100記事書いたので、「はてな村」に来てからこれまでを振り返ってみる。 - Fuzzy Logic
とりあえずですね、この記事を書いてからさらに2か月くらい頑張ってきて、今なんとか171記事書いてきましたと。その間にわかったことと言えば、「100記事書いたくらいで『はてな村民になったぜいえーい!』なんてはしゃいではいけない」ということなんですが。
そうは言いながらも、購読者数も120人を超えたし、ぼくももうぼちぼち「はてな村民」を自認してもええんちゃうか、と心の片隅に慢心にも似た思いを燻らせていたんですが、ぼくの敬愛する青二才こと三沢さん*1のある呟きに、そんな儚い希望も打ち砕かれたわけです。
はてな村入りした人で長続きする人がなかなかいないから未だに村民の中で僕がルーキー扱いなんだよなぁ…。はてな村入りできたはてなブロガーってあとしっきーさんぐらいじゃないか?でも、彼は村ネタや村の会合に行く気がないからあんまり村民っぽくないんだよなぁ
— 三沢文也 (@tm2501) December 15, 2014
「はてな村に入れたはてなブロガーはしっきーさんぐらい」
なんということでしょう。ぼくが今まで「はてな村」と思っていた場所は、実は「はてな村」でもなんでもなかったのです。
思い返せば、「のべらっくす」でお世話になっているぜろすけさんのブログに、こんなことが書かれていました。
基本的にムラ社会は「何を言ったか」ではなく「誰が言ったか」が評価されやすい。同じことをイケメンが言うと「きゃーかっこいい!」と言われ、フヒヒクラスタが言うと「きんもーっ☆」と言われるのが関の山だ。
基本的に「はてな村」は、認知された人気アカウントが攻防を繰り広げている広大なバトルフィールドだ。だから認知されたアカウントが言及をすることで話題が広がり、「あのブログこんなこと言ってるわ」ってひそひそブコメなどで噂されるのである。
(中略)
そしてそういう「認知されたアカウント」の中で交流が繰り広げられるので、新参者には非常にわけのわからない話題が多い。(中略)そういった「過ぎ去った出来事の積み重ね」でこの「はてな村」は成り立っている。
(中略)
確かに「村民」と呼ばれる人はいる。でも「はてな」に集う人がみんな「村民」であるかと言えば違うと言いたい。別のサービスに逃げて行った人も何かあれば未だに「村民」の扱いを受ける。誰がそれを決めるかと言うのは非常に曖昧で「なんとなく」の感覚で決まってくるので一概には言えないけれど、とりあえずそういうことになっている。
「ムラ」社会。
賃料を払って賃貸アパートを借り、住民票を移せば、その「ムラ」の住所を手に入れることは出来る。しかし、それだけでは本質的な「村の一員」になることは出来ない。外様はいつまで経っても外様。よそ者はどこまで行ってもよそ者だ。
「よそ者」と「村の人」の間にある境界線を越えるためには、村に住む人々の多くに存在を認めてもらわなければならない。その「認知」は何をもってもたらされるのかは明確じゃない。「まつり」を経験し禊を済ませなければならないのかもしれないし、あるいは長い時間をかけて、ゆっくりとその存在を浸透させなければならないのかもしれない。
それは理屈じゃなく感覚的なものだ。しかし、感覚的なものだからこそ、「村に住む人」の多くはそれを共有することが出来る。
「誰こいつ?」から「ああ、○○の△△さんね」へ。
それが多くの村民の意識に浸透した時、初めてその人は「よそ者」と「村民」の間にある曖昧な境界線を越えたことになる。
このシステムって、物凄くアナログで、本当にこれは現代で起きてることなのか?って思ったりもするけど、人間の(あるいは日本人の)本質って実はこういうことなのかもしれないなぁ、とも思う。輪の中に入ればコミュニティの一員になれるわけじゃなく、時間をかけてゆっくりゆっくり関係を育んでいって初めてコミュニティの一員になれる*2。ネット上のサービスで、こういう現象が自然発生的に起きてるのは非常に面白いなぁと思いました。「サークル」じゃなくて「コミュニティ」ですもんね。
そういうことを考えると、「村民として認知されること」と「その状態を維持すること」を両立させるのはかなり難しそう。
広く認知されるためには、ある種の「炎上」に近いことは避けられず、「炎上」すれば「不特定多数からのネガティブな意見」を浴びることは避けられない。そういう「村民であり続けるためのストレス」に耐えながら「認知され続ける」というのは、大変なことだなと思います。そりゃ引っ越したくもなりますよね。
というわけで、結論としては「はてな村民とは自認するものではなく、既存の村民の多数から認知されることによって初めて村民となることが出来る」ということになりますでしょうか。はい、半年ROMります。
何周目だよと思われた方はすんませんでした。