都内で開催された飯星景子氏の講演 |
飯星景子氏は1991年、統一教会へ入信、翌92年に家族やカウンセラーから説得を受け同教団を脱会した経験を持つ。
飯星景子氏の入信発覚に際しては『仁義なき戦い』の原作者として知られる作家で父親の故・飯干晃一氏が会見を開き「娘を取り戻す。統一教会が潰れるまで闘う!」 と宣戦布告、TVのワイドショーが統一教会に関する騒動を連日放映するなど世間の高い関心を呼んだ。
講演当日、会場には統一教会などのカルト団体に取り込まれてしまった家族を持つ相談者を始めとして多くの聴講者が集まった。聴講者を前に飯星景子氏は、自身が体験した統一教会への入信から脱会に至る経緯について、父親である飯干晃一氏との関係を軸に語った。
脱会説得の現場では何が起こっていたのか。飯星景子氏が「今になって判ること」として明かし、聴講者の心に深い感銘をもたらした故・飯干晃一氏への“想い”とは。
聴講者を前に講演する飯星景子氏 |
「大正生まれで昔気質」でありながら「チャーミング」しかし「家庭内ではおっかない、捉えどころがなく滅多に子供を褒めない」「可愛がられたと思うのですが、昔気質の男で愛情表現が上手じゃないタイプ」と、子供時代に感じていた父親の印象を語る景子氏。
◆信頼していたスタイリストから「勉強会」に誘われる
女優志望だった景子氏は、TV番組のりポーターのオーディションを経て1991年には情報番組のメインキャスターを務めるなど芸能メディアに於いて着実な地位を築きつつあった。しかし順風満帆に見えたその内面では、常に「自己評価が低かった」という。
「イケイケの人が多い芸能界」 で情報番組の司会者として「いろんな問題に自分がどう判断、対処すれば良いのか悩む部分が多かった」そんな中「揺らがない自分が欲しかった」と、当時を振り返る。
そんな時に「歩いていて突然スポッとマンホールに嵌まるように出会った」のが「仕事の上で人間的にも信頼していたスタイリスト」だったという。
何年も一緒に仕事をしながらも、そんなそぶりさえ見せなかった信頼するスタイリストに悩んでいることを打ち明け、そこでダミー団体の『勉強会』なるものに誘われた景子氏は、当時の自分の心がどう動いていったかを語る。
◆正体を隠し“賛美のシャワー”を浴びせる教団
子供の頃から「褒められ慣れていなかった」という景子氏に、統一教会が浴びせたのは対象者の「琴線に触れる褒め方」いわゆる“賛美のシャワー”だった。その時のことを景子氏は、こう振り返る。
「そこで出会った人たちは、共感し褒めるのがとても上手かったですね」「すごくいい気分になりました」 「それは、家族からも、学校からも、友人からも、働いている社会からも得られなかったような共感のされ方でした。どうすれば私が喜ぶかということは、長年付き合ってきたスタイリストから情報を得ていたのかもしれません」
幹部の一人の家で行なわれる勉強会に出ていた景子氏は、そこで「実は統一教会で・・・」と明かされることになる。
◆「ブレない物差しが欲しかった」
景子氏は統一教会に惹かれた時の自分の心理状態を、こう答えた。「今振り返ると、自分はブレない物差しが欲しかったんだと思います」
その“物差し”について語る景子氏。
「彼らの示す『絶対』である神様という物差しは、実はとっても楽なんです」 「どんなもの、たとえ全ての事象に当て嵌めても、実に簡単に白か黒かハッキリする」「冷静に考えれば、カルト教団の物差し自体もブレまくっているのですが、他人から与えられたこの『物差し』があれば全ての事象に当て嵌めるだけで自分の中で全て解決できてしまう、結果その何も考えなくてもいい状態はとても楽だったんだと思います」
◆マインドコントロールされた信者の心は「野球のボール」
マインドコントロール下にある人間の心理状態を分析する景子氏。
「マインドコントロール下にある時も本来の自分は失われていない」
「野球の硬球ボールというのは、中に芯があって周りにぐるぐる糸が巻いてあり最後に皮で覆ってあります。マインドコントロール下の自分というのもそれに似ていて、中の芯は残っていても、その上にマインドコントロールされた別の人格みたいなものが何重にもグルグルに覆われ縫い目でガッチリ留められた状態です」「それがマインドコントロールされた信者の表に現れる人格となるのだと思います」
「二つの自分が居る状態になる時もあるんです」「家族や友達から統一教会についての意見を聞いた時に、もう一人の自分が『自分もそう思ったことは何度もある』と何処かでその感覚を思い出す瞬間がある。ただ、それを感じてしまうことがいけないことだと思い込んでいるので、それを抑え込む自分が同時に働くわけです」
「他人や家族が批判的に話すことは、まるで、広い部屋の一番向こうにあるテレビで相手が喋っているという感じで、視界には入っているのですが、あまりに遠くて音声は直(じか)には響いてこないという感覚なんです」
「けれど、マインドコントロール下にある人であっても糸を解(ほど)いてあげれば、そこには本来その人が持っていた人格が残されていると思います」
芸能人を合同結婚式に参加させ、広告塔として教団の宣伝材料に使おうとしていた統一教会。しかし連日の様に合同結婚式の話題がワイドショーで取り上げられ、教団自体が世間から奇異なものとして見られるようになると、景子氏の扱いに困った統一教会はニューヨークへ行くよう景子氏に指示したという。
その指示をすんなりと受け入れた景子氏は、全ての番組を降り所属事務所も辞め、単身ニューヨークへ渡った。
◆晃一氏の論理的説得に『糞喰らえ』
突然行方不明になった娘の身を案じた晃一氏は、記者会見を開き統一教会に対し宣戦布告をする。
「統一教会も世間の反応を甘く見ていたのでは」景子氏は当時をそう分析する。
「(統一教会が)合同結婚式を大きく打ち上げてマスコミに取材させたのは『これだけの人が教えに従い結婚をしているのだから、素晴らしいでしょう?』と宣伝したかったのだとと思いますが、実際にそれがテレビに映し出されると、一般の人は『何あれ!気持ち悪い!どういう団体なの!?』と却ってなってしまった。当然マスコミも、統一教会をどんな団体か、何をしてきたのか?と掘り下げる。その対処で(教団側は)手一杯になり私のことまで構っていられなくなったのではないでしょうか。父親がマスコミを巻き込んで活動したということも重なり、教団から『日本へ帰ってこい。あなたは一旦親元に帰りなさい』と言われ、ニューヨークから親の下へ戻ることになりました」
しかし教団側は常日頃、信者を脱会させないための布石を打っていた。
「常々教団内では『反対勢力は極悪非道な改宗屋と言われる人を使う。彼らは信者を鎖で縛り薬を打って違う宗教に改宗させようとする悪魔の様な敵である』と教えています。そして、そういった窮地から逃げ出してきた信者の話を英雄譚のように信者に聴かせているわけです。そして、その武勇伝とセットで『そういう時ほど信仰が試されるのだ、そこで信仰を棄てればとんでもない災いが自分だけでなく家族や先祖、子孫に起こる』ということを繰り返し言い続けていました」
晃一氏は統一教会に関する全ての資料を読み、揃えていたという。
「父は手ぐすねを引いて、私を待っていました」
「父は新旧聖書、原理講論、そして外伝まで膨大な量の本を資料として読んでおり、連日たくさんの本を前にして論理的に説明し私を説得しようとしました」
しかし当時の景子氏は、晃一氏の論理的説明を「全く聞かなかった」という。
「二言目には壊れたレコードみたいに同じ言葉の繰り返し。父に『それはお父さんの考えでしょ。私は私で好きにこれを信じたいのだからいいじゃないの』と答えていました」
「話は平行線で、どんなに論理的に言われても、その時の私にとっては父の論理なんて『糞喰らえ』でした。子供の頃から、それでがんじがらめになっていたので、この大事な局面で、また屈服させられるのが心底嫌だったんです」
「その時は、家族をはじめ、父があんなに必死に私を愛してくれているという事実を受け容れることができませんでした」
まさに“聞く耳を持たない”状態である。
「それどころか、パジャマを着ずに普通の服で布団に入り、枕元には何かがあったらすぐに逃げるつもりで靴を置いて眠りました」
いつでも逃げられる準備をしていた景子氏。両親との鬩ぎ合いは一週間に及んだ。
「 一週間何も食べられなかったので体重が5キロ落ちました。その時は自分の事だけで必死でしたから気が付きませんでしたが、今振り返れば両親もそうだったと思います」
◆「全てのきっかけ」は「今までに見たこともない弱々しい父の姿」
そんな景子氏が如何にして脱会する道を選んだのか?景子氏はターニングポイントとなった出来事を語り始めた。
「父は多分その頃、論理的に話せば私を説得できると信じていたんだと思います。けれど私がそんな状態だったので、困り果てた父はカウンセラーの先生に私を委ねることにしたんです」
晃一氏の苦渋の決断を、景子氏はこう評する。
「飯干晃一をよく知る人間の一人として、私をカウンセラーの先生に委ねるというのは父にとっては非常に苦しい決断だったと想像します。多分プライド的にも赦せないことだったでしょう」
「いざカウンセラーの先生に会わせようと動いた時に、すぐピンときました。だって突然”ドライブに行こう”ですよ。これは皆の言う改宗屋に会わせようとしてるんじゃないかって」景子氏は、そう怪しんだという。
しかし景子氏の心は揺れた。
「子供のころから父は約束を守れないことはあっても、嘘をついたことはなかったんです、そこでふたつの考えが頭をよぎりました。そんな父親を信じたい気持ちと、もしこれが嘘だったなら父を嫌いになれる、二度と信用しなくていい口実になるという考え。もしそれが嘘なら今後もう一生会わなくてもいい人間として両親を思える、ということまで」
そんな葛藤を経て、晃一氏とドライブへ出掛けた景子氏。
「その時のことは、よく覚えています」景子氏は振り返る。
「父は私をあるホテルに連れていきました。カウンセラーの先生に会わせなくてはいけないので、何て言いだそうかと思ったのでしょうね。父はホテルの部屋でベッドの縁に腰を掛けていました。それまで子どもに嘘をついたことのなかった父は、私の顔を見ることができず、床のカーペットを見つめながらこう言ったんです。『景子、おうて(会って)欲しい人がいるんや・・・』 当然、誰に会って欲しいのかは判っていました。けれど、その言葉を絞り出した父の姿を見た時に、自分自身の核の周りをギチギチに縛り付けていた糸が一本スルッと解けたんだと思います」
景子氏の心の殻を縛り付けていた糸の最初の1本がゆるんだ瞬間だった。
「私の心を動かしたのは、幼いころから私がよく知っている論理的で頭の良い、しかもそれが娘のためにと必死で100倍パワーアップした父の姿ではなく、自分が今までに見たこともない弱々しい父の姿だったんです。それが私にとっての全てのきっかけでした」
◆「最後の薄皮一枚」も破れ、マインドコントロールが解けてゆく
それ以降の心境の変化をこう話す景子氏。
「その後は、カウンセラーの先生にお世話になりました」
「本当に不思議です、父からいくら言われても心は動かなかったのに父のおかげで私の心がちょっとでも動くと、カウンセラーの先生の言葉や元信者の方の仰る言葉が少しずつですが自分の中に入っていくのが判りました。けれど最終的に薄皮一枚みたいなものは残っているんですよね。それはお恥ずかしい話ですがプライドでした。自分がよかれと思ってやったことなのに蓋を開けたら『なんて馬鹿な事だったんだ』と。両親、友達、仕事仲間、仕事先、いろんな人に迷惑を掛けてきて『これだったのか』というものを最後の最後に認めるという、取るに足らないことですが、その最後の薄皮一枚を破ることは難しかった」
景子氏のマインドコントロールが解けていく過程には3段階あったという。
「まず心が動く瞬間を親に作ってもらえたこと」
「他人であるカウンセラーの話を聞くことができたということ」
「自分の過ちを認めることができたということ」
◆亡き父親にうまく伝えることができなかった「心が動いた」理由
脱会直後、週刊誌で発表した手記に、その時の弱々しく見えた晃一氏の姿を書いた景子氏。その入稿前の原稿を見た晃一氏が「俺はそんな情けない顔などしてない!統一教会に子供が入った親はそうやって弱々しく懇願したら子供が帰ってくると貴様は思っているのか!」と怒ったエピソードを明かした。
景子氏は語る。「今となって判るのは、私の心が動いたのはそれまで知っていた父の姿とは180度違う父を見たからだったんです。別に誰しもが弱々しくある必要などありません。人間は自分を変えることがどれほど難しいかよく知っています。無意識に全く違う姿を見せるほどの必死さに私の心が動いたんです。何も弱々しく見えることが大事じゃない。けれど、それを上手に答えることができず、亡くなった父にそう伝えることができなかったのは残念ですね」
◆「その姿に私は救われた」「二度目の人生を家族からもらった」
景子氏は会場で聴講している相談者にこう呼びかけた。
「覚えておいていただけたらと願うのは、私の前であの顔を見せた父はどんなに苦しかったか、どんなに大変だったか、そこの決断に至るまでにどれだけ彼が苦しんだのかということです。今回は父の話だけになりましたが、それは母を含め他の家族も同じです。私は彼らの滲み出てきた苦しみを感じました。だから『カウンセラーの先生に会ってもいいよ』と言えたんです。それは演技では決してできない姿で、そういった真逆の姿というのが如何に人の心を動かすかということを身を以って知りました。そのギリギリの姿に私は救われたんです。二度目の人生を私は家族からもらったと思っています。しかし私を直接説得してくれたのはカウンセラーの先生でした。やはりこの問題は私の父がそうだったように家族だけではなかなか難しいものがあります。間に入ってくれるカウンセラーの人はとても重要だと思います」
◆脱会後の芸能界復帰と「遅れてきた反抗期」
脱会後の心境の変化を語る景子氏。
「自己評価の低さは、統一教会への入信とそれが間違いだと判った後も治ることはありません、いわば性分だから仕方ないんです。でもそんな自分を『許してあげるというか仕方がないな』と思うところから、次の人生は始まるのかなと思っています」
脱会後、テレビの情報番組のメインキャスターに復帰した景子氏、程なくしてオウム真理教による一連の事件が勃発、朝から晩までオウム事件が報じられた。その最前線のワイドショーの司会をしていた景子氏は(カルト団体の元信者としての立場から)「毎日、針のむしろのようだったけれど、何より生活するための仕事だったし、却ってそれが荒療治の役割を果たしてくれた」という。
両親との関係の変化についても触れる景子氏。
「父は私を統一教会から出してくれて2年ほどで亡くなってしまいましたが、その2年の期間の父との関係は『遅れてきた反抗期』の様でした。喧嘩できる関係になった母親を含め、本当に子供の時から両親は今と変わらず私を愛してくれていたんだと心から実感できます。私が統一教会に入ったことは何一つ褒められることはありませんが、そのことに気付くことができたという1点だけは本当に不幸中の幸いだったと思っています」
「そこからもう一段積み上げるものがあった筈ですが、残念ながら父はもう亡くなってしまいました。ただそれを後悔に思ってしまうと、この先自分も心苦しいし父もそんなことは望んでいないと思うので、できる期間で、できることをするしかなかったんだなと思いますし、こうやって皆さんの前で、彼がしてきてくれたことを話すということがひょっとして一番いいことなのかなと今日、実感いたしました」
◆相談者を気遣う景子氏
最後に景子氏は、総会後に行なわれる相談会へ参加する聴講者にこう語り掛けた。
「父を知る方々が、よくここう言うのを耳にすることがあるんです。“あなたのお父さんは立派な方で、自分は絶対にあんな風には出来ない”と。誤解しないでいただきたいのは、皆さんは飯干晃一にならなくても大丈夫です。たまたま父はああいう男なだけで、マスコミを前に統一教会に宣戦布告し聖書から外伝からすべての関係書籍をポストイットで埋め尽くさなくては家族が帰ってこない、ということでは決してありません。御自身ができることの精一杯、ひょっとすると精一杯以上になるのかもしれませんが、その精一杯を対象者は敏感に感じ取ります。御自身の100%の力を見るきっかけがあったらきっと感じ取ってくれる筈です。スーパーマンにならなjければ対象者は取り戻せないということではありません。御自身の力を以って家族を取り戻してらっしゃる方はたくさんいます」
著名人が語るカルトによるマインドコントロール体験と脱会の経緯、それは今も続く同種のカルト被害の当事者にとって、カルトによる心理操作とそこから脱するヒントを与えるという意味に於いても、その意義は果てしなく大きい。
5 コメント:
嘘をついてホテル連れていかれ脱会カウンセラーに会わせられた、という統一信者の主張はあながち嘘では無かったのですね。。。
>・・・当然、誰に会って欲しいのかは判っていました。けれど、その言葉を絞り出した父の姿を見た時に、自分自身の核の周りをギチギチに縛り付けていた糸が一本スルッと解けたんだと思います」
実の、愛情の通った家族だからこそ伝わった瞬間ですね。
結局理論では統一原理に全く歯が立たたない事を証明し墓穴を掘っている、愚かな内容でした。
考えてみるとキリスト教自体、ユダヤ教の経典を拝借して教義を勝手にねじ曲げて成立した宗教で、免罪符販売という霊感商法はおろか、戦争や魔女裁判で殺人もたくさんしてきましたから、統一を論破しようとも無理があるのかもしれないですね。。。
>結局理論では統一原理に全く歯が立たたない事を証明し墓穴を掘っている、愚かな内容でした。
どれだけ脱会が難しいことか。
理論の問題であれば統一協会は最初から理論が崩れています。
そうではなく、これが生身の人間の心の問題だから、難しい。
親族の者が泣き崩れているのを見て、本当に苦しんでいるのを見て、必死で訴えている姿を見て、やっと心を取り戻せる人もいれば、それでも独善的な教義に身を投じる人もいる。
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