五章 変態吸血執事の手なずけ方
丘陵地帯に棚田が広がっている。広大な田は今でこそ渇いた土色をさらしているが、秋には一面、黄金色の稲穂で輝かんばかりとなるのだろう。シュテルは本で見た、稲穂の海原を頭に思い描きながら、その風景を眺めていた。
遠くの方に、赤や黄、緑、青が鮮やかに映える、民族衣装を着た女達がゆったりと道を行く。のどかな田園だった。
青々とそびえる山の向こう側に、太陽が沈みかけている。オレンジ色の夕陽が残照を残しつつ、その頭頂を隠す所だった。
「のどかな場所じゃわ。」
と、キリがあくびまじりに言った。今日の移動はこの村までとし、一夜をここで過ごすことにしたのだ。トランクを片手に持つシュテルと、アルが並んでキリの前を行く。
シュテルは、片手を額にかざし、沈み行く夕陽をじっと見つめていた。
キリは、そんなシュテルを見て言った。
「なんじゃ、シュテルちん。夕陽に見入って、感傷的になったのか。」
「カンショウ的とは、何でしょう。」
「んー? まあ、何と言うか、郷愁ちゅーか、戻れない過去を甘く思い出すというか、悲しく切なくもあったかい思い出にひたるというか、そんなんじゃわ。子供の頃、思い出さんか?」
「子供の頃、ですか・・・。いえ、何も・・・。私の記憶は、マスターに造り出されたところから始まっているものですから。」
「ふーん。それはちと、寂しいな。」
「キリさんは、思い出しますか? 昔のこと。」
「うん。思い出す。・・・? あれ、うち、どんな子供じゃったかな? 思い出すような、思い出せんような。」
さかんに首を捻るキリであったが、過去を思い出せないことを、あまり深刻に考える様子はなかった。
「よく分からない。」
あっさりと、そんなことを言う。
日が落ちる頃合いを見計らったかのように、トランクがガタガタと揺れ、リリヤの声が聞こえた。
「そろそろ日も落ちたんじゃない? 出してよ、シュテル。」
「分かりました、ミス・リリヤ。」
シュテルは言って、トランクを地面に置くと、がば、とそれを開いた。
縮こまった鴉が、ぶわっ、と羽を広げるかのように、シュテルが身体を伸ばしながら出てくる。
キリは、気持ちよさそうに伸びをするシュテルを見て言った。
「あんたも難儀な体質よの。日の下に出られんなんて。」
「難儀と言ったって、しょうがないじゃない。こういうものなんだから。あんたみたいな・・・。」
人間と違って、と言いかけたが、リリヤや言葉を吞んだ。本人が人間と信じているのだから別に気遣いは無用なのだが、キリが人間だとはリリヤも思えない。
そのあたりのところをキリが本当のところ、どう思っているのか、リリヤには想像しかねたのだ。人間ではないことを本当は知っているのに、それをあえて認めようとしないのか、あるいは、本当に人間と信じ込んでいるのか。
どうにも、キリの場合、後者のようなのだが、銃を奪われて泣きじゃくる姿を見ている以上、なんとなく、繊細な遠慮をリリヤはせざるを得ない。
「なしたじゃ? 黙りこくって。あの日か?」
リリヤの気遣いを根底から台無しにするような、デリカシーのないことをキリは言った。
リリヤは、
「違うわよ! 人が気を使ってみれば、何よ、それ。」
と、怒るのである。
「気を使う? なぜ?」
キリはリリヤの思惑など、さっぱり思い至らないという顔でしれっと言った。
先を行くアルが、後ろを振り返って言った。
「お前達、何をしている。置いて行くぞ。」
シュテルが慌てて追いかける。
「申し訳ありません、マスター。ただ今。」
シュテルの後ろ姿を見ながら、キリがリリヤに言った。
「へ。人の気遣いなどしてる暇、すぐになくなるじゃろ。何せ、裏切り者じゃもんな、リリヤちゃんは。」
「別に、裏切ったわけでは・・・。」
動揺した。
「裏切りでなくてなんであろ。ボスのところに道案内て。きっと、本部に行ったら、八つ裂きにされるんじゃないのかね?」
「そんなこと、あるわけ・・・。」
ない、とは言い切れない。いや、むしろ、そんなことになる可能性の方がはるかに高かった。
再び黙るリリヤに、キリは言った。
「ふひひ。裏切る度胸もないのに裏切るなんて、愛だねぇ。」
「はぁ? 何がよ。」
「惚れてんじゃろ、アル君に。好きなのだ。」
まだ、数日も行動を共にしてないのに、よく見ている。リリヤは、赤くなる顔をどうすることもできずに、口だけは激しく否定した。
「ちが・・! 違うわよ。誰があんな奴!」
「隠さんでもええじゃ。ばればれだって。」
「ば、ばればれ・・?」
そんな素振り、見せた覚えは一度だってない、とリリヤ本人は思っている。そもそも、アルへの好意を、こうして言葉に出されて指摘されること自体、完全に不意打ちだった。自分自身でさえ、アルにつきまとう自分の気持ちをうまく説明できないのに、だ。
好きなのだ。その一言が、リリヤの右の側頭部と、左の側頭部の間を何度も跳ね返りつつ、頭の中で反復された。
「そんなこと、あるわけないじゃない・・・。」
そう否定する言葉は弱々しく、そんなこと、あるんじゃないか、という疑念がリリヤの腹中に渦巻いた。
リリヤは、強引に話しを変えた。
「そ、そもそも、裏切りという意味では、あんただって裏切りになるでしょう。アルやシュテルの抹殺に失敗して、奴の言うことを聞いてるんだから。」
「そいは、だって、銃を持つ保証をしてくれる言うし・・・。それに、うち、ハンマーヘッドやらロレンチーニやらに、忠誠も未練もないもん。愛銃と一緒にいられれば、それでええんじゃぁあ。」
いつの間に抜いたのか、回転式拳銃にぴったりと頬を当てながら、涎を垂らさんばかりの、いや、実際に涎を垂らしているのだが、顔をして、恍惚の笑みを浮かべている。
「あ、そ。」
キリの幸せそうな顔に、毒気を抜かれた気がして、リリヤは歩き始めた。街灯のないこの辺りは、闇の迫るのが早い。先を行くアルとシュテルの姿が、暗闇の中に沈もうとしていた。
「あ、待って、リリヤちゃん。一緒に行こ。」
キリはそう言って、小走りにリリヤの後からついて来る。
どうにも理解しがたい人格なのである。鋭い洞察力を見せたかと思えば、子供みたいな物言いになる。子供と、大人になりきれていない大人がごちゃまぜになったような、おぼろげな印象を、リリヤはキリから感じてならなかった。
夜。村にたった一軒あった、古びた宿の部屋で、静かに寝息を立てるシュテル、アル、キリの三人を残し、リリヤは外へ出た。屋根の上に飛び上がって立つ。
月のない夜だった。都会における、光の海原とはほど遠い、漆黒の闇が周囲を支配していた。暗闇は、リリヤにとって心地よかった。
夕方、キリに言われた言葉をリリヤは思い出していた。結局、好きなのだ、アルを。その言葉にリリヤは戸惑うばかりだ。
好きだと思ったことはない。ただ、気になって気になって仕方がない。昼間、寝られなくなるくらい、アルのことを思い出してしまう。いつの頃だったか、リリヤとアルがまだ子供だった頃。いや、アルの見た目は今でも子供に近いが、寿命の長い吸血鬼にとって、子供時代とは既に一昔前だ。
子供の頃、リリヤはもてた。そもそも、純血の吸血鬼は数が少ないわけだし、純吸血鬼の女子とあらば、眷族一同、男も男子も彼女をもてはやした。ちょっと首をかしげるだけで飲み物が出てきたし、移動に使う高級車は、毎晩、車種も運転手も違った。もちろん、雇ったわけではない。自ら運転させてくれと、彼らが進み出てくるのである。
さながら、地上の支配者だ。血も好き放題に吞んだ。血を吞んでくれと申し出る人間は、後を断たなかった。
そんな絶頂期である。アルと出会ったのは。その頃から、アルの左目は眼帯で覆われていた。同じ純血種同士ということで、引き合わされたわけだが、いつもへつらうような笑みを浮かべる男達とは違って、アルはにこりとも笑わない。右手を差し出す。男達は嬉々としてその甲にキスをするのだが、アルはじっと立ったまま、何をしているのだ、こいつは、という眼帯のない方の目で見つめてくる。それはリリヤに取って、人生初の屈辱だった。
当然、アルのことを嫌ったし、憎みすらした。しかし、自分に媚びへつらわないアルの影が、脳裏に浮かぶようになる。
純血でありながら、どじで慌てやすい性格ゆえ失敗続きで、組織内のメンバーから何となくさげすまれるようになってからも、アルのことは忘れられない。いつしか、血を吞まない者達、テンペレートの一員としてアルの名が挙がるようになってからも、アルの存在は、常にリリヤの心の片隅にあって、消えることはなかった。
それをつまり、好きと呼ぶのか?
リリヤにはそうと認めたくないプライドがあったが、認めざるを得ないと囁く自分がいるのも確かだった。
膝を抱えこんで、考え込むリリヤだったが、ふと、夜風の中におかしな気配を感じた気がした。
「?」
気がしただけで、ただの気のせいかしら。夜目がきく。周囲を見渡すが、不審な動きはない。
「やっぱり、気のせい・・・。昼間の間中、トランクで運ばれているせいかしらね・・。」
トランクの中は、居心地は悪くないのだが、それでも、日中、中に収まり続ければ、息苦しさを感じぬでもない。
「あなたが裏切り者とは。」
急に、耳元で囁かれたものだからリリヤは驚いた。
「きゃっ!」
と、普段のリリヤからは考えられない、可愛らしい声が口から飛び出るのを、彼女はおさえきれなかった。
生暖かい吐息がかかった耳元を手でふさぎながら、リリヤは素早く立ち上がって、一歩飛び退く。
同じ屋根の上に、全身黒づくめのスーツを着込んだ、男が立っていた。さらさらの短い金髪に、翡翠のような緑眼、長身で、貴族、と称すればもっともしっくりくる、端正な顔立ちである。
「お前は・・・!」
リリヤが押し殺した声で言った。その男をリリヤは知っている。
「デュースタ・・・・。」
デュースタ、と呼ばれた男は慇懃に礼をして、その通り、とジェスチャーで示した。ハンマーヘッドに属する眷族である。つまり、元は人間であった。吸血鬼に血を吸われ、吸血鬼もどきとなった者だ。
デュースタは言った。
「このようなところにおられましたか。随分探しましたよ。東に向かった、という情報だけで、ここまでたどり着くのはなかなか骨が折れました。」
「よく見つけられたわね。」
リリヤは、さりげなくそう言うのだが、内心、驚かずにはいられない。ここまでの道のり、誰かが後をつけてきた気配はなかった。キリは待ち伏せをしていたわけだが、そこから先、行き先をトレースされていたわけでもないはず。それでいて、こんな辺境にアルや自分がいることをかぎつけ、こうしてやって来たのである。仕事はできる男だった。
「それはもう、リリヤ様がどこにいようと、私はそこへ行くのみですから。」
デュースタは言った。リリヤは、じり、とゆっくり半歩、身を引く。裏切った自分を消しにきたのか・・・? ついでに、アル達も仕留めるつもりか。
純血の吸血鬼たるリリヤからしてみれば、真っ向勝負でこの男に負ける可能性はない。ただし、真っ向勝負でならば、だ。同じハンマーヘッドに属する奴からすれば、リリヤの弱点など知り抜いている。しかも、抜け目がない。こうして姿を現したということは、既に、幾重もの罠を周囲に張っているはずだ。
「ふん。別に来てほしいなんて頼んだ覚えはないわよ。」
「存じております。私が志願して、ここまで来たのですから。さて、リリヤ様・・・。」
ぞわ、とリリヤの身の毛がよだつ。そう、こいつはリリヤの弱点を知り抜いている。
デュースタは、にぃ、と歪んだ笑みを浮かべて言った。
「そのかぐわしき体臭を頼りにここまで来たのです。さぁ、今一度、言葉のくびきをたまらわん!」
「かぐわしき体臭とか、キモイのよ!」
「ほぉぅっ!」
キモイ、と言われたデュースタが、奇声を発した。リリヤはさらにまくしたてる。
「近づかないでよ、この変態!」
「はぁ!」
「いちいち声を上げるな、このインテリサイコ!」
「むぅ! もっと、もっとください!」
「くださいって、まじキモなのよ!」
「まだまだぁ!」
「あんたが眷族とか、ほんとに信じらんない。虫眼鏡で焼かれて粉になればいいのよ。」
「新しいプレイスタイルです!」
「プレイじゃなくて、本気よ。」
「本気で臨むほどいいのです!」
・・・ドMである。貴族的な雰囲気から、しもべとして従えれば、自分に箔がつくかも、と思って血を吞んだのが、そもそもの誤りだったのだ。上気した顔に涎すら垂らすデュースタを見ながら、リリヤは人生で幾度目になるか分からない後悔をしている。
「・・・はぁ。いったい、何しに来たのよ、あんた。」
リリヤはあきらめのため息をつきながら、デュースタに言った。デュースタは、興奮した表情を、す、と引っ込めると、元の整った顔で、黙ればいい男なのだが、その顔で言った。
「無論、あなたを消しに参りました。」
怖じることなく言い切る。
「私を消しに、ね。命令で?」
「はい。アルドゥンケルハイト様の追跡に出られたリリヤ様が、そのまま行動を共にしているという情報が入りました。上層部は、ハンマーヘッドに対する裏切りと判断し、あなたの抹殺を命じられたのです。リリヤ様。」
「何よ。」
「どうしてこのような真似を。組織を離れなければ、あなたがたとえ、ドジでおっちょこちょいで、任務の成功率が5パーセントに満たないへっぽこだとしても・・。」
「言い過ぎよ。それに5パーセントじゃないわ。8パーセントよ。」
「失礼、間違えました。8パーセントに満たないとしても、純血種というステータスがあれば、その生まれに免じて、幹部の末席くらいにはふんぞりかえっていられましたものを。なぜ、裏切りなど、されたのですか。」
「別に、私の勝手よ。」
ここに至っては、もはや裏切っていない、という主張も通じないだろう。リリヤは開き直って言う。
「私が誰につこうが、どう生きようが私の自由だわ。」
「自由、ですか。確かにそうではありますが、しかし、裏切りの代償は必要です。その身をもって、償ってもらわなければ・・・。私を罵る相手が一人減ってしまうのは、まことに残念なことでありますが。」
心底残念そうに肩を落とすデュースタである。
リリヤは、
「そんなことで残念がられても、迷惑なだけよ。」
と言って、それから目を据えて続ける。
「で、どうするの? あんたが私に、力づくで償わせる、とか言うつもり?」
ずず、とリリヤからのプレッシャーが高まる。ドジであろうが、おっちょこちょいであろうが、それでもリリヤが純血種であることに変わりはない。眷族にすぎないデュースタに、力勝負での勝ち目はなかった。
「ふふは! それです、それですよ、リリヤ様。その圧倒的な威圧感と、対峙する者を飲み込まんとする殺気! 私、背筋がしびれる思いです。その瞳に睨まれるだけで、イッてしまいそうです。」
ドMの本性を再び露にするデュースタへ、嫌悪の視線を投げつけながら、リリヤは迷っていた。
どうする?
このまま力でねじ伏せるか。しかし、こいつのことだ。力勝負に持ち込まれないだけの用意が、必ずどこかにあるはず。
逡巡するリリヤの背後に、突然気配が生まれた。
「・・!」
伏兵! どこかに潜ませていたのか。慌てて振り返り、その姿を認めるなり、リリヤは緊張した力を一気に抜いた。
キリだ。
しかし、リリヤは弛緩した身体に、再び緊張を走らせる。もしかして、と思い当たったのだ。
もしかして、キリはハンマーヘッドを裏切った、ふりをしただけでは、と。ならば、デュースタがこの場所にピンポイントでやって来れた説明もつく。
だとしたら、まずい。自分の弱点を知り抜いたデュースタと、馬鹿力のキリを同時に相手にしなければならない。
じっ、とキリを見つめながら、その意図を探った。
「何してるん、あんたら? 話し声が聞こえると思って来てみれば、そっちのイケメン、誰じゃら?」
にやにやとしまりのない笑みを浮かべながら、キリが話しかけてくる。
「ん?」
「おんやぁ? リリヤちゃん、こんなとこで密会? アル君がいながら、そういうタイプでもお楽しみ、ちゅーやつ?」
「んん?」
「やっぱり、隅に置けんなぁ。しっかり予備の男を確保しとるなんて。ぃひひ。」
下品・・・。どう考えても、裏切りに裏切りを重ねた空気ではない。
リリヤは、によによするキリに向かって言った。
「そんなんじゃないわよ。追っ手よ。」
「何?」
キリの顔から笑みが消え、眉間に緊張が走る。というか、このシチュエーションからして、追っ手と考える方がむしろ自然なはずなのに、こういうところがどこか抜けている。するわけないでしょーが、こんな奴と密会なんて、とリリヤはつぶやくのである。
デュースタは、屋根に登って来たキリの姿を見つめてしばらく無言でいたが、やがて、何かを思い出したように言った。
「ああ、あなた。どこかでお見受けしたと思っておりましたら、ロレンチーニの・・・。」
そこまでは、リリヤの予想の範疇だった。デュースタが、ロレンチーニ機関にいたキリのことを知っていても、不思議ではない。だが、次の言葉を、リリヤも、キリもまったく予想していなかった。
「人造人間。」
「・・・は?」
キリは、何を言っているのか意味が分からない、という顔でデュースタを見つめ、それから弾けるように笑い出した。
「はははっ。面白い冗談じゃなぁ。いや、うちは人間じゃて。何じゃ、人造人間て。」
笑われたデュースタは、人を小馬鹿にしているようにも見える薄い笑みを崩さずに、続けた。
「ああー。これも本当だったんですね。」
「何がじゃ。」
「自分のことを、本物の人間だと信じ込んでいる人造人間がいるというのも。ただの無知なのか、そうとは知って現実を認めていないだけなのか、よく分からなかったらしいのですが、前者ですね、これは。」
「・・・は?」
キリの言う、二度目の、は、には不安の色が含まれていた。
「いくらお前は人間じゃない、と言っても、普通の人間が自分を人間だと信じ込んでいるように、かたくなにヒトであることを主張する人造人間。組織でも匙を投げて、そう思いたいならそう思わせておくことにしたと、そんな噂を聞いておりましたが、あなただったんですね、人間もどきというのは、キリヤナクさん。」
デュースタの言葉は、あくまでも丁寧なのだが、慇懃である分、心に突き刺さるものがある。キリは、リリヤの目から見ても明らかなほど、動揺し始めた。
「そ、そんなことは・・。は、はは。いや、うち、毎日鏡で自分見てるし、そこらを歩いてる姉ちゃんやおっちゃん達と、そんな変わるところないし、ご飯も食べるし・・・。ほら、人造人間て、あれじゃろ、オイルとか、お腹に入れるんじゃろ。」
早口にそんなことを言うのだが、キリの冷や汗がひどい。
デュースタは、面白い余興を見ているような顔で言葉を続けた。この顔も、リリヤがデュースタを嫌悪する百の理由の一つだ。
「お腹にオイルですか。ま、そんな形で稼働に必要なエネルギー源を摂取するタイプがいないとも限りませんが、あなたの場合、経口摂取されるタンパク質や炭水化物で活動していると聞きました。それも、高エネルギー変換効率で、ですよ。ちょっとアレな話しで恐縮なのですが、キリヤナクさん、あなたトイレに行かないそうですね。」
「行かん。」
え? という顔で、リリヤはキリの顔を見た。そうなんだ・・・。思わず、キリに尋ねてしまった。
「い、一度も・・?」
「な、なんじゃ、リリヤちゃんまで。うちはこれまで、行ったことないぞ。ほら、あれ、テレビでアイドルも行かん言うてたし、行くも行かぬも、人それぞれじゃろ。な?」
「いや、それは、イメージを保つはったり・・・。」
必死になって、同意を求めるキリに対し、リリヤは口ごもった。
デュースタは、動かぬ証拠を得たとばかり、得意気に言った。
「行くんですよ、普通はね。あなたは、食べた物のほぼすべてをエネルギーに変換してるんです。それに、首の後ろの刻印。」
「刻印・・・?」
キリは思わず振り返るが、振り返っても、自分の首筋の後ろは見えない。キリは慌てて、リリヤに言った。
「リリヤちゃん、ちょっと、見てくれんかの。そんなとこ、うち自分で見たことない。」
見てはいけないものを見ようとしている。リリヤはそう感じたが、キリの必死の態度に、断ることはできなかった。
「分かったわ・・・。」
襟首を広げて覗き込むと、
GN-44-638
という刻印が、しっかりと刻み込まれていた。それも、刺青にはとても見えない。薄い金属プレートが皮膚の下から露出しており、そこにナンバーが刻まれているのだ。
「・・・・。」
沈黙するリリヤに対し、キリは不安気に訊いた。
「な、何じゃ、黙って・・・。別に、何もなかろ?」
答えないリリヤの代わりに、デュースタが口を開いた。
「GN-44-638 確かそんなナンバーだったと記憶しておりますが、いかがでしょう。」
ぎくりとリリアがデュースタへ顔を向ける気配を、キリも感じたのだろう。完全に混乱した状態で、
「え? はは・・・。いや、そんな、馬鹿な・・。うちが人間じゃないて・・・。」
そう言いながら、懐から出したリボルバーを胸に抱きしめている。キリは不安になると、無意識に銃を抱きかかえるくせがあった。そのくせが出ている。キリはその場にへたりこんだ。
「いや、嘘じゃ。嘘じゃて。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う。違う・・・・。」
キリは言葉で否定しながらも、見る間に青ざめる顔が、それを事実と認めていることを物語っていた。
デュースタは、歪んだ笑みを浮かべながら言う。
「当たり、だったようですね。あまり時間はかけられません。もう二人にも出てこられると、さすがに手に負えなくなりますからね。されば、リリヤ様、お覚悟。」
デュースタが、どっ、と前に駆け出した。
力押しで来るか・・・!
リリヤは、瞬時に全身から殺気をほとばしらせ、デュースタの頭を思いっきり蹴り飛ばしにかかる。
デュースタはその蹴りを皮一枚でかわすと、リリヤの懐に潜り込んで、いつの間に手にしたのか、スプレーを吹きかけた。
「きゃっ!」
と、リリャが思わず仰け反る。この強烈な匂いは・・!
「にんにくスプレーです。キくでしょう。」
にんにく程度でどうにかなるリリヤではなかったが、その匂いが苦手なのは確かだ。というより、普通の人間とて、液状にんにくエキスをいきなり顔面に吹きつけられたら、ひるまずにはいられない。
「っぐ・・! 相変わらず、こざかしい・・!」
顔を片手で覆いながら、リリヤは猛然と裏拳を放った。ぼっ、というにぶい音と共に、空気が切り裂かれる。
どず、と裏拳がデュースタの脇腹を捉えた。
「はぁぁ!」
苦悶の悲鳴、かと思いきや、そうではない。喜びの叫びだった。裏拳を脇に受け、その痛みに悶え喜ぶデュースタである。
「もっと、もっとです。もっとください!」
「この・・・! 気持ち悪いのよ!」
リリヤは掌を真上に打ち上げ、デュースタの顎先を強烈に弾き飛ばした。
「ぐはっ!」
恍惚の表情を浮かべながら、デュースタは空中で後方一回転をした後、再び屋根に着地する。
「ぁはぁ、ぁはぁ・・。いい。いいですよ、リリヤ様。今の強力な掌底、全身に電撃が走ったかと思いました。」
口端から筋状に血を流し、そう言うデュースタに対し、一直線にリリヤが突っ込む。にんにくスプレーでまだ視界が霞んでいるが、そんなことには構っていられない。
「電撃? そんなもの、感じる暇もなく殺ってやるわよ・・!」
次の一撃で決めるつもりだった。六メートル近い間合いがある。リリヤはその身を霧と化し、次の瞬間、デュースタの目の前に実体化した。
そのまま拳を、デュースタのみぞおち目がけて突き出す。リリヤの膂力をもってすれば、胴体に風穴が開く勢いだ。
だが、デュースタはひら、と身をかわし、そばに広がる畑目指して駆け出しながら言った。
「もう少しこの身でリリヤ様の責めを感じたかったのですが、死んでしまってはそれも叶いません。ひとまず、退却させていただきますよ。また来ます!」
逃げ足は早いもので、あっと言う間にデュースタの姿は暗闇に紛れた。
追うべきか・・・。
一瞬だが、リリヤは躊躇した。罠の可能性がある。いや、十中八九罠だろう。しかし、ここで逃がせば、この先、奴には執拗につけねらわれることになる。鼻息も荒く、殴り、罵ってくれと懇願するデュースタの姿に、総身の毛がよだつ気がして、リリヤはその後を追う決心をした。
休耕期なのか、土がむき出しになった畑を横切って進むと、前方に、デュースタの姿があった。
「・・・逃がさないわ。」
地を這う疾風のごとく近づいたリリヤは、強力な手刀でデュースタの身を横に薙いだ。
骨が砕け、無理矢理両断される音が響いた。無惨にも、デュースタは上半身と下半身に分離され、二つになった身体がくるくると回転しながら、宙を舞った。
「よし・・!」
珍しく、決まった。ドジを踏むことなく目的を達せたものだから、リリヤは、快心の笑みを浮かべた。
「他愛もないわね。」
そもそも、純血種が眷族程度に引けを取るなどありえないわけで、圧勝することが当たり前なのだが、それでも、リリヤは久しく感じなかった勝利の感覚に心を踊らせた。
べっとりと手や服へついた血糊に、洗濯しなきゃ、と思ったときだ。
ぶぅん・・・、という唸るような重低音が四方から響く。同時に、激しい熱さを、リリヤはその全身に感じた。
「あ・・? きゃぁぁぁぁぁ!」
ぼ、という鈍い音と共に、リリヤの身体が燃え上がる。周囲は暗闇のままで、リリヤだけが、巨大な松明のように赤く燃え始めたのだ。
「あ、あ、あ、ぁああ!」
火の気などなかった。可燃性の液体をかけられたような匂いもない。なのにこの燃え方は・・・。吸血鬼が太陽光を直接浴びた時のそれだ。
薄らぐ意識の中、デュースタの声が遠くから聞こえる。
「私に似せたカカシを作るには苦労しましたよ。血しぶきまで再現したのですからね。それで、六千マイクロワットを越える紫外線の味はどうですか、リリヤ様。真夏の浜辺で、日光浴をするようなものです。本来なら私が浴びたいくらいですが、私では一瞬で消し炭になってしまいますのでね。こればかりは、遠慮をせていただきます。」
紫外線のみを照射しているのだろう。可視光外にある紫外線の光は目に見えない。
「ぐ・・・!」
がく、と膝が折れ、リリヤは地にうずくまる。ここまでか・・・。もはや、体を霧にする力も、余裕もない。やはり、こんな大掛かりな罠を仕掛けていたのだ。遮蔽物のない平地のど真ん中に誘い込み、周囲から紫外線を当てる。
「やっぱり、ドジね・・・。」
最期の最期に、自分のドジで身を滅ぼすのが、なんだか、なるべくしてなったことのようでもあり、おかしかった。
「アル・・・。」
消える意識の中で、その名を呼んだその時、コートで自分の身が包まれるのを感じた。
「もう大丈夫だ、リリヤ。」
耳元で囁かれるその言葉を聞いた途端、リリヤは気を失った。
・・・身体が揺れるのを感じた。ゆっくりと、上へ上がり、下に下がり、また上がる。死んだら地獄へ行くものと思っていたリリヤだが、地獄にしては穏やかだ。お腹に響くような、規則正しい機械音が聞こえてくる。
地獄の機械、ってところかしら・・・。再び眠りに落ちようとするリリヤだったが、覚えのある匂いに、はっ、と我に返った。地獄などではない。この古びた皮の匂い。心地よい狭苦しさ。いつもリリヤが入っているトランクだ。
がたたっ、とトランクが揺れたものだから、外にいたアルも気づいたのだろう。トランクに収まるリリヤへ声をかけた。
「リリヤ、目が覚めたか。傷の具合はどうだ。」
「あ・・? アル? ここは・・・?」
「まだ、外には出ない方がいいだろう。一応カーテンは閉めているが、窓から光がもれている。船の中だよ。」
船・・・?
「船って・・・。どこなの、ここは?」
「大陸の東端に達したんだ。苦労したんだぞ、貨物船に紛れ込むのは。」
どうやら、船で海を渡っているらしい。アルは続けた。
「別に、お前のことなど心配していないが、意識が戻ったのなら、上々だ。しばらくそのままでいろ。」
そこへ、シュテルの声も聞こえた。
「マスター。心配していないとおっしゃりますが、この数日、落ち着きがなかったように見受けられますよ。何度も、ミス・リリヤのトランクに手をかけて、開けようとしてはやめる、を繰り返されておりましたが・・・。」
「い、いや、気になるじゃないか。火傷の手当てをしたきり、トランクに入れたらそのまま何日も反応がないんだから。死んだかと思ったぞ。」
リリヤは、くす、と笑って外にいるアルに言った。
「このくらいで死にはしないわ。それで。」
ちょっと言葉を区切り、リリヤは続けた。
「デュースタは? 私を襲ってきた奴。」
アルは答えて言った。
「ああ、あいつなら逃げたぞ。紫外線照射装置はシュテルがすべて破壊した。僕らが来る前に片を付けるつもりだったんだろう。僕とシュテルを見た途端、にやにやと腹の立つ笑みを浮かべながら、かないませんね、これは、とか言ってさっさと引き上げて行った。リリヤ。」
「何よ。」
「なぜ、すぐ僕らに知らせなかった。全員で応じていれば、対処できたのに。お前も、火傷をせずに済んだ。」
デュースタが自分の眷族である以上、自分で責任を取りたかった、というのもあるし、何より、あんな恥ずかしい男が、自分の眷族だと知られたくはなかった、という理由が大きい。二つ目の理由は伏せたまま、リリヤは言った。
「あいつは私の眷族なのよ。自分の眷族に対する落とし前くらい、自分でつけるわ。だからよ、アル達を呼ばなかったのは。」
そこまで、言って、リリヤは思い当たった。キリのことだ。
「そういえば、キリは? まさか・・・。」
デュースタにやられたのではないか。そんな思いが頭をよぎったが、アルがそれを否定した。
「キリならここにいる。」
「そう。よかった。」
「いるんだが・・。」
「だが?」
リリヤはアルに聞き返す。アルは、少し戸惑った声で言った。
「何があったんだ。キリの奴、銃を抱えて自分の殻に閉じこもってる。お前が襲われた夜以来、一言も口をきかないんだ。」
ああ、やっぱり、とリリヤは思った。デュースタに人間であることを否定された時の、キリの様子は、尋常じゃなかった。茫然自失といっていい。それまで信じていた、自分が人間という大前提を、根底から覆されてしまったのだ。
リリヤは少し躊躇したが、アルとシュテルには話しておくことにした。
「デュースタに言われたのよ。お前は人間じゃないって。」
アルは、
「そんなこと言われたって、当人はまったく信じなかったじゃないか。あの、デュースタとかいう男に何を吹き込まれたのか知らないが、それだけでこんなことになるものか?」
と、その疑問をすぐに口にした。
「なるのよ、それが。シリアル番号まで、ぴったり一致しちゃったんだから。」
「シリアル?」
「そうよ。首筋の後ろのナンバープレート。」
「ナンバープレートだと?」
アルは、目線でシュテルに合図を送る。シュテルは、膝を抱えて船室の隅っこで座り込んでいるキリの後ろにまわり、ごめんなさいね、キリさん、と言いながら、首後ろの襟を広げた。そこをアルが覗き込む。
「ふぅん。これか。確かに、何か埋め込まれてるな。そうか、人間じゃない、か。」
今さら、驚くような事実でもなかったのだが、本人にとっては余程ショックだったらしい。こうして、襟の中を覗かれている今も、キリはリボルバーを抱きかかえたまま、床の一点を見つめて動こうとしない。口数の多い、にぎやかな性格だったのが嘘のようである。
キリに対し、気の毒にとは思ったアルだが、だからと言って、何かかける言葉があるわけでもない。人間じゃなくてもいいことあるサ、元気出せ、などという気休めを、かける意味もない。変えられない現実があるとして、それを受け入れた上で、前に進む必要があるのだ。安っぽい同情など不要だと、アルはそう考えている。
ただ、シュテルはそのように思っていないようで、そっとキリの襟を元に直しながら、いたわるように、その背中へ手をあてていた。
シュテルはこういう気遣いをする奴だったかと、その光景を見て、アルは不思議な感じがした。シュテルが屋敷の地下で生まれてから、正確には、記憶や経験がまっさらな状態で蘇ったともいえるわけだが、それからまだ数ヶ月しか経っていない。以前は、シュテルに対しもっと無機質な印象をアルはもっていたのだが、それが急速に変わりつつあるのを、この数週間で感じるようになった。
シュテルが人間らしくなっているのだ。というより、人間だった頃に戻りつつある・・・? 戻りつつあるという実感が正しいのか、間違っているのか判断のしようもないが、シュテルの仕草や表情の端々ににじむ、生身の人間的な何かが、ひどくシュテルに馴染んでいるような気がしてならない。
今もそうだった。キリを見るシュテルに、愁眉、つまり、愁いとしか言いようのない、かすかなしわが、眉と眉の間に浮かんでいる。
そういえば、生前のシュテルの生い立ちも、名前すらも知らないんだな、とアルは今になってそんなことを思い起こす。自分の手足となるべく「造った」はずのシュテルなわけで、墓に入る前、どんな人間だったのか、など考えたこともないアルだったが、最近のシュテルを見ていると、どういうわけか、かつての、ヒトだった頃の少女の面影を、ふとしたことから連想するのである。
どことなく、あいつに似ている・・・。アルは、遠い昔の記憶にあるあどけない少女と、シュテルの姿が重なる気がして、奇妙な感覚を覚えた。過去の記憶と、目の前にある光景が、何の脈絡もなく繋がる。既視感だ。眼帯の下に隠れた傷が、激しく痛む。
アルは、漆黒の暗がりから、外の世界を覗いていた。
昼間の世界。
立ち入れない禁域。
アルは若かった。血を吞まない吸血鬼は、その身体的成長が止まるわけだが、まだアルが、吸血鬼として血を吞んでいた頃、それはヒトの身にして、数世代前にさかのぼる。
吸血鬼にとって、太陽のある日中の屋外など、限りなく地獄に近い。いや、地獄そのものだった。一歩踏み出せば、その身を焼かれるのである。実際に、身を焼かれて死んだ同胞の姿をアルは見たことがある。長過ぎる寿命に憂いた自殺であったと後に知ったが、なぜ自らの命を断ったのか、アルにはその理由がまったく分からなかった。ただ、文字通り断末魔の叫びをあげながら、転げ回る同胞の、日光に焼かれる姿を見ていたら、ひどく怖くなった。恐ろしさで足が震えた。あれほど苦しい思いをするにも関わらず、なぜ、自らの意思で、そうなることを望んだのか。身悶える姿の他、恐怖の理由はそこにもあった。ああして焼かれるよりも、なお辛い苦しみがあるものなのか、と。
そんな地獄の中にあって、ヒトは、何食わぬ顔で生活している。畑を耕し、馬に乗り、祭りがあれば着飾ってそぞろ歩き、ある者は笑い、ある者は落ち込み、生まれたばかりの赤ん坊を抱く母親のそばを、葬儀の列が進むのである。ヒトが日光を浴びても平気なのは知っていた。知っていたが、それでも、アルにはそれが不思議でならなかった。ヒトと吸血鬼、見た目の違いはほとんどないのに、なぜ彼らは平気で、自分達はそうでないのか、アルはその疑問を胸に抱き続けた。
外を出歩くヒトの中で、とりわけ目立つ人間がいた。輝く陽光の下、いつも楽し気にかけずり回るのである。自分とさほど変わらない年頃の、女の子だった。
ある日、いつものように、アルは納屋の中から日の光を避けながら外を覗いていた。この頃、アルの目にまだ眼帯はない。納屋の屋内にある古井戸が、アルの棲む屋敷へとつながっていたのだ。日中出歩いてはならないという禁があるにも関わらず、アルは屋敷を抜け出して、ここへ来ることを日課としていた。
そのアルのところへ、例の女の子が何の前触れもなく、駆け寄って来た。納屋の奥まで入って来て、手に持つアナガリスの青い花をアルに差し出す。
「これ。」
「な、何・・・?」
「あげる。」
「僕に・・?」
「そう。いっつもそこから、外を見ているでしょう。」
まさか気づかれていると思っていなかったアルは、どぎまぎしながら、その花に手を伸ばす。受け取る時に触れた女の子の手が、温かくて柔らかいのにアルは驚いた。
「一緒に遊びましょうよ。」
「いや、行けないんだ。」
「なぜ?」
「そういうものだから・・・。」
「ふぅん・・・。お外が嫌いなの?」
「嫌い、じゃない。外が嫌いなわけじゃない。」
月夜の晩に、夜風に当たりながら歩く牧場はアルのお気に入りの場所の一つである。
「でも、行けないの?」
「うん。行けない。」
「変わってるのね。分かった。じゃあ、あたしがここに来ればいいのね。」
「え?」
「だって、寂しそうにしてるんだもん。お友達になりましょ。」
「う、うん・・・。」
少女は、ソフィアと名乗った。
それから、ソフィアは毎日、アルのところへやって来る。あどけない笑顔には、例えアルが吸血鬼であることを知っても揺らがないのではと思わせる、底抜けの好意があった。毎日やって来ては、他愛もない話しをしたり、摘んだ花を持って来たりするだけで、ソフィアが何か特別なことをしたわけではない。だが、いつしか、アルはソフィアに恋をしていた。
ソフィアの態度が変わったのは、ちょうどアルがソフィアに対する好意を自覚し始めたときだ。屈託のない笑顔に、時々、陰が差す。
「心配事でもあるのか、ソフィア。」
アルが言った。
「何もないよ、アル。どうしてそんなことを訊くの?」
「いや、元気がないように見えたから。」
「そんなことないよ。いつも通り。」
にこりと笑うソフィアだが、無理矢理笑みを作っているのは明らかだった。
「そうは見えない。」
「・・・うん。」
「何があったんだ。」
「あのね・・・。」
沈んだ面持ちで、ソフィアは言った。
「お父さんやお母さんが、もうここには来るなって・・・。」
「・・・・。」
「それにね・・・。」
ソフィアは言い淀む。
「それに、何だ。」
「病気が悪くなっちゃうから、あまり出歩くなって。」
「ソフィア、病気って・・・!」
とても、どこか具合が悪いようには見えなかった。その分、アルの驚きは大きかった。
「よく分からないけれど、もう治らないかも知れないんだって。ちょっとずつ元気がなくなって、お外で遊べなくなってしまうかも知れないって。だから。そうなる前に、いっぱい遊んで、アルみたいなお友達を作っておこうって、思ったんだけど。」
もう遊べなくなっちゃうかも。ソフィアは涙を浮かべながら、笑って言った。アルは、ソフィアへかける言葉が思いつかなかった。
突然、納屋の扉が開いた。そいつは化け物だ、ソフィア。近づいてはいけない。男達の声がそう叫ぶ。無理矢理外へ連れ出されるソフィア。違うの、アルは化け物なんかじゃない。必死に言うソフィアだったが、彼らはまったく聞き入れなかった。彼らの顔は、恐怖とおぞましさに歪み、激しい敵意のこもった目でアルを見据えている。その時、アルの取った行動はまるきり無意識のものだった。太陽への恐怖を、十分過ぎるほどもっていたにも関わらず、アルは自分が何をしようとしているのか、理解すらできていなかった。ソフィアを追ったのだ。
外に出る。途端、アルの身体が激しく燃え上がった。反射的にのけぞったところで、左目が、太陽を直視した。大地に恵みをもたらすその光は、アルにとって死神ににらまれたも同然だった。左目を完全に焼かれた。日光に焼かれた痕は極端に治りが悪い。アルの左目が再び見えるようになることは、もうないだろう。アルの名を叫ぶソフィアの声が聞こえる。男達は、やっぱり化け物だ、燃えやがった、人間じゃない、口々に叫ぶ。
アルはこの時初めて、日の下に出ることができない、己が身を呪った。同時に、吸血鬼と人間の間にある、越え難い壁があることも知った。それは太陽の光ばかりではない。人間の大人達が自分に向けた、激しい憎悪。被害者が加害者へ持つのに似た、くつがえしようのない敵意。どんなに混ぜても砂が水に溶けないように、分かり合える日は来ない。ソフィアとの邂逅が、幻のように霧散して行くのを、アルはただ茫然と、見守るしかなかった。
太陽に焼かれ、瀕死の重症を負ったアルは、辛くも古井戸の中に逃れる。しばらくして、火傷はほとんど治ったが、左目だけは、再び開かれることはなかった。風の噂に、ソフィアが死んだのを知ったのは、それから一年も経たない冬の日だった。
アルは、ソフィアとの仲を裂いた人間の大人達へ怒るべきか、吸血鬼としての自らの生まれを怒るべきか、よく分からなかった。人間になりたいという、単純にして短絡的な願望を持ったわけでもない。ただ、時がたち、ソフィアの思い出が美しく結晶化してゆくにつれ、アルは自然と血を吞まなくなった。血への渇望は強かったが、不思議と、それを我慢することが苦にならなかった。日の光の下を楽し気に駆けるソフィアをうらやんだのか、それとも、ソフィアと自分を引き離した、運命という名の残酷に抗おうとしたのか、そこもまた、アルにはうまく解釈ができない。ただ、注がれる日の光を受けると、ソフィアの匂いを思い出すような気がしただけで、いつしかアルは、吸血鬼でありながら、血を吞まないという特異な集団、テンペレートの一員として迎えられるのである。
マスター。マスター・ロートライヒ。
自分の名を呼ぶ声に、アルは我に返った。
「いかがされましたか、マスター。お身体の具合でも悪いのですか?」
シュテルが、キリから離れ、覗き込むようにしてアルの顔を見ている。シュテルの瞳と、ソフィアの瞳が重なって、まるでソフィアに話しかけられたような気がしたものだから、アルは驚いた。
「いや、大丈夫だ。ちょっと考え事をしていただけだ。」
「そうですか。少し、横になって休まれてはいかがでしょう。」
「ああ・・、そうだな。」
キリは、ちら、とアルを見るが、またすぐに、視線を床へと落とす。
アルは船室のベッドへ、身を投げるようにして横になり、シュテルは椅子へ、キリは隅の方で丸くなっている。リリヤの入ったトランクも、黙ったままだ。船内に響く規則的な機関の音だけが、部屋を満たした。人間であると自分だけが信じていた人造人間と、人間らしくなっていく人造人間、落ちこぼれの純血ヴァンパイアに、血を吞まないヴァンパイア。どこまで行っても「不完全」というレッテルが貼られそうな四人の間に、沈黙が落ちた。
唐突にトランクが、いや、リリヤが喋り出す。
「気をつけた方がいいわよ。」
「何がだ、リリヤ。」
アルが、天井を見つめたまま言った。
「スパニダエ様よ。会うんでしょ。」
「会う。何を気をつけろと言うんだ。」
「何に気をつければいいか分からないところに、気をつけろってこと。」
「何?」
「ハンマーヘッドの誰も、スパニダエ様に直接会ったことがないのよ。」
「幹部は別だろう。」
「いいえ、幹部もよ。誰も会ったことがないの。いっつも、声だけで指示が降りるのよ。」
「何だと・・? いるんだろうな、本当に。」
「いるのは確かよ。近づいた壁越しに、気配は感じたもの。」
「リリヤ、お前、ボスにそこまで近づけるほど、偉かったのか?」
「う、うん。」
しれっ、と嘘をつく。
「嘘をつけ。」
アルがすぐさま言った。
「大方、大きな失敗をして、直接その報告をさせられに行った、というところだろう。」
がたたっ、とトランクが揺れ、そのまま沈黙してしまう。図星だった。ハンマーヘッドの中規模拠点を丸ごと失う失敗の、原因となったのがリリヤだった。
「そ、そんなこと、今はどうでもいいでしょ。あの人は、何と言うか、得体が知れないのよ。抑揚のない声がまとわりつくというか、相手が本当に吸血鬼なのか、もしかしたら、ただの人間なんじゃないかって思えるような、とにかく、よく分かんないの。いっそ、稀代の大吸血鬼、とでもはっきり分かった方が、よっぽど落ち着くわ。だから、気をつけてよ。」
「・・・・。忠告は聞いておく。だが、相手がどんな奴だろうと、僕の目的が変わるわけじゃない。」
「ま、そうなんだけどね。」
船室の窓から、水平線に沈む太陽が鈍く光っている。水面に映る最後の残照もいつしか消え、夜が、訪れようとしていた。
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