あの夢
ときどき夢をみる。
死んだ母の夢。
幼い私を抱きしめて、「大好きよ」とほほえむ母の夢。
温もりに包まれる感覚がやけにリアルで、目が覚めると決まって私は涙を流している。
母が死んだのは私が四歳のときだったから、一緒にいた記憶なんてほとんどない。
夢で抱きしめてくれる女性だけが私が覚えている唯一の母で、でもその顔すら曖昧だ。
仏壇に飾ってある遺影を見ても、いまいちピンとこない。
それはニュースから流れてくる有名人の訃報を聞くのと同じような感覚で、「母が死んだ」という事実は私にいくらかの後ろめたさを感じさせはしても、悲しみは感じられない。
知らないのだから、悲しみようがないのだ。
ただ、起き抜けのこの頭は過去へタイムスリップしていて、体に残る生温かさが消えていくのとシンクロして、物心ついたころから今までの十年間に起こった印象深い出来事がダイジェストで、オンボロ映写機でかしゃ、かしゃ、と繰られていくように思い出される。
生まれ持った『卑屈』という性質上、そのすべては苦々しいものばかりで、楽しかった思い出なんてひとつもない。
まだ半生とも呼べないちっぽけな長さの人生であれ、過去の時間をなぞらされることには皮膚を一枚ずつ剥がされていくような痛みが伴い、そんなことを何度も繰り返している虚しさによって、涙は流れるのだと思う。
今朝も、その夢をみた。
上体を起こすと、いつものように涙が頬を伝って毛布にしたたり、いくつかの染みを作っていく。
魂が抜け出してしまいそうな脱力感に襲われて、まばたきをする気にもなれない。
なんなんだ、病気でもないのに布団に埋もれて動けない、外からも内からも働いている、この大きな圧力。
これを憂鬱というのだろうか。
だとしたら憂鬱は正式な病気にしたほうがいい、きっと人を殺せるはずだ。
ああ、それを鬱病というのか。
病院に行ったら私は医師からもれなく鬱病という個性を与えてもらえるだろう。
……なんて、全然嬉しくない。
と、私の思考回路はこんな感じだから、朝から泣くのは致命的だ。
一日の始まりに出鼻をくじかれると、絶対に人よりダメージが大きい。
はたして私は今日をなんなくやり過ごすことができるだろうか。
いや、それ以前にここから動くことはできるのだろうか……。
しばらく呆けていたら、涙の伝った跡が乾いて頬がつっぱってきた。
かゆくて何度もこするけれど、固まってしまった跡はなかなか消えない。
――顔を洗いたい。
私はしかたなく、ベッドから降りた。
子供部屋を出ると右手にダイニングキッチン、左手にリビングがある。
リビングにはいつの季節だってカーペットなど敷かれることはなくフローリングがむき出しのままで、手前に三人掛けのベージュのソファ、真ん中には触ってもいないのに手あかでくもったガラスのテーブル、壁際にはテレビ。
家具といったらそれだけしかないのに雑然として見えるのは、ベランダへ続く窓を隠している古いカーテンのせいだ。
点と線でできたマヌケな小人の顔が無数に散らばっている上、使われている色が多くて混沌としている。
好きではないのだけれど、長年見続けているし、意識しているぶんだけ愛着もあって、
もはや安心感すら抱かせるそれを、買い換えてほしいとは思っていない。
そんなカーテンを景気づけにシャッと音を立てて開け、両端にまとめる。
まだ明るくなりきれない光がなだれてきて、よけいに体がだるくなった。
振り返ると、二人暮しをするには大きすぎる空間が広がっている。
覚えていないくせに、母がいたころはもう少し華やかだったような気がする。
壁にかかった振り子時計は、もうすぐ七時になろうとしているところ。
朝食を作るのは私の役目だ。
洗面所へ向かうあいだに、何を作ろうか考える。
トーストにスクランブルエッグ、コーヒーは父が勝手に入れるだろう。
適当でいい。
毎日毎日人間は性懲りもなく腹を減らすけれど、私の頭の中の献立はもう随分前からネタ切れだ。
洗面所へ着いた。
が、ヘアバンドが見当たらない。
どこへ行ったのか。
起ききらない体は重くて、すべての動作が緩慢になる。
カタツムリにも負けないのろさでしゃがみこむと、洗面台の下に落ちている歯ブラシを見つけた。
ホコリの海に飲みこまれておぼれている。
なぜ、いつ、こんなところにこんなものが落ちてしまったのだろう……見ていたらますます憂鬱になって、ヘアバンドを探すのは諦めた。
私は鎖骨が隠れるくらいの長さの髪をそのままにして顔を洗い始める。
うつむいて顔に水をひっかけると、やはり髪がしだれてきて邪魔だ。
わずらわしくて薄く目を開けると、水と一緒に髪の毛が海藻のように揺らめきながら排水溝に吸いこまれようとしているのを見た。
薄暗い照明の中にぽかりと浮かんでいるその穴は、私を飲みこもうと待ち構えている暗闇の口のようで、恐ろしくなって反射的に身を引いた。
髪の毛に含まれた水がパジャマを濡らし、その冷たい感覚で我に返る。
くだらない。
洗面台の横にかかっているタオルに顔を思いっきりこすりつけた。
湿った生臭さが鼻の奥を通り過ぎて、ふと鏡の中の自分を見れば、眉間に大きなニキビができているのに気づく。
憂鬱を超えて、鬱々だ。
父が起きてきたのは、私が朝食を作り終えてすぐだった。
テーブルに並ぶのは、トーストにスクランブルエッグ、しかしそれだけではあんまりだと思って作ったサラダ。
「なんだ、またパンに卵か」
父は、それを見るなり「おはよう」も言わずに不満をもらした。
惰性に打ち勝ってサラダを作った、その労力に感謝のひとつもできないのか。
嫌なら食べなければいいんだ。
私はふて腐れ、何も言わずにコーンスープの素が入ったマグカップにお湯を注ぐ。
「父さんは、朝は味噌汁がいいんだよなあ」
よれよれのスウェットをだぶつかせて脇腹をかきながら、父が勢いよくテーブルにつく。
その拍子に生まれた空気の流れに乗り、中年男性特有の体臭が迫ってきそうで私は息を止めた。
あれは我慢ならない。
思い出すだけで吐き気がしてきて、ただでさえない食欲がいっそう萎える。
いつからだろう、父が、なぜだかわずらわしい。
父がそこにいるだけで気分が悪いし、ただの何気ない言葉にすらいちいち腹が立つ。
私は今、『反抗期』というやつなのだろう。
大人になりつつあるのだ。
そういう『成長』というものが、非常に恥ずかしい。
そうやって恥ずかしがるのも『思春期』というものに足を踏み入れだしたせいだと思うと、もっと恥ずかしい。
そして、なんとか恥ずかしさを隠そうとすると、無意味にとがってしまって引くに引けなくなり、またどんどんとがっていく。
二人きりの家族だし、養ってもらっている感謝もある。
本当はうまくやりたいのだけれど、できない。
原因は分かっていても、相手が生理現象では勝ち目がない。
スープを口に含むが、喉を通らない。
スクランブルエッグを箸でつついても物悲しい。
父がパンを噛んでくちゃくちゃと湿った音を出している。
鼻の下を伸ばしながら縦に四つ折りにした新聞を読みふけり、ときおり伸びかけたあごのヒゲをなでてジョリジョリ鳴らす。
耐えられなくて、私は席を立った。
「もう食べないのか?」
また返事はしなかった。
手をつけていない皿をキッチンへ持っていき、ひっくり返す。
パンが、卵が、野菜が、ゴミ箱に飲みこまれていく。
自らの手で料理にした食物を、私はまた自らの手でゴミに変えた。
もったいないことをすれば気が晴れると思ったのだ。
しかし、その光景はただ痛々しく胸がえぐられるだけだった。
やりきれない思いをぶっ飛ばしたくて、冷蔵庫を開けて1.5リットルボトルのコーラをラッパ飲みした。
炭酸に喉を焼かれて眼球がこぼれそうになる。
「おい、なにしてるんだ?」
冷蔵庫の裏から父の声がした。
「……なんでもない」
少しむせたあと、私は冷蔵庫の中に返事をした。
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