すりむいた膝小僧
父の裏切りを知ってから、一夜。
いつものように目覚まし時計の音で目を覚まし、いつものように朝食を食べ、身支度を整えて家を出た。
今日は一段と寒くて、体が縮こまって、ひゅうひゅう叫ぶ北風が耳を痛めつけた。
途中で石につまづいた。
倒れる、と思った瞬間、体をかばうためにとっさに手が出た。
地味に転んで、膝をすりむいてしまった。
皮膚に小石がめりこんで、ところどころに血がにじんだ。
痛くて生理的な涙が目尻にたまった。
そのすべてが、奇妙に思えた。
どうして私は動いているんだろう、どうして私はこの体をかばうのだろう、どうして私は痛いと感じるんだろう。
変わらない日常を過ごしている自分が不思議でならない。
血が出てくることさえ、許せなかった。
父に最低の裏切り方をされたのに。
もう誰も信用できない、私はひとりきりなのに。
なんで私、生きてるの?
膝が痛いと引きずって。
股からも血を垂らして、命をつなぐ機能を正しく働かせている。
バカみたい。
未練がましく人間でい続けている自分は、ほんとにバカだ。
登校している大勢の生徒にまぎれて、ぽつぽつと歩く。
誰も私の存在になんか気づいてないみたいに通り過ぎて行く。
ここにいる中のたったひとりでさえ、私を必要としている人はいないんだ。
このまま、この喧騒にまぎれて消えてしまいたい。
まるで、初めからいなかったように。
指の先から透明な砂になって、さらさら流れて。
消えてしまいたい。……
「ゆっぴー!」
はっとして顔を上げた。
教室の前には、いつものようにぎゅうぎゅうにひっつめたポニーテールを揺らし、細い目をますます細めて笑うアリィがいた。
「おはよ……って、あれ?ゆっぴーケガしてる!」
アリィが駆け寄ってきて、しゃがみこみ私の膝小僧の様子を確認する。
「うわぁ、痛そう!どうしてそんな平気な顔してるの?すごい血が出てるよ!」
不細工な顔をゆがませて、アリィのほうが痛そうな顔をしている。
アンタがケガをしたわけじゃないのに。
「ねえ、手当したほうがいいよ。保健室行こう!」
アリィは私の手を引いて走りだした。
保健室は開いていたけれど、先生はどこへ行ったのやら、不在だった。
「しようがないから、勝手に道具使わせてもらっちゃおっか」
持ち前の図々しさで、アリィは消毒液やピンセットの並ぶ棚をいじり始める。
「ゆっぴー、ここに座って膝を見せて。えっと、まずは汚れを落とさないといけないよね」
そう言ってアリィは水で濡らした脱脂綿を傷口に押しつけた。
「いたっ!」
水がしみて思わず声が出た。
「あぁ、ごめんね!ゆっぴーごめんね!」
「べ、別にいいよ……」
アリィがあんまり動揺するものだから、唇をかみしめて我慢することにする。
「そーっとやるから、そーっと」
申し訳程度の力で触れられる。
泥や砂や固まりかけた血が、ぽんぽんと優しくぬぐわれていく。
アリィの表情は、真剣そのものだ。
どうしてコイツは、私にこんなにも構うのだろう。
『イケニエ』にしやすかったから?
それにしたって、こんな私とじゃ一緒にいても楽しくないだろうに。
はじめからはっきりした理由なんて分からなかった。
でも、アリィはあの『親友宣言』以来、何があっても私のそばにいた。
どんなに無下な態度をとっても、離れて行かなかった。
ちょっとふてくされても、すぐに「ゆっぴーゆっぴー」ってまとわりついてきて。
なんだか、いつだって楽しそうだった。
「次は消毒するね!えっと、消毒は……この白い綿の入ったビンのほう……だっけ?」
私なんかが、こんなちっぽけなケガをしただけなのに、こんなに一生懸命になって。
コイツもバカなんじゃないか。
「ごめんね、またしみるかも」
消毒液をたっぷり吸いこんだ白い綿で傷口をなぞられる。
胸の奥からせり上がってきたものが、喉につっかえて目尻に涙がにじむ。
こぶしに、これでもかって力をこめる。
肩が震える。
鼻がつんとする。
もう、ダメだ。
「あとはガーゼを当てて……」
「もういい!」
私は勢いよく立ちあがって、早足で休養用のベッドへ向かい、カーテンを閉め切った。
「え……ゆっぴー!?どうしたの?」
アリィが混乱してベッドへ駆け寄ってくる。
無理もない。
今の私は完全に挙動不審だ。
でも、そうするしかなかった。
滝のようにあふれてくる涙を隠すためには、そうするしかなかった。
「ねえ、ゆっぴーいきなりどうしたの?」
「お腹が痛いの!だから一時間目は休むから!先生に言っといて!」
カーテンを引っぱって、アリィが入ってくるのを必死に阻止しながら叫ぶ。
「でも、まだ手当が……」
「いいから行って!」
たぶん、人前でこんなに感情を荒げたのは初めてだったと思う。
「ゆっぴー……」
小さなつぶやきを残して、アリィは保健室を出て行った。
ドアが閉まる音がしたのと同時に、私はベッドに突っ伏して声をあげて泣き出した。
昨日は一滴も出なかった涙が、面白いくらいにあふれてきて止まらない。
なぜだか分からない、とか、消毒液がしみたせい、とか、そういう言い逃れはもういい。
アリィがいた。
私には、アリィがいた。
たしかに私はアリィのことが大嫌いだった。
でも、どんなに自己中で、鈍感で、醜くても、私を見てくれていた。
それが今の私にとって、ただひとつの救いのように思えた。
私には、アリィがいる。
それだけで、今日を生きていける気がした。
二時間目が終わってから、ふらふらと教室に戻った。
ああ、そういえばあの人朝からいなかったわね。
その程度のしらけた視線をちらほら浴びていると。
「あ、ゆっぴー!大丈夫?」
案の定飛びついてきたアリィ。
また涙腺がゆるみそうになって、唇をへの字にしてこらえる。
「もう、大丈夫だから」
そう言って、つかつかと席につく。
少しでも気を抜いたら自分が保てなくなりそうで、つっけんどんな態度しかできない。
そのせいか、アリィは少し遠慮気味に「大丈夫ならいいけど……」と内股で肩をすくめている。
「うん、大丈夫だから。気にしないで」
私は、初めて心からアリィに気をつかって、言葉をかけた。
あんまり喜ばしいことじゃないけど、私にはアンタしかいないから。
大切さに気づけたから。
照れくさくてうつむいていると、アリィが突拍子もないことを聞いてきた。
「ねえ、ゆっぴー。あの、クマちゃんは……?」
クマ?
あの、『親友の証』のことか。
しばらくは通学カバンにつけておそろいにしようって毎日しつこかったけれど、最近はぱったりそんな話しなくなっていたのに。
何の前触れもなく、なんなんだ。
「あれは……家にあるって、何度も言ったでしょ」
眉をひそめながら答えると、アリィは「そっか」と笑った。
そのとき丁度三時間目の始まりを告げるチャイムがなったので、会話はそこで途絶えた。
不思議に思って、ちらりと盗み見た隣の席のアリィは、今までに見たことがないような、感情のない顔をしていた。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。
この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。