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アリィ 作者:慧子

よくないことは続くもの



「あついあついあつーい」


蝉の声がうるさい。

肌にまとわりつく湿気もうるさい。


「あついあつーい、あついあつーい」


ついでに隣の女もうるさいったらない。

「アリィ。暑いのはみんな一緒なんだから静かにしててよ、よけい暑苦しくなる」

「だって、ほんとに暑いんだもん。アリィ死んじゃう」

いっそのこと死んでくれればいいのに、なんて本気で思ってしまう。

夏休みまであと数日にせまり、浮かれモードだった我がクラスを襲った災難……クーラーが壊れてしまった。

利きが悪くなり、常に最低温度に設定されていたオンボロは昨日、虫が飛んでいるような耳障りな声で数分鳴いたあと、突然砕けた音をたてて事切れてしまった。

「ふざけんな」

「てめぇ、壊れてんじゃねぇぞ」

今まで散々こき使われて、それでも必死に使命をまっとうしようとして力尽きた彼に対して、みんなは容赦なく暴言を吐く。

労ってあげようよ。

人知れず働くものに対して、最近特に自分を重ねてしまい、かばわずにはいられない。

悪いのはこのクーラーではなく、彼の跡継ぎの購入を渋っている学校側だ。

しかし、そんな寛大な私にも暑さは平等。

窓は全開なのに、気温と若い熱気がこもった室内はもはやサウナ状態。

休み時間だというのに誰もが遊ぶこともおしゃべりも忘れ、噴き出る汗にまみれて溶けたようにうなだれている。

「あついあついー……」

分かった。

分かったから静かにしてくれ。

額に貼りつく前髪をすくい上げてアリィをにらむと。

「痛っ……」

「ゆっぴー?どうしたの?」

「汗が目に……入った……」

「へぇ。そんな細い目なのに、何か入ることがあるんだね、言っちゃ悪いけど」

なんて失礼な奴なんだ。

普通、そういうことは思っていても言わないだろう。

自分だって負けないくらい細い目をしているくせに……もう、腹の底から、めいっぱいアリィなんて大嫌いだ。

ますますにらんでいると、廊下のほうからコンコン、と音がした。

「有田淑子、いますか?」

教室前方のドアから、他のクラスの女子が顔を出している。

しなやかな筋肉のついた腕や足、すっきりと整った顔は日焼けしていて、一目でスポーツをするために生まれてきた人なのだと思った。

こんなさわやかな人が、こんなうざったい人間に何の用だろう。

「アリィはここだよぅ。どうしたの?」

アリィはお得意の甘ったれた声で女子に駆け寄っていく。

彼女が頬を引きつらせて後ずさったのは当然の反応だ。

「これ、昨日言ってたやつ」

「ああ、ありがとー」

「たしかに渡したからね。なくさないでよ」

「分かってるよお」

「はいはい、じゃあまた放課後ね」

「はあい、お疲れさま」

アリィのあいさつを聞き終わらないうちに、「この教室、暑いわね」と言い残し、彼女は去っていった。

いつにも増して内股で帰ってくるアリィは、なぜだかご機嫌な様子。

手には一枚のプリントが握られている。

「あのね、これ夏休みの部活のスケジュール!」

聞いてもないのに、いちいち報告してくるのが、この女だ。

「へえ。アリィは部活してたっけ」

知っているけれど、なんだか腹が立つので知らないふりをしてみる。

「忘れてたの?テニス部だよお」

「そうなんだ。それにしては全然それらしくないね。
さっきの人はすごく日焼けしてたのに、アリィは真っ白じゃない。ちゃんとやってるの?」

「やってるよう。アリィはお肌を守るために日焼け止めをしっかり塗ってるの。
みんながお肌のお手入れに鈍感すぎるんだよ」

そうですか。

でも、その筋肉のない足はどう見てもスポーツをやっている人のものではないですけどね。

というのはさすがに嫌味すぎるので言わないでおく。

あの日、夕陽の中で部活に参加している姿を見ているから、きっとそれなりにやっているのだろうことは知っているのだ。

それには、おそらくさっきの子をはじめとする他の部員の寛大な心と多大な容赦というバックグラウンドがあるに違いないけれど。

お悔やみ申し上げます、と手を合わせる私を尻目に、アリィはスケジュール表を見ながらひとりごとを始めた。

「えー、休みが少ない……合宿もあるの?最悪……でも、もう先輩は引退したから、ずいぶん楽になるかなあ」

自分が望んで参加しているくせに、なぜ休みたがる。

だから、やる気がないなら辞めてしまえ。

向上心を持って頑張っている人の迷惑だし、なにより適当にでも続けていれば、「テニス部に所属し、三年間頑張りました」と内申書に書けてしまう。

そんなの不公平だ。

「あ、最後の三日は休みだ。やったあ」

そのあとも、アリィは一人で夏休みのスケジュールについてぶつぶつ言っていた。


アリィと一緒にいることにも、もうずいぶん慣れた。

慣れたくなどないのだけど、心が勝手に慣れてしまった。

自分の立場を受け入れたから、そうできるようになったのだろう。

だから、不本意ながら、アリィの存在は去年ほど負担にはなっていない。

目下直面している問題は、他にある。

お金が、ない。

今日もいつものコンビニに立ち寄ったものの、財布の中には小銭しかない。

他の弁当に比べて安めな、お馴染ののり弁すら買えない有様だ。

どうしようもないので、カップラーメンを二つ買った。

長年続いてきた習慣が崩されたというのに、店員は表情ひとつ変えることなくたんたんとレジをこなすだけで、ああ、この人たちは何も見ていやしないんだな、という発見をした。

残ったのは、カップラーメン一個すら買えない金額。

ため息をついても、お金は増えてくれない。

困窮の原因は分かっている。

生理のせいだ。

そもそも父は週に五千円しかくれない。

ただのおこずかいなら充分な金額かもしれないが、これには毎日の二人分の夕食代も含まれているのだ。

今まではそれでなんとかやりくりしていた。

しかし、生理のなんと金のかかることか。

漏らさないための専用ショーツや、トイレに置く三角コーナー、そろえなければならないものが多い。

さらには、薬局で痛み止めを手にしたとき、その金額に思わず値札を二度見した。

それでも必要なものだから、買わなければならない。

問題集が必要だと嘘をつき臨時収入を得て、そのときはなんとかなったけれど。

生理は毎月来るのだ。

このままじゃ絶対に立ち行かない。

教材を理由にお金をせがむことは、そう何度もできないだろう。

本当は、理由をきちんと伝えておこずかいを増やしてもらえばいいのだ。

でも、言いたくない。

あの父に、面と向かって、生理になった、と言うのか。

言えるわけがない。

いやだ、気持ち悪い、気持ち悪い!

絶対に言えない。

じゃあ、これからどうしよう……何も思い浮かばない。

八方ふさがりで、ここ数日はお金のことを考えるだけで胃がキリキリ悲鳴をあげるのだ。


「お前、これ……」

帰ってきた父は、テーブルの上にぽつんと鎮座するカップラーメンに案の定、絶句した。

「のり弁、売り切れてたから……」

苦しい言い訳だ。

それなら。

「それなら別の弁当を買ってくればよかっただろうに」

そう、そうなる。

何も言えやしない。

「ああ、もう、お前はどうしてこうなんだ」

父は腹立たしげにやかんに火をかけだした。

言わなければならない。

お金をちょうだい。

それだけでいいんだ。

「おい、ぼうっとしてないで箸くらい用意したらどうだ」

言いたくない。

でも負けてはいけない。

きっと父は私を責める。

それがどうした、生きていくためだ、私は何も悪くない。

さあ、言うんだ。


「お父さん、」


……結局、言えなかった。

険悪な雰囲気のまま、二人でちぢれたチープな細い麺をすすって、それで昨日は終わってしまった。

どうしよう。

もうすぐまた生理が来るのに。

節約のためには自炊が一番なんだろうけど、それはできない。

私は卵を割って焼くか、野菜をちぎることしかできない。

小学三年生のとき、新聞に載っていたレシピを見て、和風ハンバーグを作ろうとしたことがあった。

でも出来上がったのは、食器と食材が散乱したシンクと、焦げて異臭を放つフライパン、そして今でも消えない右の手首のヤケドの跡。

私に料理を教えてくれる人なんて、いなかった。

それなのに、「朝は味噌汁がいい」なんて言うあの男はどういう神経をしているんだ。

あんな人間、消え失せてしまえばいいのに。

うろんな目で登校すれば、アリィがまっさきにひっついてきた。

私が早く登校するようになってから、どうやらこいつは誰にも迷惑をかけることなく、私だけに迷惑をかけるためにドアの付近でそわそわと私を待っているらしい。

いいことじゃないか。

あの日進言してきた女子たちも、さぞ満足していることだろう。

ちら、と彼女たちの方を見ようとして、やめた。

私のことを気に病んでいるだろうと予想するのだって、期待だ。

期待は裏切られる。

きっとあの日のことなど忘れて、自分たちの快適な毎日を過ごすことにのみ夢中でいるのが現実だ。

「ねえねえ、ゆっぴー聞いて!アリィね、大発表があるの!」

こんな私とは正反対で、こいつはいつも幸せそうでうらやましい。

私はカバンの中身を机にしまいながら、生返事を決めこむことにした。

「アリィ、夏休みの最後の三日間は部活がお休みなのね」

そうですか、よかったですね。

「だからね、アリィ、ゆっぴーのお家にお泊りに行きます!」

そうですか、お好きになさってください。

……って。

「なに」

「なにって?」

「いま、なんて言った」

「アリィ、ゆっぴーのお家にお泊りする」

「は?どうして」

「したいから」

「し、したいからって……」

「ダメなの?」

首をかしげて上目づかいをするな、気色悪い。

「駄目じゃないけど……」

嫌だ。……なんて、さすがに言えない。

「じゃあ決まり!八月二十九日から三十一日までお泊り会だ!
一緒に宿題したり、おしゃべりしたりしようね」

ウソ。

こんなのウソだ。

せっかく一人きりで過ごせる夏休み、一日たりとて何者にも邪魔されたくなかった。

それなのに、最後の三日間を、よりにもよってアリィと過ごさなければならないなんて。

教室のクーラーは壊れたままなのに、全身の汗が一気に引いていく。

「楽しみだねえ!」

なにが、一体どのように楽しみなのか。

どうしてアリィは私なんかと一緒にいたがるのか。

こんなにも素っ気なくふるまっているというのに、なぜ気づいてくれない。

不思議を通りこして不気味だ。

呆然としていると、チャイムが鳴った。

麻生先生は教室へ入ってくるなり、開口一番。

「ごめんね、まだクーラーの修理のめど、立たないの」

胃からすっぱいものがこみあげてくるのを感じた。
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