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R18Limitedカノジョ――制限時間1200 作者:

十七話:Elemental particle―あるいは花火のごとく(下)



 Limit18:796―791


 真島笑美との出逢いはいつだって偶然であった。
 だとしても、今夜の場合はあまりにもおかしい。偶然として片付けるのも――あるいは逆に、運命として片付けるのも難しい。そんな邂逅である。


「……何できみがここに?」
「いては悪いですか?」
 彼女は少々不機嫌だった。トレードマークの「笑み」は今はどこにも無い。青い花模様をあしらった浴衣姿はとても魅力的だったが、むっつりとした表情がそれを相殺している。
「いや、悪いとは言わんけどさ。奇遇過ぎだろ。何であいつが消えた途端に……」
「橘さんは一緒ではなかったのですか?」
「だから……はぐれちゃったんだよ、あいつと」
 真島さんと会話を続けている内に、俺は少しずつ落ち着いていった。走り回るよりも人を探す手段はある。という訳で俺はスマホを取り出し、電話を掛けるのだが……
『――お客様のお掛けになった電話番号は、電波の届かない場所にあるか、電源が入っておらず、掛かりません。お客様の――』
「……何でだよ」
 メールや他のSNSアプリでも連絡を試みたが、何一つ反応が無い。その間にも海辺からはどんどん、どどん、と花火が打ち上がるのだが、このままでは無駄打ちだろうが、止めれ、などとエゴに満ちた思いが加速する。
「またですか。失踪癖でもあるんですかねえ、あの人。そう言えばあの日、結局どうなったんですか?」
「……黙秘する」
 真島さんの表情はすこし和らいでいた。その裏で「おおッ!」という歓声が湧く。この日最大級の花火玉が、遥か上空で炸裂していた。
「まあ、そんな訳なんで俺は奴を探しに行く。名残惜しいが、さらば――」
 と、再び駆け出そうとする……その俺の手を、彼女は強引につかんだ。小さい手とは裏腹の強い握力で俺を放さない。
「ど、どうしたんだ」
 さすがに動揺して、俺は真島さんの瞳に向き合った。
「それは悪手です。当てがあるならともかく、無闇に動き回っても事態は悪くなるだけです。この前も本当はそう言いたかったんですけど……言葉足らずでした」
 彼女は諭すように続けた。
「待っていたら良いのです。橘さんにどういう意図があるのかは分かりませんが……我慢比べですよ。こんなのは。下手に動いたら話が余計にこじれるだけですって。ここは家康作戦で行きましょう」
「鳴くまで待とう、って?」
 ここで、彼女はくすりと……いつものように、くすりと笑った。
「はい。それに……この花火の時間をそんな事で潰すのは……勿体無いと思いませんか?」
「そうかも、しれんけど……」
 俺はぼんやりと呟く。
「それでも、心配になる。橘はヘンコだが、頭も良い。けど、一人の女性に過ぎないだろ。こんな所ではぐれてしまったら」
「優しいんですね、有馬さん」
「優しくなんか無い。俺がカノジョを欲しているだけだ。エゴなんだよ。俺のエゴだ。それだけだ。あいつが、いなくなったら……」
「なったら?」
「俺はただの屑野郎だ」
 俺はそう言った。
 言ってから、後悔する。後から悔やむから後悔、なのだから当たり前だ。しかし。こんな事を真島さんに言う必要なんか無い。まして、こんなイベントの日に。
 橘。何故きみはここで消える? 本当に居て欲しい時に、何故いない……
「本当の屑は、誰がそばにいたって、屑ですよ」
 真島さんは言う。声は柔らかいが、その言葉と視線はいたって鋭い。
「屑野郎。本当に、自分をそう思っているのですか? だとしたら、私は残念です。有馬さん……私は貴方をたいへんにオモシロイ人だなあ、と思ってます。英語講義の時も、お引越しの時も。男の方とタメ口で話せない私に講義をしてくれる時も。そんな人が……屑野郎だなんて。そんなことは無いはず。私は、そう思います」
「それはきみの見方に過ぎない」
「その通りです。だから、私は……勇気を振り絞って、言いました」
 真島さんの言葉に……俺の体が、肌が、神経が、血が、肉が、脳が、頭が、骨が、液体が、頭が、目が、手が、足が、胸が、肺が、腰が、背中が……躍動した。
 けれども、心は逆に安寧とした。
「ともかく花火です。楽しみましょうよ。プログラムももう後半ですし……人探しで時間を潰すのは勿体無いと私は思うのです。橘さんを探すのはその後でも良いのでは?」
「しかしなあ」
「ホントにまずい状況なら、あの人から連絡が来るでしょう。『便りが無いのが良い便り』、とも言います」
「……言って良いか」
「はい」
「きみも大概にヘンコだな」
「……良く、言われます。けれども、有馬さんにだけは言われたくなかったですね」
 彼女は照れ臭そうだった。俺は自然と頬が緩んでいた。
 ……自然、と。


 花火の規模が段々と大きくなっていた。打ち上げる速度も上がる。その度に周りから歓声やら拍手やらが巻き起こっていた。
 しかし、それにしても今日は蒸し暑い。俺は喉がからからになっていたので、一旦自販機でサイダーと、ついでに真島さん用に紅茶を買った。
 彼女は先ほどまで俺が座っていた階段にちょこんとしている。缶を渡そうとすると、慌てたように鞄から財布を取り出そうとするのだが、俺はそれを手で制した。
「いいからいいから。ここは俺のオゴリって事で」
「それは申し訳ないです」
「いいから」
 無理矢理手を抑え、真島さんの横に俺も座る。
 花火。こんな間近で見物するのはいつ以来だろう。こちらに引っ越して来てからはいつも遠くから眺めているだけの大会だった。大阪にいた時もあまり経験は無い。花火は遠くから見やるもの、だと思っていた……よくよく考えればこれが初めてだ。
 真島さんは両手で缶を持ちながら、話を始めた。
「つい最近からなんですけど、スーパーでレジ打ちのアルバイトを始めたんです」
「へえ」
 そう言えば、引越しの時に宣言していた。「仕送りは最低限で、後は自分で稼ぎます」と。それを実際に行っているのだ。偉いものだ。
「それは良いんですけどね……聞いて下さいます? ただの愚痴なんですけど」
「いいよ。是非聞かせて貰おうじゃないか」
「昨日の話です。私は普通に仕事して……まだちょっと慣れてませんけど、まあ仕事を
していたんです。が」
「ほう」
「ある一人のおじさんが私に対してこう言ったのです。『トライやるウィークかい? エラいねえ』……と」
 彼女の言葉に、俺は膝を打って爆笑した。
「そりゃ傑作だ」
『トライやるウィーク』とは、兵庫県が実施している中学生対象の職場体験学習である。実際のトライやるウィークは秋に行われるのが通例で、夏休み中に実施されることは無い。そのおっさんが本当に勘違いをしていたのか、それとも冗談で言ったのかは分からないが……つまりは、まあ、そういう事だ。
「笑わないで下さいッ!」
 真島さんはぷうと頬を膨らませる。
「私はこれでも自分の容姿にコンプレックスを持っているんです。どんな時でもコドモ扱いされて」
「そうか、それは悪かった。けど、きみがそう思ってるんなら、一つ忠告しておこうか」
 海辺でぱぱぱぱぱ、と小さい緑の花火が速射砲のように連発していた。同時に、上空で大玉が更に打ち上げられ続けている。真島さんのふっくらとした頬が、仄かに染まった頬が、俺の目の前で照らされていた。
「きみがコドモ扱いされるのはな、容姿だけが理由じゃない。『人は見た目が九割』とか言うけど、それは持って生まれた姿の話だけじゃあないんだよ。何気ない仕草とか、立ち振る舞い。それが、きみの場合はとてもコドモっぽいんだ。今も。そうやってフグみたいにほっぺたをぱんぱんにしてさ」
「むう……」と、しかめっ面で、彼女は俺を見やる。
「まあ……俺も人の事は言えた立場じゃないけどね。最近、どいつもこいつも俺の事を『もっさり男』とか言ってくるし。あげくの果てには『もっさり魂』とか来たもんだ。何なんだよもっさりって。もっとこう、具体的な表現は無いのかと」
 いつの間にやら俺の方が愚痴っている有様である。真島さんはまたくすくすと笑っている。
「ま、まあ俺の事はどうでも良い。後は、言葉遣いとかもだな。タメ語講座三回目、やってみる?」
「はい。今日はどんな役割(ロール)で?」
「今回は無し、だ。真島さん自身が、俺に喋る。俺も、俺のままだ。やれるか?」
「……頑張ります」
 何だか悲壮な顔をして真島さんは告げた。そこまで深刻に考えることのない話だとも思うのだが……彼女は彼女で必死なのだろう。
 それでは開始……なのだが、この場合はどういう話を振れば良いのだろう、と俺の方が悩んでしまう。彼女との共通出来そうな話題は、と頭を捻りつつ、ある一つのことを思い出した。
「そういや、前に図書館で『新ナポレオン奇譚』読んでたけど……どうだった?」
「え、え、え、えっとぉ――面白かったーッ!」
「いや、そんな叫ばんでも……例えば、どんな所が?」
「アダム・ウェインがクソ真面目にアホな所ッ! 私も私の戦争がしたくなったねッ!」
「な、何だそりゃ……」
 妙に肩に力の入った真島さんに、俺は圧倒されていた。沖合いのポートタワーに旗を立てんとするような勢いで彼女が握り拳を作りながら目をぎらぎらさせている。
「ま、まあ落ち着け。真島さんも本は読むほう?」
「全然読まねえぜッ! あん時は何となくだッ!」
「……えっと」
 俺は深呼吸し、少し心を落ち着かせて彼女の頭を軽くはたいた。
「勢いで誤魔化そうとしてもダメ」
「……ですよね」
 彼女もすぐに冷静になって返した。俺は腕を組む。読書感想、というのはあまり良い手ではなかったようである。
 俺が次はどうすべきかと思案していると、意外な事に今度は彼女の方から声を掛けてきた。
「真島さん『も』っておっしゃ……言ってま、言ってた、けど……」
「うん」
「有馬さんは読書が好きなん、の?」
 ぎこちなくはあるが、少しずつ自然に近付いている。この人は努力家なのだろう。
「まあ……昔はね。貪るほど読んだ。でも、最近はさっぱりだな」
「そう……なんだ。私は漫画くらいしか読まないで……かな」
「まあ、俺も漫画だって読むけどね」
 ここで俺は、ん? と違和感を覚える。こんな会話を過去にもしたような……
 いや、とぼけるな、俺。これは……高橋と最初に交わした会話と同じだ。立場は逆だが。
 俺は頭を振った。
「まあ、今日はこの位で。段々良い感じになってると思うよ」
「はい、ありがとうございました」と、真島さんは座ったままで頭を下げた。
「花火、見よう」
「そうですね……本当、綺麗です」
 光の舞う夜空を見上げる彼女を横顔を眺めなら、俺の手は自然の彼女の肩に……
 駄目だ。ここまで、だ。ここが限界。それ以上は俺には許されない。
 橘の事は関係無い。彼女は手の届かない存在――そうでなければ、ならないのだ。
 ……なのに。
「有馬さんには本の読み方も是非教えて欲しいですね。興味が無い訳でもないですし」
「教えるようなものでもないけどね。まずは自分が面白い! と思える本に出逢う事、かな。そこから始まるんだ」
 俺はもう一つの違和感を覚えていた。何故俺は……彼女とこうも自然に喋っているのだ? そんな事は、今までは出来なかったはずだ。
 神戸湾の上に、最後のスターマインが炸裂していた。


 全てのプログラムも終了し、群衆も各々の帰り道へと散り散りとなっていく中、俺と真島さんはまだ階段に座ったままである。
 少し、冷たい風が吹き抜けた。
「しかし……いつまで経ってもホトトギスが鳴かないんだが。どうしよう」
「そうですね。本当に、どうしたんでしょう」
 橘は一向に戻ってくる気配は無い。流石に真剣に心配になって来て、俺は立ち上がった。
電話での連絡は付かないままである。
「やっぱり、探さないと……」
「……すみません」
 俺の後ろで、座ったままの真島さんが呟く。
「さっきはあんな事言いましたけど、本当は私が寂しかったんです。独りぼっちで。約束もすっぽかされて。そこで偶然貴方に会った。せめて、有馬さんにはそばにいて欲しかったから……それが本音なんですよ。有馬さんにも橘さんにもご迷惑をお掛けしてしまいました。申し訳ありません」
 彼女も立ち上がって頭を下げる。その目には少し涙が滲んでいたようにも見えた。俺は慌てて否定する。どきどきする心も一緒に。
「俺は別に迷惑だなんて思ってないから。あのアホが勝手に失踪したのが悪い。あとヒサジの野郎もだ。あいつもあいつでどこ行ったんだか」
 半ば呆れ声で俺はぼやいていたのだが……そこで真島さんは突然きょとんとした目を見せる。
「……え?」
「ん? 何かおかしい事言ったか?」
「いえ、あの……本当は今日も久慈さんにお誘いを頂いてここに来たのです。ゼミ仲間で花火見ようって。なのに集合場所に着いても誰も来なかったんです。それでこんな事に」
 彼女は更に憤った顔になって「滅殺確定です、あの人」などと恐ろしい事も口にしていたのだが……
 何だと?
「そりゃホントにおかしいぞ。だってあいつ、三宮駅では『カノジョにフられてうらぶれてぶらぶらです』だとかでぼっちだったから、俺はあいつも仲間に入れたやったんだ。なのに訳分からん事を口走りながら消えやがったんだよ」
「浮気者なんですかね? だとしたら滅殺どころじゃありません。煉獄送りです」
「……いや、それは無いな。きみと二股掛けるつもりだったんなら、そもそも俺たちに着いて来る必要なんかないだろ。ということは、あいつは二重に嘘を吐いているんだ」
 その真意は、どこにある?
「どういう……事だ?」
「どういう……事でしょう?」
 俺と真島さんは顔を合わせて同じ言葉を発していた。


「何やら陰謀の香りがしますね、これ」
 何故か妙に楽しそうに真島さんは言う。
「確かにそうだけど……何でそんなうきうきしてるんだ」
「謎解きですよ、謎解き。楽しいじゃないですか」
 俺は全くそんな気分になれない。全く意味が分からない。
 既に公園の中は閑散としている。無節操な観客が残したゴミやらがごろごろ転がっていた。俺は苛立ちをぶつけるように空き缶を蹴り上げながら、ヒサジに電話を掛けた。
『よう。俺だ。花火、楽しんだか?』
 あっけらかんとした声がスマホの向こうから響いた。
「よう、じゃねえ。何考えてんだお前」
『分からないか?』
「分からん。だから今連絡してる。どういう事なんだ。何で真島さんを……」
『……ホントに分かってないみたいだな。じゃあ、こっちに来いよ。説明してやる。俺は今、北公園だ。なお、隣には俺のカノジョもいる……この意味が、分かるか?』
 奴の一転して不敵な声色に、俺の神経はぴりぴりとし始めていた。
「分かるのは、お前が嘘を吐いているって事だけだ。それも全方向にだ。まあ良い。今すぐそっちに行く」
『……待ってるぜ』
 ヒサジのにやりとした顔が浮かぶようだった。電話は奴の方が切った。
 息を吸う。サイダーの残りを飲み干す。そして、真島さんに向き合う。
「……って訳だ。俺はヒサジに会って来る。悪いけど、真島さんは残っててくれないか」
「何でですか」彼女はまたもぷうとする。「私も、行きますよ」
「その気持ちは理解出来るよ。けど、多分」
「?」
「本当の黒幕は恐らく橘だ。カンだけどな。ここは俺一人で行く。これは俺のワガママだ。だから、悪いけど……待ってて欲しい。帰りは送るから」
 真島さんはしばらく釈然としないようにむっつりしていたが、やがて、折れた。
「お気を付けて」
「ありがとう」
 俺は背越しに手を振りながら、北方面へと足を進み始めた。


 独りで歩いていると嫌な想像が浮かぶ。この先に……肩を組んでいるヒサジと橘。この時、俺が脳裏に描いていたのはそんな光景だった。まだ人の波は収まってはいない。その間隙を拭いながら足を進め……やはり俺はカノジョの事を考えていたのだ。


 北公園にはもう二人しかいなかった。ヒサジはカノジョと肩を組んでいる。但し、その相手は橘ではない。
「ども、っす」
 ヒサジの傍らにいる女性が挨拶する。これはかなり予想外だった。ばきばきのギャルメイクに、髪は下半分はブリーチした金髪、その先は黒髪。視線はやたらと鋭い。俺の怪獣アナライザーは「カテゴリー・C」と観測した。背丈は俺と同じほど。まあ、見た目はロリではない。俺は謎の落胆を覚えた。ヤンキー、もしくは元ヤン、という感じである。
 ヒサジよ、お前のタイプはこんなのだったのか?
「有馬さん、っすよね?」
「間違いなく有馬です。ですが、今日は貴方に用は有りません。用事があるのはこいつに、なのです。カレシさん、貸して頂けませんか?」
 俺はわざとらしくカノジョに言った。ヒサジの言葉を信じれば……この人は「ユキ」、という名前を持つ人だ。
 俺の物言いに、彼女……「ユキ」さんはぷくくっ、と笑う。
「センセの言った通りの人ですね」
「ヒサジセンセは何と言ったのだ」
 と、問うのだが、「ユキ」さんは笑いを上げるだけで何も答えない。
 俺はヒサジの耳に囁く。
「お前は俺をどう彼女に吹き込んだんだ」
「吹き込むも何も、事実だけだが? 俺が知ってる限りでだが」
「てめえ」
藤堂有紀(とうどうゆき)です。自己紹介が遅れてすみません」
 取っ組み合いをしつつあった俺たちの間に、彼女……藤堂さんは口を挟んだ。
「何の因果か、久慈さんのカノジョしてます。以後お見知りおきを」
「はい、始めましてですね。こちらも以後お見知りおきを。けど今はきみには全く興味を持たない! 俺はこのぼけに用事があるのだ! よって回れ右!」
「……あの」藤堂さんはおずおずと口を開く。
「ひょっとして、あの、とても言いにくいんっすけど……あんたら、アホですか?」
「いや決してそんなことは無い。アホなのはこいつだけだ」
 取り繕うようなことを言い出すヒサジの頭を、俺は小突いた。グーで。
「とにかくだ、俺はヒサジとサシで話がしたい。いいかな? 藤堂さん」
「ご遠慮なく」


 神戸大橋の真下、海沿いの手摺りにもたれながら俺とヒサジは向かい合っていた。まず俺は一服する。手持ちが少なかったのでいつものマルメラではなく、『エコー』を吸っていた。向かいの彼はいたって真面目に表情で俺を見ていた。
 思えば、こいつにちゃんと向き合うのも久し振りである。大体は能天気な奴だが、締める所はわきまえている……言い換えれば誠実な男なのだ。それは既に知っている。
 俺と違って。
 だからこそ、嘘を撒きながら動いている今日の彼が理解出来ない。
 ヒサジは俺の言葉を待っているようだった。その目は鋭い。俺は頭の中で曖昧な疑問を必死に整理する。迂闊な事は言えない。恐らく、彼は俺よりも地頭は良い。普段はそれを隠してはいるが。そういう評価も、俺はヒサジに対して下していた。
「……疑問は三つある。いや、こう言えば良いのかな……お前は三つ嘘を吐いている」
 吸殻を海に投げ捨てながら、俺は口を開いた。酷いマナー違反だが、その時はそんな事までは気に回らなかった。
「まずは一つ目、だ。三宮では何であんな事を言ってた?」
「そりゃお前、簡単な事だよ。橘先輩にカノジョを連れた場面を見られたら、どんだけイジられるか分からんだろ。それはお前も理解出来るんじゃないか?」
 まあ、それはその通りだ。だが。
「それが矛盾してるんだよ。疑問の二つ目だ。だったら、そもそも俺たちのことなんかシカトすれば良かっただろうに。でも、声を掛けてきたのはお前からだった。何でだ?」
「もっとはっきり言えよ」
 ヒサジは余裕ぶった顔を崩さない。つまり、こいつは分かっているのだ。俺がここで質問している本当の相手は彼自身ではなく……橘である、という事に。
「お前と橘が裏で共謀している。この前もそうだな? それはカノジョ自身が認めたよ」
「その通り。正解だ。お前は予想外の事態が起こるとすぐに余裕を無くすからな。騙すのは簡単だよ。メンターと組めば鬼に金棒だ」
「俺をおちょくるのがそんなに楽しいか?」
 俺は少しイラついた演技をしながら返す。ヒサジは少しだけ言い澱むように首を下げたが、やがて口を開く。
「あまり楽しくはないな」
「じゃあ、何で」
「俺はあの人には頭が上がらないんだよ。個人的な事情で……まあ、色々と。嘘を吐いたのは謝るよ。けど」
 ヒサジはその後も何か続けたそうだったが、俺は遮るように言葉を挟んだ。
「そこなんだよ。首謀者はカノジョ……橘だろ? お前はただの共犯者だ。そこは間違い無いな?」
「ああ」
「だから、最後の疑問が意味不明になる」
 手が震えていた。
 これは、この質問はパンドラの箱を開ける行為になるのではないか? 箱の底に残るのは絶望か、希望か。それともがらんどうになった箱だけか。
 ……違う。最後に残る物は何でも良いのだ。「開ける事」。それこそに意味がある。パンドラの寓話は、それを伝えているのだ。俺が産まれる二〇〇〇年以上前から。
「何でここで詰まるんだよ。悪い癖だな。お前のそういう所は嫌いじゃないけどな」
 そう言って、久慈はからりと笑った。少し、心が楽になった。
「じゃあ、聞くぞ」
「おう」
 言葉を発する前に、心臓が飛び跳ねた。
「……何でお前は同時に真島さんを誘った?」
「メンターの意向でだ」
「何故?」
「あの人の思いは本当に分からん。だから俺はこれ以上は言えない。ここから先はあの人に尋ねてくれ。だが」
「だが?」
「お前の思いも、俺には分からないんだよ。俺はもっと簡単な話になると思っていたんだけどな。ホント何なんだお前ら。訳分からん。付き合わされてる俺の身にもなってくれよ」
 知るかボケ……と言おうとする寸前、別の疑問が湧いた。それを聞く。
「俺と橘の関係……お前はどこまで知ってるんだ?」
「さあ。別の男女関係にまで深入りする気はないね。そうじゃないか? なあ。『Limitedカレシ』さんよ」
「そこまで知ってりゃ充分だ」
 俺は吐き捨てるように言った。
「いや、大したもんだと思うぜ? あの人と対等に渡り合える男なんざそうそういないと思うからな。いやホントスゲエよお前」
「スゲエアホ、ってか?」
「そうとも言うな」
 神戸の海峡に、下品な二人のげらげら声が響いた。
 が、その時にはカノジョ……ヒサジの藤堂さんが後ろに立っていた。
「いい加減返してくれませんか」
 俺は言われる通りにした。何か誤魔化されているような気もしたが。


 しおさい公園の方に帰ると、奇妙な光景があった。すでにうつらうつらとしていた真島さんを、橘が介抱するように抱きしめていた。
 この人は何をしたいのか。何を企んでいるのか。それとも、何も考えていないのか。
 俺はカノジョの後ろへと忍び足でじりじり近寄っていった。
「エッちゃん、眠いのー?」
「はい、眠いです……お布団どこですかぁ?」
「お布団はおうちにあるよー」
「おうちはどこですか……私のおうちは」
「俺のうちの近くだ。実家が恋しくなったか?」
 真島さんを、橘と挟むようにして俺は階段に座った。
「恋しいです。けど……私は。もっと先に……」
 その言葉を最後に、彼女は完全にぐにゃりとして眠ってしまった。
 俺は少し時間を置いた。真島さんを抱き締める橘の瞳をずっと見すえる。カノジョも無言のまま見すえる。
「お帰りんさい」
 橘は言う。
「ただいま」
 様々なものを我慢して、俺は返す。視線はそのまま。睨み合いのまま。数分間はそのままだった。真島さんのすうすうとした寝息だけが合間に挟まる。
 ぴりぴりした空気だと、俺は感じていた。けれど……カノジョ、橘は真島さんを抱き枕のように抱えながら、いきなり爆笑した。
 痙攣する笑いの中でも、彼女は言葉を紡ぐ。
「そ、そう来るか……きみはやっぱり面白いなあ」
「何が面白いんだよ」
「きみが」一瞬だけ真顔に戻って彼女は言う。それは一瞬の事だけで、また笑い始める。
「いやはやいや有馬くんいやはやはやうふふあはは」
「……ヤバイクスリとかやってないだろうな」
 俺は努めて冷静に返しているのだが、カノジョの笑いは止まらない。
「やってるかもねーかもねー。秘薬『有馬くん』」
「俺がヤバイと言うかッ!」
「うん。いやあ、きみは実に楽しい。正解だったね……きみを選んで」
 いつもの掛け合い。
 けれど、その合間に真島さん。彼女は熟睡モードだったが。
 頭がもやもやする。俺はカノジョに聞くべき事があったのに……結局はカノジョのペースに乗せられている。
 ヒサジよ。お前は勘違いしている。俺はカノジョと対等には付き合えていないよ。


 帰りの阪急列車内のことである。むにゃむにゃの真島さんは橘に寄りかかり、その橘もそろそろ虚ろ気とし始めていて、がたん、ごとん、という音とともに、俺の意識もふらふらとしていた。
「橘さん」
「なあに」
「あんたは何がしたいんだ?」
「分からない」
 がたん、ごとん。
「有馬くん」
「何だ」
「きみは、何がしたいの?」
「分からん」
 端っこにいる真島さんが呟き続ける。「アホが一匹、アホが二匹、アホが三匹……」
 その呪文に誘われるように、橘もうとうととし、俺に寄りかかる。
 花火の粒子を脳裏に再生しながら、カノジョの体温を感じながら、俺は考える。
 橘佳奈。
 真島笑美。
 ……好きだ。だが、まずい事に……俺は、どっちも、好きだ。
 どうすれば良い?
 答えが出ないまま、俺もまた睡魔の誘惑に囚われ始めた。
 俺の明日はどこにあるのか?
 いや、そもそも明日なんてあるのか?
 そんな益体も無い思惟を抱えながら、俺もまた、うとうととする……


 なお、三人揃って眠ってしまった為、岡本駅を通り過ごしてしまい、気付いた時には尼崎駅であった。引き返す便はまだ残っていたが、終電特有の混雑に巻き込まれる有様である。にも関わらず、真島さんは椅子を確保していた。俺と橘は立ったまま、一つだけ残っていた吊り革を共有した。
「何だこれは」
 俺はぼやいたが、カノジョはぷんと顔を逸らして何も言わない。
 これが、この日の顛末である。




 ……こんな明日なんて、真っ平御免だ!


  (続)
+注意+
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