2014年12月15日

千葉一幹氏の『宮沢賢治』(ミネルヴァ書房)

千葉氏には『賢治を探せ』(講談社メチエ選書)という著作がある。それはもっぱらテクストを文学として捉え、そのテクストを通して文学とは何かを問い返す試みである。

「この本は堅持をあくまでも表現=文学者として捉えようとする試みになっている。…それを終えた今、賢治を文学者としてではなく、彼の人生に焦点を当てた論考の必要性も感じている。」(『賢治を探せ』p−229)

前著では、『青森挽歌』と『銀河鉄道』に対する詳しい分析を通じて、文学の可能性と必要性が、言語の本質に立ち返って論じられていた(それゆえ、議論がやや抽象的・哲学的になるきらいがあった)。今回は繰り返しを避けるために、そこは最小限の言及がなされているにすぎない。本書は、それ単独で十分読むことができるものの、読者には、前著を続けて読むこと、特にその後半を読まれることを勧めたい。
 

本書は評伝ということもあり、賢治の成長に沿って、いかなるところから文学者賢治が発生するのかを見極めようとする。もともと氏には、作品と作者の社会的基盤への関心が高かったが、もとよりそれは基底還元主義的な、唯物史観的なものではない。唯物史観は、マルクス自身が『経済学批判序説』で、ギリシア古典に関して認めているように、古典的作品の価値や意味を理解するには不十分なのである。
 

千葉氏の社会史的関心は、今日の文学に対する危機意識に発するものではないか? 文学はもはや自明のものではないのだ。それは、イギリス文学研究において、文学そのものの本質への問いに突き当たった漱石の問題意識に近いものである。漱石には、すでに東洋文学の伝統に深い造詣があった。しかし、近代世界市場の中心においてイギリス文学の対する強い違和感を持ったとき、漱石は近代文学そのものの本質、それゆえまた近代と文学の本質を、根本から問い返さざるを得なかったのである。
 

漱石の場合と違って、賢治は辺境に生まれた。千葉氏は、東北の地が江戸末期、商品貨幣経済に巻き込まれるにつれて、以前よりまして過酷な状況に陥った様子を、的確に描き出す。すなわち、自給自足経済の下で、稗・粟など冷害に強い穀物の生産に代えて、米を商品用として生産することになり、冷害の被害が深刻化したばかりではない。冷害の予測によって、米価が高騰した場合、備蓄米までが市場に供出される結果、餓死者が急増したのである(p−12)。
 

しかし、千葉氏はこのような辺境性に何か逆説的価値を見出すといったゆがんだオリエンタリズムに流れるわけでも、土着性や「大衆の原像」といった理念をでっちあげるわけでもない。むしろ、辺境の地にあって、宮沢家が例外的に裕福であり、古着商兼質屋の経営で、賢治の父政次郎が商才を発揮したことを重視する。
 

政次郎は、関西にまで古着の買い出しに赴き、関西と東北の地理的差異のみならず時間的差異をも利用した。つまり、文化的先進地域である関西では流行遅れになった衣服を安く仕入れ、それを流行の末端にあった東北で売りさばくという形で、利益を生み出す商業モデルを開発したのである。この差異を飛び越えるものが、鉄道であった。東北から東京を経由して関西まで鉄道がつながったのが明治24年――その同じ年に、政次郎は初めての買い出しに出かけている(p−26)。驚くべき先見性である。

政次郎において、時空的越境によって商売の利益をもたらした鉄道が、賢治においては、彼岸と此岸、生死の境を越境する装置へと隠喩的に変容する(p−29)。『銀河鉄道』は言うまでもないが、『青森挽歌』においても、死んだトシの行方を追い求める旅が鉄道に求められている。

越境する存在として、やがて賢治は、父の圏域を離れて東京へと(つまりは日蓮宗国柱会へと)出立しようとする。国柱会とは、檀家制度から独立した在家仏教で、日蓮宗特有の激しい折伏活動を通じて国家変革を目指した、国粋主義的・農本主義的傾向を濃厚に持った新興宗教団体である。賢治は、「内面的個人志向型」の政次郎の宗派(真宗)を批判し、社会性を持つ日蓮宗によって、父とその狭隘な圏域とを同時に乗り越えようとしたのである。

このあたりの記述――一方では家業を離れて独立しようとする意志が、国柱会という世界観(イデオロギー)集団とのかかわりへと導き、家族ゲーム的問題が宗教戦争的対立へと転化してゆく記述の詳細は、実に生き生きとしている。

「慈悲深い」(p-184)両親を否定するために、イデオロギーが援用されるのは珍しいことではない。しかし、この性急な理念的上昇に、賢治は満足しなかった。父の権威を、より大きな権威によって否定するだけであれば、それは何ほどのことでもない。別の権威にしがみつくだけだ。現実を否定するユトピア主義が、現実とは別の権力を支えたり、ルサンチマンの代理となることも多い。

しかし、賢治の中には「すべての生き物の本当の幸ひ」(p−230)というものが決して自明なものではなく、常に問い返されるべき謎として課せられたものであり続ける。そのため、イデオロギーが他者への道徳的恫喝に変質することはなく、むしろ自己犠牲への衝迫になるのである。

この路を決定づけたものが、妹トシの死という経験であった。「うまれでくるたて⁄こんどはこたにわりやのごとばかりで⁄くるしまなあよにうまれてくる」(今度生まれ変わる時には、このように自分のために苦しむのではなく、他の人々のために苦しみたい)というトシの言葉は、身内でない我々の胸にさえ鋭く突き刺さるものであるが、最愛の者にとって、問い返させずにはおかない決定的重みをもったに違いない。その意味で、死者との絆こそが、賢治を飛翔させるバネとなったのである(p−231)。

どうかこれが天井のアイスクリームになって
おまえと皆に聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいわひをかけてねがふ  (『永訣の朝』)


トシからの言葉の委託が、賢治において「まことの幸ひ」への問いとなり、それが皆にとっての天井の糧へと変容することを祈るという祈りは、賢治自身の文学的言語へと結晶して、今や我々すべての前に、聖い糧として差し出されている。

千葉氏のこの達成に心から賛辞を贈りたい。


Posted by easter1916 at 03:36│Comments(0)TrackBack(0)

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