日本や四国などの「地方の常識」はまるで外国だし、 「東京」と「大阪」は同じように環状線の鉄道・高速道路があってビル街やデパート街や下町もあるけど「東西の文化の違い」というものがる。同じ若者でもDQNとオタクは違う。同じ17歳の高校生でも私学とか、公立とか、付属・夜間・通信制・男子校・女子高・堀越・開成・底辺校・農業高・工科高校・高卒資格の得られる専修高校といくらでも違いはあるわけで、この世は多元的な世界なのだと思ったうえで、「でもオタクの若者は東京でも群馬でも台北でもサンティアゴでも同じように最新のアニメに熱狂しているし」とか、違いを踏まえた上での一致点を考慮できたほうがはるかに良い。
みなさんもそう思いませんか?