東海道五十三次”池鯉鮒”歌川広重画
池鯉鮒(現知立)が東海道の宿駅として発足したのは、関ヶ原合戦の翌、慶長6年(1601)のことです。古代から知立神社を氏神として城砦を構え、馬市場の開かれる農村だった池鯉鮒は、この時を転機として、東海道交通の要務をになう宿場町の活動を開始することとなりました。
東海道五十三次が完成したのは、寛永10年(1633)になってからである。この間の30余年間は宿駅制度の改訂が度々行なわれています。
池鯉鮒が宿駅の選定を受けるについては、関ヶ原合戦後、家康の命によって東海道を巡視した彦坂小刑部・大久保十兵衛等が、次にのべるような事情を考慮したのではないかと思われます。
以上のことなどにより、東海道五十三次の江戸から39番目の宿駅として「池鯉鮒宿」が発足しました。
慶長9年(1604)、幕府の命により道路が改修され松並木が整備されました。並木は夏は木陰を作り、冬は風雪を防ぐのに役立ち、その緑と枝ぶりは旅人を楽しませました。
その後、宝暦年間(1751)並木の手入れ、小堤を築造し、田畑との境杭を打たせました。安永年間(1772)再び並木の手入れをし、敷地を9尺以上としました。
現在も約500mに渡って170本の松が残り、往時の東海道の姿をとどめています。