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MTF症候群(メタモルフォーゼ・シンドローム) 作者:詩月

9─3再会


「最後になりますが、携帯は必ずマナーモードにしてくださいね。エチケットは守るように。また、授業中に使用しているのが先生方に見つかった場合は即時没収されて、返却には各種手続きが必要となりますので気をつけてください」



 髪にあてられていた、ヘアカラー用のチェックシートが外されると、スクールバッグを返される。
 生徒会執行部に所属する書記の新城由佳里しんしろゆかりが締めの言葉を述べると、それが生活指導の終了を意味する。



「あ、はい。ありがとうございました」



 校則ぎりぎりのココアブラウンの髪をツインテールにしたその少女は、髪を揺らしながら一礼をすると、スクールバッグを風紀委員から受け取り、次の生徒に場所を譲ると、正門に背を向けて校舎に向かって歩きだそうとする。



「あ、あなた、ちょっとお待ちなさい」

「はい?」



 背後から呼び止められた少女が再び正門側に振り向くと、頭の両側で三つ編みにした髪をそれぞれに後頭部に回して、まとめ結い上げている、いかにも良家の子女らしいお嬢様然とした雰囲気を身に纏っている上級生の女子生徒──新城由佳里がすぐ目の前に立っていた。



「あなた、顔色が少し悪いわ。ただの低血圧ではなさそうね、よかったらこれを飲みなさい。痛み止めよ」



 由佳里がそう言いながら、右腕を軽くスナップを利かせて振るうと、何もない空間から不意に、硬質プラスチックにアルミニウムフィルムで包装されたまだ開封前の錠剤がワンシートで六錠出現し、彼女の白魚のように繊細な指先にいつの間にか摘まれていた。
 由佳里の背後からふたりのやりとりを見ていた風紀委員が驚いている。
 どうやら背後から見ても、その錠剤のシートを何処から取り出したかは分からなかったらしい。
 仮にそれがマジックとするなら、実にさりげなく、死角の存在しない、見事な手際だと言えるだろう。



「あ、すいません。頂きます」

「飲んでもすぐには効かないから、気分が悪ければ無理しないで保健室にいきなさい」

「そうします。ご心配ありがとうございました」



 少女は素直に礼を言い、もう一度頭を下げると、由佳里は後続の生徒たちの生活指導に戻っていく。
 しばらくその姿を彼女はぼんやりと眺めていたが、やがて思い出したかのように、再び校舎に向かって歩き出す。



「由佳里ちゃんもよくやるよねー、我が姉ながら毎朝毎朝早出して飽きないのかね。感心するわあ、ホント。日曜の朝ミサにもたまに出てるみたいだし、猫っ被りで疲れないのかねー。でもやっぱこの学校はチェック甘いわ、篝委員長が頭にいてもこの程度だもんね、華月宮のお嬢さま方はおとなしいねー。この三月まで公立中学で揉まれた新城千恵里しんしろちえりさんを舐めんなよ、と……はあ」



 やる気のなさそうな口調に、溜息ひとつ。
 千恵里は、目尻がやや吊り上がり気味で、くりっとした瞳が猫のような容姿をしているが、酷い低血圧の彼女は、毎朝すごぶる調子が悪い。
 したがって午前中いっぱいは何時も、窓際で日向ぼっこをしている飼い猫よろしく、気だるげで怠惰な雰囲気を漂わせているのが常だった。
 ただ今朝に限って言えば、彼女の顔色が悪い理由わけは他にも存在しているのだが。
 彼女は正門から離れた頃合いを見計らうとスカートのウエスト部分をクルクルと巻いて、裾をひざ上十数センチまで引き上げる。



「これで、よし。ウン、いーカンジ」



 それまで、膝丈のスカートに白のタイツを履いているようにしか見えなかったが、ミニスカートに白のハイニーソの組み合わせに早変わりする。
 校内で風紀委員に遭遇した時には、スカートを素早く元の膝丈に戻すスキルを彼女は当然身に付けているのだが、それは三年間の公立中学校時代の数少ない成果といえた。
 そんな風に余計な事をやっていると、他の徒歩通学者や生徒を送迎する高級車に、彼女は次々に追い抜かれてしまうのだが、それでも周りをいささかも気にする様子もなく、マイペースを崩ずす事なく石畳の上を校舎に向かってのんびりと歩いていく。
 だが、そんな千恵里の視線さえも奪ってしまうような車に、彼女は入学以来初めて遭遇してしまう。



「わ、何? スゴいじゃん、これ。リムジンって言うんだっけ、何て車なの」



 華月宮の朝、リムジンで登校する生徒は数名存在するが、今までに見かけた車とは比較にならない程に、その黒塗りのリムジンは威圧的な存在感を周囲に放っている。



「長っ、どんだけ長さあんのよー」



 その威風堂々とした車が自らの脇を通り過ぎていく様子をただ呆れ顔で眺めていると、スモーク硝子の向こうであまりはっきりとはしないが、車体最後尾になるシートに和服姿の凄艶なまでの美女の隣にぴったりと寄り添って座る、髪をナチュラルショートにした少女とほんの一瞬だけ目が合った気がした。



『うわっ、地っ味ー。一番後ろの席って確か、偉い人が乗るんだよね。あんな地味なメガネっ娘が、あの綺麗なおねーさんの妹? マジ、ウケるんだけど。世の中不公平だよなー、あたしの方が絶対可愛いのにー。由佳里ちゃんと変えてくんないかな?』



 姉の由佳里が聞いたら間違いなくがっかりしてしまうような、結構酷い言葉を口走りながら、千恵里はそのリムジンのテールを見送った。



「う……痛っあい。せっかく由佳里ちゃんが薬くれたけど、あたしの場合、二日目って薬飲んでも効かないんだよなー。やっぱ無理しないで保健室行って、先生にベッド借りた方がいいかもしんないかあ」



 由佳里ちゃんの事、悪く言ったから罰があたったのかもしれないと、一応は殊勝に反省をしながらも、下腹部を襲う鈍い痛みに苦しみを覚えながら、千恵里の歩調はさっきまでよりもさらにゆっくりと、遅くなっていく。
 新緑も鮮やかな銀杏の並木道を、暗い表情でトボトボと歩き続けていくと、正面玄関前で何故かめずらしく生徒たちの人だかりが出来ている。



「うわ、ウッザ……はあぁ。何だか知らないけどカンベンしてよー。入口塞ぐなよなー、はい、そこ通してー」



 千恵里はふらつく身体で、人混みをかき分け、かき分け、正面玄関両脇にある終日全面開放されている昇降口から校舎内に入ると、そこは開放的な中央ホールに、四列四段十六用の靴箱が並列に配置されている。
 彼女は自分が所属するクラスの靴箱前で、上履き用のシューズに履き替え、保健室のある左手の廊下へと向かう。
 正面玄関側から中央ホールを中心に見て、彼女が背にした反対側の廊下には事務局の窓口があり、ホールに対してコーナー状に面している。
 さらにその通路奥には教材室と図書室、そしてその準備室が並んでいた。
 千恵里は、生徒たちがぐるりと取り囲んでいる人混みの向こう、正面玄関口で起こっている喧騒には見向きもせず、学長室と連なる職員室前を通り過ぎ、保健室のドアにようやく辿り着く。
 遠く離れていても女生徒の黄色い声が「きゃあ、きゃあ」と、ここまで響いてくるのが煩わしい。



「何、はしゃいでんだかー。まあ、あたしには関係ないけど。興味もないし」



 ドアを二度軽めにノックし、返事がないのでほんの少し隙間を開けて、室内をそっと覗く。



「先生ー? いらっしゃいますかあ? ちょっと気分悪くてー、少し休ませてくださあい」



 声をかけても室内からは何の返事もなく、ドアの正面つきあたりの窓際に置かれている事務用デスクは、空席になっている。
 養護教諭の姿が全く見当たらずに、室内が無人の状態なのを確認すると、千恵里はドアの隙間から保健室へと身体をすべり込ませた。
 そろそろと、何故か訳もなく足音を忍ばせて、左の壁際にふたつ並んでいる簡易ベッドに近寄ると、間仕切り用のカーテンを広げて、外部からの光線を遮断して、薄暗い空間を作り出す。



「事後承諾になるけど、まあいっかー。ベッド貸してくださあーい」



 華月宮学園の女子の制服は、横ファスナーの臙脂色えんじいろのブラウスに、カソック風の白いえりと返しの袖が鮮やかによく映える。
 襟と袖口には、臙脂色の細い一本のラインが走り、それがアクセントとして全体の印象を引き締め、スタイリッシュに見せていた。

 千恵里はほんの数分後、たいして深く考えもせずに行動していた事を、激しく後悔するはめになるのだが、この時点ではそれを知る由もない。

 ツインテールを纏めている白いリボンを解いて、髪を下ろす。
 数箇所のスナップで留められている大きな襟を先に取り、左脇にある横ファスナーを引き上げ、ブラウスを脱ぐ。
 スカートはほんの少しの間悩んだが、皺になるのが嫌で、それを避ける為に結局インナーのキャミソール姿になる。
 意識不明で担ぎ込まれたわけでもないので、いろいろと変に気を遣う。
 脱いだ制服はきちんとたたんで枕元に置くと、綺麗に糊付のりづけされたシーツに身体を潜り込ませていく。



「別に気にしないでいいよね、どうせ先生以外は“誰”も来ないんだし」



 ベッドに身体を横たえながら、気怠げにそう呟きを洩らした時の事だった。
 何故か、急に廊下側が騒々しくなる。
 そして今さっきの千恵里の言葉を嘲笑あざわらうかのように、その喧騒は保健室へと確実に近付いて来ていた。
 気のせいではない、確かに近付いてくる。
 この管理棟一階で、こんなに騒々しい雰囲気になるのは、前代未聞だろう。



「さっきの正面玄関口のアレかー……マジ、かんべん。何があったか知らないけど、静かに寝かせてくれよー」



 千恵里が頭からシーツにくるまり、猫のように身を丸くした時だった。



「なかに簡易ベッドが二床にしょうあるわ。先生方にはわたしが話をつけてあげるから、遠慮せずに使いなさい」



 千恵里にとってよく知る、聞き覚えのある声がしたかと思うと、ノックもなくいきなりドアが開けられたのである。
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