襲来
朝起きたら、居間のテーブルの上に一万円札がぽつりと置いてあった。
あの夜からしばらく経って、もう夏休みも終わりが近づいてきたけれど、私と父の間に和解の空気はない。
どちらも歩み寄ろうとしないし、自分は悪くないって顔をしている。
二日に一度、交代で行っていたコインランドリーも、それぞれが必要なときに、自分の洗濯物だけを持っていくようになった。
朝、私が起きると父はもういなくて、夜、私が寝静まったころに帰ってきているようだ。
完全なすれ違い生活。
それでも私に飢え死にされては困るから、毎週水曜日、父はテーブルに一万円を置いておくようになった。
これを見る度に、父への憎しみは増す。
あのあと、謝ってくれたなら、許す余地もわずかながらにあったのに。
それどころか父は自ら進んで娘を避けるようになった。
家族であることを放棄したのだ。
この一万円札が、その象徴である。
これを初めて見たとき、父は飼育員になって、私は最後の家族を失った。
「週に一万はちょうだいよ」と言った私の望みは叶った。
でも、それは二人分の食料をコンビニで調達しなければならなかったころの話で、一人の今は金が余ってしかたない。
もともと物欲は薄いから欲しいものもないし、父からの『エサ代』は貯まる一方だ。
一万円札を手に取る。
ただの紙切れなのに、これがないと生きていけないんだ。
今はたくさんあるからいいけれど、使えばいつかなくなるし、これから何かが起きて大金が必要にならないとも限らない。
だいたい、このマンションの家賃を払っているのは父だ。
そこに私は住まわせてもらっているという、この現実。
父なんていなくなればいいのにと思えど、お金ばかりは自分ではどうすることもできない。
まだ子供だから、親のスネをかじらないと……飼育員に恵んでもらわないと生きていくことすらできないのだ。
悔しくて手に力が入ったら、握っていた諭吉がクシャっと笑った。
なんだよ、お前、私を笑うのか。
たしかに彼は偉人なのだから、私なんて笑われても仕方ないのかも知れない。
でも実際のところ相手はただの紙切れで、いやしかしお金は大事にしなければならないもので、だけどやっぱりただの紙切れに笑われるのはシャクに障って、結局こんなくだらないことに感情を荒立てている私はバカだ。
自分の部屋に戻るなり一万円札を所定の引き出しに放りこんで、エアコンをつけた。
もう我慢はしないことにした。
家計のために扇風機だけで過ごすなんて、もううんざりだ。
待ち望んだ冷風に身をさらす。
涼しい。
気持ちいい。
……はずなのに、この胸の中は鎮まらない。
なぜなら、明日に迫っているからだ。
例の、お泊まり会とやらが。
私の縄張りであるこの部屋に、アリィがやってくるという。
唯一安心できる、私だけの場所なのに。
教科書と問題集と辞書、そして蛍光灯しか乗っていないこの机は、アリィにどう映るだろう。
母が残した夏目漱石や太宰治やカフカの並んだこの本棚を、アリィはどう思うだろう。
飾りなどいっさいない殺風景なこの部屋を、私が毎日孤独と対話しているこの部屋を。……
見られたくない。
ここが、あの僭越な、はなはだしい空気に汚染されてしまうなんて耐えられない。
学校では諦めざるを得なくても、自宅でまで諦めを迫られるなんて許せない。
やはり断ろうか。
でもアリィは一度決めたらきかない。
いっそのことケンカして絶交してしまおうと、何度考えただろう。
でも、私が『イケニエ』をやめれば、またあの『かくれんぼ』が始まるに決まってる。
そうなればクラス中の女子からどれほどの恨みを買うか知れない。
いま私に向けられている無関心は、露骨な嫌悪と憎しみに変わるだろう。
だったら『アリィのイケニエになってる可哀想な子』というポジションは守っていたほうが賢明と思われる。
結局、アリィを泊まらせる以外に道はないようだ。
不幸。
私は不幸だ。
家族に恵まれていないとか、そういう問題じゃない。
根本的にマイナスにしか働かないこの思考が、不幸だ。
わざわざ自分を追いこまなくてもいいのに、もっとあっけらかんと生きることもできるだろうに、どうしてもつらいほうしか選べない。
友達が泊まりに来るんだ、楽しみだな、そう思えばいいじゃないか。
でも、できない。
どうして。……
やはり、それは相手がアリィだからだ。
めぐりめぐった思考の終着駅にはいつも、消えそうなくらい細い目で笑うアリィの憎たらしい顔があるのだった。
電話が鳴ったのは、そんな憂いが膨らんで手がつけられなくなった夕暮れのことだった。
「ゆっぴー、久しぶりー」
はずむ声に悪寒が走る。
初恋の人が記憶の中でだんだんと美化されていくというように、しばらく会わないうちに私はアリィのことをますます嫌いになってしまったらしい。
ようやく慣れてきたと思っていたのに。
「いま部活から帰って来たんだ。明日からお泊まり会だよ、覚えてた?」
「うん……」
「アリィ待ちきれなくって、一週間も前から荷造りしてたの。もう、すっごい楽しみ。
でさ、明日なんだけど、十一時に駅前に待ち合わせでいい?」
「……いいけど」
「よかった!アリィ、ゆっぴーのお家初めてだから、明日しっかり道覚えようっと」
また、悪寒が走った。
「じゃあ、また明日ね。バイバイ」
「はい」
電話を切った。
焦点が合わせられなくて、その場に立ち尽くす。
なんだか、もう、明日がやって来ることさえ信じられない。
自分の家なのに、ここから逃げ出してしまおうかとまで考えてしまう。
でも行くところなどあるはずもない。
やり場のない気持ちが心臓を押しつぶすのでは、というほど膨れあがり息が苦しい。
「守らなきゃ……」
ふと、思い立った。
大切な本だけは、迫りくる魔の手から救わなければ。
私が母と共有できる唯一のもの。
私は大量の本を押し入れに押しこむ作業に取りかかった。
その晩はほとんど眠れず、久しぶりにかけた目覚ましのアラームは意味をなさなかった。
これからアリィとの三日間が始まる。
本当に?
本当に、アリィはここへやってくるのだろうか。
まだ逃避したい自分がいる。
それでも、起きてすぐ部屋に掃除機をかけている私。
その姿をふかんから見ている意識が「滑稽だ」と笑った。
開け放した窓から生ぬるい風が吹きこみ、強い日差しがカーテンを割って射しこんでいる。
ふと思い立ち、廊下のすみの物置から客用の布団を引っぱり出してきてベランダに干してみた。
なんてお人好しなんだろう、私は。
自嘲してみると、労働の証が首筋を伝っていった。
そろそろ家を出る時間だ。
自転車で駅前まで向かうと、意外と人は少なかった。
夏休みも終盤で、宿題に追われる学生が家に閉じこもっているせいだろうか。
だとしたら、すべての宿題が終わっている今の私は少し鼻が高い。
が、そんなことより、久々に自転車などに乗ったものだから全身の筋肉が悲鳴をあげている。
しかも暑いから息切れも激しくて汗まみれ。
十四歳で、この体力。
同年代の女子と比較したら、きっと世界規模でワースト記録に違いない。
暑い、暑い、と汗をぬぐいつつ、時計を確認する。
……約束は何時だったか。
自分から言い出しておきながら遅刻するとは、人間として最低だ。
帰ってやろうか。
そう思っていたら、苦い思い出のある反対車線のドラッグストア前から、横断歩道を極度の内股で渡ってくる大荷物の女を見つけた。
それがだんだん近づいてくるにつれ、私は悲鳴をあげそうになった。
「ゆっぴー、おまたせぇ」
パンツが見えそうなほどのミニスカートにフリルのキャミソール。
初めて見る私服のアリィは、露出狂か痴女とでも言いたくなる風貌だった。
発育しきれていない貧相な体に、そのファッションはあまりにも不釣り合い。
しかも旅行用の大きなバッグをふたつも持っているから余計に目立っている。
たった二泊三日だというのに、何をそんなに持ってくるものがあったのだろう。
「今日も暑いねー。うわ、ゆっぴー汗びっしょりだ!どこかで休憩してく?」
聞かれても私は顔をゆがませていることしかできない。
黙っていると、アリィが「あぁ、重い。よいしょっと」とバッグを背負いなおした。
その拍子にキャミソールの肩ひもが片方落ちて、目がくらむほど下品なピンク色のブラジャーが露わになった。
なんなんだソレは!
鳥肌が立って体中をかきむしりたくなったが、本人はまったく気づいていない。
これが行き交う人々の目に触れるのかと思うと腹立たしく、申し訳なくもあって、こんな女になど触りたくないけれど、しかたないので素早く服を整えてやる。
指先が湿った肌に触れて、虫唾が走った。
「やだ、肩ひも落ちちゃってた?ありがとう」
「き、気をつけなよ、女の子なんだから」
「ゴメンゴメン、ところで今からどうする?」
軽く流して済む問題じゃない。
そして、こんな格好の人間と一緒にあちこち行けるわけがない。
「どこにも行かなくていいから、早く家に行こう」
アリィの荷物をひとつ自転車に乗せてやると、私はそれを押しながらさくさくと歩き始めた。
「待ってよぉ。どうしてそんなに歩くの速いの?」
「私にはこれが普通なの」
もう、気が気じゃなかった。
はじめからこんな調子じゃ、先が思いやられる。
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