期待してはいけない
しんどい、しんどい、しんどい。
重たい体を引きずって、やっとこさ教室までたどり着いた瞬間、みごとなタイミングで予鈴が鳴った。
いつもにも増してギリギリの登校だ。
「ゆっぴー、遅いよー!今日は休みなのかと思った!」
椅子の上で駄々をこねるようにぴょこぴょこと体を揺するアリィに、そこはかとない殺意を覚える。
よろよろと席に着けば、不安になって念のためにつけてきた夜用のかさばる綿が不快で、泣きたくなった。
お腹は痛いし、腰は痛いし、たぶん出血は少ないのだろうけれど、いきなりどくどく出てきたらと思うと恐くて仕方ない。
この年だから、きっとこのクラスにいる女子の半分以上はもうすでに初潮を迎えているはずである。
それなのに、今まで特に顔色の悪い者を見かけなかったとはどういうことか。
毎月こんな状態になっているはずなのに、どうしてみんな平気でいられるんだ。
個人差はあると聞くけれど、それにしてもこんなにひどいなんて。
ちょっとブルーだわ、なんて気取りながら憂いの表情を浮かべていられるレベルじゃない。
やるせない。
こんな、どうしようもない怒りやいら立ちが。
「ちょっとお、ゆっぴーってば今日マジ暗いんだけど。
アリィつまんないじゃん、元気出してよ」
空気の読めないこいつに向かうのは必然で。
「ちょっと黙ってくれる」
自分でも驚くほど冷たい声が出て、さすがのアリィもひくっと口角を引きつらせた。
「え、どうしたのゆっぴー。え、チョーこわいんだけど、えっと」
アリィはとてつもない鈍感だが、状況に気づくことができれば小心者だ、というのは先日のカナエ達との一件で判明している。
語尾はみるみるしぼんで、机に突っ伏した私にそれ以上は何も言ってこなかった。
それから授業中もしばしばこちらをうかがっているようだったけれど、休み時間のたびにトイレへ誘ってくることもなくて、ただ私が必要にかられてトイレへ向かえば、その後ろを気色悪いひよこ走りでついて来た。
そして、そこで久しぶりに口を開いた。
「ねえ、ゆっぴー具合悪いの?」
この前カナエたちに向けたのと同じくらいの甘ったれた声。
ご機嫌を取っているのだとすれば逆効果だ、その媚びた視線、腹が立つ。
わずらわしいものを振り払うかのように、私はトイレの個室へと入った。
下着を下ろせば、ああ、血まみれだ。
昨日よりひどい。
三日目がひどいという、どこから仕入れたのか分からない噂は本当だったんだ。
でも慣れるまでは周期が一定せず出血量も不安定らしいし、明日になれば軽くなるという保証はない。
長引いたらどうしよう。
不安、不安、不安だらけで頭を抱えて、ふと外で私が出てくるのを待っているだろう存在を思い出した。
もしかして、アリィも。
アリィのほうが先に始まっていたとしたら、相談してみればいいのでは。
名案だと思った。
が、すぐに却下した。
アリィなんかと、こんなデリケートな話はしたくない。
第一、今までアリィが具合悪そうにしていたことがあったか?
答えは言わずもがな、あいつはいつだって胸やけがするほど無駄に元気だ。
始まっていたのだとしても、私の気持ちなんて分かりはしないだろう。
個室から出て手を洗っていると、アリィがまとわりついてきた。
「ねえ、大丈夫?お腹痛いの?ねえ、ゆっぴー、どこか痛いの?」
私は手をふくと、今日初めてアリィとまともに向き合い、その品のない顔をじとっと見つめた。
「え、何?え?え?」
アリィは喜びとあせりをない交ぜにしたような表情で、両腕を羽根みたいにばたつかせている。
……やっぱりこいつは駄目だ。
大きなため息をひとつついて、私は歩きだした。
「えー、なんなの今の!ゆっぴーってばー!」
なぜかはしゃいでいるキンキンと耳障りな声を意識的にシャットアウトして、私は物思いにふける。
相手さえ間違わなければ、相談する、というのはやはりいいアイデアだ。
ただ、誰に相談するか……。
ぐるぐると思考をめぐらせ、泣きたくなった。
私には、友達がいないのだった。
それからも何かと絡んできたアリィを無言でやり過ごし、ようやく今日の授業が終わった。
部活へ向かったアリィを見送ったら、少し気が楽になったけれど、お腹は相変わらず重いまま。
保健室にでも行ってみようか。
でも保健室へ行くためには、運動場に面した渡り廊下をわたって別棟の校舎へ行かなければならない。
そこにはあと事務室くらいしかなくて、別棟へ向かう人を見たら、たいていは保健室を目的としているに違いない、と、この学校の生徒ならもれなく予測するだろう。
もし、数日前ドラッグストアで会ったサッカー部のクラスメートに、保健室へ向かう姿を見られたとしたら。
考えすぎだと分かってはいても、あのときの被害妄想がよみがえる。
私なんかが生理になって、女ぶって、あげく痛がって助けを求めようとするなんて。
――ブスのくせに、生理痛なんて、おこがましい。
たとえ私が生理であることを知っていたとしても、そんなことを彼がはたして思うだろうか。
彼はお調子者だけれど、人を傷つけるようなことを言っているのは聞いたことがない。
私が、駄目なのだ。
私自身が私を差別している。
自信がない。
人より劣っている。
漠然と、だけど強く強く、そう意識に根づいている。
だから、誰にも、何も言えない。
何も言えないまま、何も理解してくれないだろう父と暮らす家へ、私は帰らなければならない。
鉛のようなため息を吐いて席を立とうとしたとき、ふと気配を感じて振り向けば、そこには四人の女子がいた。
なんとなく私の近くでおしゃべりをしているのではない。
全員が私を見て、私と相対するためにそこにいる。
それは、他でもない私の苗字が彼女たちの口から発せられたことで確実となった。
「後藤さん、ちょっとお話させてもらっていい?」
私に、アリィ以外の誰かが話しかけてきた。
これはとても珍しいことだ。
このとき私の胸にわいてきたのは、間違いなく歓喜だった。
誰もいないわけじゃない。
友達と呼べるような親しい関係でなくても、同じ空間で日々を過ごしているというつながりがあれば、こうやって会話をすることがあっても自然だろう。
実際に、彼女たちは私に何か話したいことがあって、声をかけてくれたのだから。
アリィに囲われているおかげで、こんな当たり前のことすら忘れていた。
私がアリィ以外の子と話してはいけないなど、誰が決めたというのだ。
それに加えて、なんて素敵なタイミング。
このつらい痛みを、彼女たちに打ち明けてみよう。
「いいよ、私もちょっと聞いてほしいことがあるし」
すると、彼女たちの顔色が、さあっと変わった。
明らかに、ぎょっとしている。
彼女たちの話を聞く前に私が自分の話を始めるとでも思ったのだろうか。
そんな礼儀知らずなことするわけないのに。
「あ、私の話はもちろん後回しだから。その、話って何?」
体調が悪いのを隠して、私はできるだけフレンドリーに笑顔でそう促した。
すると彼女たちは、互いの顔を見合って、しばらくもじもじとしていたが、ようやく決心がついたのだろう一人が、こう口火を切った。
「後藤さんってさ、毎朝……遅刻ギリギリだよね」
「え」
そんな話題が来るとは思っていなかった私は、否定も肯定もできずに固まった。
「特に今日はチャイムと同時だったし」
「後藤さん真面目そうなのに、そこだけちょっと、似合わないっていうか……ね」
「家が遠いとか、何か理由があるの?」
彼女たちの口調はあくまでやわらかく、遠慮がちであるというのに、雰囲気は明らかに私を責めている。
何が起きているのかよく理解できない。
「え……どうして、そんなこと?」
質問に答えず質問を返してきた私に、彼女らは眉をひそめた。
しまった、そう自分の失敗に気づきはしたけれど、でもどう対処していいのか分からない。
「どうしてって……」
「それは……」
「あのさ、後藤さんって有田さんと仲いいじゃない?」
みんなが口ごもっている中で、一人が吹っ切れたように、そう言った。
さっきもこの話題を切り出してきた、あの子だ。
彼女だけ、他の子と空気が変わっていた。
「有田さんって、後藤さんのことすごく好きみたいで。
朝、後藤さんがなかなか来ないから、いつもすごく寂しそうにしてるんだよ。
それで、有田さんは後藤さんが来るまでいろんな子に話しかけてるの。
私達は別にいいんだけど、中にはちょっと迷惑だなって思う子もいるみたいなのね。
ほら、朝の時間って大切じゃない?
だから、そういう子の気持ちも分かるんだよね、私達は別にいいんだけど」
口調は優しいまま、でも言葉以上にその瞳が物語っていた。
つまり、こういうことだ。
アリィは今でも、私が学校に来るまで、私と『親友』になる前と同じように、『イケニエごっこ』をしていた。
それが迷惑だから、私に早く学校に来い、と。
そして彼女達の平穏のために、アリィの面倒をずっと見てろ、と。
しかも「私達は別にいいんだけど」という心にもない偽善までまとって。
まるで私がすべて悪いとでもいうように。
彼女達はその私の悪行をそっと優しく忠告してあげたこのクラスの良心であるとでもいうように。
失望した。
彼女達に、ではない。
私は、私自身に失望した。
何を、期待したんだ。
私は所詮、アリィの振りまく不快をせき止める防波堤くらいの価値しかないというのに。
私が胃に穴が開きそうなくらいの我慢をしてアリィの相手をしていることなど、彼女達にはどうでもいいことなのに。
私がどんな思いで予鈴直前の廊下を走っていたかなんて、彼女達の知ったこっちゃないのに。
どうして、何を、期待したんだ。
「ちょっと、言い過ぎ……」
「だって、このくらい言わないと……」
彼女達は丸くなってこそこそと話している。
どうして気をつかう必要がある?
だって、私のことなんて『道具』くらいにしか思ってないんでしょう?
分かっているんだから。
それでも、殺しきれない尊厳が、この顔に強がりの笑顔を貼りつける。
「分かった。明日から早く来るから」
精一杯口角を引っぱって言うと、彼女たちは望みが叶ったというのに、いっそうオロオロして、
「いいの?」
「ほんとにごめんなさい」
と謝りだした。
そこで私は、なんとか冷静に保っていた、こらえていた感情が爆発するのを感じた。
彼女達は私に謝っているんじゃない、自分たちの良心に謝っているのだ。
そのくらいなら、はじめから言わなければよかったのに。
どれだけ自分のことが可愛いんだ。
どれだけ自分ばかりを守りたいんだ。
私がこんな思いをすることは分かっていたはずなのに。
それでも言ったのなら、徹底して平気な顔をしてくれなきゃ、そうじゃなきゃ。……
ばかやろう。
ばかやろう。
「じゃあ、私、帰るから……」
ばかやろう。
ばかやろう。
彼女たちに背を向け、重いカバンを背負った。
ばかやろう。
ばかやろう。
お腹に力を入れたせいで股からどろっとしたものが出てきた感触がした。
ばかやろう。
ばかやろう。
私も話があると言ったのに、彼女達は私を引き止めない。
ばかやろう。
ばかやろう。
眼球が煮えてしまうほど目頭が熱くなる。
ばかやろう。
ばかやろう。
期待した私が一番、ばかやろう。
駆け足で廊下を突っ切っていく。
放課後の喧騒を引き裂くことだけに専念する。
まばたきはしない。
目尻に集まろうとする水分を、私は許さない。
ただでさえ下から赤い水を流しているのだから、これ以上体液の無駄使いはできない。
そんな私をあざ笑うかのように増していく視界のうるおいを殺したくて、階段の踊り場の窓から差しこむ夕陽を直視した。
焼けつくような光を期待したのに、それは淡いみかん色をして世界を優しく照らすばかり。
それどころか、ガラスの向こうの部活にいそしむ生き生きとした生徒達まで見えてしまって、みんなして私の水をこぼそうとせっついてくる。
もういい。
窓の景色を見限って目をふせようとしたら、視界のはしっこに、見覚えのある人影を見つけた。
無駄に髪の毛をなでつける回数が多くて、スポーツ選手にあるまじき非効率的なひよこ走り。
忌々しい、その仕草。
アリィだ。
こんなところからテニスコートが見えるなんて、今まで全然気づかなかった。
二面並ぶコートの中、テニス部の面々に交じって、アリィもラケットを持ち駆けまわっている。
そういえば、アリィが部活をしているところを見るのは、これが初めてだ。
やっぱり、ふにゃふにゃしている。
そこは想像通りだった。
でも、フォームは奇妙だが、それなりにボールを打ち返している。
ひと月前高校生になったばかりの新入部員たちに、なにやら指示を出している。
教室にいるときとは違うアリィが、そこに、いた。
そうか。
そうなんだ。
急に体の芯が冷めていく。
私は、どこにいたってあんなふうにできない。
アリィは、部活ではできている。
他の人達は、どこでだって、うまくできる。
それが全てなのではないだろうか。
できない者は、できそこないと組むしかないのだ。
私は、さっきあの子達から自分の立ち位置を明確にされただけだ。
そうだ。
それだけだ。
きっとこれからも私はアリィにイライラする毎日を送る。
でも、もう今日のように怒ることはしないだろう。
あきらめ。
この言葉が、頭の中心に沈殿していくのを感じた。
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