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視点・論点 「私の一冊(3) 夏目漱石『三四郎』」2012年10月31日 (水)
劇作家 平田オリザ
夏目漱石の作品では、皆さん、どの作品がお好きでしょうか?
坊っちゃんの爽快感、吾輩は猫でアルのユーモア、『それから』や『門』の深み、あるいは最晩年の遺作であり、未完の作品である明暗こそが漱石の代表作だという方さえもいます。
もちろん、どれも魅力的な作品ですが、私の一冊を選べと言われれば、私は間違いなく、三四郎を選びます。
三四郎という作品は、日本の青春小説の原点とも言われる長編小説です。
夏目漱石は、1905年に『吾輩は猫である』で小説家としてデビューし、坊っちゃん、草枕などを書いたのちに、東京帝国大学の講師の座を辞して、朝日新聞社に入社し小説家として生きていく決意をします。
三四郎は、その入社二年目、長編小説で言いますと、虞美人草に次いで、二作目の作品と言うことになります
三四郎は、それから、門と並んで前期三部作の一つと言われています。ただ、どちらかといえば、三四郎は、それ以前に書かれた初期の作品、坊っちゃん、吾輩は猫であるのユーモアと、『それから』『門』に見られる深い思索の中間点にある、過渡期との作品ということができるでしょう。
過渡期の作品ですから、小説としては多少乱暴なところがあります。
しかし、その乱暴さもまた、私には魅力に映るのです。
三四郎は、確かに青春小説です。
青春小説の典型は、主人公が悩み、苦しみ、やがて成長していく姿を普通は描きます。
しかし、三四郎は、あまり成長はしませんね。迷うだけです。
そして読者は、この三四郎のフラフラとした迷いに共感します。
あぁ確かに人は、男は、女の人を好きになったときに、こんなふうにフラフラしたり、相手の些細な言動がとても気になったりするなぁと感じます。
そのリアルなところが、三四郎という小説の、まず第一の魅力なのだと思います。
また三四郎は、自分自身の将来についても悩みます。
出世か女かというのは、近代小説の大事なテーマですが、三四郎はこれを、故郷ののんびりとした生活、学問の世界、そして女性とのしあわせな結婚といった三つの世界に分けて、自分の進むべき道を考えます。
しかし、三四郎という小説が、いまも多くの読者に読み継がれているのは、この作品が、単に青春期の若者の迷い、苦悩を、ただそのまま描いただけではないという点にあると、私は思っています。
先ほども申し上げたように、この小説が書かれたのは、1908年、日露戦争に勝ってまだ三年しか経っていない時期です。
この小説の有名な冒頭。
のちに広田先生として登場する謎の男と三四郎は、汽車の中で、次のような会話をします。
「お互いは哀れだなあ」と言い出した。「こんな顔をして、こんなに弱っていては、いくら日露戦争に勝って、一等国になってもだめですね。もっとも建物を見ても、庭園を見ても、いずれも顔相応のところだが、――あなたは東京がはじめてなら、まだ富士山を見たことがないでしょう。今に見えるから御覧なさい。あれが日本一(にほんいち)の名物だ。あれよりほかに自慢するものは何もない。ところがその富士山は天然自然に昔からあったものなんだからしかたがない。我々がこしらえたものじゃない」と言ってまたにやにや笑っている。三四郎は日露戦争以後こんな人間に出会うとは思いもよらなかった。どうも日本人じゃないような気がする。
「しかしこれからは日本もだんだん発展するでしょう」と弁護した。すると、かの男は、すましたもので、
「滅びるね」と言った。――熊本でこんなことを口に出せば、すぐなぐられる。悪くすると国賊取り扱いにされる。
私の二十代は、バブルのまっただなかでした。
その頃、まったく無名の演劇青年だった私は、バブルの喧噪を横目に見ながら、何度も、「滅びるね」と心の中でつぶやきました。
三四郎には、日露戦争以降の、日本人の精神状況がよく描かれています。
ようするに、坂の上の雲を求めて、必死になって急な坂道を上って、やっとたどりついた地点には、何もなかった。
明治維新以降、ここまでは、国家と個人の幸福はほぼ一致していた。富国強兵、臥薪嘗胆、国家の目標に従って生きていけば、多くの人が少しずつ幸せになれた。明治というのは、そういう若々しい社会でした。
特に国の指導者や知識人たちは、自分の能力に合わせて努力を積み重ねていけば、それが自分の立身出世にもなりましたが、そのまま、その努力が国家の成長にも直結していたわけです。
夏目漱石も、そのような国家の期待を込めて、国費留学生としてロンドンに派遣されました。
しかし、日露戦争以後は、国家自体が大きな目標を失ってしまった。
1908年、戦争に勝った興奮から冷めてみると、自分たちはそれほどには幸福にはなっていない。それは、ある種のバルブ崩壊といってもいいかもしれません。
これまでは西洋に植民地支配されないために、強い近代国家を作るというのが、日本の大きな目的でした。しかし、ロシアとの戦争にかろうじて勝って、当面、日本の領土を脅かす者もいなくなった。
当然のように、個人の関心は、個々人の、個別の幸福へと向かっていきます。
このことを漱石は、やはり広田先生の言葉を通じて、以下のように書いています。
「近ごろの青年は我々時代の青年と違って自我の意識が強すぎていけない。我々の書生をしているころには、する事なす事一として他(ひと)を離れたことはなかった。すべてが、君とか、親とか、国とか、社会とか、みんな他(ひと)本位であった。それを一口にいうと教育を受けるものがことごとく偽善家であった。その偽善が社会の変化で、とうとう張り通せなくなった結果、漸々(ぜんぜん)自己本位を思想行為の上に輸入すると、今度は我意識が非常に発展しすぎてしまった。
少し略します。
「ところがこの爛漫が度を越すと、露悪家同志がお互いに不便を感じてくる。その不便がだんだん高じて極端に達した時、利他主義がまた復活する。それがまた形式に流れて腐敗するとまた利己主義に帰参する。つまり際限はない。我々はそういうふうにして暮らしてゆくものと思えばさしつかえない。そうしてゆくうちに進歩する。英国を見たまえ。この両主義が昔からうまく平衡がとれている。だから動かない。だから進歩しない。
広田先生の予言は、なかばあたります。
日露戦争以後、個人主義の風潮が増し、それは決して悪い面ばかりではなく、大正デモクラシーが花開きます。しかし、その反動から、1930年以降はファシズムが台頭し、大日本帝国は、先生の予言通りに亡びます。
バルブ崩壊から、22年が経ちました。
三四郎の書かれた年の22年後は1930年。その翌年には満州事変が起こり、日本は徐々に全体主義国家への道を歩み始めます。
いま、私たちは、大きな混迷の時代にいます。
大事なことは、三四郎と同じように悩むことだと思います。個人主義と利他主義、自分の立身出世と社会への貢献。そのふたつの間で揺れ動きながら、平衡を保っていくこと以外に、私たちの生きる道はありません。
三四郎の中には、迷子、ストレイシープという言葉が再三でてきます。
私たちは皆、迷える子羊です。
迷うこと、悩むことを怖れてはならない。
三四郎という小説は、そのことを教えてくれているように思います。
そして、その点において、やはり三四郎は、日本近代文学史上最大の青春小説なのだと思います。
先ほど紹介した、冒頭の場面。「滅びるね」と言ったあと、広田先生は次のように言います。
「熊本より東京は広い。東京より日本は広い。日本より……」でちょっと切ったが、三四郎の顔を見ると耳を傾けている。
「日本より頭の中のほうが広いでしょう」と言った。「とらわれちゃだめだ。いくら日本のためを思ったって贔屓(ひいき)の引き倒しになるばかりだ」
ぜひ、多くの若い世代に、三四郎を読んでいただきたいと思います。