ルーブルがたいへんなコトになっています。
これまでの経緯を詳しく知らない人も多いと思いますので、今日はロシアのこれまでの歩みを振り返ってみたいと思います。
ロシアは昔、ソ連と呼ばれ、そこでは計画経済が実施されていました。1957年から1987年までの30年間、ソ連は、所謂、5カ年計画に基づいて運営されてきました。
そこではゴスプラン(国家計画委員会)が全国レベルでの生産目標を立て、それに基づきコルホーズ、ソホーズなどの下部組織が地方レベルで各々生産目標を立ててゆきます。
この計画の実施の為に約70の政府機関が設置され、素材から完成品まで、あらゆるレベルで生産が監督・監視されました。
資源や人材の配分は政府が決定し、価格はあくまでも帳簿上の記録の為に存在し、西側の市場経済のように物価が資源や人材の配分を自然に決定するということはありませんでした。
政府は需給関係ではなく、政治的配慮からものの値段を決めてゆきました。例えばパンや電灯光熱費は、実際にそれらを生産するコストより低く価格が設定されました。この為、穀物よりも最終製品であるパンの方が安いので、農家が家畜に飼料ではなくパンを与えるということも平気で行なわれていました。
そういう非効率に加えて労働者のモチベーションを維持するのが困難であったこと、さらに価値の分配に際していちいち監督・監視しなければいけないので経済の間接部門が肥大化したことなどが、徐々にソ連の計画経済を活力の無いものにしました。
1985年に書記長に就任したミハイル・ゴルバチェフは、こうした現状に限界を感じ、ペレストロイカ(政治および経済の改革)、グラスノスチ(情報の公開)などの改革を提唱し、沈滞するソ連経済の梃入れを試みます。
伸び悩みながらも比較的安定的に推移していたロシアの原油生産が90年代の前半に突然、つるべ落としに激減するという事態が起きました。アゼルバイジャン地方の政情が不安定になり、油田のメンテナンスに必要な機器の供給が滞ったりしたことが状況を一層悪くし、1988年のピークから1995年にかけてロシアの原油生産は実に40%近く落ち込みました。
1986年に起こったチェルノブイリ原子力発電所の大事故もソ連の求心力を弱める結果となり、1989年11月にはベルリンの壁が崩壊、ソ連邦に属していた国々は続々と連邦を離脱します。
1991年8月には一連の改革に反対する共産党の保守派が画策したクーデターが起こります。つい2ヶ月前にロシアの大統領に選出されたボリス・エリツィンはモスクワの議会を取り囲んだ戦車の上によじ登り、クーデターが違法であるという演説をしました。この時は民主主義を望む国民の感情の機微をエリツィンが鋭く察知し、危機一髪で改革を救った格好になったわけです。
しかし、1991年頃のロシア経済は大変差し迫った状況にあり、砂糖、ミルク、食肉などあらゆる食料品、そして生活必需品が店頭から消えました。エリツィン大統領は状況打開の為に大きな博打を打つ決心を固め、経済学者のガイダールを副首相に任命し、市場経済への移行のプランを全て一任します。
これまでの経緯を詳しく知らない人も多いと思いますので、今日はロシアのこれまでの歩みを振り返ってみたいと思います。
ロシアは昔、ソ連と呼ばれ、そこでは計画経済が実施されていました。1957年から1987年までの30年間、ソ連は、所謂、5カ年計画に基づいて運営されてきました。
そこではゴスプラン(国家計画委員会)が全国レベルでの生産目標を立て、それに基づきコルホーズ、ソホーズなどの下部組織が地方レベルで各々生産目標を立ててゆきます。
この計画の実施の為に約70の政府機関が設置され、素材から完成品まで、あらゆるレベルで生産が監督・監視されました。
資源や人材の配分は政府が決定し、価格はあくまでも帳簿上の記録の為に存在し、西側の市場経済のように物価が資源や人材の配分を自然に決定するということはありませんでした。
政府は需給関係ではなく、政治的配慮からものの値段を決めてゆきました。例えばパンや電灯光熱費は、実際にそれらを生産するコストより低く価格が設定されました。この為、穀物よりも最終製品であるパンの方が安いので、農家が家畜に飼料ではなくパンを与えるということも平気で行なわれていました。
そういう非効率に加えて労働者のモチベーションを維持するのが困難であったこと、さらに価値の分配に際していちいち監督・監視しなければいけないので経済の間接部門が肥大化したことなどが、徐々にソ連の計画経済を活力の無いものにしました。
1985年に書記長に就任したミハイル・ゴルバチェフは、こうした現状に限界を感じ、ペレストロイカ(政治および経済の改革)、グラスノスチ(情報の公開)などの改革を提唱し、沈滞するソ連経済の梃入れを試みます。
伸び悩みながらも比較的安定的に推移していたロシアの原油生産が90年代の前半に突然、つるべ落としに激減するという事態が起きました。アゼルバイジャン地方の政情が不安定になり、油田のメンテナンスに必要な機器の供給が滞ったりしたことが状況を一層悪くし、1988年のピークから1995年にかけてロシアの原油生産は実に40%近く落ち込みました。
1986年に起こったチェルノブイリ原子力発電所の大事故もソ連の求心力を弱める結果となり、1989年11月にはベルリンの壁が崩壊、ソ連邦に属していた国々は続々と連邦を離脱します。
1991年8月には一連の改革に反対する共産党の保守派が画策したクーデターが起こります。つい2ヶ月前にロシアの大統領に選出されたボリス・エリツィンはモスクワの議会を取り囲んだ戦車の上によじ登り、クーデターが違法であるという演説をしました。この時は民主主義を望む国民の感情の機微をエリツィンが鋭く察知し、危機一髪で改革を救った格好になったわけです。
しかし、1991年頃のロシア経済は大変差し迫った状況にあり、砂糖、ミルク、食肉などあらゆる食料品、そして生活必需品が店頭から消えました。エリツィン大統領は状況打開の為に大きな博打を打つ決心を固め、経済学者のガイダールを副首相に任命し、市場経済への移行のプランを全て一任します。
ガイダールはロシアでも有名な共産党幹部の家系に生まれ、一家が海外の任地に駐在させられたことなどから普通のロシア人には許されていない西洋の書物などに接する機会がありました。
ガイダールはアダム・スミスやポール・サミュエルソンの著書に触れるうちにソ連の経済がいずれ取り返しのつかない危機に瀕することを予感し、早くから有識者の集いを組織します。
ソ連の取るべき新しい経済政策を討議する、非公式なシンポジウムは既に1986年から毎年開催され、後に国家企業の民営化の責任者となったアナトリー・チュバイスなど新しいロシアの経済を動かしてゆく中心的な人物の多くがこのグループから輩出されます。
その後、ガイダールは共産党の機関誌である『コミュニスト』の経済記事の編集者に任命されたことから、検閲を心配することなく新しい経済の在り方について論陣を張ってゆきます。
1991年11月にガイダールが副首相に任命され、ゴスプランの総責任者になった時点では既に市場経済以外にロシアを救う道は無いということをガイダールは確信していました。問題は計画経済から市場経済への移行を具体的にどう進めるか?ということです。
そのアプローチとしては段階的に徐々に市場経済を導入する方法と、共産主義の枠組みを即、解体して、いきなり市場経済へ移行する、所謂、ショック療法という方法が議論されました。
ショック療法の影響はそれまでベールに包まれていたソ連経済の内包する病理を全て一度に曝け出してしまうというものでした。1999年までにはロシアの経済規模は10年前の約半分程度迄縮小し、この過程でロシア国民が味わった辛苦は1929年のNY市場の大暴落に端を発する大恐慌の時以上だったと言われます。
ショック療法の施行第一弾として1992年1月から電灯光熱費や一部の食材を除く殆どの品目に関して価格統制が取り払われました。当然の結果としてその直後、ロシアはハイパー・インフレに見舞われます。価格の値上がりを容認する狙いは退蔵されている商品を市場に引き出し、物資の不足を解消すること、また、儲ける機会を提供することで生産を刺激することにありました。
しかし、長年の共産主義のリズムに慣れたロシア経済が、瞬時に新しいスピードについてゆけるはずはありません。経済の混乱はすぐに解決するどころか混迷はますます深まり、政府の内部でも経済改革を押し進める決意は揺らぎました。その結果、支持を失ったガイダールは1年足らずで副首相の地位を辞任に追い込まれます。
ガイダールがロシアの市場経済をデザインした設計者だとすれば、その施工を実際に担当したのがアナトリー・チュバイスです。
チュバイスはロシアの市場経済移行初期にあって最も傑出した行政手腕ならびに交渉力を持っていた人物です。また、世界銀行やIMFに対する心証もすこぶる良く、このロシアの混乱期に一連の改革が成就できたのはチュバイスの働きによるところが大きいと思います。
チュバイスの最初の大きな仕事は国営企業を民間に払い下げる仕事でした。この払い下げにあたり、バウチャー、つまり将来株式を購入する権利が記された引換券が国民に配布されました。これが所謂、バウチャー・プライベタイゼーションと呼ばれる方法です。
ところで民営化はそれまで国営工場の経営にあたっていたソ連のエリートにとって自分の地位がおびやかされる危険を意味します。ですから民営化という時代の流れに逆らいたいという心の動きが出ることは当然です。つまり反動勢力が形成されたわけです。
そこでチュバイスらは反動勢力を懐柔し迅速に民営化を推進するために工場の管理・監督者達に沢山の引換券を割り当てるという譲歩を余儀なくされます。これが後に「赤い重役達(レッド・ディレクターズ)」と呼ばれる旧勢力が市場経済移行後のロシアでも一定の影響力を維持する原因となります。
1992年8月に発表されたバウチャー・プライベタイゼーション計画では1992年9月以前に生まれた全てのロシア人にひとりあたり額面1万ルーブルの引換券が発行されました。
この引換券を手にした国民は個々の企業が払い下げられるのを待ったわけですが、大多数の国民は株式市場というものは見たこともないし、それが将来、どういう富を生む可能性があるかを理解するのは土台無理な事でした。多くの国民が街頭に登場した引換券売買の闇業者に安値で引換券を売り渡してしまったのは無理もありません。こうして業者によって買い集められた引換券はだんだん一部の富豪に買い集められました。これがのちにオルガルヒ(豪商)と呼ばれる資本家がロシアの産業界を牛耳るきっかけとなったわけです。
こうして曲がりなりにもロシア政府は1994年までに国営企業の過半数の株式を払い下げることに成功しました。あくまでも大まかな目安ですが、この時点での国営企業の所有関係は6割が民間、4割が政府の持ち株というイメージで良いと思います。
しかし、折角、民営化が進められたにもかかわらずロシアの経済は依然混迷の極みの様相を呈しており、エリツィン大統領の人気も落ち目でした。エリツィンは大統領選挙にむけて挽回策を練る必要がありました。国庫は払底しているし、共産主義の復活を願う勢力は日増しに隠然たる影響力を強めています。後に禍根を残すこととなった局面打開の為の方便が登場した背景にはこのような陰鬱な経済的閉塞感が少なからず影響していたことは見逃せない点だと思います。
さて、この閉塞状況に乗じて旨い解決策を提案する男が登場します。ウラジミール・ポターニンです。
彼はインテロスという持ち株会社を支配していたのですが、資金繰りに困っている国営会社に融資(ローン)をつける代わりに、経営にも口出しさせて呉れ、という取引を提案します。そうすれば大統領選挙でもエリツィンを支持するという暗黙の了解がここで交わされたわけです。「経営にも口出しする」ということはつまり支配証券としての株式の譲渡を意味するのですが、あからさまにそれを前面に打ち出すと聞こえが悪いので、表向きには「経営を預かる」という表現が使われました。これが後に「ローン・フォア・シェアーズ」と称されるロシア政府と民間のビジネスマン達との間の取り決めです。
ローン・フォア・シェアーズ方式による融資要請は内閣で検討され、1995年に大統領令として発布されます。これを受けてウラジミール・ポターニンは元ソ連の鉱山公社であったノリリルスク・ニッケルを、そしてミハイル・ハダルコフスキーは大手石油会社のユコスを乗っ取ります。
こうして折角、政府が温存していた民営化後の持ち株は融資(ローン)という名目で、二束三文でこれらの狡猾なビジネスマンに掠め取られてしまいました。
1998年のルーブル危機は、ロシアの民営化の過程で、西側の投資資金とロシアの株式ならびに資本市場との蜜月時代の揺り返しとして発生しました。
言い換えれば西側の機関投資家はロシアの市場経済への編入という、夢を買っていたに過ぎないのです。
実際、ルーブル危機以前のロシアのGDP成長率は、かなりメチャメチャです。

ちなみに現在のロシアのGDP成長率は年率0.7%と、かろうじてプラスという状況です。
一方、当時のインフレ率は28%でした。

現在のロシアのインフレ率は9%程度です。
1998年のロシアの失業率は11.9%でした。

現在は5.1%です。
現在、ロシア経済がたいへんなコトになっている理由は:
1)ウクライナ情勢に関し西側諸国がロシアに対し経済制裁していること
2)原油価格が急落していること
3)ソチ・オリンピックで国庫から5.8兆円を無駄遣いしたこと
などによります。しかし、それにつけても1998年当時と現在のロシア経済の足腰の強さを比較すると、今の方が比較にならないほど強いわけです。
今回のルーブル危機は、そんな市場関係者の自信を、あっと言う間に打ち砕きました。
ロシアでは経済危機が起きる度にリーダーが交代しています。エリツィンも混乱の中から頭角を現したし、プーチンも同様です。彼らが彗星の如く登場したときは、いずれも国際的には無名に近いダークホース的存在でした。
しかるに我々投資家は、今後のロシアにおける大きな政変もシナリオとして想定しておく必要があるように感じます。
そして次のロシアのリーダーシップが、西側機関投資家の目から見て、これまでよりも株主やビジネスに対してフレンドリーである保証は、どこにもないのです。
(文責:広瀬隆雄、Editor in Chief、Market Hack)
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ガイダールはアダム・スミスやポール・サミュエルソンの著書に触れるうちにソ連の経済がいずれ取り返しのつかない危機に瀕することを予感し、早くから有識者の集いを組織します。
ソ連の取るべき新しい経済政策を討議する、非公式なシンポジウムは既に1986年から毎年開催され、後に国家企業の民営化の責任者となったアナトリー・チュバイスなど新しいロシアの経済を動かしてゆく中心的な人物の多くがこのグループから輩出されます。
その後、ガイダールは共産党の機関誌である『コミュニスト』の経済記事の編集者に任命されたことから、検閲を心配することなく新しい経済の在り方について論陣を張ってゆきます。
1991年11月にガイダールが副首相に任命され、ゴスプランの総責任者になった時点では既に市場経済以外にロシアを救う道は無いということをガイダールは確信していました。問題は計画経済から市場経済への移行を具体的にどう進めるか?ということです。
そのアプローチとしては段階的に徐々に市場経済を導入する方法と、共産主義の枠組みを即、解体して、いきなり市場経済へ移行する、所謂、ショック療法という方法が議論されました。
ショック療法の影響はそれまでベールに包まれていたソ連経済の内包する病理を全て一度に曝け出してしまうというものでした。1999年までにはロシアの経済規模は10年前の約半分程度迄縮小し、この過程でロシア国民が味わった辛苦は1929年のNY市場の大暴落に端を発する大恐慌の時以上だったと言われます。
ショック療法の施行第一弾として1992年1月から電灯光熱費や一部の食材を除く殆どの品目に関して価格統制が取り払われました。当然の結果としてその直後、ロシアはハイパー・インフレに見舞われます。価格の値上がりを容認する狙いは退蔵されている商品を市場に引き出し、物資の不足を解消すること、また、儲ける機会を提供することで生産を刺激することにありました。
しかし、長年の共産主義のリズムに慣れたロシア経済が、瞬時に新しいスピードについてゆけるはずはありません。経済の混乱はすぐに解決するどころか混迷はますます深まり、政府の内部でも経済改革を押し進める決意は揺らぎました。その結果、支持を失ったガイダールは1年足らずで副首相の地位を辞任に追い込まれます。
ガイダールがロシアの市場経済をデザインした設計者だとすれば、その施工を実際に担当したのがアナトリー・チュバイスです。
チュバイスはロシアの市場経済移行初期にあって最も傑出した行政手腕ならびに交渉力を持っていた人物です。また、世界銀行やIMFに対する心証もすこぶる良く、このロシアの混乱期に一連の改革が成就できたのはチュバイスの働きによるところが大きいと思います。
チュバイスの最初の大きな仕事は国営企業を民間に払い下げる仕事でした。この払い下げにあたり、バウチャー、つまり将来株式を購入する権利が記された引換券が国民に配布されました。これが所謂、バウチャー・プライベタイゼーションと呼ばれる方法です。
ところで民営化はそれまで国営工場の経営にあたっていたソ連のエリートにとって自分の地位がおびやかされる危険を意味します。ですから民営化という時代の流れに逆らいたいという心の動きが出ることは当然です。つまり反動勢力が形成されたわけです。
そこでチュバイスらは反動勢力を懐柔し迅速に民営化を推進するために工場の管理・監督者達に沢山の引換券を割り当てるという譲歩を余儀なくされます。これが後に「赤い重役達(レッド・ディレクターズ)」と呼ばれる旧勢力が市場経済移行後のロシアでも一定の影響力を維持する原因となります。
1992年8月に発表されたバウチャー・プライベタイゼーション計画では1992年9月以前に生まれた全てのロシア人にひとりあたり額面1万ルーブルの引換券が発行されました。
この引換券を手にした国民は個々の企業が払い下げられるのを待ったわけですが、大多数の国民は株式市場というものは見たこともないし、それが将来、どういう富を生む可能性があるかを理解するのは土台無理な事でした。多くの国民が街頭に登場した引換券売買の闇業者に安値で引換券を売り渡してしまったのは無理もありません。こうして業者によって買い集められた引換券はだんだん一部の富豪に買い集められました。これがのちにオルガルヒ(豪商)と呼ばれる資本家がロシアの産業界を牛耳るきっかけとなったわけです。
こうして曲がりなりにもロシア政府は1994年までに国営企業の過半数の株式を払い下げることに成功しました。あくまでも大まかな目安ですが、この時点での国営企業の所有関係は6割が民間、4割が政府の持ち株というイメージで良いと思います。
しかし、折角、民営化が進められたにもかかわらずロシアの経済は依然混迷の極みの様相を呈しており、エリツィン大統領の人気も落ち目でした。エリツィンは大統領選挙にむけて挽回策を練る必要がありました。国庫は払底しているし、共産主義の復活を願う勢力は日増しに隠然たる影響力を強めています。後に禍根を残すこととなった局面打開の為の方便が登場した背景にはこのような陰鬱な経済的閉塞感が少なからず影響していたことは見逃せない点だと思います。
さて、この閉塞状況に乗じて旨い解決策を提案する男が登場します。ウラジミール・ポターニンです。
彼はインテロスという持ち株会社を支配していたのですが、資金繰りに困っている国営会社に融資(ローン)をつける代わりに、経営にも口出しさせて呉れ、という取引を提案します。そうすれば大統領選挙でもエリツィンを支持するという暗黙の了解がここで交わされたわけです。「経営にも口出しする」ということはつまり支配証券としての株式の譲渡を意味するのですが、あからさまにそれを前面に打ち出すと聞こえが悪いので、表向きには「経営を預かる」という表現が使われました。これが後に「ローン・フォア・シェアーズ」と称されるロシア政府と民間のビジネスマン達との間の取り決めです。
ローン・フォア・シェアーズ方式による融資要請は内閣で検討され、1995年に大統領令として発布されます。これを受けてウラジミール・ポターニンは元ソ連の鉱山公社であったノリリルスク・ニッケルを、そしてミハイル・ハダルコフスキーは大手石油会社のユコスを乗っ取ります。
こうして折角、政府が温存していた民営化後の持ち株は融資(ローン)という名目で、二束三文でこれらの狡猾なビジネスマンに掠め取られてしまいました。
1998年のルーブル危機は、ロシアの民営化の過程で、西側の投資資金とロシアの株式ならびに資本市場との蜜月時代の揺り返しとして発生しました。
言い換えれば西側の機関投資家はロシアの市場経済への編入という、夢を買っていたに過ぎないのです。
実際、ルーブル危機以前のロシアのGDP成長率は、かなりメチャメチャです。
ちなみに現在のロシアのGDP成長率は年率0.7%と、かろうじてプラスという状況です。
一方、当時のインフレ率は28%でした。
現在のロシアのインフレ率は9%程度です。
1998年のロシアの失業率は11.9%でした。
現在は5.1%です。
現在、ロシア経済がたいへんなコトになっている理由は:
1)ウクライナ情勢に関し西側諸国がロシアに対し経済制裁していること
2)原油価格が急落していること
3)ソチ・オリンピックで国庫から5.8兆円を無駄遣いしたこと
などによります。しかし、それにつけても1998年当時と現在のロシア経済の足腰の強さを比較すると、今の方が比較にならないほど強いわけです。
今回のルーブル危機は、そんな市場関係者の自信を、あっと言う間に打ち砕きました。
ロシアでは経済危機が起きる度にリーダーが交代しています。エリツィンも混乱の中から頭角を現したし、プーチンも同様です。彼らが彗星の如く登場したときは、いずれも国際的には無名に近いダークホース的存在でした。
しかるに我々投資家は、今後のロシアにおける大きな政変もシナリオとして想定しておく必要があるように感じます。
そして次のロシアのリーダーシップが、西側機関投資家の目から見て、これまでよりも株主やビジネスに対してフレンドリーである保証は、どこにもないのです。
(文責:広瀬隆雄、Editor in Chief、Market Hack)
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