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邪神に転生したら配下の魔王軍がさっそく滅亡しそうなんだが、どうすればいいんだろうか 作者:蝉川夏哉/逢坂十七年蝉

第四部

第五章 ダイジェスト版

 神界の大通りをヨハンは早足で歩いていた。走っているようにも見えるだろう。
 時折、行き違う神と肩がぶつかりそうになるが、気にも留めなかった。
 事態は想像した以上に悪い。事務所に使っている三階建てのビルに戻り、狭い階段を駆け上る。ノックはせず、扉を開けた。
「やぁヨハン。どうしたんだい、随分早いお戻りじゃないか」
 事務所の中にはオイレンシュピーゲルしかいない。間借りしているくせに、ここの主のように鷹揚な態度だった。そのオイレンシュピーゲルが、買い置きの茶菓子を頬張りながら涼しげな顔で荷物を纏めている。大きなトランクだ。まるで長い旅行にでも使うような大きさだった。
「どういうことだ、ティル!」
「何をそんなに怒っているんだい、ヨハン。この僕が言うのもおかしな気がするけど、苛々はあまり身体に良くないというよ」
 呑気な顔のオイレンシュピーゲルに、ヨハンは部下からの報告書を投げつける。そこには昨晩脱獄を成功させた<戦女神>ヨシナガについての第一報が記されていた。
「ああ、脱獄したんだね」
「脱獄したんだね、じゃないぞ、ティル。どうするんだ。一度逃げ出した<戦女神>をもう一度獄に落とすなんて、至難の業だ。どうせどこかに逃げてしまっている」
「もう一度捕まえるっていうのは骨が折れそうだね。僕ならあまり引き受けたい仕事じゃないなぁ」
「何を他人事みたいに言っているんだ! それもこれもティル、お前の奇蹟が通用しなかったからじゃないか!」
 ティル・オイレンシュピーゲルの<悪戯の神>としての奇蹟は、悪戯の成功だ。どのような形であれ、奇蹟が発動していれば悪戯は達成される。少なくともそういうふれこみにはなっていた。それが何故、ヨシナガは脱獄できたのか。
「何を言っているかよく分からないな、ヨハン。僕の奇蹟は多分成功していると思うよ」
「ならどうしてヨシナガは脱獄できた?」
「ヨハン、ちょっと頭を働かせてくれよ。ヨシナガを白鳥城に禁錮するなんて詰まらないことに僕が奇蹟を使うと思う?」
「何だと?」
「今、僕が奇蹟を使っているのは別のことに対してだよ。<戦女神>を獄につなぐことができたのはヨハン、純粋に君と君の育てた組織の功績だ。それは誇っていいと思うな」
 組織。そう、組織だ。<初神者喰い>ヨハンにとって、自ら手塩にかけて育てた組織は、何物にも代えがたい値打ちのあるものになっていた。
 これだけの規模で深く広く神界に根を張っている組織は他にない。いつの間にか組織は、ヨハンにとって子供のようなものになっている。
 前世では、早くに子供を亡くした。流行り病だ。天災のようなものとして諦めるしかなかった。それが、心の奥底では諦めきれていなかったのだろう。燠のように胸の中で燻っていた思いは、年を経るごとに強くなっていった。転生して、今度こそはと思ったのだ。
 しかし、神は子を成せない。そういう決まりが神界には存在した。そのことを知ってからは組織作りに励んだ。分かりやすい代償行為だった。
 その組織が漸く軌道に乗って来たのだ。それが、今回の<戦女神>の脱獄でどうなってしまうのか。噛み締めた奥歯が軋む。唯一神の心証次第では、組織の未来は閉ざされることになるかもしれない。たった一回の失敗だが、失敗してはならない一回だった。
 いや、失敗したのは組織ではない。間抜けな白鳥城の連中だ。だが、そのことを大天使たちが理解してくれるという保証はどこにもなかった。
「そんなことよりもヨハン、君も早く荷造りをした方がいいと思うよ」
「荷造り? 悪いがオレは暇なお前さんと違ってやることが山のようにあるんだ。物見遊山に出掛けている暇なんぞないよ」
「そうかな。暇ならいくらでもあると思うけど」
 オイレンシュピーゲルが口元だけで笑った。
 そのおぞましい表情に、背筋を嫌な汗が伝う。黒い澱のような不安が、肚の底に溜まっていくのが分かった。悪戯は<戦女神>に仕向けられたものではなかった。ならば一体、誰に向かって奇蹟は使われているというのか。
「ヨハン、この間行ったドイツ料理店を覚えているかい?」
「ああ、お前とヴィオラとで行ったあの店か。それがどうかしたか」
「……店主がね、あの日のことを神界大会議に密告したんだ」
 オイレンシュピーゲルが、トランクの蓋を閉める。荷物が多過ぎるのか、上手く閉まらないようだ。上に乗り、力を込める。それでも、鍵はかからない。
「まさか。だってあそこはお前の馴染みの店だと言うから」
「馴染みの店だよ。これまでちゃんと使う度に口止め料も払っていたしね」
「なら急にどうして……」
「ヴィオラだよ。神界大会議は<戦女神>ヨシナガの共犯者としてあの女神を指名手配している。唯一神側に寝返った僕よりも、彼女の方が目立ったみたいだね」
 目の前が真っ暗になる。
 神界を裏切ったオイレンシュピーゲルと、指名手配犯のヴィオラ。その二柱と一緒に会食をしていた自分だけが疑われないわけがない。叩けば埃の出る身体だ。それだけに、これまでは十分な注意を払って生活してきた。何故今回に限って、こんな初歩的なミスをしてしまったのか。
「まさかティル、お前」
「はい、御明察。僕が悪戯を仕掛けていたのは<戦女神>ヨシナガじゃなくて、ヨハン、君の方だったんだよ」
「どういうことだ……どういうことなんだ?」
「<戦女神>ヨシナガを罠に嵌めるというのは確かに僕の受けた仕事だけど、指示を受けたのは社会的な信用を失墜させる所までだからね。それについては完全に果たせたと思う」
「そんなことを聞いているんじゃない!」
「まぁ、そう怒らないで。ちゃんと順を追って説明するからさ。僕は仕事と悪戯は分けて考えるタイプなんだ。美意識としてね。昔は命じられた仕事を如何にしてぶち壊しにしてやろうかって考えてたんだけど、最近はそれも飽きちゃった。だからヨハン、君に目を付けたんだ」
「ティル、お前が何を言っているのかさっぱり分からない。何故そこでオレの名前が出るんだ。関係ないじゃないか」
「だってヨハン、君は日々を懸命に生きてるんだもん。そういうキラキラしたものって、壊したくならない?」
 思わず拳を握りしめた。目の前の少年神を、殴りたい。泣き喚いて許しを乞うまで、殴り続けることができたら、どれだけ幸せだろう。だが、そんなことをしても何もならないことに、ヨハンは気付きはじめていた。
「僕はねヨハン、君の失脚を失脚させるために奇蹟を使っていたんだ。もちろん、君の組織を壊滅させることも含めてね」
「どうしてそんなことを……」
 考えてみれば思い当たる節がある。重大な決断をする時に何故か注意力が散漫になったり、慎重になるべきところで不思議と自信が湧いて来たり、普段なら有り得ないようなことがヨハンの中で起こっていた。
 まともな精神状態なら、ヴィオラなどという素人を重要な任務に就けるはずはなかったのだ。打ち合わせも、信用のおける場所でしかやらなかったはずだ。それもこれも、オイレンシュピーゲルの奇蹟の効果だったということだろう。
「ま、運が悪かったと思って諦めてよ。僕は随分と楽しめたんだけど。本当のところは、僕の目的は邪神ヒラノの復活だったんだ。復讐するためにね。そのために、マルクントを焚きつけることまでしたんだから、随分と手間がかかったよ」
「ティル、いやオイレンシュピーゲル、貴様という奴は!」
「怒らない、怒らない。形ある物はね、いつかは必ず壊れるんだ。組織だって同じことさ」
「そうだ、組織だ。唯一神側の組織で、神界にここまでの規模を持っている組織は無いぞ。それを失う責任をお前は取れるのか?」
 末端の情報屋も含めれば三〇〇柱を数える組織だ。唯一神がそれを手放すとは考えられない。何らかの救済があると思ってもいいのではないか。いや、そのはずだ。ヨハンの頭の中で激しく計算が行われる。まだ助かる道はある。そのはずだった。
「ヨハン、まさにその一言が、君の無能の証明なんだよ」
「何だと?」
「君の組織の構成員は確か三百十七柱だったっけ? 確かにちょっとした規模だと思うけど、神界全体を監視したり、何か大規模な工作をしたりするには、ちょっと小さいと思わない?」
「それでも最大は最大だ。規模はこれからもっと大きくなる」
「違うんだ、ヨハン。君は全く分かっていない。神界には、もっと大きな組織があるんだ」
「……えっ」
 オイレンシュピーゲルが何を言っているのか、一瞬理解できなかった。いや、信じることができなかったのだ。信じるわけにはいかなかった。
 神界に、ヨハンの物よりも大きな組織がある。もしそんなものがあったとして、ヨハンがその事に気付かなかった理由は一つしかない。あちらの方が、上手なのだ。狡猾で、賢明で、強力な組織。そんなものが神界に存在するのなら、ヨハンのやっていたことはとんだ茶番だということになる。
「考えてもみて欲しいね。どうしてこのタイミングで白鳥城のような物ができたのか」
「それは、<黒髪姫>が……」
「切っ掛けに過ぎないよ、ヨハン。それだけで腰の重い神界大会議が本当に動くと思っているの?」
 オイレンシュピーゲルの言っていることは本当なのだろうか。ヨハンは自問した。もう一つの組織は、大会議の意思すら思いのままだと言っている風に聞こえる。そこまでではないにしろ、何かしらの影響を与えることはできる。そういう組織の存在を考えた方が、確かにしっくりくることは多かった。単なる誇大妄想じみた嘘には聞こえない。
 ヨハンは、天井を仰いだ。
 これまでに積み上げてきたものが、一瞬にして崩れていく。組織は持たないだろう。三〇〇を纏めるのは、長であるヨハンだけの仕事だった。自身がいなくなった組織がどうなるかは、想像するまでもない。それは、胸に穴の開くような感覚だった。
「分かった、オレも逃げる」
「逃げるつもりなら、さっさとした方がいいよ。ヨシナガの脱獄で、大会議も気が立っているみたいだからさ」
「ああ、なるべく早く逃げることにするよ」
 裏口から逃げ出すオイレンシュピーゲルの背中を、ヨハンは見送った。
 不思議と、怒りは消えている。失ったものが、大き過ぎたのかもしれない。
 逃げる当てもないまま、ヨハンはのろのろと緩慢な動きで証拠の隠滅を始めた。どう考えても間に合わない。このままここにいれば捕まってしまう。そうとわかっていても、身体が動かないのだ。
 そこに、逃げたはずのオイレンシュピーゲルがひょっこりと顔を出した。
「うっかり約束を忘れてたよ、ヨハン」
「約束? 何か約束したか?」
「ああ、忘れてた? それなら無理して戻ることもなかったかな」
「勿体ぶるなよ。何の約束だ」
「ヴィオラの正体だよ。分かったら知らせるっていう約束だった」
 変なところだけ律儀な奴だとヨハンは思った。そんなことはもう、どうでもいい。
 ヴィオラというあの女神が今どこで何をしているのかにも、全く興味が湧かなかった。
「ま、聞くだけ聞いておくよ。ティル。あのヴィオラっていうのは、一体どこのどいつだったんだい?」
「隠し子だよ」
「隠し子? 何を言ってるんだ、ティル。お前も知ってるだろう。神は子供を作ってはならない。重罪だ」
「重罪でも何でも、できちゃったものはしょうがないんじゃないかな。生命の誕生はそれがどんな理由であっても祝われるべきだと僕は思う」
「そんなことはどうでもいい。で、誰の隠し子なんだ」
 ヨハンの耳にオイレンシュピーゲルが顔を近づけ、そっと囁く。
「唯一神の、だよ」

 不意に目が覚めた。
 寝苦しいという訳ではない。ドラクゥが公邸として使っている屋敷は、元々パザン随一の商館の主が使っていたものだ。それを献上された時のまま、手を加えずに使っている。建物の風通しに工夫があるのか、暑い夜でも快適に過ごすことができた。
 仰向けに天井を見つめながら、ドラクゥは去っていった兄弟子の言葉を思い出している。
 王が王であるためには、孤独でなければならない。その一言は今も、胸の中で別の生き物のように蠢いている。
 生まれてからずっと、孤独はドラクゥの側にあった。対等な者は、誰もいない。最初からそれが当たり前だったのだ。
 エリィナやハツカ、あるいはシーナウは、近くにいたと言えるかもしれない。しかしそれは距離的なものであって、心は離れたままだった。
 周囲の家臣は、近しい者を作ることで敢えて違いを際立たせようと仕向けていたとさえ思える。それはいつしかドラクゥにも感染し、自然なものになっていった。
 家族もなく、友もなく。祖父という絶対者と、臣下だけがドラクゥの関わる者の全てだったのだ。小さな振る舞いの中にも、謙譲を示される。幼いドラクゥには心地良さよりも、拒絶としてしか受け取れないものもあった。
 孤独は、ドラクゥを鋭く研ぎ上げる砥石だ。それは、実感としてあった。
 ハツカの言うことは、正しいのだ。ただそれは一面的なものだという気がしている。
 孤独によって研ぎ澄まされた力が強いのであれば、何故<北の覇王>ザーディシュに敗れたのか。そのことが、ずっとドラクゥの心の中に引っ掛かっている。
 邪神を選び、ハツカを諦めたのも、そのためだった。
 今のドラクゥは、以前と比べて確実に強くなっている。
 怜悧さや、小手先の強さは失ったかもしれない。だが、全体としては新しい強靭さを手に入れた。それは民や臣下に寄り添う心から生まれたものだった。孤独が研いだものではない。その切っ掛けは、あの邪神のくれたものなのだ。
 夜具を剥ぎ、寝台から足を下した。
 薄く大理石の張られた床のひんやりとした感触が心地良い。胸の中で蠢く者は、さっきよりも随分と静かになっている。
 渇いた喉を潤そうと水差しに手を伸ばした時、窓を小さく叩く音が聞こえた。
 この寝室は三階にある。そのような訪いを入れるのは、魔族であるはずがない。
「ヒラノ様!」
 そこには邪神ヒラノと女神ヨシナガ、そして大きな熊の邪神の姿があった。人熊の邪神、エドワードだろうか。アルナハから報告に来ているエリィナより、顕現したという話だけは聞いている。ドラクゥは二柱にも、敬意の籠った挨拶をした。神とこれだけ接するなど、普通ではありえないことだ。


         † † †


 ヒラノと再会し、戦いへの気持ちを新たにするドラクゥ。
 その頃、はるか北の魔都では、ドラクゥの師、グラン・デュ・メーメルが出撃の準備を終え、闘志をみなぎらせていた。


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