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アリィ 作者:慧子

裏切り


ここ数日、おかしい。

あの『負けないで事件』から、アリィは元気がない。

私と一緒にいることはいるのだけれど、うつむいていることが多くてあまり話しかけてこないし、前みたいに休み時間のたびにトイレへ行きたがることもなくなった。

その代わり、しきりに隣のクラスを気にしている。

カナエ達が登校してきているか知りたいんだってことは一目瞭然だった。

あの日以来、カナエ達は学校に来ていない。

もしかしたら謹慎処分を受けているのかもしれないけれど、本当のところは分からない。

いっさいの情報が入ってこないのだ。

今回のことで生徒指導によりいっそう力が入りそうだと予想していたのに、先生達はまるで何もなかったかのように今まで通り。

騒ぎ立てることで生徒達の間に動揺が広がらないように、という配慮なのだろうか。

いずれにせよ、そういう状況がますますアリィの心配をかきたてるらしい。

しかし、それはそんなにおかしいことではない。

なんてったって、アリィは『ギャル』であるカナエ達のファンなのだから。

食べ物がのどを通らないと言わんばかりに落ちこんでいても当然だ。

そう当然。

おかしいのは、私のほう。

アリィの様子を見るとまるで面白くなくて、イライラしてしまう。

私が結構きついことを言っても、アリィがここまで沈むことなど今までなかった。

それなのにカナエ達からはこんなにも影響を受けている。

その事実が、ものすごくつまらなくて、私の心は荒れた。

今日だって一日中ぼうっとして、私の存在すら忘れているようだったアリィに、私はさよならも言わずに帰ってきた。

玄関のドアを乱暴に閉めても、腹の虫がおさまらない。

カバンを思いきり自分の机に叩きつけると、蛍光スタンドにこてん、と倒れかかった不細工なクマと目が合った。

『親友の証』。

夏休みが明けてしばらく、アリィはしきりにこれをカバンにつけてきてと言ってうるさかった。

でも私は、こんなアホ面のクマなんてぶら下げていたくなかったから、適当に受け流してしのいだ。

だいたい、毎日使うカバンにつけていたら、汚れてしまうではないか。

実際、アリィのカバンにぶら下がっているクマは、もうずいぶん黒ずんでしまっている。

別にクマが大事だからとかじゃなくて、こういう生き物の形をしたものが風化していくことが、私は嫌いなのだ。

だからこうして机の上にひっそりと飾っている。

無下に扱っているわけでもないし、これで充分じゃないか。

それなのにアリィは「おそろいの意味がない」と言って膨れていた。

あんなにうるさくまとわりついてきていたクセに、今日の態度ときたら。

そう、私はこのアリィの自分勝手さに腹が立っているのだ。

アリィの興味がどっちに向こうが、そんなことはどうでもいい。

ということでこのイライラの原因を突き止めたことにしたかったけれど、頭の片隅に引っかかっている何かがある。

私はその何かを必死に無視しようとした。

災厄の予感がしたからだ。

どうにか気を紛らわそうとしていたら、下腹部に不穏な気配を感じた。

……そういえば一般的な計算からすると、そろそろかもしれない。

神様は、これ以上私を思い悩ませてどうしようというのだ。

いい加減にしてほしい。

動きたくないけれど、制服が大惨事になってしまったら、それこそ打ちのめされてしまう。

気配の真偽を確かめるため、しかたなくトイレへと急いだ。


ビンゴ。

下着にはガールズウィーク幕開けの印。

なぜ週半ばで訪れるのだろう。

せめて土日だったら心静かにやり過ごせるのに、週後半は体育の授業が立てこんでいるから、やりづらいし体力的にもきついのだ。

しかもたしか今週からは持久走が始まるんだっけ。

見学したくても五十嵐先生はこういうことにまったく理解を示さないから、貧血で倒れない限り無理にでも走らされるのだろう。

あぁ、死にたい。

トイレに頭を突っこんで溺死してやりたい衝動をぐっ、とこらえて痛み止めを取りに部屋へ向かった。

その途中、我が家の電話が鳴った。

こんな家に電話をかけてくる物好きなんて、セールスかいたずらかアリィくらいものだ。

が、今アリィが私に電話してくる可能性は極めて低い。

いずれにせよ気を遣う必要などないので、私は乱暴な調子で電話に出た。

「はい、後藤です」

「おう、由紀子か」


父だ。


分かったとたんに血の気が引いた。

父と口をきいてしまった。

まだ許していないのに、恨みは晴らされていないのに。

今のは不可抗力だ、と思っても悔しくてたまらない。

それ以降、私は唇をかんで無言をつらぬいた。

「今夜、同僚達を家に呼んで、ちょっと会議をすることになったんだ。
たぶん七時ごろになると思う。
それまでに少しでいいから部屋を片しておいてくれないか」

やけに明るく、今まで何もなかったみたいにしゃべると思ったら、これですか。

他人を家にあげる?

部屋を片せ?

ふざけるな。

「おい、聞いてるのか?」

聞いてるよ。

聞いてるけど返事なんてするもんか。

しばらく沈黙が続いたあと、受話器の向こうから大きく短い不快なため息が聞こえてきた。

生ぬるい息がかかりそうで、私は反射的に受話器を耳から遠ざけた。

「いいな、頼んだぞ」


切れた。

出だしの明るさが嘘だったかのように、最後の一言は冷たくとげとげしかった。

ご機嫌とって都合のいいように利用しようたって、そうはいかない。

絶対何もしてやらないんだから。

居間を見渡す。

だいたい、片す必要なんてないじゃないか。

ここに人がいる時間なんて、一日にどれくらいあるだろう。

使われていないのだから、散らかることなどあるわけないのだ。

ただ、このキテレツなカーテンのせいで雑然と見えるだけ。……


母がいたら、と思う。

遠足のとき、みんなはお母さんの手作り弁当なのに、私はコンビニのおにぎり。

小学校六年生のとき、保健の先生が気をきかせて買ってくれるまで、ブラジャーをしたこともなかった。

そして、救急車で運ばれたあのときも……。

母がいてくれさえしたら、私はこんなに傷ついたり後ろめたい思いなどしなくて済んだのではないだろうか。

だからって、今すぐに母ができるとしても、そんなものはいらない。

私は、遠足のとき、ブラジャーが欲しくても恥ずかしくて言えなかったとき、初めての生理で戸惑ったとき、そのときに母にいてほしかった。

夢の中で私を抱きしめて微笑む、あの母に助けてほしかった。

生まれたときから一緒で、つらいときも楽しいときも分かち合い、思い出を積み重ねてきた母を、私は望んでいるのだ。

だから、どんなに願ったって私の望みは叶わない。

母は私が四歳のときに死んだのだ。

平気だと思っていても、ときどきこうして思いをめぐらせてしまう。

形見の本の傾向からして、もしかしたら私の卑屈は母譲りなのかもしれないし、実際に母が生きていたとしても私の期待しているような言葉はくれなかったかもしれない。

こんな「たられば」の話なんて、無駄なのだ。

無駄だと、分かっているのに。……


七時までに、すべてのことを済ませた。

風呂に入って、夕食を食べて、宿題も終わらせた。

父と、父の同僚がやって来たときには布団に入っていようと思ったのだ。

父も、父の知り合いも、私にとっては他人だ。

他人とは関わりたくなどなかった。



玄関から物音が聞こえだしたのは、七時を少し過ぎたころ。

私は、すでに布団の中で恒例のように憂鬱を育てている最中だった。

ただでさえ寝つきが悪いのに、えらく騒がしくて眠れそうにない。

耳をそばだてているつもりはないのに、勝手に会話が聞こえてくる。

「さぁ、遠慮せずに」

「すみません、失礼します」

「お邪魔しまーす」

父のほかに男性が数人、そして女性もひとりいるようだ。

ビニールの擦れる音と、硬いものがテーブルにぶつかる音がする。

おそらく、コンビニで買ってきた缶ビールを取り出しているのだろう。

会議にアルコールとは、いいご身分だ。

「後藤さん、たしかお嬢さんがいらっしゃいましたよね?」

若い男性の声がした。

私は寝がえりを打って、居間に背を向けた。

「あぁ……たぶん部屋にいるんだろう。なんせ年頃なものだから扱いにくくて仕方ない。
ずいぶんと嫌われたもんだよ」

「またまた、ご冗談を。社内では若い子にもモテモテの部長が何をおっしゃるんです」

ははは、と笑いが起きる。

驚いた。

父はモテるらしい。

なぜ、あんなオジサンがモテるのか……いや、これは部下のヨイショに違いない。

しかし、たしかに今、父は『部長』と呼ばれた。

そんなに偉い人だったんだ。

私は外での父を何も知らないことに気がついた。


乾杯のあと、しばらくは楽しそうな笑い声が聞こえていたが、だんだん話は仕事の本題へと移っていったらしい。

重なっていた声がひとつずつになり、みんなが代わるがわる主張をして討論している。

仕事の内容に関しては、子供の私にはいっさい分からない。

ただ、誰よりも父が熱く語っているのは分かったし、周りの人たちも頻繁に父に賛同する声をあげていた。

悔しいけれど、少しだけ父のことが格好よく思えてしまった。


そうだ。

母を亡くしたという事実は、父も同じだったんだ。

支えてほしいときに、いるべきはずの人がいない寂しさをなんとかひとりで消化して、父も今まで生きてきたんだ。

どうにもならないときもあっただろう。

それなのに父は、仲間の信頼を得るほどの仕事をこなしながら、私を育ててくれた。

屁理屈ばかりで可愛くなくて、しまいには口すらきかなくなったこんな娘を、父は見離さずにいてくれたんだ。

それなのに私は、この有り様。

急に自分が恥ずかしくなった。

謝らなければならない、と強く思った。

今までひどい態度をとってごめんなさい、そして、ありがとう。

素直に伝えなければならないと思った。


討論会はやがて宴会へと様変わりし、解散の声があがったのは十一時ごろだった。

いつもなら十時には寝てしまうのだが、父に謝るために私は起きていた。

義務感と、部屋の外のうるささも手伝ってくれたおかげで、目はずっと冴えていた。

「じゃあ、今日はお疲れ様でした」

「あぁ、お前ら明日遅刻するなよ」

「分かってますって、部長」

酔ったせいか、みんなバカみたいに明るい。

騒がしさが遠ざかり、ドアのしまる音を合図に私はベッドから降りた。

そっとドアを開けて居間に出る。

玄関から戻ってくる父の足音が聞こえてきた。

長い間待っていたので、告白することへの緊張はやわらいでいる。

大丈夫、言える。

「おとうさ……」


「雅之さん、私、携帯を忘れちゃったみたい」


声をかけようとした私を、女性の声がさえぎった。

雅之さん。

聞こえた瞬間に、居間に戻ってきた父と目が合った。

父の顔に、明らかなあせりの色が浮かぶ。


その顔は、何?


「ごめんなさい、そのあたりに私の携帯……」

父の背中から若い女性が顔を出す。

彼女はまるで当たり前のように自然に、父の腕に手を絡めた。

ゆるい巻き毛の、スラリとした美人。

私は彼女のことを知っている。


「おい、ちょっと……」

「あ、もしかして、部長の娘さん?」

部長。

女性は私の存在に気づくと、何事もなかったかのように父から手を離した。

あわてている父がおかしいと思えてくるほど、彼女は普通だ。

それを見て、父はようやく冷静にならねばならないことを思い出したらしい。

「あ……あぁ、これが娘の由紀子」

「由紀子ちゃん?可愛らしいお嬢さんですね」

嘘ばっかり。

汚いジャージにトレーナーの寝起き姿が可愛いわけない。

それよりも私に『可愛い』という言葉を投げかけること自体が嘘だ。

しかも、あんな綺麗な顔をして自信満々に白いスーツを着ている女性が、自分以外の女を肯定するなんてありえない。

いや、私なんて女だとも思っていないだろうに。

こんなあからさまに嘘をつかれて、見下されて、私は『ブス』とののしられるよりも傷ついた。

「あ、こんなところにあった。部長、お騒がせしてすみませんでした。
今度こそ、失礼しますね」

女性はテーブルの上の携帯電話を見つけると、父に確信犯の目配せをして帰っていった。

父は女性を見送ることも忘れて、居間の入り口に突っ立ったままだ。


私は彼女のことを知っている。

彼女は、数ヶ月前にデパートの宝飾品売り場で見かけた父『そっくり』の男性の隣にいた、あの女性だ。

そして、最悪の記憶をよみがえらせる、父には似合わない品のいい香水、あの日車の中で父から漂ってきた匂いが、居間にかすかに残っていて私はすべてを悟った。


そういうことか。

父は、どうしようもないときを、ひとりで消化していたわけではなかったんだ。

母がいない隙間を埋める術を、ちゃんと持っていたんだ。

私がひとり、もだえ苦しんで助けを求めた、あのとき。

自分は彼女に寂しさを癒してもらっていた。

そして、その時間を邪魔した私に腹を立て、言ったのだ。


「たかが生理痛で」


父は、こちらを向こうとしない。

涙も出なかった。

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