01、タイバンカ
山の向こうに、夕陽が沈もうとしていた。
稜線に消える寸前、陽光は名残のように一瞬、強さを増す。
ドラクゥは、馬上でその光を見つめていた。訓練の後の、つかの間の休息だ。夜の帳が辺りを闇に閉ざす前に、宿営に一〇〇〇の兵と共に戻らねばならなかった。
指揮する兵は、騎兵ではない。馬に乗ってはいるが、まだそう呼べるほどの練度ではなかった。兵も馬も、訓練を通して戦うことに慣れなければならない。
対峙しなければならない相手が<赤の軍>だと考えると、今のままの一〇〇〇では、何の役にも立たないだろう。だが、鍛えるために費やすことのできる時間は、あまりにも短い。
「主上、いかがですか人界の馬の乗り心地は」
「タイバンカか。存外に、良いな。鍛えれば面白いことになる」
タイバンカは、ドラクゥが南に落ち延びて来た時からの武将だった。元は<赤の軍>で上級の将校として出仕していたが、出奔してドラクゥに付いてくることを選んだ。
小役人風の男だが、一〇〇〇や二〇〇〇の騎兵を扱わせると、驚くほどの力を見せる。これまでドラクゥの麾下には騎兵がいなかったので、無任所の武将としての役割しか与えることができていなかった。
漸く、馬を手に入れることができたのだ。歩兵だけで戦うよりも、使うことのできる戦術の幅は、格段に広くなる。
歩兵の訓練は、ゴブリンのロ・ドゥルガンやル・ガンといった将に任せている。元傭兵のロ・ドゥルガンの練兵はさすがで、歩兵は平原での戦い方を既に身につけつつある。
連携の訓練もしなければならない。騎兵だけ、歩兵だけといった訓練のやり方では、どちらの兵種も本当の強さを引き出すことはできないのだ。
ただ、それにはまず騎兵が騎兵としての戦い方を学ぶ必要がある。ドラクゥの騎馬隊は、まだまだその段階にも達していない。
「馬はこれからも増えます。牧場はもう少し広くした方がよろしいかと」
「それは余も考えていた。獣王から租借できるよう、親書も送ってある」
人界から購入した馬は、魔界でも最上級の馬に遜色がないほどに大きく、力強い。一瞬の速さでは魔界の産に一歩譲るが、持久力があることがドラクゥは気に入っている。
長く駆けることができるということは、それだけで大きな武器になるはずだ。戦略を考える上で、手数を増やすことができる。相手の思わぬところに指すことのできる駒は、得難い存在だった。
ドラクゥの置かれている状況は、厳しい。
かつての師<万化>のグラン・デュ・メーメル率いる南征軍が、獣王領を経由して南進を続けている。その基幹となる戦力は、廃嫡される前のドラクゥが率いていた<赤の軍>だ。
その数は、二万。
魔界でも最強の呼び声高い騎兵集団である敵を迎え撃つには、まだ準備が整っていないと言わざるを得ない。
「それで、南征軍の足取りはその後掴めたのですか」
「いや、はっきりとしたことはダークエルフでも探り出せていない。南に向けて分進しているようだが、どこが目的地なのか、いつ集まるかということまでは分からないということだ」
魔都を進発した後、<赤の軍>は忽然と姿を消していた。
二万の軍を、見失う。あってはならないことに、諜報を任せてあるダークエルフも随分と色めきたったものだ。調べてみると、五〇〇程度の塊に分かれてばらばらに進撃しているらしいということは、分かった。
ダークエルフを街道周辺に重点的に置いたことが、完全に裏目に出ている。四〇に分かれた敵の全てを追うことは、もはや不可能といってもいい。敵は道もない平原を、掠奪しながら進んでいる。<万化>のグランらしい、意表を突いた策だった。
「珍しいこともあるものです。ダークエルフであればそのようなこと、すぐに調べ出しそうなものですが」
「どうやら、妨害を受けているらしい」
「ダークエルフを妨害できる者が?」
「ああ、シェイプシフターが動いている気配がある。もちろん、残党ではあるが」
「シェイプシフターとは穏やかではありませんな」
魔界には色々な種族が住んでいる。自在に姿を変えることのできるシェイプシフターもその一つだった。彼らはその特性を活かし、隠密活動を得意とする。ドラクゥの抱えるダークエルフの密偵とは、仇敵の間柄にあった。
特定の種族を、敵にしたくはない。それはドラクゥの思いの根底にある。
大魔王として、魔界の百族全てを等しく統べたいと本気で考えていた。その中には当然、シェイプシフターも含まれている。今は敵対していても、それは置かれている状況によってやむなく敵対していると考えたかった。いつかは、味方にすることができる。
「寝返らせることはできないでしょうか」
何をとタイバンカは言わなかったが、<赤の軍>のことだということは、はっきりと伝わった。元は<赤の軍>で将校をしていたのだ。抜けたとは言え、今でも仲間だという意識があるのだろう。その気持ちは、ドラクゥにも何となく分かる。
「難しいだろう。そのことは、お前自身が一番よく分かっているはずだ」
「はい。<赤の軍>は近衛です。易々と裏切ることはないということは分かっております。しかし、近衛が立つべきはドラクゥ様のお側であるべきです」
「<大魔王>だからか」
「それも、あります。ただ、それだけが理由ではありません。大魔王の地位にあることのみが<赤の軍>の忠誠を受ける理由になるのであれば、<北の覇王>がレニスを擁立したとしても条件を満たすことになります。しかし、私はそうは思いません」
「分からんな、タイバンカ。忠義の対象は好みで決めるものではない。そんなことを許せば、魔界の一統など夢のまた夢だ」
「畏れながら、押し付けられたものを甘受することも、忠義ではないと考えます。尽くすべき相手にこそ、忠義は発揮されるべきです」
ドラクゥは、小さく唸った。
忠誠は、忠誠だ。その思いは変わらない。近衛である<赤の軍>が寝返ることはないだろうという思いも、変わってはいない。ただ、そう思い込もうとしている自分がいるということに、タイバンカの言葉は気付かせてくれた。
汚れることを無意識の内に恐れていたのかもしれない。
策を使う相手には、策を使った。それは相手の手も汚れているからで、ドラクゥ自身の中で道理が通ったから使うことができたという気がする。
次に戦わねばならない<赤の軍>には、それがない。指揮官であるグラン・デュ・メーメルは幾らかの策を使うだろうが、それはあくまでも盤上の策だという気がする。清いものを戦うのに、汚れた手で指したくない。それは、自分の思い上がりではないのか。
秩序のある魔界。それを理想に掲げるドラクゥにとって、忠誠の対象とは濫りに変えることはできないものだ。しかしそれは、目指すべき姿、あるべき姿の話だった。
理想と現実は異なる。理想を実現するためには、目を開いて現実を見つめねばならない。
ただ、そうと分かっていても、手を汚すことには躊躇いがある。
誰かに相談を持ちかけたい。そう思って脳裏に浮かぶ相手は、グランであり、ハツカであり、そして邪神ヒラノだった。
これが、弱さなのだろう。甘さと言えるのかもしれない。王であるドラクゥは、最後の最後には自分で全てを決めねばならないということは分かっていた。だが、迷いは強い。
「<赤の軍>が余の麾下に加われば、それは心強いことだと思う」
希望を、口に出してみた。
これまであまり、実現の道筋が思いつかない願いは言わないようにしていたのだ。
ドラクゥの育った宮中では、不用意な一言が利権を生み、政争を呼ぶ。いつの間にか、そういう言葉を口にすることは無くなっていたのだ。それが何故か、口を突いた。
「主上はそう思っておられるだけで良いと思います。それを口に出して頂ければ」
「どうすればいいのか、余に策はないのだぞ?」
「そのために、臣下がおります」
「余の個人的な願いのために、臣下を動かすというのはな」
「全てを抱え込まれるべきではありません。私も含め、臣下は主上の目指す魔界のために命を捨てる覚悟で働いているのです」
「命を無駄にさせることになるかもしれん。犠牲を厭うているわけではないのだ。ただ、命というものは、使うべきところで使うべきだと思う」
「ご立派です。しかし、もう少し臣下を頼って頂きたい」
「しかしな、汚いことも、させることになるかもしれん」
「そういう命令を、厭う臣下もいるでしょう。それは仕方のないことです。ただ、主上はもっと大きな視野でものを見て下さい。たった一言、お命じになられれば良いのです」
小メーメルを、消せ。その言葉は、喉の奥まで出かかっていた。
軍監を除けば<赤の軍>はこちらに転がり込む。そうでなくても、気持ちはこちらに傾くだろう。タイバンカがそう言わせたいということは分かった。言えば、タイバンカ自身が動くであろうということも、分かる。
「主上、私が」
「もう良い、タイバンカ。もう良いのだ」
タイバンカの言葉を遮った。内心ではまだ、迷っている。
いつの間にか、草原の空は満天の星の光に埋め尽くされていた。夜になると、草原は冷える。馬上にいても、地から冷たさが這い上ってくるようだ。
「分かりました、主上。差し出がましいことを申し上げたと反省しております」
「諫言は、ありがたく受け取る。だが、この話はこれまでだ」
「御意にございます」
それだけ言うと、タイバンカは陣に戻った。兵を纏め、宿営に戻る準備を進めている。
兵たちが馬に跨り、列を作った。まだ時間がかかり過ぎている。ドラクゥの中にある騎馬隊とは<赤の軍>で、全ての騎兵はそれと比べてしまうのだ。
寝返らせることはできないだろうか。そのことは、ずっと考えている。
それでも、確実な方法は一つも思いつかない。
師も<赤の軍>も、本来ならばこちら側にいて不思議のない存在なのだ。それが、釦のかけ違いのように、敵対せざるを得ない。惜しいとも悔しいとも違う、何か胸の奥が焦げるような感情が、ドラクゥの中にはあった。
「戦うしかない。戦うしか、ないのだ」
口の中で唱えるように呟く。
戦う相手は、師であるグラン・デュ・メーメルだ。悩みながら戦って、勝てる相手ではない。全力を尽くして戦っても、なお勝てない可能性の方が大きい相手なのだ。
馬腹を蹴る。残された時間は少ないが、やるべきことは無数にあった。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。