第一章「わずかな希望」
晴れ渡る空。教室の窓から見える景色は、眩しすぎるほど生き生きとした笑顔で溢れているようだ。都会から見れば田舎と呼べるほど閑散とした神奈川県のほとりにある愛川という町は、どこか町行く人それぞれに仲間意識を感じてしまうから不思議である。
僕の住む厚木市とは隣接していて、近いからという理由だけで選んだ高校。小さな隔離された町では、友達も恋人も同じ地域で固めてしまう。十八年間生きてきて、僕が一度も見せたことのない表情が並んでいるように見える。それは、これからもずっと。きっと僕とみんなの生きている世界は同じようでいて、別物なのだ。
分離された世界の中で生きている。そう思うと、面白いほど自分がここにいることがバカバカしく見えてきて、笑えてくる。僕が好きなのは、作られた笑顔の中にある本当の自分を見ること。誰だって自分が可愛いし、誰だって他人を見下すことで優越感に浸っている。自分を愛せないで、他人に好きになってもらうなんて虫のいい話だ。そんなこと、当の昔に気づいていた。だけど、僕にはそれを直す気などさらさらなかった。
「真野、お前好きな人とかいないのか?」
「いるわけないだろ。大体僕にはそんな資格なんてないんだから」
当たり前のように卑屈な態度を取る僕に対して、クラスメイトの刈谷は呆れ顔で話を止めた。高校生も三年ともなるとクラスの話題は恋愛か受験の話で持ちきりで、僕のように興味がないというような素振りをしている人はどんどんクラスから阻害される。僕は、低能な話題しか提供できない同世代の幼さに合わせる気など始めからなかった。
「おい見ろよ、真野の机の中からこんなもん発見したぞ」
「何それ、日記? おい俺たちにも見せろよ」
「やめろ、返せ」
クラスメイトの数人が面白半分に集まり、日記をあちらこちらへとパスでつないでいく。僕の書き溜めてきた悪の表情を見せるクラスメイトの似顔絵がさらけ出され、悲鳴とともに笑い声が起こる。僕が手を伸ばすと、クラスのボス的存在で大柄の羽田に突き飛ばされた。
「お前、気持ち悪いんだよ。俺らをこんな風に見てたんだな。こんなもの……」
ビリビリに破かれるノートに、僕の中で何かが切れた。椅子を持ち上げ、羽田の頭に炸裂したのに勢いづいて、いい気分になったつもりになる。尻餅をついて倒れた羽田に追い討ちをかけるように椅子を振り回す僕を止めようとする者も、容赦なく弾き飛ばす。
男も女も関係ない。ある生徒は鼻の骨が折れ、ある生徒は痣がくっきりと見えるような打撲の被害。またある女子は、頬骨を骨折するほどの重傷に見舞われた。血の海と化した教室は、担任が止めにくるまで続いた。当然のことながら、停学処分が下ることとなる。
自分でも何が起こったのか理解するのに数分のタイムラグが生じた。いつか爆発するだろうと思っていた気持ちが破裂したのだ。頭で理解しようとする方が無理のある話だった。かろうじてつないできた居場所を自ら壊したのである。
こんな自分なんて、いなくなってしまえばいいんだ。きっとクラスの誰もがそう思ったことだろう。もうあの教室に、僕の居場所はない。あるのは僕がいない、平和なひとつのコミュニティでしかないのである。
停学処分が下った翌日の夜、僕は渋谷の街を理由もなく歩いた。ただ自分のテリトリー内から逃げ出したいと思い立ったが最後、いつの間にか僕はこの場所を選んでいた。それは、電車で数回遊びに来たことのある程度の、何の縁も思い入れもない地。高校生の遊び場なんてせいぜい自宅から数十キロ圏内なもので、東京の街なんて神奈川の田舎民からしてみれば、テレビで流れているから知っている程度のただの憧れでしかない。
平日、それも雨の夜にもかかわらず、街は若者で賑わっている。傘も差さず濡れた体に、三十度を超える暑さが容赦なく降り注ぐ。たしか今日は七夕だったはずである。多くの人が短冊に願い事を書いて夢を抱いている日に、僕は破壊衝動に駆られて彷徨っている。僕の体には、羽田の抵抗した拳によるたぎる汗が染みこんでいた。実に滑稽だ。七夕祭帰りの浴衣姿をした若者がこっちを見ては、嘲笑の念で通り過ぎているのだと思うと、反吐が出る。
例年より早く明けた梅雨の影響もあってか、暑さで気が滅入ってしまいそうだ。それでも僕は、自分自身を傷つけたくて仕方なかった。傷を負うことで忘れられる過去って、絶対にあると思うから。
自殺なんて、勇気のない僕にはできない。かといって、自殺を考える人の気持ちもわからなくはなかった。この世に居場所がないのなら、いっそ別の世界に逃げてしまいたい。僕は悟ってしまったのだ。人間がいかに腐っていて、いかに自分のためになら他人を犠牲にできるかってことを。
「何アイツ。キモー」
「やだ、かわいそう」
「家出か? 家出なのか?」
「やだ、ちょっとやらしい目で見ないでよ」
チャラ男やギャル、道を横切る人たちの雑音が耳に入ってくる。下らない! 実に下らない! 自分と違うものを見た反応がこれか。男は皆下心を持っていると警戒心を募らせる自意識過剰女が下らない。自分のことは棚に上げて、おかしな人がいると指差して負のラベル付けをする勘違い男が下らない。
執拗に構おうと服や腕を引っ張る連中に対し、苛立ちから思い切り振り払う。ピンクのノースリーブを着たギャルがその拍子に転倒し、連れの鼻ピアス男がガンを飛ばしてきた。肩をつかまれると、僕は何ですかという顔で睨み返した。
「ちょっと待てよ。突き飛ばしといて無視はねぇだろ?」
「凛子、傷負っちまったじゃねえか。責任取れんのか」
連れだと思われる隣にいたあご髭を生やした大柄のタンクトップ男が僕の胸倉をつかむ。きっとこのまま僕はこの男に容赦ない暴行に遭うのだろう。男の目には殺気が漂っていた。イカれた男の目をしている。僕には生きている価値なんてないんだ。どうなってもいい。
――いくら自暴自棄になろうとも、僕には犯罪者になる度胸はない。
――いくら自暴自棄になろうとも、死ぬ気で何かに立ち向かう根性もない。
――いくら自暴自棄になろうとも、僕をどん底から救ってくれる誰かもいない。
そんな僕が、僕以上のクズにボコボコにされる。滑稽じゃないか。きっと今、この瞬間、男たちに向けている顔は、歪んだこの世のものとは思えない形相になっているに違いない。生きることを諦めて、それでも生かされている人の顔。僕自身、そんな表情が見られるのなら、心の底から笑顔になれるのかもしれない。
殴られるのを覚悟して目をつぶっていたのは、何秒ほどだろうか。目を開けると、知らない男に手を引かれていた。さっきのチャラい男たちとは違う、スポーツマンタイプの大学生? 路地裏の影に隠れたかと思うと、男は僕に耳打ちで言葉をかけた。
「お前、何ケンカふっかけてんだよ」
「僕なんてどうなってもいいんだ。それよりなんで助けた?」
「……なんでって。お前なぁ、簡単に命を粗末にすんなよ」
熱血スポーツマンタイプって感じだろうか。男は僕を連れて路地裏へと逃げ込む。チャラ男たちが完全に見失ったのを確認すると、僕の額に拳を押し当てた。こういう暑っ苦しい男は苦手だ。精神論で語り、なんでも努力すればできると勘違いしている。やったって叶わないことの方が世の中には多いのだ。現実を見ない理想主義者なんて、平和なもんだ。
「おし、決めた。お前さ、これからうち来いよ」
「なんで見ず知らずの人のとこなんかに行かなきゃなんねえんだよ」
男を睨み付けて、僕は言葉を吐く。楽観主義の男の道楽に付き合わされるなんてごめんだ。僕は、ほかの人とは違う。誰ともつるまず生きたいように生きて、死にたいときに死ねればいいんだ。それを邪魔するやつは許さない。男はなぜだかそんな僕を見ては大声を上げて笑った。
「ごめんごめん。俺、お前みたいなやつ見ると放っておけないんだよ。この世に対して笑えないのなら、俺が笑わせてやる。自分の笑顔が誰かの笑顔になるのなら、笑っていよう。俺はそう決めて生きてるんだ」
まるで夢を語る少年ように屈託ない笑顔を作るこの男は何者なのか、興味がわいた。今まで見てきた人にはないオーラを持っている。人の心を動かす力を。少しだけ、少しだけだけど、この男には心を開いてもいいかなと思えたのだ。立ち上がり傍にある自動販売機でお茶を二つ買うと、男に一つ差し出して、僕は無表情で顔を上げる。
「僕は真野新一。あんたは?」
「早川護。よろしくな」
握手を交わそうとする男に、僕はハイタッチで応える。何も見えていなかった希望という名の未来が広がっていった。早川が何者なのか何も知らないけれど、この男は信用できる。本能レベルでそれを悟っていたのだから、人生ってわからない。もちろん、完全に心を許したわけではないのだけれど、この男のペースに合わせてみたいと思ったのも確かだった。
ここが俺ん家と案内された先は、センター街の隅っこにある小さなバーだった。節電の影響か電灯も薄暗く、平日の夜ということも手伝ってお客さんも常連と思われる男二人組がいるだけだ。店長と思われる中年女性が僕たちの顔を見るなり、快活のいい声をかける。
「護、お帰り。誰、その子?」
「ちょっとわけありでな。ちょっとの間だけ泊めさせてもいいかな」
「またいつもの。構わないけど……。部屋で美鈴ちゃんが待ってるわよ?」
早川はその言葉にうなずいて、僕を連れて奥の階段を駆け上がった。泊まるなんて聞いてない。僕が意見しても早川は流水のように受け流し、背中を押す。早川の作り出すペースに巻き込まれると、そう簡単には抜け出せないようだ。
「こら、今何時だと思ってんの? こんなかわいい彼女を待たせるなんて、どういうつもり」
「美鈴悪い、ちょっといろいろあってな」
ポニーテールと開襟シャツで出迎えた女性は僕に気づくなり、じろじろと顔を見回した。目がパッチリとしていて、きゃぴきゃぴとした若さ溢れる女子。そこら辺にいる女子なんかより、かわいらしさがある。こう何度も凝視されると、少し照れる。さっきまで読んでいたのであろうファッション誌が散らばっている以外は整っていて、清潔感のある部屋だ。聴いたこともない外国のロックバンドの曲が、ステレオから流れ込んでくる。
「なかなかかわいいじゃん。はじめまして、神崎美鈴って言います。よろしくね」
「気をつけろよ。美鈴はこう見えてビッチだから」
「ちょっと、余計なこと吹き込まないの」
握手を求める美鈴の横で冗談交じりにからかう早川が羨ましくて、ついつい吹き出すように笑みを零した。二人はそれに答えるように、笑みを返す。
「なんだ、笑えるんじゃないか。そうそう、それでいいんだよ。余計なことを考えず、前だけを向けばいい。足をすくわれることばかり考えていては、本当に欲しいものは手に入らないものなんだ。少なくとも俺はそうしてきた」
「うんうん。何があったかは知らないけど、護がここに連れてきた子はみんなそう。最後には笑って現実の世界に帰っていくんだ」
二人の優しい笑顔が胸に突き刺さる。生きることが嫌だなんて、口が裂けても言えない。ここは僕にとって、本当の居場所になるのだろうか。それすらわからない。それでもまだどこかで偽善だなんて気持ちが、目の前の自分を救ってくれた人に対してわいていることも確かだった。
その夜、二人のマシンガントークは止まらなかった。僕はただ聞かれたままに答え、聞いているだけ。興味津々といった様子で土足で心の中に入り込んでくるのに、なぜかうまく拒否できない。僕の悩みを真剣な表情で聞いてくれる人なんて今までいなかったから、どういうわけか嬉しくなっていく。今日からここがお前の居場所だと言ってくれる言葉が嘘であっても嬉しくて、話さなくてもいいことまでベラベラと口走ってしまうのだ。
護と美鈴は都内の大学生で、恋人同士。今まで何人もの絶望した人間を連れてきては、希望を見せるというボランティアみたいなことをやってきたのだと自慢げに語った。
いじめで追い詰められ、リストカットして自殺未遂まで図った女子高生。リストラに会い、ホームから飛び降りようとしたサラリーマンの男性。女にモテないのは社会のせいだとナイフを持って事件を起こそうとしていた男子大学生。性同一性障害に苦しみ、男に絡まれていたOL。精神障害の娘を持ち、育児に苦しみ心中を図ろうとしていた主婦。
みんな、早川が連れ帰り出て行く頃には同じように笑っていたと、その写真を僕に見せてくれた。見たことのないような幸せそうな表情で笑っている。作り笑顔、歪んだ笑顔、他人の不幸に対する笑顔、誰かに媚びた笑顔……。腐りきった世の中の象徴とも言える笑顔しか見てこなかった僕にとっては、ただただ驚くほかなかった。信じられないといった思いを二人にぶつける。
「きっとここで過ごしてる間に気づくさ。生きてるって実感させるのが俺の目的だから」
「さ、寝ましょ。明日は三人でショッピングだよ」
電気を消すと、丁寧に敷かれたマットの上で僕は横になった。どうしてこうなったのかもわからない。この先どうなるのかもわからない。ただ、無理やりにでもこの二人を信じるしかない。隙あらば逃げ出すことも伺いながら、その日はゆっくりと目を閉じた。
まるで梅雨空を思い出したかのように、外はしとしとと大粒の涙を降らしている。早川に叩き起こされた僕は、眠たい目をこすりながら階段を駆け下りた。出て行こうとするところを美鈴に見つかり、肩を押さえつけられる。ぴくりとも動かせない状態に、本当に女子なのかと疑いの目で視線を送ると、なぜか美鈴は照れた表情で迎え入れた。
「さてと、まずはどう明るくするかよね」
「全部変えちまえばいいんじゃないか?」
「このままじゃどう見ても暗いもんね」
早川と美鈴は僕を全身から嘗め回すように、ボディタッチを続ける。僕が引いているのもお構いなしに。そんな二人の手を振り払い、眉間にしわを寄せた。
「ショッピングって言ってたけど、どこ連れてく気なんだ」
「そんなに粋がるなよ。これからお前を素敵に変身させてやろうって言うんだからさ」
「そうそう。君はお姉さんたちに任せとけばいいの。中身は時間がかかりそうだから、まずは外見からってね」
二人は僕の気持ちなど置き去りにして、軽くあしらった。彼らにとって、僕は不良少年を更生させることと同じなのかもしれない。僕個人の自由よりも、彼らの持つ正しさを強要する。そういうのがうざったいと思いながらも、拒否できないのは自分の弱さなのかもしれない。
僕を挟むように、二人が横から傘を近づけてくる。平日の真っ昼間でも休むことを知らない渋谷の街に嫉妬するのも、きっと自分が腐っているから。僕はいつも自分で自分の心を傷つけて生きている。何も知らずに平和に生きている人たちを目の当たりにすると、それが凸版版画のように浮き彫りになってしまうのだから恐ろしい。
二人に連れられて入った美容院で、早川は何やらおねえ系らしき店員と離れて話している。時折僕の方を見てはうなずくのを感じ、自分のことをあれこれ注文しているのだと気づいた。五分くらい経って、早川がこっちに来いと手招きをする。客層には若い女性が多く、高校生の僕を見ては茶化してくるのだからめんどくさい。
「渡瀬さんにお願いしておいたから、絶対カッコよくなるぞ」
「そんなこと言って、僕を使って面白がってるんだろ」
「ホント、お前ってそういう風にしか考えられないのな。ま、俺に任せとけ」
席に座らせられ、なぜかアイマスクを被せられる。やっぱり、楽しんでいるようにしか思えない。いつか読んだ漫画の中に、主人公が監禁されるシーンがあったのを思い出した。そうだ、僕はこの二人によって軟禁されている。
彼らは犯罪者なのだ。自分たちを正当化して弄ぶ、偽善者。出会ったときに感じた信じられる人間というのも、きっと何かの間違いだ。僕の勘が鈍っていただけ。僕は騙されない。この場にいる人たちすべてを敵に回しても。
なすがまま、髪にメイクにいじられていくのはいい気分じゃない。自分で見ることができないもどかしさとイライラが、汗ばむ体をさらに助長させた。容赦なくカットされていく髪の落ちる音と、カラースプレーの音が耳元の囁きとして迫ってくる。生まれてこの方髪を染めたことのない僕にとって、汚された気がして怒りがこみ上げてきた。
「はい、終わり。ほら、カッコよくなったでしょ」
アイマスクを外され目の前に差し出された鏡には、まるで別人に生まれ変わったかのようなもう一人の僕の姿が映っていた。髪は金に青メッシュのかかった前髪、バッチリメイクされた顔。ステージに上がる前とステージ上のピエロぐらいの変わりようだ。僕は驚きのあまり、早川の顔を見上げる。
「なんだ、感動して言葉も出ないか」
「止まってる暇はないよ。この後も予定が盛りだくさんなんだから」
早く早くと美鈴に背中を押され、そのまま店の外に急かされる。デパートではまるで着せ替え人形のようにあれこれと試着を繰り返され、バッグやら雑貨やらおおよそ僕とは縁の遠いようなものまで買わされる。どこから出るのかもわからない財源を、湯水のように使い続けられるのが不思議でたまらない。
すべてを終えてスクランブル交差点に戻ってきた頃には日は沈み、おぼろげに満月が見え隠れしていた。美鈴が手渡した手鏡に映る僕は、まるで昨日までの自分とは別人だ。ジャニーズタレントにも負けないという二人の言葉にほだされて、ついついその気になってしまう。
「よし、最後の仕上げだ。これから十分以内に通った子に声をかけてこい」
「何言って……そんなのできるわけないじゃん」
拒む僕とは対照的に、二人の目は真剣そのものだった。前に押し出すように手をベタベタする二人は、面白がっているようにしか思えない。もちろん、女の子なと念を押す早川が悪魔に見える。ナンパをけしかける保護者ってどうなんだろう。
後ずさりする僕を尻目に目の前に飛び込んできたのは、特別美人というわけではないけれど、どこか瞳を奪われる特別な雰囲気を持った小柄の黒髪ショートカット女子だった。美鈴が僕のその子に向けた視線を見逃さず、どや顔で背中を押したのが腹立たしい。仕方なくやる気のない態度で、僕は女の子の行く先を追う。
「あの……」
横から声をかけようとするが、声が小さいためか女の子は立ち止まろうとはせずそのまま歩き出す。何度声をかけようとしても、緊張してうまく声が出ない。自分に対してのイライラも募り、ついには女の子の腕をつかんでしまった。女の子はおどけた表情で僕を睨んでは、周りに響くような甲高い声で叫びしゃがみこんだ。慌てて腕を離すもうろたえる僕の腕をつかんだのは、早川だ。
「何してんだ、逃げるぞ」
「でも……」
女の子の顔を脳裏に焼き付けるように目で追う僕を、早川は反対方向へとひきずっていく。頭の中が真っ白で、冷静に判断することができなくなった。僕の頭の中は、あの女の子のことでなぜかいっぱいになった。決して好きになったわけではないのに。
早川たちと同居生活が始まってから、一ヶ月が過ぎた。あのとき染めた髪も今ではすっかり色も落ち、ついには黒髪に染め直してしまった。真夏に輝く太陽は、眠っていた現状を思い起こさせてくれる。時間は過ぎていくのに、連絡の一本もよこさないうちの親はどうかしていた。
そう、いつだって両親は僕には無関心で、どこにいようと何をしようと口を出さない。そんな親に認めてもらおうと必死に頑張った時期もあった。だけど、テストで満点を取っても当たり前という顔で褒めることも知らず、美術部のコンテストで入賞したときも喜びの笑みを零さなかった。
そんな親を見て、何かに一生懸命に生きることがバカバカしくなった。何のために生きているのか、わからなくなった。僕は、世の中に対して希望を見出すことができなくなっていたのだ。
そんな僕を拾ってくれたのが、この二人だ。あまりにも強引で最初は面白がっているのだろうと思ったけれど、案外信用できるのかもしれない。そう思いながらも、どこか素直になれずにいた。
カーテンを開けてドアからは、いつもどおりの光景が広がっている。ただひとつ違うのは、ここに来て初めて二人とも出掛けていて僕だけしかいないことだ。もう逃げ出すことはないだろうと高をくくったのだろう。このまたとないチャンスを逃すわけにはいかない。さっさと身支度をして、僕は早川の家を出た。
家を出たからといって、どこか行くあてがあるわけでもなかった。自宅や学校には居場所なんてない。捜索願なんて出されているもんなら、余計に地元に近づくわけにはいかなかった。所持金は、ここに連れてこられる前に持ってきていた五千円弱程度。行動範囲なんて限られているけれど、どこか知らない場所へ逃げてしまいたい気分だった。
「それなら山手線で品川まで出て、東海道線で行くと早いよ」
駅員にありがとうとだけ残して、そのまま来た電車に飛び乗る。平日の真っ昼間の車内は、驚くほど空いていて、空いているのをいいことに好き放題に振舞っているのを見ると残念に思う。
悪ぶることや他人を否定して自分を正当化することは、正義ではないのに勘違いしている人が多すぎる。結果として、インターネットの掲示板などで批判することがもてはやされている現状が今の世の中なのだろう。本当に幸せな人たちだ。
夏休み時期ということもあり、制服姿の高校生が多いのは助かっていた。これなら、同じく高校生の僕も風景の一部と化すことができる。いちいち咎められるのは面倒だから。
「次は川崎~」
アナウンスを聞いて、乗り継いだホームを降りた。初めて降り立つ川崎の地の自転車走行の多さに驚く。東京という都市は交通の便に恵まれていて、こんなにも自転車の数は多くはなかった。僕の生まれ育った厚木という場所だって、自転車人口はここまでではない。せいぜい通学下校時に高校生が道を横切る程度だ。
バス通りを抜けて商店街に足を踏み入れると、飲食店とカラオケ店の多さが目に付く。バスロータリーとデパートに囲まれた駅周辺には、たくさんの観光客が訪れるのかもしれない。
「そこの兄ちゃん、新作入ったんだけど寄ってかない」
「……僕のこと?」
「ほかに誰がいるのさ」
客引きのお兄さんは嬉しそうな顔をして、僕の背中を押す。腕に施された何の文字かもわからない刺青と、最初に目がいってしまうであろう口に刺されたピアスが、逆らったら何かされるんじゃないかということを連想させてしまう。下手な揉め事になるくらいなら流されてしまえがモットーの僕は、恐怖心と好奇心を一度に抱いて歩を進めた。
「どうだい、興奮するだろ?」
「……はあ」
昼間でもはっきりわかるくらいに装飾されたネオンに表わされた看板から続く階段を下りていくと、そのところどころに裸で笑顔を振りまく女の子の写真が貼られていた。もちろん僕も男だから興味はあるけれど、高校生にはあまりにも刺激的過ぎて目を覆いたくなる眩しさだ。興奮よりもここにいることの恥ずかしさの方が先立ってしまう。
きっと、僕が高校生でこんないかがわしいお店に入っているとバレたら、補導されてしまうのだろうなと、内心落ち着かずにいた。僕はいつも大学生に間違われるほど大人びた顔立ちをしているから、自分から言わなければ大丈夫なんだろうけど。身長だって百七十センチを少し超える程度はあるし、細身のわりには肩幅もそれなりにはあるつもりだ。
アダルトビデオが並ぶ棚を通り抜けて、お兄さんは個室のドアで立ち止まった。もう一人の店員であろう大柄の坊主頭の男とひそひそ内緒話をしては、時折僕の顔をちら見してくる。いつ逃げ出そうか、僕はそのタイミングを見計らっていたが、どうやらそう簡単にはいかないらしい。坊主男は、すでに誰かをボコボコにしていそうな恐ろしい目をしていた。
「あの、適当にどんなのがあるか見たいんで、動き回ってもいいですか?」
「そのことなんだけどさ、ラッキーだね。今店長と話したら、今から新作に出演してる子が挨拶回りに来るそうなんだよ。それで特別に君にインタビューさせてもらえるって」
「ちょっと待って。何で僕なんですか? 今たまたま入ったばかりの客にさせるなんておかしくないですか」
僕の訴えを何でもないかのように交わし、男は僕を個室に押し込んだ。店長と呼ばれる坊主男に睨まれると、拒もうにも拒めない。仕方なく用意されたテーブルに座り、顔を伏せてそのまま眠ってしまった。よく考えたら、早川の家に来てからというものまともに睡眠を取ったことがなかったことに気づく。
「……起きて」
優しい丸みを帯びた声に飛び起きると、目の前には白のタートルネックのシャツとフリフリのチェニックスカートに身を包んだモデル体系の女性がこっちに向かって笑顔を振りまいていた。知らぬ間に、僕はパイプ椅子に座らされている。目の前でしゃがんでいる彼女の足と足の隙間からは、うっすらと純白のパンティーが顔を覗かせている。生ではっきりと見るのが初めてだった僕は、ごくりと唾を飲み込んだ。
もしかして、彼女がさっきお店の人たちが話していたAV女優なのだろうか。AV女優のイメージって、誰にでも体を許しているせいかどこか荒んでいて、ケバケバしたイメージがあったから、こんな清純そうな子が来るなんて意外だった。ほぼノーメイクと言ってもいいくらいの薄さなのに、こんなにも肌が潤っていることに驚きを隠せない。
「驚かせちゃってごめんなさい。私、今度主演を務めさせてもらった木下優愛って言います」
まだ十九歳という年齢からは想像できないほど落ち着いていて、何よりしゅっとした輪郭と切なさを感じさせる瞳に特徴のある顔が少し好みだった。僕は、自然と彼女に興味がわいた。人と目を合わせて会話するのが苦手だけれど、思い切ってその大きな瞳に視線を送る。僕ははっきりと、失礼に当たるかもしれない質問をぶつけて試してみることにした。
「その……優愛さんはどうしてこんな世界に入ったんですか? 僕にはどうしても君みたいな子がやるような仕事とは思えない」
「うーん、その質問今までいっぱい聞かれたんだけど、一番はお金。二番は反抗かな」
「反抗?」
優愛は、子どもっぽい無邪気な笑顔でうなずいた。AVに出演する子の多くがお金のためだというのはわかっていた。借金だったり、家族のためだったり、彼氏に騙されたり。
人それぞれ理由はあるのだろうけど、好きでやっているわけではない子が大半だと本で読んだ。AV出演経験から女優になった人の暴露本なんかをワイドショーで取り上げられるたび、そのことがクローズアップされていた。それでも反抗という答えは、どうも腑に落ちない何かがあった。
「私ね、五歳の頃両親に捨てられたの。遊園地で遊んでいるうちにいつの間にか親とはぐれちゃって、どれだけ待っても迎えに来てはくれなかった。閉園間際に見知らぬ老夫婦が声をかけてくれて、なぜか私はその人たちに育てられることになった。その老夫婦も私が十八になった誕生日に亡くなって、独りぼっちになった。だから、私がこの世界に足を踏み入れたのは、捨てた両親への復讐でもあるの」
急に眉間にしわを寄せた優愛の顔が、どうしてか僕とダブって見えた。大人に、社会に失望しているのは僕も同じだ。理由を聞いてしっくりときて、どことなく彼女の人となりを理解できるように思えてくる。
他人の意見に同調すれば賛美され、多数派にたてつくものなら徹底的に排除される。自分が優位に立とうと敵対者を非難し、いたちごっこの繰り返し。政治家なんて、そんな社会の仕組みの最たる縮小図だ。
そんな大人の作り出した社会は、当然のことながら新しきものを許さず、古きよき時代の流れのシステムの中に丸め込まれる。
理由のわからないことが大嫌いで、なんにでも社会のせい誰かのせいにしなければ不安に駆られてしまう世論もそれは同じことである。罪を犯すことに、人を好きになることに、夢を追いかけることに動機などあるのだろうか。その動機があれば絶対に結果は同じであると言えるのだろうか。世の中、そんなに単純ではない。そんなことにすら気づけない多くの人がバカで、メディアや他人の意見に振り回される。社会で生き抜くためには、頭が良くてはダメなのだ。
そんな社会を、人間を見続けてきた若者に希望なんてあるはずもなく、未来を諦めるなと言われてもまったく説得力がないのは当たり前のことだった。大人たちはみんな、子どもにするなと言ってきたことを自ら行ってきたのだから。
「優愛さん、僕と逃げませんか? 僕もどこにも居場所がなくてこんな社会から解放されて自由になりたいんです。きっと、僕と優愛さんは同じ世界で生きている」
優愛は眉間にしわを寄せて、困ったような顔をしていた。目線を下に逸らして、次に僕を見た瞬間には優愛の目は笑っていた。こんな顔をする癒し系の女優がいたななんて、重ねてみてしまう。
「ありがとう。だけど、一つだけ確かめさせて。君、童貞でしょ? 私、体の相性が合う人とじゃないと、一緒にはなれない」
「ちょっと待って。僕にだって心の準備が……」
「大丈夫。私がリードするから」
優愛は豊かな胸の谷間を強調して、僕に対しウインクを流す。肩をつかまれ体を寄せられると、パイプ椅子ごと僕は腰を床につけた。覆いかぶさった優愛の体の呪縛からなかなか抜け出せない。
優愛はシャツの上からブラジャーを抜き取り、後ろに投げた。これから狩りをするライオンのような鋭い目つきに圧倒される。ノーブラ状態で当たる胸の柔らかさに失神してしまいそうだ。彼女の顔が接近してきて、こんな形で初体験をしてしまっていいのだろうかと罪悪感が芽生えた。僕はどうしようもない現実から逃れようと、思いっきり優愛の体を突き飛ばす。
「はい、そこまで」
どこからともなくドアの前から入り込んできたのは、僕をここに招いた男性店員と店長だ。パチパチと喝采の拍手を僕に対して送っている。
「これはどういう?」
「うーん、そのままやっちゃってくれれば合格だったんだけどな。惜しいことをした」
「久しぶりに若い子とできると思ったんだけど、がっかりしたよ」
店員の男は、優愛と一緒に『ドッキリ! 素人逆レイプ大作戦』と書かれた看板を見せてはにたりと笑っている。二人は、不合格だったからお楽しみ料として有り金すべて払えと要求してきた。僕は、はめられたのだ。さっきまで心を奪われていた優愛の顔が、急に醜い悪魔のように見えてくる。
「なんだよ、これっぽっちしか持ってないのかよ。最近のガキは使えねえな。ほら、さっさと出て行け」
僕は強面の店長に強引に押し出され、店の外に追いやられた。一文無しになった僕には、本当の意味で行き場所がなくなった。商店街を抜けて、ただひたすら当てもなく前に突き進むだけ。道行く人々は目の前に迫るゴールテープに向かって進んでいるのに、ただ一人だけコースを逸走して遠くへ向うゴールを見失ったランナーになった気分だ。
どれだけ歩いただろうか。明るかった陽はすっかり暮れ、月の光が影を映す。学校や会社帰りの人が通り過ぎていくのと逆方向に向かっていて、生きている実感すらしない。
目の前に広がったのは、子どもの姿のないブランコと滑り台と砂場だけが飾られた小さな公園だった。ダンボールに囲まれたホームレスの住処と化している、薄汚れた休憩施設。ここが今日の、いや、これからの僕の家なのだ。今にもハエが群がりそうな頭の老人を見ると、怖気づきそうになる。
その晩、どんなにお腹の虫が鳴っても僕はごみ漁りをしようとはしなかった。ベンチに横たわり、ほかのホームレスたちに背を向けるように眠る。自分も同じだというのに、どういうわけか仲間と認識されるのが嫌だったからだ。どんな状況に陥っても、プライドだけは捨ててはいけない。僕は僕のまま死を迎えたいと思いながら、目を閉じる。
きっと、僕はこのまま飢えて人知れず亡くなっていくのだろう。数日後に発見されて、高校生ホームレスが死亡と珍しいことに関心を抱くワイドショーで取り上げられる。それも次の日には別の話題に切り替わり、忘れられていく。人々の関心なんてそんなもので、日本人は特に飽きっぽく流行に流されやすいということも、僕には十分理解できていた。
「……おい、起きろ」
太陽の光とともに耳元で野太い声がした。視界が開けて最初に映ったのは、よく知る二人の男女の姿だ。なぜここにいるのか、そんな疑問をぶつけることもなく僕は早川に抱きついた。理由なんてないけれど、どうしていいのかもわからず涙が零れる。
「よく頑張ったな。お前には、いつでも俺がついてるから」
早川という男は、不思議だ。僕が考えていることを、すぐに見透かしてしまう。あれだけ否定して家を飛び出したというのに、責めたりなんてしない。美鈴は僕にソフトクリームを渡しては、冷たくておいしいよと微笑む。
今まで逃げ続けた自分が嘘のように、今はこの男を信じきることができる。きっとこれから早川についていけば間違いないだろう。心のどこかで、熱いものが込み上がってきていた。
あれ以来、僕は変わった。早川と美鈴の指示には、首を縦にしか振らない。二人が大学に行っている間、部屋の掃除をするのが日課となった。食事には二人に呼び出され、大学の近くの中華料理店やファミレスで取ることが多くなる。僕が頼むのはもっぱらラーメンやステーキといった脂っこいものだ。
当然のことながら僕と同じように二人に養われている子に会うこともあったが、彼らは会釈をするだけで特別接点があるわけではなかった。みんな僕と同じで、二人以外の人間には心を開かないのかもしれない。大人と社会を信用していない点では共通しているのだから関われば仲良くなれる可能性もあったが、特に何か話しかけようとは思わなかったのである。
「いいな。仲良くやるんだぞ。何かあったら電話してこい。いつでも飛んでくるから」
「ケンカとかしちゃダメだよ。みんな悪ぶってるけど、根は優しくていい子達ばかりだから」
「わかってるよ。心配しないで楽しんできて」
僕は、大きな荷物を抱える二人を見送る。友達同士で旅行に出発する二人も、僕を信用しているのは伝わってきた。そう、この二人は本気で人を信じることを知っているのだ。
一人になってしまう僕を気遣ってか、今日は同じように早川たちに養われて更生した二人がやってくることになっている。一人は僕と同い年の男子、もう一人がひとつ上の大学生の女子だという。心と体が空回りして、へらへらと誰もいなくなった廊下をスキップで階段を上る。元々対人恐怖症に似た症状があるだけに、そうやって気を紛らわさないと落ち着かないのだ。
掃除をして、早川の部屋で漫画本を読み漁る。いつ自分が行方不明として捜索願が出されているかわからないから、ニュースを観るのは怖かった。ここでの生活にようやく光を見て、居心地のよさを感じていた。もう家に帰る気は毛頭ない。テレビを見るのは、早川たちがいるときのバラエティ番組くらいだ。
ブザー音が鳴り響く。二人がやってきたのだ。僕は慌てて階段を駆け下り、勝手口を開けた。営業していないバーのカウンターに座る男女が久しぶりに会った友達かのように、僕に気づくと右手を挙げた。
「なんだ、聞いてたのよりまともそうじゃん」
「ホント、調教しがいがあると思ってきたのにがっかりだな」
僕を見るなり見下したような視線を送る二人は、どこかイマドキの流行に染まった普通の学生に見えた。男は腰パンに逆立ちした金髪を特長とし、女は胸元を大きく開けたシャツに太ももを強調させたミニスカートと、きらびやかなネイルアートが印象的だ。左手にワイングラスを持っては、頬を赤らめているようにも見える。
「やっぱり君は聞いてたとおりだね。人間観察が趣味で、何か俯瞰で見る癖がある。そのくせ、自分に自信がないこともわかっていて、どこか冷めている。違う?」
「そちらこそ、今初めて見ただけでそこまで言い当てるとはさすがですね」
「みんな同じだからね。アイツに飼われてきた人たちは。私たちも含めて」
おかわりとテーブルに叩きつけたグラスを、和馬と呼ばれた男が慌てて手に取る。さえきと呼ばれた女子大生は、固定椅子から飛び降りて僕の肩をつかんだ。口からはアルコールかと疑ってしまうにおいが充満する。実はお店で特別に作ってもらったノンアルコールのカクテルだそうで、本物のワインのような香りを出しているということで人気の品だと早川の母が口を挟む。
「いろいろ聞きたいこともあるんでしょ。今日の食事は私が作るから、覚悟しときなさい」
小麦色に染まった顔から零れる笑みに、不覚にもドキッとしてしまった。僕だって、十八歳の男だ。それなりに女の子の魅力を感じ取って気持ちを揺さぶられる時だってある。
たった一年早く生まれただけなのに、どうして大学生と高校生にはこんなにも違いがあるのだろう。まるでさなぎから脱皮したセミのごとく見事な進化を遂げる。今までガキだと思っていたのに、急に遠くへ行ってしまったようでいて寂しく感じることもあるのだろうか。僕は同級生の女子たちを思い浮かべながら、それはないなと出かけた映像を消去した。
さえきが食事の準備をしている間、和馬と僕はお互い離れた位置で窺うようにソファに腰掛けている。自宅から持ってきたのか、漫画本を広げて、せせら笑いを繰り返すさまを見て、つい吹き出してしまう。表紙から見える絵柄から想像するに、今ジャンプで連載中の大人気ギャグ漫画のようだ。
「真野……だっけ? お前も読むか、ほれ」
「ありがと」
投げ込まれた漫画本を手に取っても和馬の顔を覗き込む僕に、冷たい視線が送られる。和馬は漫画本をテーブルに置き、僕の隣まで移動してきた。台所からはカレーのいいにおいが漂ってくる。
「俺らもさ、同じなんだよ。何かにつけて誰かのせいにしてきた。誰かのために生きてるんじゃないのに、どこかで気づかないうちに周りの目ばかり気にして生きなきゃいけない。そんなのが嫌で、俺は一人家を飛び出した」
和馬は、そのときの情景を思い浮かべるように一滴の涙を拭う。背中を叩かれ、つい飲んでいたコーヒーを拭き溢した。
「何の考えもなしに飛び出したもんだから、お金は盗むほかなかった。最初はよかったけど、何回もやっていると警察もバカじゃないんだな。後をつけられて、ついには捕まってしまった」
「それを救ったのが、早川?」
和馬は、はにかんだ笑みで答えた。出来上がったカレーが、さえきとともにテーブルに運ばれてくる。暑い夏には欠かせない氷の入った麦茶を一気飲みした和馬は、よく聞けと言わんばかりに身を乗り出した。
「あいつはおせっかいだけど、落ちぶれた俺らのことを一番に考えてくれる。そういうやつなんだ。適当で振り回しているようでいて、熱く責任感がある。俺はあいつ以上に尊敬できる人間を知らない」
どうして自分が思っていることを他人に言われると、こうも説得力が増すのだろう。自分では、認めてしまうことで負けたようになってしまう感覚があるからかな。
大人なんて信用できない。そう決め込んでいた人の常識を根底から変えてしまう。そんな力が早川にあることは事実だった。ソファから降りて、いただきますから始まるカレーの味に満足を感じていると、僕のうまいの声にさえきは得意げにピースをした。
「私はね、家出して夜中に出歩いてるときに酔っ払いのおっさんに絡まれて。それを助けてくれたのが、早川だった。美鈴さんのビンタ、今でもあの痛さは覚えてるな。めっちゃむかついたから、いつか仕返ししてやるつもりだけどね」
「何者なんだろうな、アイツ。ホント、自分勝手でおせっかいでバカだけど、そんなんだから俺らと同じ目線で引っ張ってこれた。きっとアイツも、そんなに深くは考えてないんだろうけどな」
三人の笑い声は、その日一晩中鳴り響いた。お腹が捩れるほど笑いあった。二人の共通した人間の話でこんなにも盛り上がれるなんて、思ってもみなかった。自分はこの世界で一人ぼっちなんだって決め付けていたけれど、そんなことはなかった。一緒に笑える仲間がいる。それだけで幸せだった。
そんな一夜が明けて朝日が差し込む頃、一本の電話が鳴る。早川と美鈴が乗った観光バスが事故に遭ったという連絡が、僕らの視界を曇らせたのである。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。