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Lyrical Despair 作者:イリス

Dear my friends

空を掴め



 やはり傍から見てみると、ひび割れたアスファルトの上に白いチョークで一心に描いているミリアは、まさしく大きなスケッチブックにお絵かきをする子供そのものに見え、どうにも可愛らしい姿だった。
 ただし、アスファルトの上に描いているものは、それとは程遠い、術式構築図形とかいうご大層な名前の図形である。
 術式構築図形というのは、ミリアいわく、いわゆる魔法陣のことらしい。魔法を行使するにあたって、基本的に魔法陣は必ずしも必要とされるわけではない。魔法陣は術者の補助や、魔力の安定還流のための回路の他、一時的に魔力を蓄えるコンデンサ的な役割などを持っているが、もともとは魔法の術式を図形や文字で表した、いわばメモ帳みたいなものであった。そのため、式が短く単純で魔力の制御の簡単な低位魔法であれば魔法陣は不要となる。逆に高位魔法はその式が長く難解になり、必然的に制御の難易度も跳ね上がるので、その補助のために魔法陣が必要とされる。一般的には術者の足元に描くのだが、そのための画材は何でもよく、地面に直接描いたり、物に描いても問題は無い。適性の高いものは魔力を使って魔法陣を即座に(えが)く事ができ、地面のみならず、空間に描く事もできるらしい。
 今日は学校の方で市の会議か何かがあるらしく、授業は午前中に終わったので、恭也はミリアを元居た世界に戻すための手掛かりを求めて、(くだん)のUFOらしき物体が目撃された場所に近い山の周囲を探ってみることにしていた。
 ミリアは、自分が何故この世界に来たのか、どうやって来たのかを一切覚えていない。この世界に来た事に関する記憶が、まるでごっそりと抜け落ちてしまったかのように思い出せないらしい。聡美から借りた本を参考にして催眠術をかけてみたものの、その効果はまるで皆無だった。
 ただ、ミリアが最後に記憶している内容に一つの魔法陣があったという。
 もしかしたら、それが糸口になるものだと考えた恭也は、探索がてらに、ミリアの記憶の限りでそれを実演してみることにした。流石に自室や人目に付くような場所では出来ないので、今は閉鎖されている乙山の炭鉱の坑道へと続く道路の上でやることにした。そこは背の高いフェンスで塞がれているのだが、森の中に入れば脇から入れてしまうという間抜けな事この上ないのを恭也は知っていた。小さい頃は友達と何度もここに入りこんで、秘密基地ごっこをしていたのだ。あの時の秘密基地はどうなっているんだろうと思ったが、何処に作ったのか思い出せなかった。
 それにしても、よくもこんな複雑なのを覚えているものだと感心する。記憶が曖昧(あいまい)なのか、時折首をかしげたり、書き直したりしているのだが、それでも相当の記憶力だと思う。自分だったらここまで覚えきれない。
 ほどなくして魔法陣を描き終えたミリアは、チョークをしまって手をはたきながら立ち上がった。
「やっぱりおかしいです」
開口一番がそれなので、何が変なのだろうかと魔法陣に目をやるが、少なくとも恭也の目には特別おかしいところは見受けられない。
 ミリアは魔法陣を指差しながら
「かなりの高位魔法だとは思うんですけど、見たことのない文や式が用いられています。もしかしたら亜流なのかも」
 やはり曖昧な記憶では、完全に再現する事は無理があるようだ。
「これって、どんな魔法の式?」
「肝心のそれが分からないんです。出力節が中途半端すぎて・・・・」
 するとミリアは魔法陣の周りに環状の魔法陣を新たに書き加え始めた。何か思い出したのかと尋ねてみると、試しにこの魔法陣に魔力を注入してみるので、万が一に備えて簡易的な結界を張っておくらしい。何しろ、どんな効果を発揮するか分からない上に不完全な箇所もある魔法陣だ。魔力を注入するだけとはいえ、それだけで何らかの反応を示す可能性はあるし、それが危険なものだったらとしたら尚更必要だろう。
 環状魔法陣を描き終えると、発動媒体となるペンダントを取り出して魔法陣の中心に立った。深呼吸をして息と脈を整えた後、ゆっくりと身を屈めて右の掌を地面につける。意識を集中させ、左手に握ったペンダントの宝石が仄かに光ると同時に、ミリアが手を当てている辺りから魔法陣が青白く輝きだした。魔法陣の中で風が静かに逆巻くような感じがしたかと思うと、周囲でねじくれたアーク放電が起こりはじめた。
 ミリアは弾けるように右手を地面から離した。それと同時に魔法陣の光が輝く粒子になって辺りに飛び散り、瞬く間に消えた。
「どうしたの?」
 さっきの様子からして、何かまずい事でも起こった様子だったから少し不安になって、何が起こったのか尋ねた。
「やっぱりこの魔法陣を発動させるのは無理です。魔力を注入しても何の作用も起こしてなかったみたいです」
 何も起こしてなかったとは言っても、少なくとも恭也の目にはかなりのものが起こっているように映った。白チョークで描いた魔法陣が光っただけでも、立派な作用である気がするのだが、魔法を行使する上では当たり前のことなのかもしれない。
 恭也は魔法陣の傍らに屈み、さきほどのミリアのまねをするように右手を地面にあてがう。特に熱を持っていることも、地面が焼け焦げた様子も無い。魔力というものが一体いかなる物であるのか知らないが、さっきの様子を見る限りでは、それなりのエネルギーを持っているように思える。
 すぐ後ろの方で、くぐもった妙な音がした。
 振り向いて見てみると、ミリアが下腹部に手を当ててうつむいていた。腹の調子が悪いのかと尋ねてみると、ミリアはふるふると首を振り
「お腹空きました」
 顔を真っ赤にしながら小さく呟いた。




   第6話 空を掴め -Lyrical memory-



 岩清水に行く事が多い恭也にとって、サインフェルドの料理の量と値段はどうも割に合わない気がしてならない。別にサインフェルドの価格設定がおかしいのではなく、岩清水の料理の量がおかしいだけなのだが、それに慣れてしまっていて他店の料理がどうも少なく見えてしまう。ただ、定食屋である岩清水と違って、ファミリーレストランであるサインフェルドは和洋中の各ジャンルの料理が揃っている所は魅力的である。選択肢が多い分、その日の気分に応じていろいろな物が食べられるし、店内だって明るくカジュアルな雰囲気だ。
 恭也は席に着くなり、メニューを広げて注文する料理を吟味する。ミリアもそれに倣って大きなメニューの冊子を広げる。
 特に食べたいものが無い恭也は、いつも通りにチキンドリアに決定する。手頃な値段で量も丁度いいので、迷ったときはいつもこれを選んでいる。
 早々に決めた恭也は閉じたメニューを脇に立てて置き、ミリアがどれにするかを決めるまで待つのだが、一向にミリアが決断を下す様子が無い。何度もページを捲って同じページを行ったり来たりしている。レストランに行って料理を選ぶのに何分もかかる人は別に珍しくもないので気長に待つ事にするが、ミリアの様子があまりに必死そうだったので、助け舟を出してやろうと口を開きかけた矢先
「恭也さんと一緒がいいです」
 異様なまでに決意の色のこもった語調に思わず腰が引けそうになる。なにもそんなに強張ることもないだろうに。
 ともかく、呼び鈴のでかいボタンを押してウェイターを呼ぶ。10秒と経たないうちにウェイターの一人が席の横に立ち、腰につけていた携帯端末を広げて、満面の営業スマイルと共に注文を受け始めた。恭也はチキンドリアとドリンクバーを二つずつ注文し、ドリンクバーの割引券を手渡した。注文を受け、割引券を受け取った店員は注文を復唱して確認をとってから、改めて営業スマイルを浮かべて厨房へと引っ込んでいった。ミリアが引き摺ったままにしていた異様な雰囲気を感じ取っていたのか、まるで逃げるような足取りだった。
 長々と息を吐きながら椅子に深くもたれる。
 ミリアがこの世界に来てから1週間が経とうとしている。その間、色々な考えをめぐらしていたのだが、今回の実験を以って、それらは徒労に終わってしまった。如何せん手掛かりがあまりに少ない。ならば集めれば言いだけの話だが、何を、何処で、誰に訊けばいいのだろうか。ミリアが異世界から来た人間である事は伏せるべきだし、そもそも信じてくれる人がいるかどうかもあやしい。
 こういう事は聡美に訊くのがよさそうな気もする。それには色々な意味でかなりのリスクが伴うのだが、それを承知で彼女に打ち明けてみれば、それがどういう形であれ、事態が大きく進展するかもしれない。何事にはリスクは付き物なのだ。
 ただ、いくら"あの"鶴ヶ崎聡美といえども、こんな荒唐無稽な話を信じるだろうか。聡美がUFOやESPを本気で信じているのは、それらの実在を裏付けるような理屈や根拠、あるいは実例が明示されているからだ。未確認飛行物体の目撃事例は、その真偽はどうあれ結構な数だし、超能力と目されるような力を持つらしい人物もいるし、心霊写真も山と撮られている。しかし異世界から魔法使いが来たなんて報告は世界中の何処にもない。
 もしも聡美が信じてくれなかったとしたら。それはそれでいい事なのかもしれないが、やはり自分一人の力ではどうしようもないのは明白だ。
 信じないのなら信じさせればいい。とにかくどんな形でも良いから、聡美にこの事を信じさせ、興味を持たせればいい。彼女の事だ、一度興味を持ってしまえば、後は放っておいても勝手に行動するだろう。周りに口外するような事もまず無い。聡美は真実の探求の為ならば如何なる行為であろうとも、それを平然とやってのけるのだから、自分には不可能な所まで辿り着くかもしれない。どうせいつものように、それに自分が付き合わされるのは目に見えているが、仕方が無い。言い出しっぺはこっちなのだし、結局は自分が得をするのだから、それでどれ程の労働を強いられようとも文句は無い。
 目の前に置かれたグラスを取り、注がれた水を飲む。夏の日差しに炙られて乾き切った咽喉(のど)に瞬く間に染み渡り、瞬く間に全て飲み干す。
 氷ばかりが残ったグラスをテーブルの上に置き、日差しを(さえぎ)るために下されたブラインドの隙間から外を見る。ひたすらに続く緑の田んぼと、その中に混じるいくらかの家屋。ほとんど平坦なその景色の中に聳える無数の電柱がやけに目立つ。
 ここに来るといつも思うのだが、なんでこんな所に店舗を構えようなんて思ったのだろうか。いくら全国展開している大手チェーン店『サインフェルド』といえども、こんな大した利益も望めそうも無い所に建てるのは、それこそ無駄というものではないのだろうか。もしかしたら長期的に見れば将来、それなりの利益が見込めると踏んだのかもしれないが、両側4車線もあるのに、大して車も通らない国道が目の前にある以外は田んぼしか無いこの場所に将来性も何も無いと思う。
「恭也?」
 いきなり後ろから名前を呼ばれ、思考の海の底から一瞬にして引き上げられた。
 振り返って見ると、恭也の斜め後ろに明菜が立っていた。
「恭也じゃない。こんな所でなにしてるの?」
「そっちこそ、何か用?」
「別に、ただそこの道を通ってたら恭也とその子が一緒に入って行くのを見て」
 僅かに怪訝な顔をしてミリアを指差す。
「で、この子 誰?」
 妙に冷たい嫌な汗が背中をつたう。
 初めから、いつかはこうなる事は予測済みのはずだった。
「え、いや、ミリアって親戚の子」
 こうなる事を予測して、何度もイメージトレーニングを重ねていたはずの一言が、ミリア並みの焦り丸出しでしか言えなかった。案の定、明菜は不信そうに眉を顰め、ミリアと恭也を見比べる。よくよく考えてみれば、幼馴染である明菜に『ミリアは親戚の子』などという嘘は通用しないのではないだろうか。恭也の親戚を全て知り尽くしているわけではないが、10年近く付き合っていれば、そういう親戚が居るというような話は一度ぐらい耳にしたことがあるはずだ。
 明菜が何か言い出す前に、こっちから適当に辻褄(つじつま)を合わせようと思うのだが、何を言えばいいか分からず、口を半開きにしたままでいる。
「恭也の親戚にこんな子いた?ていうか外人の親戚とか聞いたことないんだけど」
「ずっと言わなかったっけ?親戚に外人がいるって」
 ベタにも程があると思うが、これしか思いつかなかった。明菜の不信感がいや増していく気がしたが、自分がおぼえていないだけだと思ったのか、一応は納得したらしく、勝手にミリアの隣の席に着く。
「それで、何でこの子と二人きりでここに来てるの?」
 この問いなら簡単に答えられる。
「この子ってまだここに来たばかりでさ。よかったらこの辺を案内するように頼まれて、昼食にしようってことになったから」
「ふーん」
 頬杖を付いて、なんともいえない返事をしながらメニューを開く。
「私もまだお昼まだだし、何か注文しよっと」
 まさかと思うが奢れとか言うんじゃないだろうか。明菜は恭也のその考えを見破ったのか、
「別に奢ってもらおうなんて思ってないわよ。自分の分ぐらい自分で出すに決まってるでしょ」
 そう言いながら、早々と注文する料理を決めたらしく、メニューを閉じて呼び鈴のボタンを押して、足早に来たウェイターに明太子パスタを注文する。
 その時、店員がミリアの金髪を少し奇異の目で見ていたのを、恭也は見逃さなかった。
「で、なんていったっけ?」
「え?」
「この子の名前」
「ミリア。ミリア・ラーファイム」
 苗字まで言うことはなかった気がする。
「外国人なんでしょ?何処から来たの?」
 恭也とミリアは思わず顔を見合わせる。今まで『ミリアは外国の親戚』と設定付け、口にしていたものの、具体的に何処の国のどこら辺の出身で、何処に住んでいたのかは考えていなかった。短絡的にアメリカ人でいこうと思うが、どうもミリアはアメリカ人といった感じがしない。どちらかといえば北欧系の雰囲気が強い。
「イギリス。イギリス人」
 北欧という単語から真っ先に思い浮かんだ国名をそのまんま口にする。イギリスなら大体のことは分かるし、調べようと思えば簡単に調べられる。
「じゃあ英語とか得意なんだ?そういえば日本語とか分かるの?」
 尋ねられたミリアが救いを求めるように恭也の方を見る。何と返答すべきか、指示を求めているらしい。そりゃ余計なことを口走られては、後から帳尻を合わせるのが面倒になるのは分かっているが、少しは自分で考えてほしい。
 仕方が無く、恭也が代わりに答える。
「うん、まあ。日本語は普通に上手いよ」
「日本に来たのって、留学?」
「留学っていうか、ホームステイみたいな奴。語学留学だとかそんなので、暫くうちで預かることになってる」
 明菜の前に氷水がギリギリまで入ったグラスが静かに置かれる。よほど咽喉が渇いていたのか、すぐさまグラスを手にとってあっという間に水を飲み干す。
「え。でも、恭也んちって、空いてる部屋とか無いでしょ?寝る場所とかどうしてるの?」
「恭也さんと一緒の部屋です」
 口を挟んできたミリアに二人の視線が集まる。すると案の定、ミリアは怯えて身を守るかのように椅子の上で縮こまる。
 よりにもよってそんな誤解を招くようなことを。
「一緒の部屋って」
「違うって、ただミリアが俺の部屋が気に入っただけでさ。別に変な意味とかじゃ全然」
 明菜は目を丸くしたまま、身じろぎもせずミリアの方を見たままでいる。
「あの足の踏み場も無い部屋で?」
 なんだそっちか と安心する。が、そのすぐ後に無性に腹が立った。そりゃ普段は自分の部屋は散らかっている。しかし1週間前に綺麗に片付けたし、ミリアが住み着くようになってからというものの、毎日部屋の掃除は欠かさずやっている。
 とはいえ、明菜がそんな事知る由もないし、最後に恭也の部屋に来た小5の時は、文字通り足の踏み場が無い惨状だったのだから仕方が無いかもしれない。
 両手に料理の載ったトレイを持った店員が恭也たちのテーブルの横で立ち止まって、恭也とミリアの前にもうもうと湯気の上がるチキンドリアを置き、続いて明菜の前に明太子パスタが置いた。店員は注文がこれで全てであることを確認すると、すぐさま厨房へ戻って新たな仕事に就き始めた。
 明菜はすぐさまフォークを手にとって、皿に盛られたパスタに突き立てる。
 恭也とミリアのチキンドリアは出来たばかりでは熱すぎて、とても食べられないので暫く待たなければならない。
 その間、恭也は一緒に持って来られたタバスコを自分のドリアの中に多めに注ぐ。別に恭也は極度の辛党というわけではなく、ここのタバスコが薄いので、これぐらい入れなければ意味が無いからだ。ミリアも同じようにタバスコを入れようとするが、辛いのが苦手らしいミリアは入れない方がいいと止めさせた。
「そういえばさ、ミステリーサークル描いたの、あんた達でしょ」
 あまりに唐突だったので、無駄にどきりとした。恭也はそれを平然とした様子で隠したつもりだったが、結構表に表れていたのか、明菜はフォークに巻きつけたパスタを口に運んで咀嚼した後、ごっくりと飲み込んで
「やっぱり。どうせ鶴ヶ崎先輩と一緒だったんでしょ」
 そっと指先で器の縁を触って冷めたかどうか確かめる。そろそろ頃合だと判断して、スプーンを手に取る。
「また付き合わされたんだよ。別に好きでやってるわけじゃ無い」
「嫌なら断ればいいじゃない」
「先輩なんだし、断るわけにもいかないだろ」
 フォークを再びパスタの山に突っ込みながら、半ば呆れた口調で
「私だったら断る。先輩だからって何でもやっていいわけじゃないし、一から十まで言いなりになることも無いじゃない」
 それが出来れば苦労しないと心底思う。適当に理由を付けて断ろうとしても、それを予見していたかのように言い包められてしまう。かといって強硬に断ろうとすると、脅しと(すか)しをうまい具合に使い分けてくるし、何より彼女は目的の為ならどんな手段もいとわない。
「まあ、あの鶴ヶ崎聡美から逃げ遂せるなんて、普通の人間にはまず不可能だろうけどね」
 まったくだ。
「あの人ってなんであんなにUFOとか幽霊とかにご執心なんだろ。そりゃそういうのが好きって人は珍しく無いけど、あそこまでいくともー病気よ病気。恭也はそういうの、何か聞いてないの?」
「訊くだけ無駄だと思うよ。好きなもんは好きだそれだけだ何が悪いとかなんとか言われるのがオチだろうし」
 だろうねーと呟き、パスタを口に運ぶ。恭也もドリアを食べ始め、ミリアもそれに続く。3人とも食事中は食べる事に集中するタチであるため、しばしの間無言の時間が過ぎる。
 あっという間にパスタを食べ終わると、顔を上げて、じとりと湿った目つきで恭也を見て
「まさかと思うけど、ミリアを先輩に会わせてないでしょうね」
恭也は意味を掴みかね、きょとんとした顔をする。
「なんでだよ」
「仮にも外国人よ?あの人がそれに興味持たないとは限らないし、何をされるか分かったもんじゃないわ」
 心配する気持ちは分かる。だがしかし既に手遅れだった。ついこの間、自分はうっかりミリアの事を聡美に話し、対面させた挙句にミステリーサークルの作成に協力させている。聡美はミリアに多少なりとも興味を持った様子だったが、別に心配に及ぶほどのものでもなさそうだった。ただ、ミリアを元の世界に戻す方法を探す事に協力させるとなると、聡美をミリアと会わせなければならなくなるので、その事が心配ではある。
「大丈夫だって。この前家に来たときに一回だけ会ったけど、そんなに興味を持った風じゃなかったし」
 『家に来たとき』のくだりで明菜が微かに表情を歪めたように見えたが気のせいだと思う。
「でも、あの人の興味とかって凄く流動的でしょ?今はなくてもその内興味持つかもしれな」
「こちら、お下げしてもよろしいでしょうか」
 三人して顔を上げると、みたび営業スマイルの店員が、空になった食器を掌で指していた。明菜が「どうぞ」と呟くと、店員は「失礼します」と言いながら空になった皿を下げ、空のグラスに頼まれもしないのに水を注ぐ。そして軽く会釈をしながらその場を立ち去っていった。明菜は店員が店の奥へと消えるまで、ずっとその姿を目で追い続け、やがて小さく息を吐いた。
 明菜の手がのび、そっとミリアの頭を撫でる。手が触れた途端にミリアはびくりと身体を硬直させるが、そんな事お構いなしに綺麗な金髪の上をさする。しっかりと手入れされたミリアの髪はとても滑らかで、触り心地がとてもいい。
「恭也にこんな可愛い親戚がいたなんてねぇ」
 と、顔面の筋肉を一気に緩めて「にへら」と笑う。石のように固まるミリアを抱き寄せて、頭頂部のみならず頭全体をわしわしと撫でまわす。ミリアは更に全身を強張らせ、身を硬くしながら恭也に救いを求める視線を向ける。明菜に抱き締められるミリアが大きな人形のように見える。
「やめろよ、嫌がってるだろ」
 と、口ではそう言うが、顔はニヤニヤ笑っていた。
 やはりミリアには、えも言われぬ可愛らしい雰囲気が全身に漲っている。普段のちょこちょこした動きや、たどたどしい言動が、彼女の愛くるしい容姿と相まって、その愛嬌を倍増させているのだと思う。
 明菜はミリアを更に強く抱き締め、可愛い可愛いと繰り返す。当のミリアはどうにかして逃れようと抵抗するが、年齢の差による体格の違いは如何ともし難く、抵抗といっても大したものでもなく、むしろ抱き締められる事をそこまで嫌がっていない様でもある。それでもドリアを食べるのだけは譲れないらしく、懸命に手を伸ばすが、なかなか器に届かない。明菜もその事に気が付いているのか、(ある)いは本当に気づいていないのか、腕を緩めてやる気配がまるで無い。むしろ、必死なミリアを見るのを楽しんでいるようだった。
 その微笑ましい光景を眺めつつ、明菜とまともに話をするのが随分久しぶりである事を思い出していた。
 中学入学と共に彼女の態度が硬化し、急速に二人の仲が冷えたことで、お互いが次第にすれ違い始めてからは、一緒に何処かに遊びに行くようなことも無くなったし、話をする機会も徐々に減っていっていた。ただ、完全に疎遠になったという訳ではなく、クラスが一緒なので顔を合わせる事は必然的に多いし、ごく稀に二言三言の会話をすることもある。『仲の良い友達』から『ただの知り合い』へと関係のランクが下がったと言った方が正確かもしれない。
 ミリアを抱き締めてはしゃぐ明菜の姿は、間違いなくそうなる以前のものだった。
 自分が知っていた、その頃の明菜は、天真で素直な、何処にでもいるような明るい女の子だった。恭也ら男の子のグループに加わって、公園で遊びまわったり、山野に入って探検ごっこをしたりもしていた。あの秘密基地を作るときだって、明菜も一緒だった。
 昼飯食ったら公園に集合、秘密基地に行って作戦会議、夕方まで泥に塗れるほど遊んだ。我が事ながら呆れてしまうほど典型的で絵に描いたような、思い出してみると恥ずかしくなるような幼少期だった。
 しかし年齢が1つずつ上がっていくと共に、メンバーは徐々に減っていき、最後に残ったのは自分と明菜の二人だけだった。そして去年の春、残っていたのは自分一人だけだった。明菜が去って残された後、一時は自分もここから去ろうと思っただろう。しかし、聡美に絡まれるようになってからは、そう思わなくなっていた。聡美に引き摺り回される時間は、まさしくあの頃の自分達と同じであり、結局自分はそこに居続けていたのだ。
 窓の外に視線を移す。
 まだこの店が建てられる前、秘密基地へと向かうときに自分達はこの道を自転車に乗って通っていた。あの頃と殆ど変わっていない景色が、やけに懐かしく感じる。
 あの頃にはもう戻れないとしても、その記憶だけが鮮明に残っている事がやけに空しかった。



 明菜は言ったとおりに自分の分は自分で支払い、恭也は自分とミリアの2人分を払い、店を後にした。
 昼食の後は、再び手掛かり探しをする予定だった。しかし明菜はミリアが大層気に入ったのか、ついて来る気満々だった。とても『これから手掛かり探しに行く』なんて言えないし、かといって彼女を追い払うのも、かえって怪しまれる。仕方が無く、恭也はわざわざ駅前まで出向いて、ミリアの服を買うという名目で商店街の洋服屋に行った。長く一所に腰を落ち着かせないタチの明菜なら、すぐに服を見るのに飽きて、その内に帰ってくれるかもしれない。それまで長々と居座っていても不自然ではないだろう。いずれにせよ美凪のお古を使わせていたミリアに服の一つぐらい買ってやった方がいいと思っていたし、丁度よかった。
 その洋服屋の名を『セイレーン』といい、岩清水の真正面に店舗を構えている。デパートなんかにあるようなモダンな雰囲気ではなく、どちらかといえば家庭的な温かな雰囲気を持っており、店主の柊千早の穏やかな人柄もあって、近隣の住民から高い評判を受けている。
 恭也は明菜と同様、或いはそれ以上に服装に無頓着なのだが、岩清水の真向かいである事と、母の菜月と千早の仲が良いこともあって、意外と親交がある。後者絡みで明菜も彼女との仲が深く、値段が手頃なので、ここによく来ているらしい。その辺りが心配ではあったが、ここに行こうと言い出したときに、明菜は服を買う予定は無いといった事をこぼしていたので、大丈夫だと思う。
 3人が店に入ると、レジでPOP広告を作っていた千早が顔を上げた。
「久しぶりね、恭也くん」
 言われて思い出したが、ここには2ヶ月ほど来ていなかった。岩清水に何度と無く行っていたので、その実感があまりわかなかったからだろう。
 恭也が軽く会釈をすると、ミリアもそれに倣って恭也の斜め後ろで小さく頭を下げた。すると、千早はミリアに気が付いて、レジから少しだけ身を乗り出すような形でミリアを見る。反射的にミリアが恭也の後ろに隠れようとするが、千早はそれに気が付いたのか、それともごく自然になのか、二児の母親らしい温かな笑顔を向けた。その笑顔に少しだけ安心して緊張が解けたのか、少しだけ顔を見せるようになった。
「お友達?」
「なんか親戚の子らしいですよ」
 と、答えたのは明菜。こうもあっさり言われると少し困る気もしたが、いずれにせよ自分もそういうつもりだったので問題は無い。だが千早と菜月の会話の話題にミリアの事が挙がる危惧は否応にも高まるし、その辻褄を合わせられるかどうかが心配だった。
 千早はミリアを一瞥して、ほんの一瞬だけ眉を顰めたように見えたが、すぐさま普段の笑顔に戻り、レジから離れて恭也たちの前に立つ。
「今日はどんな服を?」
「えっと、ミリア―――この子の服を買いに」
 そう言うと、千早はミリアの傍にしゃがんで、目測で身長を測る。
 ミリアは年の割に小柄な方で、下手をすれば実年齢より2歳ほども幼く見えたりする。本人はその事を気にしているらしく、背伸びをしたい年頃なのか、子ども扱いされると怒り出したりする。
 千早がミリアの背丈をどれぐらいと判定したのかはさておき、立ち上がって軽く手招きしながら店の奥へと向かう千早に3人してついていく。言うまでもなく、子供サイズの服のところである。子供用なだけあって、原色を基調としたカラフルなものが目立つ。その色鮮やかな中で、千早は片端からミリアに合いそうな服を探し、その中から赤と白のTシャツを引っ張り出してミリアにあててみる。
 鏡の前に立たせたミリアに、これはどうかと尋ねるが、本人はよく分からないと言って判断を千早に任せた。しばらくの間、Tシャツをあてたままで鏡の中のミリアを凝視した後、少し違うと首を傾げながら別の服を選別する。次は青いシャツを取り出す。子供用とは思えないほど大胆に胸元が大きく開いているように見える。千早が振り返ると同時に、ミリアは首をぶんぶんと横に振る。流石にこの胸元の開きっぷりは受け入れられないらしい。
 千早が次から次へと服を取り出してはミリアに合わせては、ミリアが様々なリアクションをするのを恭也はただ眺めていた。ファッションについて無関心な自分が口出しするのも気がひけるし、美凪という女子が身近にいながら、女の子の服装についてあまり分からなかった恭也は、何をするでもなくそこに突っ立っている。居心地の悪さを感じた恭也が振り返ると、さっきまでそこにいたはずの明菜の姿が無かった。もう帰ったのかと思ったら、出入り口に近い棚の向こうで明菜の頭が見え隠れしていた。服を買う予定は無いと言っていたし、随分速く進んでいるあたり、服を選んでいるわけではなさそうだった。
「恭也くん」
 と、背中を指先で突かれて我に返る。両手に服を持った千早が呆れ顔と不興(ふきょう)顔を足して2で割ったような、難しい顔をしていた。
「恭也くんもミリアちゃんの服、見てあげないと」
 そう言って、持っていた服を両方とも突きつけられて、恭也はしぶしぶそれを受け取る。弓手に緑と白のシャツ、馬手に赤いワンピース。よく分からない。とりあえず、ミリアを姿見の前に立たせてそれぞれを合わせて、本人に感想を尋ねてみるが、ミリアは恭也の感想を聞きたいらしく、後ろの恭也を上目遣いで見つめてくる。そんな事をされてもこっちが困るのだった。
「どうですかね?」
 苦笑いしながら千早に助け舟を求めるが、顔面の部品を全て横線にして微笑むだけで何も答えない。あるいはそれが答えなのかもしれない。正直に自分の意見を述べよ と黙して語らず、沈黙と笑顔から漂う雰囲気がそれを訴えかけていた。そんな事をされてもこっちが困るのだった。
 逃げ場の無い恭也は鏡に映るミリアの姿に目を向ける。赤のワンピースはいくらなんでも大人びすぎていると思う。ミリアもあんまり気に入ったわけではなさそうだった。今度は緑と白のシャツを合わせてみるが、デザインが男の子向けなのでどうも合わない。ミリアがボーイッシュな子だったら満更でもないのだろうが、どちらかと言えば大人しめのミリアにはもう少し落ち着いたものが似合いそうだ。
 ワンピースとシャツとを一緒に千早に返して、ミリア本人に服を選ばせる。
 ミリアが服を見てまわり始めると、恭也はもう一度振り返った。最近設置したばかりと思しき、小ぢんまりとした水着コーナーに明菜の姿がある。
 まだ帰る気配は無かった。



 明菜は服を見てまわりながら、物思いにふけっていた。
 市の教育委員会の会議が行われる予定だった遠瀬市立大学の講堂が火事に遭ったらしいので、急遽飯嶋中学に会場が変更されたので、午前中で授業は終わった。特に予定の無かった自分はすぐに家に帰り、友人から借りっぱなしだった音楽CDを返しに行った帰りの道中に、サインフェルドに入る恭也を見つけたのは、ただの偶然に過ぎなかった。
 普段なら彼を見かけても別段気にかける事も無いのに、わざわざサインフェルドに入って平静を装ってまでして話し掛けたのは、見知らぬ金髪の女の子―――ミリアがいたからに他ならない。彼女が何者であるのか知りたかったし、何よりも恭也との関係を知りたかったのだ。
 ミリアの事を恭也は『外国人の親戚の子』と言っていたが、果たしてそれは本当なのだろうか。彼とは幼稚園来の長い付き合いなのだが、今までただの一度もそんな話を聞いた覚えは無い。それにミリアの事を話す恭也の様子。もともと考えが表に出やすい恭也だが、ミリアの事を話す様子の中には焦りが見え隠れしていた。彼はミリアの事を隠したがっている。問題は何故隠そうとするかだ。本当に親戚の子ならば別に隠し立てするような事でもないはずだ。もしかしたら、ただ単に外国人の親戚がいるというだけで変に注目を浴びたくないだけなのかもしれない。或いは他に何か人に言えないような事情が絡んでいるのだろうか。父方の若さ故の過ちのツケが今になってまわって来たとか、施設か何かにいたのを養女として引き取ってきた子だとか、そういう事なのかもしれない。
 服を見てまわっていながら、実際は服の事などまるで眼中に無かった。焦点の定まらぬ視線は常に宙を泳ぎ、服を取る手の様子はどこまでも機械的だった。
 ミリアの服を見に行くという話に便乗して、自分も服を見に行くと言ってついて来たものの、実際は服を見に行く気など微塵も無かった。ただミリアと恭也が何処に行くのかが気になって仕方が無かったからである。
 だが、いくら気になるからといって、2人についてまわる必要は無かったのではないだろうか。二人が何処へ行こうと二人の勝手なのだから、そこへ自分が介入する権利は無いはずだ。気になって仕方がないのなら、とっとと家に帰って勝手な想像でもして、後日に適当なときにそれとなく尋ねてみればいいだけの話なのだ。
 獲物を覗き見る虎のような慎重さで恭也たちの様子を窺う。
 その刹那、脳裏に幼い頃の恭也がフラッシュバックした。
 自分達が小学生低学年の、男女の隔たりも無いに等しかった頃の恭也と自分の姿だった。
 あの頃の自分は恭也に付いて行って男の子のグループに加わり、公園で遊びまわったり、山野に入って探検ごっこをしたりしていた。何処だったかは思い出せないが、山の中に秘密基地を作った覚えもある。
 昼飯食ったら公園に集合、秘密基地に行って作戦会議、夕方まで泥に塗れるほど遊んだ。我が事ながら呆れてしまうほど典型的で絵に描いたような、思い出してみると恥ずかしくなるような日々を過ごしていた。
 しかし年齢が1つずつ上がっていくと共に、一緒に遊んだメンバーは徐々に減っていった。何処かに引っ越してしまった者、私立の中学校に進学する事になって遊べなくなった者、交友関係が広がった等で徐々に疎遠になっていった者。
 そして自分と恭也の二人だけが残った時、自分は恭也のもとから去った。
 いつまでも子供っぽく振舞っていたのが恥ずかしくなったというのもある。だがそれ以上に、男である恭也と一緒にいることに対して強い抵抗感を覚えるようになったからだ。
 いつの間にか、恭也との間には男女の差という隔たりができていた。
 別に自分は恭也の事を男として認識していないわけではないが、それ以上の感情は何も抱いてはいないと思う。恭也はあくまでも家が近い、ただの幼なじみなだけだ。8年ぐらい一緒にいて、今更恋愛感情など持てようか。
 胸の底に詰まっている重々しい疑念を無理に払おうと、深く息を吐く。
 考えてみれば、自分が恭也とミリアの関係に固執するのは、その長い付き合いが為なのかもしれない。



 明菜が再び思考の海から引き揚げられたのは、恭也に肩を叩かれたからであった。
 思わず声を上げて驚いてしまったのが恥ずかしかったが、すぐに平静を装いつつ振り向く。まず恭也の顔が視界に入る。二人の身長が大して違わないので、必然的に顔の高さが同じになる。そしてその足元に小動物ならぬミリア。
 やけに粘つく唾をごっくりと飲み込んで、
「ど、どうかした?」
「いや、どれにするか結局決まらなかったから、また今度見に行こうって事になって」
 なんだ と呟き、緊張していた背筋から力を抜いて手に持ったままになっていた服を元の場所に戻す。
「それで?これから何処か行くの?」
「特に予定は無いけど、だけど」
 歯切れの悪い調子で言いながら視線をミリアの方に向ける。それに気づいたミリアは、きょとんした様子で恭也を見上げて小さく首を傾げた。
「そっか。じゃあ私、そろそろ帰る」
 そう言って踵を返して外へ向かい、恭也もその後に続く形で店外へと歩き出した。店から出る一歩手前で千早がミリアを呼び止め、笑顔と共に手を振る。ミリアもぎこちない様子で小さく手を振り返した。恭也も一応、千早に向かって会釈をしておいた。
 一歩店の外に出ると途端に日の暑さが刺さった。7月初頭ともなれば、もうすっかり日差しは夏の様相をなして、全身の皮膚を容赦なく炙ってくる。日差しの眩しさと、室内と屋外の温度差に軽い眩暈(めまい)がする。長くクーラーの効いた所にいたせいか、ひどく喉が渇いていた。近くに自販機が無いかと辺りを見渡すと、真向かいにある岩清水の脇に置かれた一台の自販機が目に入った。
「ミリア、何か飲む?」
 そう言ってミリアを自販機の前に連れて行った。ミリアは自販機を初めて見るのか、すごく珍しそうに隅から隅まで観察する。こういう好奇心の強さは幼さ故か、或いは彼女自身の気質か。自販機の事を説明してやろうと思ったけど、口で言うよりも実演してみる方が早いと思って、右のポケットから財布を引っ張り出して、硬貨投入口に100円玉を3枚入れる。それを見て、恭也が奢ってくれる事に気がついたミリアは申し訳なさそうに恭也を見上げるが、別に気にしないでいいと答える。
「どれがいい?」
 整然と並ぶ商品見本の列を指差す。二段ある内の下段は精一杯背伸びをすれば、かろうじてミリアの手が届きそうだが、上段はまるで届きそうに無いので、自分が代わりにボタンを押すつもりだった。ここまで考えてから思ったのだが、ミリアが自販機のジュースを見ても分かるのだろうか。今のミリアの様子からして、彼女の住んでいた世界に自販機はなさそうだし、お茶やコーヒーは分からないが、炭酸飲料とかがあるとは考えにくい。なによりも、彼女の嗜好もよく知らなかった。水 と言うのはあまりに味気なさすぎだろう。
「恭也さんはどれがいいと思いますか?」
 しばし考え込み、
「これは?」
 そう言いながらスポーツドリンクを指す。ミリアが頷いたのを確認してボタンを押すと、二拍ほどの間をおいて取出し口に音を立ててプラスチックボトルが転がり落ちた。ミリアは驚いて肩をビクリと震わせ、おずおずとしゃがんで取り出し口の中を覗き込む。中にボトルがあるのは分かったらしいが、得体の知れない機械の中に手を入れるのが怖いらしい。生き物の口の中に手を突っ込むんじゃあるまいし。
 やれやれと取出し口からボトルを出してミリアに手渡し、勝手に出てきてしまったお釣りを再び投入して炭酸飲料のボタンを押す。ボトルの落ちる音にミリアがまた驚いたことに恭也は気が付かなかった。
 坑道へ続く道から駅前まで歩き通しで少し疲れていた二人は、商店街を出てすぐ底にある公園のベンチで休む事にした。ちょうど木陰に設置されたベンチがあったので、そこに座った。恭也はボトルのキャップを開けて炭酸飲料を飲み、炭酸独特の刺激に顔を僅かに歪めながら頭上の青空を仰ぎ見る。日差しの当たらない木陰は風が涼しかった。その横ではミリアがキャップをあけようと四苦八苦している。
 今日の調査で得た成果を整理する。
 まず、ミリアが記憶していた謎の魔法陣に関する記憶はあやふやで完全に復元するのは不可能。不完全だから発動させる事は不可能であり、故にその魔法陣が示している魔法の効果も不明。更にミリアが言うには見たこともないような式が随所に見られるということ。結局、具体的に分かった事は何一つ無く、進展はほとんどゼロに等しい。初めから何もかも分かるなどとは思ってはいなかったが、実際に何にも分からなかったとなると結構きつい。




「恭也さん」
 キャップを開けられなかったミリアに応援を求められて、恭也は無言で半ば無感情に受け取ってキャップを開けてやる。ミリアは恭也からボトルとキャップを受け取って、白く細い喉をならして飲み始める。が、ボトルの口を咥えてしまっているのでうまく飲めていない。
 キャップを閉めつつ、ゆっくりと息を吐きながら公園の中を見わたす。小学校が放課後になるにはまだ時間があるので、幼稚園ぐらいの子供と、その親であろう女性の姿が見受けられる。平日とはいえど買い物のついでに立ち寄っているのか、その数は決して少なくないはずなのだが、公園自体が広いのであまり多くは見えない。これも高度経済成長でのインフラ整備によるものであることは小さい頃に父から聞いていたのだが、とうの昔に忘れていた。
「あの、」
 キャップを回す手を止める。
「ありがとうございます」
 意味が分からず、ミリアに目を向ける。
「・・・手掛かりを、探してくれて」
 なんだそんな事かと思う一方で、腹の底に重たいものがのしかかる。自分が手掛かりを一緒に探してくれたことを感謝しているのは分かる。しかし今の自分は感謝されるほどの事は出来ていないのが実状だった。
「いいよ、別に大した事をやったわけじゃないし」
「でも、あの魔法陣を思い出して実践が出来たのも恭也さんのおかげです」
 それこそ大した事じゃない気がするが口には出さないでおき、恭也は静かにボトルのキャップを閉めなおした。横でミリアがスポーツドリンクを飲むのを再開する。その様子からしてよほど喉が渇いていたらしいが、恭也としてはむしろスポーツドリンクが彼女の舌に合ったことに安心していた。
 ともあれ、まずはこれからどうするかを考える。どうせこのまま調査を続けたところでなんら進展が得られる事はないだろうし、とっとと家に帰るのが賢明だろうし、ずっと歩いていたせいで二人とも大分疲れていて、夕方も間近かった。けれども、もう少し調べて些細な事でも知っておこうと気もしないでもない。
「じゃあ、どうする?そろそろ家に帰る?」
 そう尋ねると、ミリアは賛成とも反対ともつかない曖昧な声を漏らしてうつむく。判断を恭也に任せるつもりだと受け取った恭也は、とっとと家に帰ろうとベンチから立ち上がろうと腰を浮かせた。すると、ミリアが急に顔を上げて
「恭也さん」
 ゆっくりと立ち上がってからミリアを振り返った。
「さっき魔法陣の実験をした山にもう一度行きたいです」
 恭也は身動きも表情一つ変える事も無く、ただミリアの顔を見つめ続ける。不安を感じたミリアは再びうつむいて、嫌ならいいんですけど と蚊の鳴くような小さな声で呟いた。無論、その呟きは恭也の耳には届いていない。ただ僅かな唇の動きが見えただけなので恭也はすぐに聞き返すが、ミリアはうつむいたままで返事をしない。
 今日だけで何度目か知れないため息を吐く。
「いいよ、行こう」
 見上げた空は既に夕暮れに染まりつつあった。



 眩いばかりの陽光を真正面から浴びながら、必死に自転車のペダルをこいだ。
 時は既に7月。夕方にあってなおも、その暑さが和らぐ気配はなく、全身から汗が炊きように吹き出ている。後ろに乗っているミリアが恭也にしがみ付いているので尚更暑い。
 ミリアはもう一度あの山へ行って何をするつもりなのだろうか。もう一度、魔法陣を試してみようと思ったのだろうか。
 なぜか乙山へ近づくにつれて、幼い頃の記憶が徐々に蘇ってきた。
 あそこの炭鉱跡へ続く道への入り方を発見したのは自分だった。入ってから2・3分もした所にある獣道を辿ると乙山の頂上に出る。確か頂上は野球の内野二つ分ほどの広さの丘だったはずだ。
 周りの景色が住宅街から田んぼに変わる。
 当時の明菜を含む友人達と共に頂上に到達したとき、眼下に広がる深緑の広さと自分達の住んでいる町の遠さに恐れをなして泣き出したのは誰だっただろうか。少なくとも自分ではない。
 緑色であるはずの稲が夕日を浴びて朱色に染まっている。その朱の中を恭也とミリアは走る。
 無数の電柱と電線のアーチの下をいくつもくぐる。
 スプレーで落書きされたガードレールが吹っ飛ぶような勢いで後ろへ過ぎていく。
 道が緩やかな上り坂になり始めた。目的地まではそう遠くはない。あともう一踏ん張りだと自分自身を鼓舞する。炭鉱への道についても、底から先へまた歩かねばならないことは考えない。考えないことにした。
 山裾(やますそ)の貯水池の傍を走る。反射した光が滅茶苦茶眩しい。
 この貯水池はフェンスで囲まれているものの、扉が壊されたままで事実上の常時開放状態だ。フナやザリガニがよく釣れるから、ここへはよく来ていた。小5のときに引っ越してしまった仲良しグループの一人が足を滑らせて、豪快な飛沫をあげて池に落ちた時の様子は思い出しただけで笑い出しそうだ。近所の人も時々釣りをしていて、禿げた頭に麦わら帽子を被ったおじさんに飴玉を貰った記憶がある。今でもここへ釣りをしに来る事はあるが、おじさんの姿は一度も見ていない。
 ゲートを50メートルほど通り過ぎて、フェンスの途切れたところで自転車を停めた。
 二人とも何も言わずに自転車を降り、恭也が自転車のスタンドを立てて鍵をかけるまでミリアはすぐ傍でずっと待っていた。既に一度は行っているから分かるだろうから先に行ってろと言いたくなるのを堪え、彼女を引き連れて何の躊躇いもなく森へと分け入る。
 道路に出てからは坂道をひたすら登り続けた。
 全く会話が無い事に居心地の悪さを感じたミリアは、恭也に何か話しかけようと思うが、何を言えばいいのか分からないし、何かを言おうとしても、振り返りもせずに黙々と歩き続ける恭也の背中に気後れして、開きかけた口を閉じてしまう。恭也の歩くスピードが早くて、5歩ごとに走って距離を詰めなければならず、歩調を緩める気配が無い事に、もしかしたら怒っているのではと不安に思っていた。
 恭也はミリアが描いた魔法陣の一歩手前で立ち止まり、そこでようやくミリアを振り返った。
「それで、どうするの?」
 ミリアは目を見開き、怯えた様子で恭也を見る。が、すぐにうつむいてしまう。
 自分は何かしたっけ と、恭也は今までの自分の行動を思い出すが、思い当たるようなものは見当たらない。さっきだって怯えるほどの怖い声ではないだろうし、睨みの利いた顔もしていないつもりなのだが。
「頂上に」
「え?」
 声が小さくて聞き取れなかった。
「頂上に行って、そこから景色とか見たら何か思い出せるかもって・・・思って・・・・」
 そんな事でいちいちと怒る気すら起きなかった。溜め息すら出なかった。
 口を半開きにしたまま、うつむくミリアのつむじを暫し眺めた後、無言で踵を返して坂を上り始めた。その後をミリアが追うが、坂を登って足が疲れていたせいで、うまく歩けずに足がもつれて派手に転んでしまう。その音に驚いた恭也はすぐにミリアの傍に駆け寄って、転んだままのミリアを助け起こす。
 右肘と左膝を擦りむいて、左膝からは赤い血が滲んでいる。疲れた頭にその赤さが()みて眩暈(めまい)がする。
「立てます。大丈夫です」
 誰も聞いてもいないのに、一人でそう呟きながら立ち上がるが、痛みに足が何度も震え、目に涙が浮かぶ。しかしミリアはそれを必死に堪えながら恭也の脇をすり抜けて坂を登っていった。その間、恭也は何度も怪我をしているから家に帰ろうと声をかけようとしたが、結局ミリアが立ち上がって自分の横を通り過ぎて行ってからも、口をきくどころか手を出す事すらできずにいた。ただ立ち上がって、半歩先を行くミリアの後を追うことしかできなかった。
 ミリアの背中を追い続けながら、恭也はみたび過去へと戻る。
 別の中学校へと進学した奴がこの坂道でスケボーをして、顔面から派手に転んで血みどろになったのは小4の頃だったはずだ。転んで地面をしばし滑走したインパクトもさることながら、頭から血を流しているのを見たときは悲鳴すら上がらなかった。一番家が近い奴の家へと急ぐ道中で、血で顔を赤く染めた1人と顔面蒼白になった5人からなる一行を見た人は皆一様に目を見開いて何度か振り向いていた。
 道の脇に今もなお残っていた獣道を見つけた恭也は通り過ぎようとするミリアを呼び止めた。このままこの道を進み続けても頂上には行けない。ただ閉鎖された坑道への入り口があるだけだ。
 改めて見ると結構はっきりとしている獣道に入り、胸までもある草を掻き分け、行く手を阻む枝を折っては潜り抜ける。
 舗装されていない生の坂を坂を二人は登り続けた。お互いに何かを話しかけることも無く、木々のざわめきとせみの声と二人の足音だけがする中を黙々と歩いた。気まずいという思いすらわいて来ない。少なくとも恭也はただ頂上を目指して登る事だけを考えて、それ以外のことは何も考えてはいなかった。考えていなさ過ぎて、自分が何故こんな事をしているのかを見失いつつあったが、その事にも気がつかなかった。
 徐々に坂が緩やかになって行き、頭上に覆い被さる木々の腕が消える。
 蝉の声が遠のいていく。
 唐突に視界が草木の緑から夕焼けの赤に変わる。
 足を止めた。
 ミリアもそれに合わせるように静かに立ち止まった。
 目の前には緑が広がっていた。膝より少し高い程度の草が雲海のように広がり、柔らかな風にうねる。昔と変わっていない光景。眼下に広がる深緑の広さ。自分達の住んでいる町の遠さ。視点が少し高くなった以外、昔来た時と何一つ変わってはいなかった。
 瞬き一つせず、ゆっくりと歩き出す。
 ただっ広い草原の真ん中ぐらいに来たところで再び立ち止まった。そこで一気に気力が無くなって、そのまま後ろに仰向けに倒れた。ミリアが駆け寄って恭也の顔を覗き込んでくる。気分が悪くなって倒れたと思ったのだろうか、物凄く心配げな表情をしている。
 恭也は笑顔で応えて、ゆっくり上体を起こして改めて辺りを見わたす。
 頭上の空は紺色に染まりつつあり、西側が未だに赤く染まっていた。
 ―――――こんな所にまで来て、何をしようとしていたんだっけ。
 今更になって疑問に思った。
 それと同時に全身に鈍い疲労がのしかかり、物凄い空腹感を覚える。いっそのこと草の上に寝転がったまま眠ってしまいたい。まぶたを閉じれば30秒足らずで寝れそうな気がする。
 恭也の隣に座り込んでいたミリアは遠くに見える遠瀬市の町並みに目を向けた。
 方角で言えば南東であるそこは既に暗くなっていた。
 小さい、本当に小さな町だ。
 山に登ってしまえばその全身が簡単に見わたせてしまう。山と田畑に囲まれた、昔は炭鉱で栄えて今は寂れた町。手前の点々とした明かりは住宅街のものだ。駅前の商店街のアーケードが見える。線路を走る電車が見えた。そしてそれらの先の夜闇の中にビル街のネオンが輝いていた。
「何か思い出した?」
 言ってから自分達が何のためにここへ来たのかを思い出した。
 ミリアは黙って首を振った。
 恭也は緩やかに息を吐き出しながら天を仰いだ。
 大して珍しくも無い星空。その南の空に下弦の月が浮かんでいた。
「ただ、今日ずっと考えてたんですけど」
 メモ帳らしきものを取り出し、ページをめくりながら
「あの魔法陣は、月と何か関係があるみたいなんです」
「月?」
 ページをめくる手が止まる。緩やかに息を吐きながら月を見上げる。
「魔法陣の中に月を表す単語や図形が多く用いられているんです。それもほとんどの節に関わるようにして記述されていました」
「それで?」
「月は私達の世界で主流の魔導言語体系では"空間の門"と言われ、主に召喚魔法や転移魔法に多く用いられます」
 本来は制御節に用いられるものであり、それ以外の部分に組み込まれるような事はない。制御節以外で用いられているという事は、魔法陣が示す魔法は月と深い関わりがあると考えられる。
 そもそも月が"空間の門"といわれるのは、黒い夜空の中にぽっかりと穴が開いたかのように白く光る様子からと言われている。また、論理的根拠は無いものの、満月の夜には転移魔法や召喚魔法が成功しやすいと言われる事からも来ている。召喚魔法を研究対象とする召喚学会のエンブレムにも月が(かたど)られている。
 つまり月を多く用いるこの術式が示す魔法は、空間または次元に作用する類のものであり、その発動自体も月との関わりがあるという事になる。
 要約すればそういった事を意味不明の専門用語を交えつつ、実にたどたどしい語調でミリアは説明した。
「今日の実験が失敗したのって、それも関係してるってことじゃ」
「だと思います。けど、それ以前に魔法陣を完全に復元しないことには」
 確かにそれが先決だった。魔法陣が不完全では月との関係を確かめることはおろか、魔法を発現させる事すらできない。復元するのを手伝ってやりたいと思うものの、知識が皆無な自分に出来る事などたかが知れている。強いて言うならばミリアに衣食住を提供するぐらいだ。
「でも、そんなに急がなくてもいいよ。ゆっくりと考えていけばいいんだし」
 とはいえ、そんなに安閑としている訳にもいかなかった。
 この世界に長居をすれば必然的に他人と関わる機会が多くなる。そうするとミリアの事を隠し通せなくなって、その正体を知られてしまう危険性が出てくる。恭也が何より恐れているのは自分以外の人にミリアの素性を知られることだ。別世界や魔法の存在を信じる人間がどれほどいるか知らないが、いずれにしてもミリア自身や自分達にとって不都合な事になるのは明らかだった。
 それにミリアはまだ年端も行かない子供だ。早く故郷に帰りたいと思っているに違いないし、ミリアの家族や友人達もさぞ心配している事だろう。現実的なリスクにしても、ミリアの気持ちを慮っても、一刻も早くミリアを元の世界に帰してやらなければならない。そのための手掛かりであるだろう魔法陣の復元も、一分一秒が惜しかった。
 そんな恭也の心境を察したのか、それとも素直に好意と受け取ったのか、ミリアは口元にかすかな笑みを浮かべて頷いた。
「そろそろ帰ろう。もう真っ暗だ」
 辺りの森の中があまりに暗くて少しだけ心細さを感じつつ、そう言った。懐中電灯の一つぐらいあればと思ったが、こんな時間にこんな所に来るのは全く予定に無かったので持って来ていなかった。ポケットを片端から探っても出てこなかった。どうせ周りに自分達以外に誰もいないのだから、ミリアに魔法で明かりを点けてもらえばいいのではないだろうか。
「あのさ」
 振り向いた先で、ミリアは明後日の方向を向いていた。
「ミリア」
 また町の景色を眺めているのかと思ったが、違った。
 ミリアは町を見てはいない。
 ミリアはもっと近くのものを見ていた。
 視線の先を辿って、恭也は思わず息を呑んだ。
 さっきまで誰もいかったはずのこの丘の端に人が立っていた。
 今まで風の吹く音と草木の揺れる音の他には何も聞こえなかった。足音など全く聞こえなかったはずだ。大体この時間に、わざわざこんな所にまで来るような輩が自分達の他にいるとは考えにくい。
 まさか幽霊か物の()か。
「なかなかいい眺めだろ」
 若い男の声。
 人影がゆっくりと立ち上がり、恭也たちを振り返った。
 年齢を推し測るのは得意ではないが、二十代後半あるいは三十代前半ぐらいであろうか。ネクタイはだらしなく緩められ、ワイシャツも第二ボタンまで開けられていながら、スラックスだけがやけに綺麗なのが異様だった。
 足元のスーツを拾い上げ、草を払い落としたそれを肩にかける。
 足がすくむのを抑え、男の急な登場に対して虚勢を張るように一歩前に出てミリアを庇う位置に立った。
「いや悪い悪い。別に驚かせるつもりは無かったんだ。むしろ俺の方がびっくりさ。こんな所にまさか人がいるなんて思いもしなかったもんだから」
 そう言って男は顔全体で笑う。
「それで、なんでこんな時間に山の頂上にまで来てるんだ?」
「景色を見ようと」
 ミリアと男に怯えた様子を見せたくなかったし、かといって平然としているのも妙だと思って、わざと不機嫌そうな口ぶりで一言で返した。それに対して男はまるで臆した様子も無く、ニタニタしたまま、
「ああ、なるほどな。その子、海外からホームステイか何かで来たんだろ?で、折角だからこの秘密の場所を教えてやろうって。いや俺もさ、昔もそういう経験あるのよ。つっても連れてったんじゃ無くて連れてってもらったんだけどな。小坊の頃に親戚のばーちゃんちに行ったときに1こ上の従姉(いとこ)に秘密基地に案内してもらったんだ。従姉の友達も呼んでみんなで釣りしたり花火したり雪達磨(ゆきだるま)の大家族作ったりして。正月と盆に会っては遊びまくってたっけなあ」
 男は自分の身の上話をべらべらと話す。今まで一度も会った事のない見ず知らずの他人に対して、親しい友人に語るような口ぶりを恭也は薄気味悪いと感じたが、それ以上に男がここにいるということ自体が恐ろしく不気味だった。
 あんたは一体何者なんだ。心の底からそう思うものの、その疑問を生のまま表す事が出来ない。ただ一言『あなたは誰なんですか』とだけ訊けばいいものを、言葉を言葉として出すことが何故か出来ない。
「その秘密基地ってのが大体こんな感じのところにあってな、近くに捨てられた椅子とか絨毯とかを集めて無茶苦茶に置いただけなのに、物凄い基地を作り上げた気分になってたんだ。今になって思えば、俺の小坊時代の夏休みが一際眩しいのって従姉のお蔭なんだよな。あいつが俺の手を引いて友達の輪に入れてくれたからこそ、あの輝きがあったってわけだ」
 つまり自分はその時のノスタルジーに浸るべくここへ来た。
 男はそう言っているのだと理解した。
 しかしそれでも恭也は納得できなかった。男の言った事が嘘とは思えないし、ノスタルジーに浸っていたって言うのも間違いではないかもしれない。だが、それとは別に何か腹に一物あるような気がしてならない。
 男はいきなり真顔になって
「もうこんな時間だ。君らは早く帰れ。森で遭難とかするなよ」
 恭也は黙って頷いた。訊きたい事も言いたい事もあったが、結局何も口に出せないまま男に従った。頭は混乱しきっていて、自分が正しい判断を下せているのかまるで分からない。おぼつかない足取りでもと来た獣道へと向かい、ミリアは男と夜闇に怯えるように恭也の手をしっかりと握りながら続いた。
 森の中に入る一歩手前で後ろを振り返ると、夜の闇に包まれ始めた草原が、ただ風に波打っていた。
 ミリアが見たその中に、さっきまでそこにいたはずの男の姿は無かった。

 という事で『Lyrical Despair』第6話でした。
 前回の更新より2ヶ月以上も間が空いてしまいました。大変、申し訳ありません。
 現在8話を執筆中です。次回の更新は一体いつになるのやらと、我が事ながら不安なのですが、出来る限り急いで書き上げようと思っています。

 それでは次回をお楽しみに。

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