植民地を通してみた英米スポーツ

   第一部

プロローグ 第1章 第2章 第3章 第4章 第5章 特集1


特集 フットボールの分化
(update 2007/10/29)


1 パブリック・スクールとジェントルマン階級
2 ケンブリッジ・ルール
3 クラブの出現
4 サッカーとラグビーの誕生
5 ユニオンとリーグとの分離
6 サッカーとプロ化
7 オーストラレイジアにおいて、サッカーがラグビーに遅れをとった理由
8 それでは他のホームカントリーではどうだったか
9 野蛮なフットボール
10 ラグビー校VSイートン校、ハロー校
11 サッカーはハロー校の卒業生が創った

1 パブリック・スクールとジェントルマン階級

パブリック・スクールは、中世にできたウィンチェスターとイートンは別格として、ラグビー、ハローなど古典的有名校の大部分は16世紀に創立された。当初は、所在地の地域の貧しい家庭の子供たちに開かれた、月謝の払う必要のないフリー・スクール(無月謝学校)として、また、奨学金が給付されて勉強する給費生を多く持つ学校として出発した。いずれの学校も寄付による基本財産を基金としてもっており、学校の運営は授業料に依存していなかった(基金立学校)。

ところが、基金立学校は、インフレが起こると教師の給料は著しく低くなった。そこで教師の低給料を改善するために、授業料や寮費を自己負担する自費生を受け入れるようになり、次第に自費生が増えていった。また、寄宿学校の場合には、次第に学校が所在する地域だけでなく、全国各地から生徒を集めるようになっていった。さらに、17世紀には、それまで家庭教師を雇って教育していた上流階級で子弟をこれらの学校に行かせ始めた。こうしてパブリック・スクールは、18世紀後半には上流階級の子弟の学校になっていった。

ところが、そこでの教育を受け持つ校長や教師は、上流階級の子弟である生徒たちよりも低い階級に属する人々であった。そのため、生徒たちの教育やしつけに関して問題が生じるようになった。生徒たちは、自分よりも低い階級に属する校長や教師に指導されることを嫌がり、彼らを見くびって馬鹿にし、指導に従おうとしなかった。

当時のパブリック・スクールは、プリーフェクトと呼ばれる監督生を中心とした最上級生が、校長や教師を凌ぐ大きな力を持ち、他の生徒たちの上に君臨していた。また、上級生がファッグと呼ばれる下級生に私的な雑用をさせる慣習があり、上級生は下級生を相手に日常的にいじめや乱暴な悪ふざけを行っていた。そのような状況で、フットボールは上級生が下級生に権力をふるうための一つの手段になっていた。

このような中、1828年にラグビー校の校長に就任したトマス・アーノルドは、1842年に急逝するまでパブリック・スクールの抜本的改革を断行する。

アーノルドは荒れた生徒たちに対し、まず「筋肉的キリスト教」を通じて、レベルの高い道徳意識を説き、真のジェントルマンとしての人格教育を行う。毎週日曜日に彼は生徒たちに辛抱強く説教を説き、徐々に生徒たちの支持を得ていく。

次に、以前より問題視されていたプリーフェクト・ファッグ制を逆に改革に利用するため、正式に認め制度化した。上級生の代表者が下級生を正しく指導する組織を作り、この代表という役職に名誉を与える。代表になった者は、皆からエリートとみなされ、統率力、リーダーシップを期待される。そして、教師たちはこの代表を管理することで、生徒たちの生活態度を改善することができた。

仕上げはフットボールである。アーノルドはそれまでパブリック・スクール全般に行われていた狩猟や射撃のような主に上流階級が好んだ個人スポーツを嫌い、生徒たちにはフットボールなどの団体スポーツを積極的に取り入れた。集団で行うスポーツは学生同士が助け合い、尊敬し合う中で競技が行われ、彼の提唱するジェントルマン養成という目的にも好影響を与えると考えられたからである。

アーノルドは当時、資本主義の発達で徐々に層を拡大してきたブルジョア階級、つまり、第二階級と呼ばれた商工業に従事している中産階級の子弟を積極的に受け入れ、貴族の子供の受け入れを断った。そのため、ラグビー校は、中産階級の子弟の学校という色彩を強め、依然として貴族や上流階級の子弟の多かったイートン校やハロー校とは対照的な位置にいた。

中産階級の親たちは、きちんとした教育、規律を学校に求めたため、アーノルドの改革を支持した。それとは対照的に、貴族や上流階級の親たちは、従来のプリーフェクト・ファッグ制は、いずれは支配階級の一員となる子供たちを訓練するための絶好のものであるとし改革の必要を認めなかった。

しかし、1830年代のパブリック・スクールでは、社会的に力を増してきた中産階級からの要求が強まったため、保守的な上流階級も譲歩を余儀なくされ、イートン校やハロー校でも他のパブリック・スクール同様に、プリーフェクト・ファッグ制の改革がなされていった。

ところで、パブリック・スクールは、1830年代300年のブランクをおいて急増期を迎える。1830年代以降、中産階級の子弟が大挙してパブリック・スクールに殺到するようになる。目的は言うまでもなくジェントルマンになるための教養を身につけるためであった。その結果、この時期パブリック・スクールの増加ぶりは史上空前で、40校から50校が新設、あるいはグラマー・スクールからの格上げされた。

19世紀の中頃になると、アーノルドの教え子や部下の中から、これら新設校の校長に招かれる人が次々にでて、その人たちのラグビー校式の学校運営が成果をあげたために他校の校長たちもアーノルドを模範とするようになった。そして、この英国全土に広がった改革は同時にラグビー校式ルールのフットボールの普及という別の効果をもたらすこととなった。

出典 「フットボールの文化史」山本浩著 ちくま新書
「500年前のラグビーから学ぶ」杉山健一郎著 文芸社

2 ケンブリッジ・ルール

アーノルドは、中産階級の子弟を積極的に受け入れ、貴族や上流階級の子弟の受け入れを減らしていった。結果的に、ラグビー校はブルジョア、中産階級の子弟の学校となり、イートン、ハローなどの伝統校は、貴族、上流階級の子弟の学校という区分けができてしまった。

この異なった2つのタイプのパブリック・スクールを出た生徒たちは、次のステージ、大学でフットボールの大論争を交わすことになる。この論争での主役は、ランニング・インを認めるラグビー校式ルールを主張するラグビー校派とランニング・インを認めず、足を使ったドリブルによる現在のサッカーに近いルールを提唱するイートン校派である。

特にイートン校の卒業生は、完全にランニング・インを否定するルールでフットボールを行っていたためにラグビー校派と真っ向から対立することとなった。技術的な争点以外に、この論争にはラグビー校を筆頭とする新興パブリック・スクールと、イートン校、ハロー校などの伝統校とのプライドをかけた一戦という局面があったことは否めない。

パブリック・スクールの中でも新参者で、中産階級出身者が多いラグビー校が行っていた荒々しいフットボールは、貴族や上流階級出身者が多く占めるイートン校の卒業生たちからは野蛮であると軽蔑されていた。

ところで、現在の英国では、イングランド、スコットランド、ウェールズ、北アイルランドの四つの地域に約100校の大学があるが、多くは第二次世界大戦後に創設された大学であり、19世紀の英国にはごく少数の大学しかなかった。19世紀初頭の時点で具体的に見てみると、イングランドには数百年の歴史を誇るオックスフォード(11世紀頃創始)、ケンブリッジ(1290年創始)の二大学があるだけで、他にはスコットランドにセント・アンドリューズ大学(1411年創始)、グラスゴー大学(1451年創始)、アバディーン大学(1495年創始)、エディンバラ大学の4大学を数えるのみであった。19世紀の間にダラム大学、ロンドン大学、マンチェスター大学、リヴァプール大学、リーズ大学といった大学が成立していくが、19世紀末の時点でも大学の数は、10校ほどしかなかった。

なお、この当時英国に併合されていたアイルランドには、1592年にイングランド女王エリザベス1世の勅令によって設立されたダブリン大学(トリニティ・カレッジ)がある。

結局、19世紀にしばしばオックスブリッジと呼ばれる、中世以来の古い大学オックスフォードとケンブリッジが、新興の大学とは比較にならない圧倒的な力と権威をもっていたのであり、エリートの卵であるパブリック・スクールの生徒たちのなかにも、卒業後この二つの大学に進学した者が少なくなかった。その結果、オックスフォード、ケンブリッジの両大学で、パブリック・スクール出身の学生たちがフットボールをするようになったのであるが、フットボールの歴史にとって特に重要な舞台となったのはケンブリッジ大学であった。

ケンブリッジ大学では、1839年にラグビー校の卒業生たちによる最初のフットボール・クラブが組織された。これに対し、イートン校出身の学生は、ハロー校出身の学生と共同戦線をはって、いろいろな学校の卒業生が一緒にプレーするするためには統一ルールを作るべきだと主張した。それに対して、ラグビー校の卒業生は、ランニング・インを認めないイートン校やハロー校の卒業生と一緒にプレーをすること望まず、反対に自分たちのルールに従うことを要求したため、両派の折り合いはつかなかった。

しかし、ついに1848年、有力パブリック・スクール出身者の代表が集まり、学内で行うフットボールのルールに関する会議が開催された。当然両者の激論が続き、8時間にも及ぶ長い会議になったが、非パブリック・スクール出身者の仲裁が功を奏し、ケンブリッジ・ルールなる学内統一ルールが作成された。

ラグビー校出身者にとして残念なことに、このケンブリッジ・ルールでは、彼らの主張したランニング・イン(ボールを手に持ってゴールに向かって走ること)、ハッキング(脛蹴り;相手選手の向こうずねを蹴ること)、トリッピング(躓かす行為;足で相手選手をひっかけてつまずかすこと)などの導入は全て却下された。結果的には、イートン校、ハロー校側の提唱するドリブルによるゲーム形式が採用され、伝統校派が押し切った形で会議は終了した。もちろん、この会議の出席者がその重要性に気づく術はなかったが、この会議は、ラグビーとサッカーが袂を分かつことになった歴史的な分岐点となったである。

ただし、ケンブリッジ・ルールではまだ、フェア・キャッチ(相手キックによるフライボールをノーバウンドでダイレクトキャッチすることで、フリーキックの権利を得る)が認められていたし、ラグビー校派は引き続き自分たちが信奉するルールでフットボールを行った。ところで、フライボールをダイレクトキャッチすることにより攻守が入れ替わるというルールは、クリケットやベースボールのような「バット・アンド・ボール」ゲームとの共通性が垣間見られ、スポーツ史的にもっと注目されていい点である。

出典 「フットボールの文化史」山本浩著 ちくま新書
「500年前のラグビーから学ぶ」杉山健一郎著 文芸社

3 クラブの出現

1850年代から60年代、この時期には鉄道を始めとする交通機関が発達したこともあり、フットボールはパブリック・スクールや大学を卒業した人たちによって全英各地に広められ、各地の地方都市では学校以外でも地域、職場、教会のクラブチームが設立され、急速に一般大衆レベルまで競技が普及する。民俗フットボールの時代以来、競技が少し形を変えて、一般大衆の元に回帰してきた。

この時期は、いわゆる第二次産業革命とも言われ、産業が紡績などの軽工業から重工業に移行する時期で、労働者の労働条件は劣悪なものがあった。しかし、余暇に行うスポーツという概念が人々に徐々に芽生え、それまで基本的に富裕層のものだったフットボールが大衆レベルに浸透し始める。

1843年、ロンドンにある医療学校ガイ・ホスピタルに世界で最初のフットボール・クラブが設立されたが、このクラブはラグビー校式のフットボールを行う職場のクラブだった。1854年には、アイルランドにあるダブリン大学で世界最初の大学フットボール・クラブが設立されているが、これもラグビー・クラブであった。

その後、1858年ブラックヒース、リヴァプール、1860年マンチェスター、1861年リッチモンドと、地域のラグビー・クラブが続々と設立され、1864年のブラックヒースとリッチモンドによる試合が現存するラグビー・クラブが行った最古の公式試合とされている。

また、初期のラグビー・クラブで中心的な役割を担ったのが、現存する最古のラグビー・クラブと言われるブラックヒースであった。ブラックヒースは、ロンドン南東部にあったブラックヒース職業学校の卒業生と地元の住人たちによって結成された。このクラブは、11条からなる独自のルールに則ったフットボールをしていたが、これはラグビー校のフットボールに類似したものであった。

ルールの10条では、スクラムの中で相手選手の首を絞めることが禁止されていたが、わざわざこのようなプレーを禁止するということ自体、このクラブのフットボールがかなり荒っぽいことを示している。ハッキングは、背後からのもの、膝から上へのもの、またボールを持っていない選手に対するものは禁止されていたが、それ以外は認められていた。この点からもブラックヒースのフットボールが相当乱暴なものであったことが分かる。そして、この点が、後のフットボール・アソシエーション設立の際に大きな問題となる。

一方、ハロー校やイートン校やケンブリッジ大学の系統に属するフットボール、つまり、ランニング・インを認めないタイプのフットボールを行うクラブでは、1857年にシェフィールド・クラブが設立されたが、このクラブは、パブリック・スクールや大学と直接の関係を持たずに作られた最初のクラブとされ、また、シェフィールド・ルールと呼ばれる独自のルールを作ったことでも知られている。

11条からなるシェフィールド・ルールは、ハッキングとランニング・インを禁止しており、明らかにラグビー校式のフットボールとは対立するものであったが、ボールを手で叩いたり押しながら前に進めていくことは認められていた。

ロンドンでは、1860年ハロー校の卒業生によりフォレスト・クラブが設立され、1862年に設立されたバーンズ・クラブとよく試合をした。1861年には、クリスタル・パレスというクラブが設立されたが、これは、1851年の万博でハイドパークに建設され、その後、ロンドン南郊シグナムに移築された水晶宮(クリスタル・パレス)の従業員が作ったクラブである。

出典 「フットボールの文化史」山本浩著 ちくま新書
「500年前のラグビーから学ぶ」杉山健一郎著 文芸社

ところで、フットボール・クラブの設立年の確認のために利用したウィキペディアの「最古のフットボール」の一覧表をみれば分かるように、オーストラリアン・ルールズ・フットボールを行うメルボルン・フットボール・クラブが1858年に設立されているが、このクラブは世界最古のフットボール・クラブに数えられるものであり、オーストラリアン・ルールズの先駆性は評価されるべきである。その後、1859年にはジロング、メルボルン大学、1860年には金鉱で有名なバララットと、オーストラリアン・ルールズのクラブが続々と設立されていった。
http://en.wikipedia.org/wiki/Oldest_football_club

4 サッカーとラグビーの誕生

さて、フットボールが普及したこと自体はよいが、一つ問題が提議される。ケンブリッジ大学と同じく統一ルールがないため、毎回、試合前には両チームのルール調整が必要であった。既にこの時代は鉄道網が英国中に敷かれ、各地区からの移動が比較的容易になってきており、当然、遠隔地にあるチームとの試合が組めるような状況に進歩したのである。

1863年にロンドン近郊の11の地域、学校、職場のクラブ・チームが市内のレストランに集まり、フットボール競技を統括する母体組織の設立と統一ルールの策定についての話し合いが行われた。そして、その場でフットボール・アソシエーション(FA)の設立を決定する。

組織が決まれば、次は統一ルールである。元々11チーム中、ラグビー校式ルールを支持していたのはブラックヒースのみであったが、当初は、ランニング・イン、ハッキングなどのラグビーの特徴とする規定は大方認められていた。しかし、参考資料として「ケンブリッジ・ルール」が会議に提出されると、会議に参加していた多くのクラブの代表がこのルールを基盤に統一ルールを作成する意向を示す。

ケンブリッジ・ルールは手にボールを持って走ることを禁じており、ハッキングは反則である。ブラックヒース代表がこの採決に際し異議に及んだのは当然であるが、結果的にはケンブリッジ・ルールを基本とするルールが採択される。そして、ブラックヒース代表は、「ハッキングを廃止すれば、ゲームにおける勇気と面白みをなくしてしまう」という言葉を残し、会議から退席し、ブラックヒースはその後FAから正式に脱退する。

この日、ローマ帝国時代から数えると2000年以上「フットボール」という器の中で共存してきたラグビーとサッカーは分離し、その後、交わることなくそれぞれの発展を遂げていくのである。

一方、団結したFAに対し、少し取り残された感じのするラグビーであるが、その後もブラックヒースが中心となり賛同する約50のクラブ・チームがラグビー校式ルールで競技を続けた。しかし、1845年にラグビー校にて策定されたラグビー・ルールは、競技の詳細な部分まで規定しておらず、各チームは他チームとの他流試合ではその時点でも独自のルールをお互い事前調整し試合に臨んだ。しかし、ラグビーのようなコンタクト・プレーを伴う競技を行うに際してルールの解釈が違うことは相当の危険を伴った。

1870年にリッチモンドの選手が練習試合で死亡したのをきっかけにラグビー・クラブ間においてもその統括・管理団体と統一ルールの必要性が論じられるようになる。1871年、FAルールとは別の統一ルールをラグビー校式ルールの支持クラブで作成するため、21チームの代表がロンドンのペルメル街のレストランに参集した。

その場でFAに遅れること8年にしてラグビー・フットボール・ユニオン(RFU)の設立が決定され、半年後59条からなる統一ルールの草案が完成し採択された。意外なことにその統一ルールでは、ブラックヒースが FA設立の場であれほど主張したハッキングは禁止されていた。

ラグビーの試合中に死亡事故が発生し、その安全性が問われ始めていたからである。なかでもハッキングはケガの原因となることが多く、特に成長期における選手の脛周辺の骨折は、その後障害が残るとの指摘が医学界からもあり、世論の圧力も徐々に強まっていた。結果的には、ブラックヒースもラグビー継続、そして発展のためやむを得ないとハッキングの禁止に賛同する。こうして、ラグビーは再びラグビーと同じ土俵に乗ることになった。

出典 「500年前のラグビーから学ぶ」杉山健一郎著 文芸社

5 ユニオンとリーグとの分離

1880年代になると、ラグビーが全英各地に普及し、上流階級だけでなく労働者階級を含めたあらゆる階層が競技を行える環境が整えつつあった。特に工業地帯であったイングランド北部のヨークシャー近辺では、工場、炭坑に勤める労働者クラスにラグビーが受け入れられクラブ・チームの数が急速に増加する。選手だけでなく、1試合当たりの観客動員数も多く1万人を超えた試合も少なくなく、これは当時としては国際試合にも記録がないくらいの大きな数字であった。このことから北部地域全体にラグビーがいかいに一般大衆に定着していたか理解できる。

1880年代前半より、北部では試合毎の休業補償を供与していた。例えば多くの北部チームに在籍していた炭鉱労働者は試合ある土曜日は午後1時まで仕事に従事しなければならない。それもホームであればよいが、アウェイであれば時間的に試合に参加することができない。従って試合にベストメンバーを揃えるために休業補償制度が確立したのである。また、北部のラグビーは民俗フットボールに逆戻りしたかのように粗暴だったため、試合中のケガによる休職が日常茶飯事であり、弱い立場にあった労働者選手の救援策でもあった。さらに、当時イングランド南部のクラブが金銭による引き抜きを始めたことも影響している。

当初は、RFUも当時高い技術レベルでイングランド・ラグビーを牽引していた北部ラグビーを刺激しないため、休業補償制度を黙認していたが、当時のRFUの上層部、管理部門はパブリック・スクール出身のエリートが占めており、アマチュアリズムが一種の信仰のように尊ばれ、スポーツで金(カネ)を得るという行為は最低なこととさ、ケガのための休業補償と言えども容認できる雰囲気ではなかった。1886年RFUは、最終的にこの北部での習慣を抑止するためアマチュアリズムを固守する、つまりラグビーを通じた金銭の受け渡しを禁止する規定を施行する。

1887、88年に北部側の主張が有利になる事件が起きる。1887年に名門ブラックヒースがブラッドフォードとの試合で選手1人当たり4ポンドの試合給金を受け取った。翌88年には、現在のライオンズに相当するブリティッシュ・マイルズが初めてオーストラリア、ニュージーランドに遠征した。しかし、その遠征メンバー全員がそのツアーを裏で画策していた企業家から、ユニフォームや給与が贈られていた。

この一連の事件に対し、アマチュア規定施行後、選手の流出が続いていた北部側は憤慨し、RFUに強く抗議する。1893年北部側は、RFU会議に休業補償制度を公式に承認してくれるよう多数決による決裁を求めた。結果的にその提案は「プロフェッショナルに通じる」という理由で否決された。

これに対し、北部側の代表は「フットボールはパブリック・スクールや上流階級だけの娯楽ではない。フットボールはこの工業地帯の偉大な労働者たちを含む一般大衆のスポーツとなっている。パブリック・スクール出身の人間が提唱する「アマチュアリズム」を労働者階級が実践することは難しい。労働者階級は休業補償なしでフットボールを続けなければならないことは極めて不公平である。」とコメントした。確かに、一部の富裕層は無給で休職・休業してもなんら問題はないが、当時時給ベースであた労働者階級からすると生活の糧が無くなり死活問題であった。

そして、1895年8月ハダースフィールドのジョージホテルにおいて、ヨークシャー、ランカシャーなど北部地域にある21の主要クラブがRFUを脱退し、新たな北部協会(ノーザン・ユニオン;NU)、後のラグビー・リーグになる組織を設立した。その後、イングランド北部を中心に250以上のクラブがNUに同調しRFUを脱退した。ラグビー・リーグによれば、北部リーグに所属するチームは1904年にはRFUに所属するチームよりも多くなったとされる。

NUは、その後北部数チームにより開発されていた13人制ルールをさらに改良し、よりスピーディーな試合展開ができるようにスクラム、ラインアウト、モール・ラックなどプレーが止まる要素を極力削った。ユニオンで禁止されている派手な色・デザインのジャージなども積極的に着用する。

このように選手が楽しむだけでなく、観客に「見せるプロ競技」を創り、イングランド北部を中心に急速にファン層を拡大し、1922年NUはラグビー・リーグと名称を改称し、ユニオンと同じく英連邦を中心に世界へと広がっていく。その後、ユニオンとリーグは絶縁状態が続き、再び交流が始まるのは1995年、ユニオンのプロ化以降のことである。

出典 「500年前のラグビーから学ぶ」杉山健一郎著 文芸社

6 サッカーとプロ化

実はこの北部チームのプロ化に影響を与えたのはサッカーである。FAも発足当時は、RFU同様にパブリック・スクール出身のエリートが上層部を牽引していた。当然、RFUと同じく「アマチュアリズムこそ正義」という固定観念が確立されていた。しかし、発端はやはりイングランド北部からである。

北部のサッカー・クラブでも競技をすることにより日給が支払われるシステムが一般化していた。これは、この地域では人気のあったラグビーに選手を取られ、選手の絶対数の不足に悩んでいたサッカー・クラブが、報酬を払ってスコットランド人サッカー選手を「助っ人」として雇っていたという背景がある。

なぜスコット人かというと、彼らもスコットランドのボーダー地方ではやはり台頭するラグビーにより、競技生活の場を失っていたからである。その後もボーダー地方からの選手の流出は止まらず、その影響で現在でもこの地域はラグビーの方がサッカーよりも優勢というヨーロッパでは特異な地域になっている。

1884年FAは、北部のあるチームをプロ選手であるという認識を持ちながら当該選手を出場させたという理由で、FAカップから追放する。この処分に対して、同チームはもちろん、他の北部チームも激怒し、一時期は集団でFA脱退という最悪のシナリオになりかけた。最終的にFAが折れ、1885年FAはプロフェッショナルを承認する旨を競技規定に追加する。

この事件以降、FAはプロ化の道を邁進し、サッカーは世界一競技人口の多い人気スポーツへと発展する。確かにサッカーは、適当なスペースと球さえあればどこでもできる。ラグビーと比較するとコンタクト・プレーも少なく激しいケガも少ない。体格もラグビーに比べるとほとんど影響しない。サッカーにはそのようなアドバンテージとなる点も多いが、サッカーにはプロ化がサッカーの競技人口を低所得者層まで拡大したと言っても過言ではない。

出典 「500年前のラグビーから学ぶ」杉山健一郎著 文芸社

7 オーストラレイジアにおいて、サッカーがラグビーに遅れをとった理由

こうしてみると、19世紀後半、イングランドの労働者や一般大衆の間では、サッカーよりもラグビーの人気が高かった。少なくともイングランドの北部ではそうだった。当時のイングランド北部は、18世紀後半から続く産業革命により、石炭業、鉄鋼業、造船業などが発達しマンチェスター、リヴァプール、リーズ、ヨークなど英国屈指の工業地帯として大英帝国の繁栄を支えていた。また、労働者として地方やスコットランドから、多くの人口が流入し、イングランドで最も人口密度が高い地域となっていた。

農村部から流入してきた彼らは、産業革命により、前近代的な奉公人ではなく、規格化され専門化した近代的な労働者階級へと生まれ変わっていた。同じことが、フットボールにも起きた。農村社会にみられたルールらしいルールもない粗暴な民俗フットボールは、農村社会の喪失とともに消え去り、工業社会の誕生とともに、規格化され、専門化した近代フットボール、ラグビーとサッカーへと生まれ変わった。

では、なぜ、イングランド北部の工場労働者は、サッカーよりもラグビーを好んだのだろうか。考えられるのは、まず、手を使い人々がぶつかり合う荒々しい民俗フットボールの伝統がまだ労働者階級の間に残っており、手を使いコンタクト・プレーが多いラグビーの方が、手を使わずコンタクト・プレーが少ないサッカーよりも受け入れやすかったのではないだろうか。

また、イングランド北部の工場経営者の多くが中産階級で占められ、中産階級の子弟が多かったラグビー校出身者が、早くからマンチェスターやリヴァプールでラグビー・クラブを創立しており、サッカーよりもラグビーの方が普及が早かったとも考えられる。

ラグビー人気が高かったこの時代に、オーストラリアやニュージーランドにフットボールが伝わっており、このことが、オーストレイジア(オーストラリアとニュージーランド)において、サッカーがラグビーに遅れをとった理由かもしれない。

8 それでは他のホームカントリーではどうだったか

イングランドだけでなく、ラグビーにおいてイングランドとともにホームカントリーとされるスコットランド、ウェールズ、アイルランドではどうであったのだろうか。

スコットランドでは、イングランド以上に激しい「手を使う」民俗フットボールが(消滅することなく)数多く存在し、ラグビーの地盤ができていた。特に、イングランドとの国境地帯であるボーダー地方は今でもラグビーのマッド地帯として有名である。そもそも、1858年にエディンバラにスコットランドで最古のフットボールクラブが設立されているが、このクラブはラグビー校式のフットボールを行うクラブであった。

1870年スコットランドとイングランドとの間でフットボールの国際試合が行われスコットランドが敗れた。ところが、この試合は、FAルールでしかも、イングランド在住のスコットランド人がスコットランド代表としてて対戦したものであった。このため、スコットランド国内から今度は是非日頃プレーしているラグビー校式のルールで対戦したいという申し出がイングランド側にあった。

ところが、イングランドには、ラグビー校式のフットーボールの統括組織がなかった。これが、RFUが1871年に設立された契機にもなったのである。そして、1871年に行われたラグビー初の国際試合イングランドとスコットランドの対戦では、なんとスコットランドが勝利している。

ウェールズでは、手を使う荒々しいナッパンという民俗フットボールが古くからあり、ラグビーは広く受け入れられていった。1850年代にパブリック・スクールやオックスブリッジの卒業生がラグビーを持ち帰り拡がったとされている。いまでも、北半球では唯一ラグビー人気がサッカーを凌駕している国(地域)として知られている。

アイルランドでは、北部を除けば産業革命の恩恵を受けることはなかったので、手を使う民俗フットボールが消滅するということはなかった。このことは、1850年代ゴールドラッシュのオーストラリアに渡ったアイルランド人が行っていたフットボールが、オーストラリア独自のオーストラリアン・ルールズ・フットボールになったとされることでもわかる。もちろん、現代のゲーリック・フットボールも手を使うことが認められている。アイルランドには、このように、手を使うフットボール・ラグビーを受けいる下地があった。

アイルランド最古のフットボール・クラブは、1854年にできたダブリン大学フットボールクラブで、もちろん、ラグビー校式のフットボールであった。このクラブは、ケンブリッジ大学のフットボールクラブ(ケンブリッジ・ルール)よりも古い。アイルランドとイングランドとの密接な関係により、ダブリン大学(トリニティ・カレッジ)にはラグビー校やラグビー校式フットボールを採用していたパブリック・スクールのOBが持ち込んだとされる。当初は、ダブリンを中心に近隣の大学対抗戦という形で行われていたが、1870年代前半には、北部のアルスター州にまで拡大され各地にクラブ・チームが結成された

1874年にはダブリンにアイリッシュ・フットボール・ユニオン、北部のベルファストに北部フットボール・ユニオンが設立されている。この二つのユニオンは1880年に統一され、国家の南北分裂後も統一ユニオンは維持されている。一方、アイルランドにサッカーをもたらしたのはジョン・マカラリーという商人で、1878年、新婚旅行で訪れたエディンバラ(スコットランド)でサッカーに出会ったマカラリーは、1879年ベルファストにクリフトンビルというクラブ・チームを設立し、1880年アイルランドサッカー協会がベルファストで発足した。

9 野蛮なフットボール

フットボールがサッカーとラグビーに分裂した裏には、台頭しつつあった中産階級の子弟が通う新興のラグビー校と旧来の支配階級である上流階級の子弟が通う伝統校であるイートン校との確執が指摘されている。

中産階級の出身者が多いラグビー校が行っていた荒々しいフットボールを、イートン校の上流階級出身者は「野蛮だ」と軽蔑し、イートン校や盟友であるハロー校の卒業生は、1848年のケンブリッジ・ルールや1863年のFAルールの設定時、野蛮さの象徴である「ハッキング」の導入を却下している。しかしながら、そもそも、イートン校やハロー校では上品なフットボールが行われていたのだろうか。

トマス・アーノルドがラグビー校でパブリック・スクールの教育にフットボールを取り入れる以前から、パブリック・スクールでは、余暇にフットボールが行われていた。18世紀後半から19世紀初めにかけてパブリック・スクールで行われていたフットボールは、上級生による下級生いじめの手段となっていてかなり乱暴なものであった。アーノルドによるパブリック・スクール改革時において、上流階級の親は、子供たちはいずれ支配階級の一員になるのだからと、アーノルドによるパブリック・スクールの改革に反対し、乱暴なフットボールを擁護さえしている。

このころのフットボールは、イングランド各地の民俗フットボールが土地毎に異なっていたように、ゲームのやり方は学校によってまちまちであった。パブリック・スクールごとにフットボールのやり方が違っていたのは、まず何より、学校それぞれの違いによるところが大きかった。専用フットボール場がなかったこの時代、学校内でフットボールのために、どのようなスペースをとることができるかによって、それぞれの学校にゲームのやり方が決定された。

チャーターハウス校では、校内に広いグラウンドがなかったため、中世に建てられた修道院の狭い石畳の回廊がグラウンドであったことから、チャーターハウス校のフットボールは、必然的にドリブル中心のゲーム展開を見せた。同じように、ロンドンのウェストミンスター校でも、大聖堂に隣接する回廊がフットボールでは使われていたが、タッチライン70m、ゴールライン25mの縦長の狭いところでフットボールが行われていたため、ボールをキックしてドリブルするよりも、選手がひとかたまりになって押し合いながらボールを進めていくタイプのフットボールであった。

ハロー校のフットボールは、グラウンドは広さが十分であったが、丘の下の底のようなところにある水はけの悪い粘土質の土地にあったため、フットボールが行われる冬の時期には地面が非常にぬかるんでいた。したがって、ハロー校のフットボールではぬかるみで重くなったボールをドリブルし、キックすることがプレーの中心になっていて、相手のプレーヤーをタックすることは禁じられていた。しかしながら、キックされたボールを「ヤーズ」と叫びながら直接キャッチした選手は、三歩助走してボールをフリーキックすることが認められていた。ゴールライン上にある二本の柱がゴールで、この二本の間をボールが通過すると得点になった。ハロー校では、このフットボールはクリケット、ラグビーと並ぶ三つの主要なスポーツの一つとして現在も行われている(サッカーではないことに注目して欲しい)。

イートン校では、二種類のフットボールが行われていた。一つはイートン校独特のもので、ウォール・ゲームと呼ばれていた。このゲームは、ウォール・ゲームという呼び名のとおり、このフットボールは学校に敷地内にある高さ2.5mのレンガ塀の脇で行われた。この塀から5.5mのところに塀と平行に線が引いてあり、この線と塀との間がフィールドで、その両端がゴールとなった。ウォール・ゲームでは、塀に寄りかかるようにして組まれるスクラム(「ブリー」と呼ばれる)やキックによってボールを前進させてボールを目指す。

もう一つのフットボールは、もっと広いグラウンドで行われた単純なゲームであった。プレーの中心はロングキックとスクラムでありボールをゴールポストの間に蹴り込むと得点になった。また、ゴールラインの向こう側にボールを持ち込んで地面にタッチすると、タッチした時点を通り、タッチラインに平行した線上からゴールを狙ってボールを蹴ることができた。これなどは、まさに今のラグビーのトライ、ゴール(コンバージョン)キックと同じであった。そもそも、ラグビーのトライはゴールキックの権利を獲得するものであり、得点するものではなかった。

初期のパブリック・スクールのフットボールに共通していたのが、民俗フットボールから受け継いだ乱暴さ、荒っぽさであり、イートン校やハロー校でさえ、ハッキングは容認されていた。また、オーストラリアン・ルールズで危険だからと取り入れなかったスクラムは、パブリック・スクールのフットボールの特徴であった。このころのボールは、膨らませた豚や牛の膀胱を革で覆ったもので、弾力性に乏しく、ボールを奪い合っているうちに自然に密集が形成された。このため、スクラムといっても現在のラックやモールに近かった。

上流階級の子弟が多く通うイートン校やハロー校で行われていたフットボールも、もとは乱暴で荒々しかった。生まれながらのジェントルマンとされる貴族やジェントリーこそバーバリアン(蛮族)とされ、ややもすると野蛮で粗野で横柄な気風を持っていたのである。
出典 「フットボールの文化史」山本浩著 ちくま新書

10 ラグビー校VSイートン校、ハロー校

民俗フットボールや初期のパブリック・スクールのフットボールでは、平らな芝生の正式なグラウンドはなかったから、フットボールが行われる場所(スペース)が、プレーをする上での制約条件となり、そこで行われるフットボールのルールを決定する重要な要素となっていたが、球技においてその使用するボールそのものの形状・材質も競技の有り様を決める重要な要素であった。

ハンドボールやバット・アンド・ボールで使用されるボールは基本的には片手サイズの小さなボールである。これに対しフットボールは両手サイズの大きなボールを使用する。当時のフットボールの材質は、牛や豚の膀胱を膨らませた中空ボールを革で覆ったものか、動物の膀胱の変わりに草や布きれを詰め込んだものであり、弾力性に乏しかったため、19世紀末にできたバスケット・ボールやバレーボールのようなボールの弾力性を利用したプレーはできなかった。当然、ボールを手で抱えて走るか、ボールを蹴るかしかなかった。そして密集はまさにプレーの中心であった。

同じパブリック・スクールのフットボールといっても、ハロー校やイートン校で使用されていたものとラグビー校で使用されていたボールの材質が実は異なっていた。ハロー校やイートン校で使用されていたボールは、豚・山羊・羊など成牛より小さな膀胱を使用していたため、小さめで球形に近く、アソシエーション・フットボールの半分の大きさだったとされる。このため、ボールを手に抱えて走るには中途半端な大きさであり、自然とキッキングがプレーの中心となって行った。これに対しラグビー校で使用していたボールは、成牛の膀胱を用いていたために大きく、また、楕円球であったことから、手で持ちやすく、そのため「ボールを手で扱う」ことが認められて行った。

民俗フットボートは、農村社会における祭りであり、祭りは村民全員で楽しむものであり、ルールは単純なものでなければならなかった。そこで生まれたのが長時間享受の原則と一点先取の原則であった。ゴールが見えなかった民俗フットボールの時代に比べ、ゴールが互いに見えるパブリック・スクールのフットボールにおいても、初期にはこの原則が守られていた。この一点先取で勝敗が決まるフットボールをパブリック・スクールの狭いグラウンドで行う訳だから、自然と得点がし難いルールが暗黙のうちに形成されていくことになる。

その中で、民俗フットボールの時代には当然に認められていたボールを手に抱えて運ぶ行為は、認められないものとなって行くのは自然の成り行きだったろう。ラグビー校でも、手にボールを持ってゴールに向かって走るランニング・インが行われるようになったのは1820年代であり、1830年代になって漸く普通のプレーとして認められ定着していったのであり、19世紀初めの段階では、ランニング・インはルール違反であったのである。

ランニング・インが認められても、得点は困難なものであった。ラグビー校では、ボールをインゴールにタッチされないように百名にのぼる下級生がゴールキーパーズとしてゴールラインを守っていた。さらに、トライを決めてもそれが即得点になる訳ではなく、トライを決めた攻撃側の選手が相手ゴールラインからフィールド内にキックしてそれを攻撃側の別の選手がフェア・キャッチして初めてゴールキックの機会を得ることができたのである。このように、ランニング・インが認められても容易には得点できない仕組みが成立していたのである。

こうした中にあっラグビー校でなぜ、ランニング・インが認められて行ったのだろうか。ダニングによれば、イートン、ハロー、ラグビーなどの間で有名校争いが起こり、互いに異なる建学の精神、服装、カリキュラム、寮生活などを創出しようとしていた。その中でラグビー校の生徒たちは楕円球、H型ゴール、ボールを手に持ってゴールへ走るランニング・インなど他校と異なる特徴のフットボールを考え出して行ったのである。そして、1839年にアデレイド皇太后が同校をを訪問して観戦するということがあり、これによってラグビー校は他校よりも一歩先んじるとともに、ラグビー校式のフットボールの存在も広く知れ渡っていった。

これに対し、イートン校は中産階級の子弟が占めるラグビー校を成り上がりとみなし敵視し、1845年にラグビー校で校内ルールを成文化し、手の使用と上限のないH型ゴールを定めると、1847年イートン校は手の使用禁止と上限のある□型ゴールを定めるという具合であった。

11 サッカーはハロー校の卒業生が創った

フットボールのサッカーとラグビーの分化には、ラグビー校とイートン校との確執が根底にはあったが、実際にサッカー、即ちアソシエーション・フットボールを創り上げたのはイートン校の兄弟校とされたハロー校の出身者たちであった。

1863年のFA(フットボール・アソシエーション)設立は、ハロー校の卒業生でフォレスト・クラブのキャプテンであったJ.F.オールコックらハロー校の卒業生を中心に、これに賛同する他校の卒業生によって結成されたものである。フォレスト・クラブ自体がハロー校の卒業生によって1860年に創立されている。

このFAに対し、その他の諸学校やクラブはそれぞれのフットボールに誇りを持っており、FAに加盟して自校とのものと異なるルールでプレーするのを望ましくないと考えていた。たとえば、イートン校は、このFAルールは「あまりにも締まりがなく単純」で、われわれのルールの方が「はるかに科学的で誠実な労作」であると批判している。

ハロー校自体も、「ルールの統一化」は乗り気ではなく、既述のようにハロー校では、ハロー校独自のフットボールをクリケット、ラグビーと並ぶ三つの主要なスポーツの一つとして現在も行っている。ハロー校自体はFAルールを正課に取り入れなかったが、ハロー校の卒業生たちは、手を使わないフットボールの普及に熱心だった。この点は、自分たちの独自な世界を誇りにしていたイートン校の卒業生とは異なっていた。

1870年代北部でFAに匹敵する組織を誇っていたシェフィールドFAやバーミンガム、ランカシャーなどの組織が加盟するまで、FAはロンドン中心の組織に過ぎなかった。FA当時加盟していた22クラブのうち20までがロンドンのクラブであり、地方のクラブはリンカーンとシェフィールドの2つだけだった。リンカーンは、3年間加盟しただけで脱退してしまう。

もう一つのシェフィールドFCは、次第に勢いを失っていったが、それに代わるようにしてシェフィールドでは、ウェンズデーFC(現シェフィールド・ウェンズデー)を初めとする十を超える数のクラブが活発に活動するようになり、それらのクラブがまとまってシェフィールドFAを1867年結成した。

シェフィールドFAは、ロンドンのFAルールとは異なるシェフィールド・ルールでプレーをし、1860年代後半にはかなりの影響力を持つ組織になっていた。そのために、ロンドンのFAにとっても無視できない厄介な存在であった。77年には、その後もシェフィールド・ルールで試合をすることもあるという条件を留保したうえでFAに加盟、翌78年になって漸くFAルールに統合することで合意、ロンドンを中心とした組織から全国的な組織への拡大・充実に重要な貢献果たした。

このようにFA初期に重要な貢献を果たすことになったシェフィールドFAは、世界最古のフットボール・クラブとされるシェフィールドFCの働きかけで生まれた近隣の地域や工場のクラブによって結成されたものであり、そこではシェフィールドFCが制定したシェフィールド・ルールと呼ばれる独自のルールでフットボールがプレーされていた。このシェフィールドFCを結成し、シェフィールド・ルールを制定したのが、ハロー校の卒業生たちであった。