ボンタイ

社会、文化、若者論といった論評のブログ

オタク文化の衰退について 

  私の勝手な持論だが、あらゆる消費文化には以下のような流行と凋落のスパンがあると思う。

 

①都会の変態の若者が勝手に作り始めていく

 ↓

②都会の高情報感度層(新しいもの好き、ユニークなもの好き)が飛びつく

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③都会の若者全般に広まり、やがてオトナや子どもにもすそ野が広がっていく

 ↓

④地方の若者にも広まってゆき、大人にも広まるようになる

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⑤よほど情報弱者でもない限り日本人全体が知るようになる。最終的には「田舎のお爺ちゃんでもNHKやローカル新聞を通じて知るようになる」

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⑥やがて全体に蔓延すると、陳腐化を引き起こし、衰退していく

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⑦世間の関心を一気に失うものの、形そのものは崩壊せずに「古典」として確立されていく

 

 だいたいどの文化もこの流れにある。

 戦後時期なら「ジャズ」がそれだった。ジャズはマッカーサー元帥とともに厚木基地から東京神奈川の好感度層の若者に広がった。太陽族とか焼け跡世代の中でもバタ臭い文化を良しとした人たちだ。それがやがて若者全般に広がったが、当初は「不良の音楽」として社会から嫌悪された。ジャズの流れる喫茶店は不良のたまり場とされていたのだ。

 しかし2014年現在なら、ジャズは寧ろ品格のある音楽だと思う人の方が多い。中高年の洒落た人たちはだいたいたしなんでいる。グレン・ミラーすら知らない若者は無知だと言われそうだ。

 ジャズの次に戦後昭和の日本で流行ったロックもそうだったし、きっと戦前の「オッペケペー節」 や「パイノパイノパイ」 も俗悪だと言われたのだろう。江戸時代なら歌舞伎がそうだ。本来はヤマンバギャルみたいな周囲をビビらす奇怪な見た目をした「傾奇者」たちが原点なのに、大衆文化となったあげくにいつの間にか日本古来の高貴な伝統文化に成り上がっている。そうやって何事も、廃れると暗黙の了解の「古典」になるのだ。

 

 さて、冒頭に引用した「渋谷の若者文化」だが、まさにそれもこの流れに沿っている。

 いわゆるコギャルは最初、ありえないくらいヤバい存在だった。ふなっしーが初見の時にヤバい奴にみえたのと同じであった。厚化粧や茶髪やルーズソックスなどはバブル期の女子高校生の妙に清楚な感じ逆張りであった。しかめっ面でまき散らす「チョベリバ」とかいう言葉が流行ったりしていたのは、若き日の宮沢りえ中山美穂の女子高校生像を見事にぶち壊していたのだと思う。ちなみに本年度のギャル語大賞は何も選ばれなかったらしいから、完全にこの文化はお通夜にあるのだろう

 渋谷が廃れ、秋葉原が栄えたという話は、首都圏の人間ならうすうす感づいていることだ。モー娘。が流行文化の座からは退場してAKB48の時代になったのだ。モー娘。自体は今も残っているが一部の古いマニアが推しているだけである。政党でいえばおタカさんの時代からの団塊に支持されている社会党みたいなものだ。

 

 そして今まさに衰退しているのがオタク文化だと思う。

 冒頭の文化の流れに時期を当てはめてみると・・・

 

①都会の変態の若者が勝手に作り始めていく 1980年代ごろ

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②都会の高情報感度層(新しいもの好き、ユニークなもの好き)が飛びつく 1990年代半ばくらい

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③都会の若者全般に広まり、やがてオトナや子どもにもすそ野が広がっていく 2000年代前半ごろ

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④地方の若者にも広まってゆき、大人にも広まるようになる 2000年代半ば

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⑤よほど情報弱者でもない限り日本人全体が知るようになる。最終的には「田舎のお爺ちゃんでもNHKやローカル新聞を通じて知るようになる」 2010年代前半

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⑥やがて全体に蔓延すると、陳腐化を引き起こし、衰退していく 2010年代半ば。つまり今!

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⑦世間の関心を一気に失うものの、形そのものは崩壊せずに「古典」として確立されていく たぶん数年後

 

 という流れになる。

 オタク文化が今の形を確立したのは2005年の秋葉原ブームの頃だろう。この頃世に知れ渡って、多くの日本人から「オタク文化とはこういうものか」と判別し、そのプロットに則った自称オタク若者が平成生まれ世代にぶわっと増えたのがこの時期だ。

 

 この「③都会の若者全般に広まり、やがてオトナや子どもにもすそ野が広がっていく」と言う段階がユニークな文化としては死亡推定時刻だ。なぜなら様式が固まるからだ。

 コギャル文化の場合は1995年がまさにその時期だった。珍しい頃はまだ文化のコンセプトが固まってないがゆえの「自由度」があった。たぶんガングロじゃないコギャルも、ルーズソックスではなく三つ折り靴下を履いた子も大勢いたに違いない。

 オタクの場合は、「美少女キャラクターを性消費すること」と「流行りのラノベ原作アニメを追いかけること」が様式化されてしまった。それによって、言葉通りの意味でマニアックな人たちはそぎ落とされたのだ。特定の深い世界観や設定のある作品を新刊が出なかろうが発表してずいぶん歳月が経っていようがマイペースに楽しむとか、そういうゆとりはなくなった。

 2000年頃までは本屋に行くと、ドラクエやFFのような一本道RPGにモチーフを得たような西洋を舞台にしたファンタジーRPGのようなラノベがたくさんあったが、2005年にはほとんど消えていた。美少女キャラに欲情するための「要素」として戦いやファンタジーが用いられる学園もの、みたいなのはあったが、そもそも単純に男女交際を描いたものや馴れ合いの学園ものばかりになってしまった。因みに平成生まれ世代はファミコンを知らない最初の世代でもあるから、オタク層の世代交代に伴う変化だともいえそうだ。純粋なファンタジーRPG的なモノを好むニーズはホビットハリーポッター辺りのハリウッド映画回収されたんだと思う。

 

 そして、

 「⑤よほど情報弱者でもない限り日本人全体が知るようになる」のレベルは一度殺したフグから毒を抜くようなものである。

 

 どの文化も、反社会性や犯罪との関連性を連想するものがあるものだ。

 たとえば先述のジャズの場合、ジャズ喫茶は左翼のたまり場だともされていた。極左暴力集団オルグされるかもしれない、そういうものが身近にいるかもしれないというヤバさが確実にあって、青少年を育てる側(親御さんや教師など)や公権力(あるいはNHKや新聞などの堅いメディア)もそれらをよしとしなかった。

 暴走族に象徴されるツッパリ文化全般は、そもそも道路交通法違反であるし、各種のリンチ事件などの社会秩序を乱す犯罪もあった。右翼団体や総会屋のリクルートもされていただろう。

 コギャル文化であれば、ものすごく偏見丸出しでいえば「クラブでチーマーにナンパされて円山町で援助交際」のようないかがわしさを連想するものでもあった。オタク文化であれば、二次元の絵に欲情することの異常さと、少女を一方的に支配的に暴力する児童ポルノの残虐性などが疎まれ、俗悪なものだとさていた。

 

 ここで注目すべきことは、「④地方の若者にも広まってゆき、大人にも広まるようになる」のフェーズであれば、そういう「毒をはらんでいる」ことも暗黙の了解だったということだ。

 つまり、割り切りのできる賢者(日本人ならではの空気が読めるか否か、察することができるかどうかであって、偏差値ではなく感性によるリテラシー)と、「毒」にあえて魅せられて憧れるような、調子に乗った中学生のような人間だけが乗っかることができた。彼らはある種、日常生活での抑圧性や緊張からのはけ口としてぞんぶんに文化を楽しんでいた。

 

 しかし、「⑤よほど情報弱者でもない限り日本人全体が知るようになる」際には、その毒分はしっかりと除去されることになる。無味無臭の、それこそ「音楽の授業で歌う童謡」とか「絶対にラフプレーや乱闘の怒らない体育の時間の野球」みたいな感覚に文化が定義されるのだ。

 そうやって、朝日新聞が肯定的に書評欄で普通にラノベを取り上げたり、beとかで初音ミクを話題にするようになった。NHKがオタクヨイショ番組をしょっちゅうやるようになり、体育祭のダンスの課題曲でアニソンが流れるようになったりするわけである。

 こういうものが、柔軟性のある都市部の大人たちばかりでなく、ヘルメットをかぶった制服姿の学生がギチギチの制服姿で「青い山脈」のノリで自転車通学をする地方ですら一般化して、岡山県の津山とか山形県の庄内みたいなトンデモナイ辺鄙な場所の学校にもオタクグループが当たり前にできたり、教師が痛車痛勤してきて生徒にちやほやされたり、田んぼの中にある日本家屋に住んでいる老人の家の縁側に孫のもってきたアニメイトの袋が無造作に置かれるようになれば、オタク文化は完全に死んだと言えるのだ。

 2010年ごろから、国語や社会・英語の教科書にコスプレイヤーが出てくるようになっているという。「クールジャパン」の紹介である。日本政府はクールジャパン政策に取り組んでいて、漫画大好き麻生太郎元総理や総務大臣などの大物政治家がテレビ番組やニコニコ超会議で積極的にオタクへ媚びている。当たり前だが、この事実は津山や庄内にも到達していることになるし、ベテランの公務員や教師も自身は演歌マニアだろうが方言丸出しでこれらの事実に基づいて教育をしたりすることになる。と同時に、彼らは子どもたちが茶髪になることやピアスをすることを犯罪と同然に見なしていて、男子は坊主頭、女子はおかっぱすっぴんであるべきだと本気で思いこんでいて、体罰も躊躇しないわけである。

 

 そうなると、オタク文化そのものの敷居がある意味上がることになる。本来ならだれもやりたくない学校活動の行事とかの雑務を見返りもなしに引き受けて、黙々とやってくれるような「内向的で地味ないい子」ばかりがそれをやるようになる。彼らは「毒」のようなものを最も拒みたがる子たちで、彼らに主導権が移れば映るほど、文化はどんどんエグみをなくし、つまらなくなってゆく。彼らがオタクであることに自信がなかったり無駄にテンション高いのは、「根が真面目な自分が、真面目であるべきと言う世間からの要望があるにもかかわらずオタクである事実」という認知的不協和をネタにしているからであって、彼らは根本的にはオタクではないのである。バスケコートのあった頃の、アニメイトすら路地裏の胡散臭いビルの2階か3階にあった頃の秋葉原のオタクのような「跳ね返り」ではない。

 

 

 2005年くらいまではオタク文化の世の中への広まりを、東京の「コギャル文化を受け入れたリベラルな大人たち」がむしろおもしろがっていた。それは、「跳ね返りを容認する社会」につながることでもあった。彼らだって若い頃はロックやバイクいじりなどにハマっていて、世間から不届き者扱いされていて、そこではいかがわしいなりによい思い出もあったりして、きっとオタクの気持ちに同情していたに違いない。

 しかし、2010年代になると、むしろオタク文化は不寛容になっていった。「純粋まっすぐ君」の中の、要するにEXILEすらチャラくてついていけない部類。RADやセカオワのようなロキノン系は頑張ってついてこれるみたいな、よほどチッポケに生きている彼らが主流層になっていった。

 

 封建的な文化ほどつまらないものはない。

 私は幼い頃にカルチャーセンターに習い事に行っていた。今も時々夢に出てくるのだが、地元のホームセンターの隣のビルに行き、カルチャーセンターの受け付けに行くと、いつも箏と尺八の合奏のBGMが流れていた。正月じゃあるまいし胸糞悪いなあと思っていたのだが、あれが客層に合わせた選曲だったのである。生け花をするとか、カラオケ教室するとか、そういう老人たちの集会場がカルチャーセンターである。稽古場に入るとそこにはBGMなんてなく、自分と同じ子どもしかいないからとてもよかった。海の中から陸上に吐き出されたような爽快感があった。

 

 あの「カルチャーセンターの老人臭」に近いものが今のオタク文化には確実にある。これじゃあだめだと思う。どんな面白かった文化も、「田舎地方の平凡な人の平凡な感覚」に目を付けられ、あげく彼らに散々しゃぶられて最適化され、そのような文化圏の公職者や老人も暗黙の了解として容認できるようになったら、もうあの尺八の重苦しさと同じ古典なのだ。実に下らねえ。