挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
アリィ 作者:慧子

ひとりフルーツバスケット


いつもののり弁を、レンジで温める。

温め完了のブザーが鳴り響く。

のろのろとのり弁を取り出して、テーブルに置いた。


静かだ。


私が物音を立てなければ、ただひたすら無音が充満している。

いつものことなのに、なぜだか今日はいたたまれなかった。

そうだ、テレビをつけてみよう。

もうずいぶん長いこと起動されることのなかった我が家のテレビ。

きちんと動くかどうか不安だったけれど、スイッチを押せば虫の羽音のような音を出して、ちゃんと映像を映し出した。

チャンネルをころころ変えてみる。

特になにも感じ入る番組がなかったので、適当なバラエティを垂れ流していることにした。

のり弁をつつきながら、ぼうっと画面を眺める。

やたらと笑い声ばかり聞こえてくるのに、全然面白くない。

芸人のギャグは、ギャグとも思えない、むしろ不快さが募るものばかり。

これをクラスメート達は楽しそうに真似をして、面白い面白いと喜んでいるんだ。

グループのみんなと話を合わせるために必死だったころを思い出す。

そもそも感性が違いすぎた。

そりゃあ、一緒にいて話が合うはずがない。

当時は私ばかりがしんどくて不公平だと思っていたが、楽しい話題に水を差されてばかりだったあのグループのみんなも、実は大変なストレスを感じていたんだろう。

「後藤さんってすごく変で、みんな嫌がってたらしいよ」

今朝の女子達の会話には傷ついたけれど、同じくらい申し訳ない気持ちでいっぱいになった。

虚しい笑いに満たされた部屋。

わかない食欲にうなだれると、腕に十円玉大の青アザを見つけた。

まだ時間が経っていないような、活きのいい青色をしている。

いつぶつけたのだろう。

人差し指で押してみると、鈍く痛んだ。

痛い。

痛い。

「……嫌われて、当然だったな」

ぼんやりつぶやいたら、唐突に泣きたくなった。

悲しい。

涙をたくさん流したい。

でも、そうする気力がわいてこない。

感情さえ殺すほどの、とてつもない大きな疲労が私の中心に停滞している。

泣きたい。

泣けば少しは楽になれそうなのに。

このままじゃ、どうにかなってしまいそうだ。

すがるものがほしい。

私は、ふらりと立ち上がった。

向かったのは、仏壇。

父の部屋にあるから、もう何年も拝んでいなかった母の元。

久しぶりに足を踏み入れた父のテリトリーは、以前となんら変わっていなかった。

ただ、あまり生活感がない。

家具が死んでいるような気がする。

もしかしたら最近は寝にも帰って来ていないのかもしれない。

床を踏みしめる度に嫌悪感が背筋に走って鳥肌が立つのをこらえながら、私は母の遺影の前に立った。

相変わらず、この写真の女性は見知らぬ誰かのような気がする。

私と違ってくっきりとした二重だし、お化粧はちょっと古臭いけれど、とても綺麗な顔立ちをしている。

でも、母なんだ。

たしかに過去存在して、私をこの世に産み落とした。

ときどき夢に出てきて、「大好きよ」って、誰も言ってくれないことを言ってくれる唯一の人。

遺影に手をのばしてみる。

すがりたい。

すがらせてほしい。


「お母さん……」


だけど、四角いフレームの中の母はうっすら微笑んでいるばかりで、うんともすんとも言わない。

私の名前すら呼んでくれない。

この壊れそうな精神を、くみ取ってはくれない。

私を抱きしめる腕も、なぐさめる胸も持っていなければ、ましてや今私が置かれた状況を知ることすらない。

だってこの人はもう、この世にいないんだから。


私は、ひとりだ。

世界中で、本当にひとりぼっち。


どうして母は死んでしまったのだろう。

どうして父とうまくやれなかったのだろう。

どうして友達をつくれなかったのだろう。

本当は、毎日楽しく暮らしたかった。

それなのに、周りを突っぱねて、うまく笑えなくて、何もかもに負い目を感じて、強がって。

親がいないからじゃない。

引っ込み思案がいけないんじゃない。

全部私が悪いんだ。

人を信じることができなくて、自分の悪いところを認められなくて、人を上から目線で見下して、なんでも正当化するための言い訳ばかりをこね回すことでしか自分を保てなかった。


私が弱いから。

弱いから。


自覚したとたん、死んだ人間にまですがろうとしたことに恐怖を感じて、私は自分の部屋へ逃げこんだ。

追いつめられている。

まともな判断ができなくなるほどに。


ベッドへうつぶせに倒れこんで、息を止める。

寂しい。

寂しくて仕方ない。

アリィは、アリィだけはずっと一緒にいてくれると思っていた。

あんなに私のことを見てくれる人なんて今までいなかった。

どんな真意があろうと、私を特別なものとして見てくれたのは、きっとアリィだけだった。

それなのに、私はアリィをちっとも大切にせずに、おごっていた。

あんなに嫌悪していたのは、きっと人とうまく接することができないアリィに自分を重ねていたから。

本当は私達、誰よりきっと分かり合えるはずだった。

手を離したのは、私の方だったのかもしれない。

だったら、全部改める。

どんなわがままにだってつきあうから、また私と一緒にいてほしい。

アリィの隣だけが、世界中で唯一の私の居場所なんだ。


素直になるから。

思いやるから。

だから、お願いだから、戻ってきて。

戻ってきて。


呼吸のやり方さえ忘れてしまいそうなほど息を止めていた。

だんだん苦しくなってくる。

でも息をするのが恐い。

今の私は酸素にさえ見離されそうだ。

苦しい、苦しい、苦しい。……


回らない頭でうつろに視線を泳がせていたら、ふと机の上の黄色が目についた。

不細工なクマのマスコット。

アリィとの『親友の証』。


そうだ。

アリィのカバンには、今日もピンクのクマがぶらさがっていた。

あんなに姿かたちを変えていたのに、それだけは変わっていなかった。

まだ、アリィの心の中には私がいるのかもしれない。

そう思ったら息ができた。

まだまだ生きられる。

アリィがいてくれれば。

私はベッドから降りて、机の上のクマに手を伸ばした。


母は死んでしまった。

父にも裏切られた。

でも、アリィは死んでいないし、私のことを忘れてもいない。

体の奥からむくむくと勇気がわいてくる。

きっと取り戻せる。

黄色いクマをカバンにくくりつけながら、私は唯一の居場所を自分の力でつかみ取ってみせる、という一世一代の決意を胸にかかげた。

やると決めたからには、徹底的に行動しなければならない。

後悔はしたくない。

絶対に。


だから私は翌日、早朝から家を出て、通学路の途中でアリィを待ちぶせた。

アリィの家は駅の近くらしいことだけは知っていたので、駅の前でじっと立ち尽くしてアリィの姿を探す。

できればアリィひとりと接触したかった。

カナエ達と一緒だったら、話しかけることすらできないかもしれないから。

しかし、希望は打ち砕かれる。

人の往来が増え始めたころ。

道の向こう側からやってくると思っていたアリィは、どういうわけか駅の構内から現れたのだ。

それも、カナエ達三人と一緒に。

四人は至極楽しそうに団子のように肩を寄せ合って歩いている。

昨日はただただ驚いているばかりだったけれど、今日客観的に見てみると、意外にもアリィはカナエ達になじんで、すっかり『ギャル』になっていた。

あまり好ましい状況じゃない。

でも、私は目ざとく見つけた。

『親友の証』を。

気持ちを強く持って。

取り戻すと決めたじゃないか。

大丈夫、大丈夫。

私は自分のカバンについている黄色いクマをぎゅっとにぎりしめて、一歩踏み出した。


「アリィ!」


朝の喧騒に負けないように、大きな声でその名を呼んだ。

すると、呼ばれた当人以外の三人が、ぱっとこちらを振り向いた。

「はぁ?アンタ誰?」

今までの和気あいあいな雰囲気を一変させて、ノアが不機嫌そうに言った。

「何?アリィ、知り合い?」

そうミオに耳打ちされて、アリィはやっとゆっくりと私のほうを見た。

その目があまりにも不快感に満ちていたから、私は思わずひるんだ。

「ああ、アンタ知ってるよ。アリィとずっと一緒にいた奴っしょ」

ね、とカナエに同意を求められて、アリィは渋々といったふうにうなずく。

どうして、そんなに暗い目をしているんだ。

ほんの少し前まで、私に懐いてきていたアリィが、まるで夢だったかのように思えてくる。

「でぇ?あんたが今更アリィに何の用なわけ?」

「アリィはもう私達の『ソウルメイト』なんだけど」

ねー、と三人は顔を見合わせながら腕をかかげ、光るブレスレットを見せつけてきた。

アリィも、そっとそでをめくって、それをのぞかせる。

天然石のような、丸い玉が連なったそれを見ながら、私は情報過多で回転の遅くなった脳内で『ソウルメイト』の意味を考えていた。

ソウル、つまり魂。

メイト、つまり……同志?

魂の同志。

「あたしらマジ最強の絆で結ばれてるんだって」

宗教。

一瞬この言葉が脳裏をよぎったが、そういうことはないだろう、と思い直した。

カナエ達に信仰心なんてあるはずない。

きっとこういう物や意識を共有することも、オシャレの一部なのだろう。

オシャレで人づきあいなんて、冗談じゃない。

こっちは人生がかかってるんだ。

「アリィ……」

「だから何の用だって聞いてんだろ!?」

うつむいたままのアリィに声をかけたら、カナエにすごまれて決意が折れそうになる。

でも、負けない。

負けるわけにはいかない。

「アリィ、あのね、私……」

もう一度、仲良くしたい。

そう続くはずだった言葉は、アリィの沈んだ声でさえぎられた。


「迷惑」


「……え?」


今、なんて言ったの?

今の声は、誰のもの?


理解しようとしているあいだに、アリィは「行こう」と言って三人をうながし、学校へと歩き出してしまった。


え、待って。

だって私、まだ何も伝えられてないのに。

分からない。

何が起こっているのか、分からない。


呼吸が浅くなって、はふはふと唇を震わせながら、それでもアリィを取り戻したいと願う心が、決意が、四人の後を追わせる。

待って。

待って。

おぼつかない足取りで追いかけていると、私に気づいたノアが、「ついてくんじゃねーよ!」と怒鳴った。

それでまた足が止まりそうになったけれど、恐いけれど、でも止まらない。

どうあってもついてくる私に向かってカナエ達は「こいつマジでキメェ!」などと口々にもらしながら、歩みを早めた。

ぐんぐんと進んでいく四人に、私は足をもつれさせながら必死についていく。

けれどうまく追いつけなくて、四人と私の間には微妙な距離が生まれていた。

集団に、ひとつよけいなものがくっついている。

まるで、金魚のフン。

以前グループにいたときのことを思い出す。

あのときも、こんな感じだった。

そして見事に切り捨てられた。

今また、私は切り捨てられようとしているのだろうか。

でも、今度切り捨てられた先に、もうアリィはいない。

金魚のフン、金魚のフン、金魚のフン、頭の中でぐるぐる回っている。

私、何してるの?

それさえだんだん分からなくなってくる。

そして、学校が目の前にせまった、そのとき。

今まで一度も振り向かなかったアリィが、突然歩みを止めて、こちらへ向き直った。

カナエ達は、アリィの背後で何事か、と様子を見ている。

私は荒れる息を整える余裕もなく、口も半開きのまま、『ギャル』になってしまったアリィの顔をぽかんと見つめた。

「どうして……」

アリィは重苦しく口を開いた。

「え」


「どうして追いかけてくるの!?」


責められている、と明らかに分かる強い口調。

こんなアリィの声を、私は聞いたことがなかった。


混乱している。

私は、今まともじゃない。

でも、だからこそ伝えたいことだけが口から出てきた。

「ねえ、見てアリィ、これ、ほら、あのクマだよ。
ずっとつけてきてって、言ってたよね。だからつけてきたの。
アリィ今でもつけてくれてるよね、これ『親友の証』だもんね。
私達、親友なんだよね?」

親友、なんだよね?


お願いだから。

親友って。


言って。



「聞きたくない!」



あまりの大きな声に、歩道を流れて行く登校中だった周囲の生徒達も足を止めた。


「アリィは今、ノアちゃんとカナエちゃんとミオちゃんと一緒にいるの!
みんな自分のスタイルに信念を持ってて、それをつらぬくためにどんなことにも負けないの!
アリィもそんなふうに生きるって決めたの!
先生に怒られても、認められなくても、カナエちゃん達と一緒ならいつも笑ってられるもん!」


カナエ達が、いっせいにアリィに群がった。

「アリィ、あんたサイコーだよ!」

四人は感極まったように抱き合っている。

まるで体育会系のノリで、ただベクトルが違うだけで、校則違反を取り締まっている五十嵐先生と同じように見えた。


アリィ、あんたはこういうことがしたかったの?

『ギャル』になって、群になって、自分の価値観で他人と衝突して……。


呆然とする私を横目に見つつ、ミオがアリィに言った。

「ねえ、あんなダサい奴とはさ、完全に縁切った方がいいんじゃね?」

そんな汚ねぇクマ捨てちゃえよ。


それをアリィは無表情で聞いていた。

そして。


「こんなの、いらない」


アリィは、カバンから乱暴にクマをもぎ取ると、それを思い切り地面に叩きつけた。

クマはバウンドして、ころころと転がり、私の足元であおむけに止まった。

焦点の合わない黒いプラスチックの瞳は、虚しく空を見上げている。

私は、動けなかった。


いつのまにか周囲の生徒達はまた流れ始めていて、気がつけばアリィ達はいなくて、正門の向こうから五十嵐先生の怒鳴り声が聞こえてきた。

自分達の信念を貫くために、また彼女達は戦うのだろう。

そこに、私の介入する隙間などないのだろう。


どこかかすんでいる視界の下で、いまだクマが倒れている。

アリィに投げ捨てられた、『親友の証』。

のろのろとしゃがみこみ、拾い上げ、自分のと比べてみる。

毛並みがつやつやなままの綺麗な黄色いクマと、毛がぽそぽそになって黒ずんでいる汚いピンクのクマ。

まさに私達の象徴だった。

私の中でアリィは変わらず『親友』のままだけれど、アリィの中で私はこのピンクのクマみたいにどんどん姿を変えていったんだ。


これはもう、あのときのおそろいのクマじゃない。

私達も、もう親友じゃない。


二匹のクマを握りしめてうずくまったまま、始業のチャイムを聞いた。


+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ