写真特集:食堂車 旅情彩るあったかメニュー スピード時代と合理化にのまれ
2012年06月18日
「北斗星」の食堂車=2001(平成13)年撮影
旅に食事はつきものだ。日本に鉄道が生まれた明治時代から、手作り弁当や駅弁といった「車中食」は必需品だった。
車内で調理した温かい食事が提供される「食堂車付き列車」が我が国に初めて走ったのは、1899(明治32)年5月25日。私鉄だった山陽鉄道(現JR山陽線)が、官営鉄道乗り入れの京都−三田尻(現・防府)間急行に連結した。鉄道博物館(さいたま市)によれば、山陽鉄道は開業当時から、瀬戸内海を運航する汽船との競争にさらされており、旅客サービスの一環として食堂車を編み出したという。ちなみにこの山陽鉄道、日本で最初に荷運び人(後の赤帽)を駅に置いたことでも知られる。
山陽鉄道から遅れること2年後の1901(明治34)年には、官営鉄道も東海道線で食堂車をデビューさせた。3等の客はお断り。当時の食堂車はじゅうたん張りで、白布をかけたテーブルの上には銀食器。豪華この上ない接客で、庶民には高根の花だった。
やがて大正から昭和に入り、鉄道路線と優等列車の成長につれ食堂車利用の普及も進む。洋食堂車に加え和食堂車も登場し大衆化した。戦争の激化で一時全廃されたが、1949(昭和24)年、特急復活の第1号「へいわ」(東京−大阪)に再び食堂車が連結された時は、感動もひとしおだったに違いない。
その食堂車も、列車のスピード化・合理化とともに陰りが見えてくる。象徴的なのは新幹線だ。在来線で昼間の列車から食堂車が消えた後も孤軍奮闘していたが、東海道・山陽新幹線では2000(平成12)年3月10日、1日4往復の「グランドひかり」のみとなっていた食堂車営業が終了。山陽鉄道の食堂車誕生から101年後にして「予約なしで利用できる本格的な食堂車」が日本の鉄道から消えた(軽食のみのビュッフェはその後も営業)。すでに88年3月から、新幹線食堂車の製造はストップしていた。
開業当時、東京−博多を6時間56分で結んだ新幹線は、新型車両の導入で00年には5時間3分に。乗車時間の短縮は、旅のスタイルを変えた。コンビニで買った食事を座席で簡単に済ませるビジネスマン。ワゴンサービスも充実している。「走るレストラン」と呼ばれ富士山を眺めながら優雅に食事ができた新幹線の食堂車も、すっかりスピード化の波にのまれてしまった。また、国鉄の経営悪化から分割民営・JR発足に至る合理化も、食堂車の退潮に大きく影響した。
現在、食堂車を営業するのは豪華寝台特急「カシオペア」(上野−札幌)、「トワイライトエクスプレス」(大阪−札幌)と寝台特急「北斗星」(上野−札幌)のみ。もはや「食堂車」ではなく「ダイニングカー」などと呼ばれ、予約制でフランス料理のフルコースや懐石料理を提供する。日本初の食堂車誕生から数えて111年。あこがれと豪華さのDNAは受け継がれている。