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<R18> 18歳未満の方は移動してください。 この作品には 〔ガールズラブ要素〕〔残酷描写〕 が含まれています。

ちしゃ

作者:紺野理々
一般公募落選作品。あらすじを読んで苦手な要素がある方は気をつけてください。
 男を必要としない関係のはずなのに、どうしてこんなものを使うのだろう、アリナは。膣の奥から腸壁へ向けて、突き破るような衝撃に何度も見舞われ、ぬるい汗を床に滴らせながら、千紗はぼうっと考えていた。
 俗にペニスバンドなどと呼ばれている性の玩具で貫かれるのは、あまり好きではない。特に、こんなふうに、這うような姿勢で背後から、というのは。
「うっ、く……」
 ひくっと肩をはねさせて、絶頂に近い場所まで昇り詰めた千紗を見下ろし、アリナはぴしゃんと冷たい手を振り下ろす。千紗の杏仁豆腐のような臀部が、汗の雫を散らして震えた。
「前を見てごらん、千紗」 
 拡声器を手にして、恍惚とした声で命じるアリナ。
「ゲバルトも美しいって、認めざるをえないだろう」
 シリコンか何かでできている、安い作り物の男性器で不覚にも達してしまった千紗は、余韻に喘ぐばかりで返す言葉もない。
 ゲバルトというのは確か、「暴力」という意味の言葉だっただろうか。曖昧だが、一度教えられたことをまた訊くと背中を踏みつけられるので、尋ねたりはしない。
 汗と涙に濡れて霞む眼を正面に向ければ、白黒のがさついた映像が脳の裏に届く。角材やら鉄の棒やらを手にし、赤いヘルメットをかぶった青年たちが、機動隊らしき制服姿の男たちと、激しい攻防を繰り広げていた。
 テレビの後ろの細長い鏡には、アリナと間接的につながっている自分の姿も映っている。
 城木千紗は、肩に触れるか触れないかの微妙な長さの黒髪ストレートを乱れさせて、首を彩る金のチェーンネックレス以外身につけない姿で四つん這いになっていた。膣に突き刺さったままのスケルトンのペニスが、アリナの興奮に合わせて浅く抜き差しされるために、赤い口唇からは時折、何とも分類しがたい声が漏れる。
 鏡に映る自分と対峙して、千紗は、
(性欲処理の人形みたいだな、あたし)
 と、月並みなことを思った。ダッチワイフの実物なんて見たことないが、きっと今の自分のような間抜け面をしているのだろう。
 アリナにいいように弄ばれるのは、これでもう百二十七回目……いや、それ以上だ。
 おそらく、交わった回数に思いを馳せたことなどないに違いない抜目アリナは、自分が触れている女ではなく、テレビ画面の中で演説をぶっている男に気を取られている。白黒の世界では、球児のような灰色の坊主頭に鉢巻きを締めた、イモくさい顔の青年が、拡声器片手に拳を突き上げていた。
 根元までしっかりと染め上げた黄金色の髪を誇らしげに胸まで垂らした抜目アリナの頭にも、白い鉢巻きが結ばれている。ちょうど額のところに、真っ黒な糸で「戦」と刺繍されていた。他にも「志」とか「進」とか、何種類かあるのを千紗は知っている。
 アリナは、どこかのコスプレ衣装店で購入したらしいブルーグレーの軍服に身を包み、野蛮なセックスの最中も、上着すら脱がない。ぴっちりと余裕のないズボンの上からペニスバンドをつけて、学生運動やデモ、暴動関係のビデオを見ながら、千紗を一方的に攻めるのだ。
 テレビの中でヘリコプターの飛翔音のような激しい拍手喝采が湧き起こったとき、疑似ペニスが膣から引き抜かれた。今日はこれで終わり、ということなのだろう。
 疲れきっていた千紗は、がくりと床に崩れた。その剥き出しの白い腹を、アリナが靴の先端で蹴る。彼女は家の中でも、黒いブーツを履きっぱなしだ。
「姉上に見つかるとまずいから。服を着たら、今夜は帰れよ」
 拡声器を通して聞こえるアリナの声に、千紗は目を閉じたままうなずいた。彼女に逆らったことは一度もない。これからもおそらく、ないだろうと思っている。


 千紗がアリナの奴隷のような存在になったのは、昨年の秋、高校生活一年目の半分を過ぎたころだった。派手な化粧をして制服を着崩し、授業もサボりがちな千紗を持て余していた担任が、学級委員の抜目アリナに泣きついたのだ。
「どんな手を使ってもいいから、城木さんをこの学校になじむようにしてあげてほしいの。あのままじゃ彼女、いずれ道を踏み外してしまうわ」
 と。
 ド田舎ののどかな昼下がり、それなりに由緒正しい女子高の木造校舎の自習室でのことだ。
 昼休みに一人残って黙々と予習していた優等生のアリナは、勉強するときだけかけているプラチナフレームの細い長方形の眼鏡をはずし、うなずいた。
「泣かないでください、先生。彼女は必ず、私が更生させてみせますから。どんな手を使ってでも」
 妙なところで正義感の強いアリナは、翌日からさっそく、城木千紗を研究し、彼女の手綱を握る方法を徹夜で考えた。
 千紗だって、入学してきた当初はおとなしく目立たない普通の少女だったのだから、ちょっと手を加えてやれば、じきに変われるに違いない。古い考えを頑なに信じたまますべてが停止した、辺境の高等学校に似合う形に。
 千紗は酒を飲み、煙草を吸い、無免許でバイクを乗り回したりもしているそうだが、性的な面においては決して早熟ではなくて、まだ処女でいるらしい。つまめるかつまめないか程度の薄い胸を気にして、男の前で裸になれないのだとか。
 その話を耳にしたとき、アリナは、彼女の弱みに付け込むことに決めた。友人の名をかたって、「胸を大きくする薬を手に入れたから分けてあげる」と千紗を呼び出し、放課後の音楽室で彼女に暴行を加えたのだ。
 ケガをさせるつもりはなかったし、大勢で襲うような卑怯な真似はしたくなかったので、仲間を伴って行ったりはしなかった。部屋に入ってきた瞬間の無防備な千紗を押さえつけて、用意していた縄で縛りあげ、合唱用のスペースまで引きずって転がした。
 腕力は鍛えていなかったらしい千紗は、腕相撲と握力には自信のあるアリナにあっけなく捕らわれ、エンジのネクタイで猿ぐつわをかまされた。アリナはそこで予定どおり、千紗を裸にし、自分は制服を着たままで、手近な楽器を使ってレイプした。あまりに手荒なアリナの攻めに屈し、アルトリコーダーに処女を奪われて、千紗は白目を剥いて失神した。
 ひと仕事終えたアリナは、脱がした制服を裸体にかけてやり、音楽室のすみで埃をかぶっていたラジカセに、お気に入りのテープをセットした。何度も聴いた、ノイズ塗れの熱っぽい演説が流れてくる。そばで体育座りをして、小さな声で『友よ』を歌い、アリナはしばし勝利に酔った。何に勝ったというわけでもなかったが、とりあえず誓わせることには成功したのだ。

 一、今後は生活態度を改め、理想的な服装で勉学に励むこと
 一、抜目アリナの言動を信じ、命令に従い、心身ともに忠実な奴隷となること
 一、政治や社会に関心を持ち、毎朝新聞とニュース番組をチェックして、悪を糾弾し正義を矜持とすること

 最初のはともかく、あとの二つは完全に蛇足であり、アリナの個人的な要求である。普通なら断固拒否するところだろうが、あまり関わりのなかったクラスメイトにふいうちで性的な暴行を加えられ、千紗は半狂乱になっていた。苦痛と屈辱の頂に追い詰められ、涙しながら、アリナの理不尽な要求を呑むことを彼女は誓った。
 証拠として書類に判を、と迫ったアリナだが、少し考え直して、ポケットから真新しい口紅を取り出した。ピンクの薔薇をイメージして作られた最新作で、まだ一度も使っていないものだ。彼女はその先端を温めて溶かし、千紗の性器をなぞって白い紙に押しつけた。
 アリナは、もともとはそれほどサディスティックな性格ではないのだが、突然浮かんできたアイデアをよく考えずに採用するような、無鉄砲な気質を多分に持っていた。
 目を閉じて、満足げな顔で演説テープに聞き入っているアリナを、教師たちが見たら何というだろう。どんな手を使ってでも、というのは決して、このような手段を含んでの意味ではなかったのだ。少なくとも、理解できないようなことなど起こらないような狭い世界に生きていて、アブノーマルな人種の生態などつゆほども知らない田舎の女子高の教師にとっては。
 千紗はそれ以降ことあるごとに見せつけられるはめになるのだが、アリナは、過激な運動のマニアだった。自分を優等生と信じて頼ってくる者たちに打ち明けたことはなかったが、安保闘争や安田講堂事件などに関する書物を読み耽り、ゲバルトの映像に興奮を覚えるという、とんでもない性癖を持っていた。
 アリナに力づくで押さえ込まれ、傷つけられた千紗は、翌日からアリナに逆らわなくなった。制服を正しく着こなし、メイクも控えめにし、授業にも出席して、ノートをとるようになった。
 最初からそれほどの不良でもなかった上、誰もが憧れるような美しい容貌の少女に痛めつけられて、常人の中では目覚めることのない妖しい蕾が開いてしまったのかもしれない。


 休日の早朝、まだ陽の昇りきらないうちにシャワーを浴び、アリナは長い髪を金色に染める。市販のヘアカラーを使って、根元から毛先までしっかりと。
 学校では、美しい髪の模範のような黒髪で過ごしているため、金髪の彼女を見ても、誰もアリナだとは気づかないだろう。休日のたびに家に招かれている、城木千紗を除いては。
「千紗、交換日記は持ってきたか?」
 朝刊に目を通しながら、浴衣姿のアリナが問う。
 千紗は、「あぁ」と短くうなずいて、賞状を授与するときのように、うやうやしく黒いノートを差し出した。黒い革に覆われて、何やら重大なことが書かれていそうな外見のノートは、一日置きに二人の間を行き来する「交換日記」である。
 ぱらぱらとめくって、千紗の記した文字を追うアリナの瞳は、つららのようにとがった長い睫毛に縁取られていた。アイラインはダークブルーでくっきりと濃く、睫毛の先にはラメもちりばめられている。
 めったに帰ってこない姉と二人暮らしの彼女は、金曜の夜か土曜の朝に千紗を呼びつけ、休日の間ともに過ごすことを強要する。昨晩は千紗のほうに用事があったので、今回は土曜の午前五時に来るということで許しを得ていた。
「まあまあ、ちゃんと書けてるな」
 ノートを読み終えて、アリナはこくりと浅くうなずく。今どき交換日記なんて、小学生でもやっていないと思われるが、どんなにケータイやパソコンが普及しようとも、この種の無邪気な遊びをやめない者というのは必ずいるものなのだ。
 千紗は最初、書きたいときに書けばよいのだと気楽に考えていたのだが、彼女を所有物か奴隷の位置に置いているアリナのほうは、それを許しはしなかった。一日置きに回すようにと口うるさく言い、千紗が怠ると罰を与えた。オークションか通販で手に入れたらしい乗馬用の鞭で打たれたとき以来、千紗は欠かすことなく日記を回している。
「ねぇ、朝ごはんどうする?」
 テーブルに肘をついて、千紗は問う。朝食もとらずに来たので、おなかがすいていた。心の底ではアリナを恐れている彼女だが、同時に不思議な友情めいたものも感じているので、話すときに敬語を用いたりはしない。アリナもその点に関しては、特に「改めよ」と言わなかった。
 千紗は、一目でパンク系のヒトだと分かるような、鎖や血飛沫が多用されたデザインの黒いドレスに身を包んでいる。腰の辺りは革のベルトで絞めつけられ、丈の短さゆえに白い太腿が溢れ出していた。ノースリーブなので肩は剥き出しだが、二の腕から手の甲辺りまでは、できそこないの袖のようなものに覆われている。細い首につけられた、明らかに犬の首輪を改造して作ったらしいチョーカーは、アリナに贈られたものだった。
 湯上がりの肌の火照りが治まったころを見計らって、アリナは浴衣を脱ぎ、お気に入りの軍服に着替える。この間非常に器用な着脱法を用いて裸体を隠し続け、千紗には一度もその身体を見せたことがない。
 彼女のクローゼットには、あらゆる種類の軍服がずらりとコレクションされていた。「長ラン」と呼ばれている、男子用の裾の長い学生服まで吊り下がっている。
「握り飯を作ってやるから、少し待っていろ」
 彼女の得意な料理は、どこででも食べられそうな携帯食系統のものばかりだ。機嫌のよいときには、おにぎりやサンドイッチ、ハンバーガーなどを大量に作って、千紗に食べさせようとする。手は洗わないことがほとんどで、この間セックスの直後に握った飯からは、千紗の分泌液の臭いがした。
 残したり拒否したりすると、また鞭を持ち出してくるに違いないし、指摘しても聞く耳を持たないだろうから、千紗はいやいやながら我慢して食べた。
 これまで十数年間生きてきて、我慢などという言葉を知らず好き放題に過ごしてきたのに、アリナといると自分の常識がまるで通用しなくて、芯から塗り替えられていく心地になる。
 アリナは軍服のまま台所に立ち、炊飯器に残っていた冷や飯をレンジで温めて、これでもかとばかり塩を混ぜ込んだ。彼女はいつも、何かサバイバル的な状況を思い浮かべながら料理をしているらしい。たとえば、機動隊に包囲されて、一色触発の緊張状態の中、バリケードの内側で貪り食う握り飯とか。あるいは、座り込みを続ける同士に差し入れるため、不器用な少女たちが懸命にこしらえたサンドイッチとか。
 妄想につきあわされる千紗はいい迷惑だが、もう慣れているので、分かる範囲でノッてやっている。学生運動をテーマにしたドラマやドキュメンタリー番組もいっしょに鑑賞したし、興奮した彼女が「ヤりたい」と言えば素直に服を脱いだ。
 女同士で性行為に及ぶことに抵抗がなかったかといえばもちろんそんなわけがないのだが、最初の一回があまりにふいうちだったので、今でもその延長のように受け入れてしまっているのだ。
 電池の力で振動するバイブや、硬く冷たいディルドーも使うアリナだが、何よりも好きなのはペニスバンドで後ろから乱暴に貫くことだった。
(これ食べたら今日もヤるんだろうな)
 どの時間帯に入ってくるかは分からないが、スケジュールの一部として、アリナの中では当然のごとく組み込まれているに違いないセックスのことを、千紗は考えた。
 咀嚼している握り飯には、アリナの手の臭いが染みついている。中に入っている梅干しはしなびていて、噛むとゴムのような歯応えがあった。アリナは平気な顔をして食べている。
「今夜は泊まっていけよ」
 最後の一口をぬるい麦茶で流し込み、命令口調で彼女は言った。いつものことだ。
 千紗は、無言でうなずく。
 アリナの姉は、今夜は帰ってこないらしい。何の仕事をしているのかは知らないが、妹のアリナを気味悪がって、口もききたがらないお姉さんだ。いつ見てもピンク系のワンピースを着ていて、平凡な茶髪のロングヘアに、ありきたりで覚えにくいパーツばかりの顔をしている。
 千紗は、彼女のことがあまり好きではなかった。向こうも、「妹のヤバイ遊びの相手」と認識して嫌っているだろうから、おあいこということになるだろうが。
 泊まっていけと言われた夜は、アリナと二人で爆竹を鳴らしたり、近くの山に登って星を数えたりする。買い物に行くこともあるが、行き先はたいてい、アリナのお気に入りのミリタリーグッズの店か、レンタルビデオ屋か食料の買い出しだ。千紗のほうに行きたいところがあっても、希望が叶えられることはまずない。
 朝食が終わると、アリナは部屋のすみから、ギターケースをひっぱりだしてきた。
「弾いていいぞ」
 つまり、弾けという命令である。
 曲は、一九六〇~八〇年代の古い楽譜の中のを適当にチョイスする。
 アリナは何でも替え歌にして、「ピケをはる」だの「ゲバルトに身を捧げ」だの、物騒な歌詞にしてしまう。もちろん、いちばん好きな曲は、岡林信康の『友よ』だ。これだけは手を加えないでそのまま歌う。千紗は何百回も弾かされたので、今では目をつぶっていても弾けるくらいだ。
 この歌が流行っていたころなんて、二人ともまだ影も形もなかったというのに。
 歌姫に憧れて、一時はオーディションに挑戦していたこともある千紗のギターに合わせ、アリナは目を閉じて歌った。女児の持っている着せ替え人形のような、ぱさぱさしたちゃちな金色の髪が、窓からの風に揺れる。壁の面積の半分ほどを占めている大きな窓はいつも開いていて、外の物音や声は次々に入ってくるのに、千紗自身が外へ出ることは許されていない。アリナが「帰っていい」というまで、その傍らにいなくてはならないのだ。
(ラプンツェルみたいだな、あたし)
 千紗はときどき思う。
 私服はパンク、かつては不良という、およそ読書とは縁のなさそうな彼女だが、意外にも読書家で、特におとぎ話やファンタジーの類は愛読書だったりする。「本当は残酷なグリム童話」みたいなのが流行ったときも、手に入るかぎりすべて読破した。
『ラプンツェル』は、その中でもお気に入りの一編だったのだが、まさか自分が同じような状況に置かれるとは思ってもみなかった。
 そういえば、ラプンツェルはキャベツという意味で、日本語に訳すと「ちしゃ」になるらしい。グリムの国に生まれていれば、「ラプンツェル」と呼ばれた可能性もなくはないのだ。
 物語にあてはめて考えるなら、いうまでもなくアリナは、ラプンツェルの育ての親の魔女、ゴテルおばさんの役どころだろう。大人向けの解釈では、魔女はレズビアンで、ラプンツェルに性の手ほどきをし、独占欲ゆえに塔のてっぺんに閉じ込めてしまった、とされていることもある。
(あの魔女もペニスバンド使ってたのかな)
 千紗は、引き出しを探り始めたアリナの、筋肉質な背中を見つめて考えた。
「セックスしよう」
 有無を言わさぬ声で誘うアリナの手には、黒革の鞭と例のペニスバンドが握られている。軍服の上から装着し腰を振ったところで、彼女に快楽が起こるとは思えないのだが。
 千紗は、理解できないまま、観念して服を脱ぐ。アリナが古いラジカセのスイッチを入れると、『友よ』が流れ出した。
「千紗、尻を私のほうに向けてごらん」
 ククク、と赤い口唇で笑うアリナの手の中で、鞭がぐぅとしなる。
 彼女の命に従った千紗が目を閉じた瞬間、ばしりと空気を叱りつける音が部屋中に響き渡った。


 部活動というものを、千紗はしらけた目で見ている。しょせん、自分たち学生のあり余るエネルギーがへんなほうへ向かわないように、学校側が用意したていのいい檻に過ぎない、と捉えているからだ。そんなところにわざわざ自分から入ってやるつもりはない。ひねくれ者の千紗は、中学・高校と帰宅部を通していた。高校に入ってからしばらくの間は、不良女学生としての活動に力を入れていたのだが、アリナのおかげでそれもできなくなった。今はただ、無気力で平凡な生徒として、放課後はさっさと家に帰るだけである。
 アリナも「やりたいことがない」と部活には所属せずに、自習室に残って黙々と、写経のような予習・復習に打ち込んでいた。邪魔しては悪いので、千紗は先に帰る。つきあえと誘われることもあったが、千紗がいるとやはり気が散るようで、テスト前などは声がかかることもない。
 センター試験対策の模試を控えた今日のような日は、千紗はアリナから解放されて、鼻歌を歌いながら帰路につくのだった。
 アリナを心の底で嫌っているわけでも、顔も見られないほど畏怖しているわけでもないのだが、主従関係の「主」に当たる人のそばに四六時中いるのはどうも息が詰まる。
 千紗は女子トイレに入り、鏡を覗いて化粧崩れを修正すると、昇降口へ向かった。アリナはたぶん自習室にこもっているだろうから、声をかけずに先に帰る。交換日記は回したし、今日は家に来いとも言われていない。これからの数時間は、確実に自由だ。
 籠から放たれた小鳥のような気分で、千紗は校門を出た。
 その腕を、不意に掴んだ者がいる。
「何?」
「……久しぶりじゃん、城木。あたしだよ」
「ユミコ……」
 不良生徒だったころに仲よくしていた、隣町の学校の女子だ。ユミコが通っているのは定時制の高校で、制服もなく、ほとんど出席しなくてもとりあえず卒業できることで有名な、ユルいところだった。
 ぱさついた髪をオレンジに近い金色に染め、相変わらず濃い化粧に下着みたいな服装をしているユミコは、細い眉を寄せていた。
「城木、長いこと連絡くれなかったじゃん。あたしもカレシとごたごたしててメールとかする暇もなかったんだけどさ。なんか、見た目すっかり変わっちゃってて分かんなかったよ」
「あぁ」
 そりゃそうだ、と千紗は深くうなずく。見た目も中味も、アリナによってすっかり変えられてしまったのは事実だ。
「どうしたの、城木。いきがるのやめちゃったの? 急にマジメになっちゃって。らしくないじゃん」
 久々に再会した友は、そんな千紗を心底不思議がっている。
「……お茶でも飲みに行く?」
 千紗は、小声で誘った。
 傍らを通る学生たちには、聞かれたくない話もある。何より、アリナが突然現われないか心配だった。彼女はなぜか、千紗が他人と接触するのをいやがるのだ。
(恋人同士ってわけでもないのに、束縛してくるの、何でだろう)
 喫茶店までの道を、ユミコと並んで歩きながら、未だにアリナを理解できていない自分に気づいた千紗だった。


 千紗は、コーヒーが飲めない。
 苦いのが苦手で、砂糖やミルクで緩和してもダメなのだ。
 ジュースのような甘みが舌に残るアップルティーを飲みながら、千紗は、アリナとのことをユミコに話した。
「その抜目アリナってコ、ハンパなくキモい」
 幾重にも重ねたオブラートで包んで、聞き苦しいところはぼかしたのに、それでも十分に不愉快だったらしい。
「何で逃げないの? そんな奴のいうこと、おとなしく聞かなくたっていいじゃん」
 ユミコは、自分のことのように憤っている。見た目は不良っぽいが、中味は涙もろくて優しい「フツウの」女のコなのだ。アリナみたいな理解不能の人種に比べればずっと分かりやすくて、つきあいやすい。
「何でなのかとか、考える暇もないくらい、あっというまだったんだよ。初めてヤられた日から、今日までがさ」
 それほどキライでもないし、と千紗は、長い間黒いままの髪を指先で弄びながら言った。
「でも、家に呼び出されて、その……犯されたりしてるわけでしょ」
「うん」
 まだ陽が空にある時間だし、離れてはいるが一応他の客もいるので、あまり生々しいところまでは伝えなかったが、アリナの仕掛けるセックスは、常人にはかなり奇怪に思えるようで、いろいろと尋ねられた。
「そいつはいっつも、服着たままなの?」
「そう」
「ペニバンつけて?」
「うん。何がイイのか分かんないケド」
「それで、城木は気持ちイイの? イッたことある?」
「ない。ていうか、ちゃんと前戯とかしてくれないから、いつも痛い」
 けれど、悲鳴をあげたって無駄なのだ。アリナはテレビやラジオに夢中で、千紗のことを気遣う余裕などないのだから。
「えー。マジわけ分かんない。男でそういう自分勝手な奴はいると思うけどさ。自分のちんこ使ってるんじゃないから、そのアリナってコもべつに気持ちよくないだろうし。何か気持ち悪い」
 ユミコのいうとおりかもしれない。
 普通の人間から見れば、アリナは気持ち悪い性癖を持った変態以外の何者でもないのだ。分かっているのに、千紗は彼女のそばを離れられず、呼び出されれば早朝でも深夜でも馳せ参じてしまう。
「城木はきっとさ、おかしな奴といっしょにいすぎて、洗脳されちゃってるんだよ。最近他のコと遊んでないでしょ?」
 確かに、このごろの千紗は、アリナに拘束されている時間が長すぎて、他の人と関わる機会がない。家族とさえろくに話していないのだ。
「よかったら、今からうちに来なよ。今夜、仲間集めてぱぁっと騒ぐ予定なんだ。ミズキとか、島内も来るよ」
 懐かしい友の名を出し、「あたしの失恋記念パーティだけどね」と付け足したユミコは、ニキビの跡の残る顔で笑った。
 行ったらアリナは怒るだろうか、と一瞬、まるで奴隷のような考えが浮かんだのを、千紗は斜めに斬って振り払った。そこまで彼女に支配される筋合いはない。ないはずなのだ。
「うん」
 自分の自由を肯定するように、千紗は、友の誘いを受け入れた。
 ここのところまともな友達づきあいをしていないし、ユミコのいうとおり、たまにはアリナ以外にも触れてみないと、自分は本当におかしな人間になってしまう。
 夫の留守中に浮気をする妻のような後ろめたさを抱えて、千紗は辺りを窺った。ぱらぱら埋まっていた席は、いつのまにかからになっていた。新聞を広げていたサラリーマンや、静かにティータイムを楽しんでいた老婦人は、あまりに過激な二人の話に辟易して、席を立ったらしかった。飲みかけのコーヒーや食べかけのケーキがテーブルの上に残っている。
 千紗の「日常」は間違いなく、善良なる一般市民にとって、耳に入れたくない異端の日々なのだ。


 ユミコのマンションは、ずっと前に遊びに行ったときからほとんど変わっていなかった。四階の四○五号室のドアを開け、ハーブの香りの消臭剤が置かれた玄関で靴を脱ぐ。アリナの家以外を訪ねるのは久しぶりだった。
 この家には、「不撓不屈」と書かれた旗も、物騒な文字の躍るヘルメットも、何に使うのか分からない鉄の棒もない。エナメルのバッグやブランドマークの入ったワンピース、ぬいぐるみなどで構成された、ごく普通の女子高生の住まいだ。
 そのことだけで、千紗の心は不思議なほどに和み、息を吹き返すような安堵で満たされるのだった。
「今、ジュース入れてくる。ちょっと休んだら、サンドイッチとか作るの手伝って。みんなもいろいろ持ってくるだろうけど、食べ物足りなくなると困るからさ」
 ユミコに言われて、千紗はアリナのサンドイッチを思い出した。彼女の料理はいつも適当で荒っぽく、いわゆる「男の料理」をひどくしたようなものばかりだった。
 そういうのを頻繁に食べさせられ、製作風景を見慣れている千紗は、いつのまにか毒されてしまっている。
 ひと休みした後、手も洗わずパンの袋を引き破った千紗を、ユミコは驚いた顔で見つめた。
「城木、こういうの初めてだっけ。家庭科、サボッてたもんね」
 苦笑され、初めて己の異常さを意識させられる。
 女性らしく丁寧に作業するユミコの手元を盗み見て、千紗はゆっくりとその動きを真似た。サンドイッチの中味は、玉子、ハム、レタス、きゅうりにマヨネーズ。トマトやツナ、フルーツなど、入れても不思議ではないものばかりがあとに続く。昨夜の残りのチェーン店の餃子や、秋刀魚の焼いたものまで具にされてしまう、無理やりなサンドイッチはここにはない。
「城木さぁ、ぜったい病んでるよ。早く離れたほうがいいよ、その、アリナって奴から」
 ぼぅっとしている千紗の表情から何かを読み取ったらしく、ユミコが眉を寄せた。
 無言で浅くうなずくものの、千紗には踏み切る自信がない。アリナが怖いというよりも、彼女から離れた自分になることが想像できないのだ。たった数か月間従わされただけなのに、ずいぶん変えられてしまっている。軍隊か刑務所にでも入っていたかのように。
 逃避の願望と現状維持の間で揺れながら、軽食を作り終えたとき、ピンポンとチャイムが鳴った。
「入ってぇー」
 ユミコが応えると、ドアが開く音がして、いくつもの靴音が流れ込んでくる。
「ユミコんちちょー久しぶりィ」
「千紗も来てるんだって? 珍しいじゃん」
「あ、あたしアイス持ってきたよ。溶けないうちに冷凍庫入れさせてー」
 千紗の知っている顔もあるし、初めて会う者もいる。男女半々くらいで、いくつか年上の学生も何人かいた。定時制高校の生徒は年齢の幅が広いのだ。
 千紗は久しぶりにアリナのことを忘れ、彼らと話をして盛り上がった。千紗の外見と内面の変化に、以前の彼女を知っている者たちは目を丸くしていたが、しだいに慣れてきたらしく、現在の千紗を新しい千紗として受け入れてくれた。
「ねぇ、君の趣味が何か、当ててあげようか?」
 隣に座った青年が、千紗の手をじっと見つめて、話しかけてくる。駅前の喫茶店でバイトをしている、物見俊輔とかいう大学生だ。年は確か三つ上で、ユミコとは、友人を介して知り合ったらしい。
 赤みの強い茶髪に細い顎、ちょっとダサめのグレーのパーカーを着ている、地方の美術系専門学校にいそうなタイプだった。
「当たんないと思うケド」
 千紗は、彼のほうは見ずに、オレンジジュースに浸けこんだストローを吸った。
 物見はうれしそうに、一段高い声を出す。
「音楽やってるだろ。たぶん、ギター弾いてる。指の皮の擦り切れ方が、弦を奏でる方向と一致してるし、ピックの角でやったらしい傷もいくつかあるもんな」
 何だ、その程度で得意げな顔してるのか。
 千紗は鼻で笑いたくなったが、場の空気を読んで、「当たり」と、わざとらしく驚いた声を出しておいた。
(本当の趣味はね、奴隷ごっこだよ。あと、ゲバルト鑑賞とセックス)
 正確には、最初の二つは千紗の趣味ではなく、アリナにやらされているだけだし、最後のはカッコつけが入っている。結局千紗の趣味は音楽で正解だ。それでも、初対面の男にしたり顔をされるのは無性に腹立たしくて、胸の中の天ノ邪鬼が騒いだのだからしかたない。
「ヒトの趣味当てるのが特技なの?」
「ううん。君が最初だよ」
 物見は、千紗のつやりとした黒髪の隙間から覗く鎖骨や、白い首筋ばかり見ていた。
(気があるんだな)
 千紗にはすぐに分かった。
 男とつきあったことはないし、告白されたこともない。自分に向けられた、異性からの淡い好意に、じかに触れるのはこれが初めてだった。
 不良時代は怖がられて敬遠されていたし、それ以降は常にアリナに縛られていたから、千紗はまともに恋愛をしたことがなかったのだ。彼女はまさにラプンツェルだった。
(もしかしてこいつ、あたしの王子様かな)
 「王子」なんていう抽象的な存在に憧れたことはないが、たまには外の世界も見てみたい。こんなヘボい男が自分を救ってくれるとは思えないから、「連れ出してほしい」とは願わない。彼を踏み台として利用し、自分の足で塔の外へ踏み出していくつもりだ。
「物見クン、コーヒー入れるの得意なの?」
 先ほど、バリスタの大会がどうのこうのと言っていたのを思い出して、千紗は仕掛ける。
 バリスタというのはカフェ店員のことらしい。千紗はその程度のことしか知らないし、特別興味もなかった。おまけにコーヒーなんか嫌いで、飲みたいと思ったことはない。しかし、彼がコーヒーにはうるさい人間だろうという予測くらいは容易にできる。そこを上手に攻めれば、陥落させるのはわけないはずだった。
「得意ってほどでもないけどね。飲みたいなら、淹れてあげるよ」
案の定、得意分野の腕前を披露する機会を与えられた彼の瞳は、きらりと輝きを帯びた。ちょろいもんだ。
 気を利かせて他のメンバーの会話の盛り上げ役を買って出ているユミコに台所を借り、物見は千紗のために自慢のコーヒーを淹れてくれる。
 酒とジュースが中心の、軽い雰囲気のパーティーで、熱くて上等なコーヒーをしとやかに味わう千紗の姿は、浮いていた。実際にはかなり無理をして、息をとめていやいや飲んでいたのだが。
 気分だけは優雅な深窓の令嬢になったような千紗は、小さな声で「おいしい」と、長い睫毛に縁取られた瞳を伏せて、嘘を吐いた。
「だろ?」
 ドリップが豆が鮮度が水がどうこうで、コーヒーはすばらしいメロディを奏で始めるのだとか何とか、物見の長いうんちくを、千紗は聞き流した。
 彼女の頭にはただ、アリナ以外を知りたいという、動物的で自己中心的な欲望しか浮かんでいなかった。


 知り合ったばかりで、ろくに互いを知ってもいない男と、試食のような感覚で肉体をつなぐ方法は、あるのだろうか。
 口に出して問えば、おそらくたいていの男が、降って湧いた幸運に歓喜して、「ぜひ自分が」と名乗りを上げるに違いない。ヤれるなら誰でもいい、というタイプの男たちに希望を与えるような疑問を抱いて、千紗は深夜の街を歩いていた。隣には、「遅いから送っていく」と申し出た物見がいる。彼は免許を持ってはいたが、自分の車を所持しておらず、いわゆるペーパードライバーだった。
「あのさ、物見クン」
 千紗は意を決したように口を開き、アリナによって整えられたおとなしげな制服姿に似合わない、大胆な科白を吐く。
「あたし、本物のおちんちんが見てみたいんだけど」
「えっ」
 千紗は十分控えめな表現をしたつもりだったが、物見は明らかに一歩引いていた。何か他の言葉と聞き間違えたかな、と考えている顔で耳の穴をほじっている。
 女子高でアリナの監視のもとに過ごし、プライベートでも男とのつきあいは皆無の千紗は、異性との上手な関わり方などとっくに忘れてしまっていた。放任主義の母と二人暮らしで、兄弟はおろか、父も親戚もいない身の上である。
 突然妙なことを言われた物見は、面食らった顔のまま沈黙していた。千紗は、じれったく感じて、さらにとんでもないことを口にしてしまう。
「出して見せてくれない?」
 それはもう、男を喜ばせる言動でも何でもなかった。AVにおける「痴女」のような、一部の特殊な趣味を持つ者にのみ通用する戯れだった。
 今日出会ったばかりの物見は、このわけの分からない少女をここに残して去ることもできたのだが、深夜の街で彼女を一人にするほど薄情ではなかった。
 しばらく考えたのち、
「誘ってるの?」
 と、探るように尋ねた。
 千紗は単に、アリナの用いる疑似ペニスと、目の前の生きた男にくっついているナマの性器がどう違うのか見比べたいだけだったのだが、誘っていないわけでもないのでうなずいておいた。
「ホテル、行く?」
 辺りを見回して、物見は小声で訊く。
 田舎の中の都会にありがちな、ダサい看板を下げたラブホテルが周囲に点在していた。
「うん」
 千紗にとっては、初めての経験だ。しかし、おとなしそうな格好をしていても滲み出ている激しい性格が、彼女を経験豊富な早熟少女に見せていたかもしれない。物見は、どきりとしたように息を呑み、初めて女をダンスに誘う王子よろしく、おそるおそる千紗の手を取った。
(あたしは今、塔から一歩踏み出す)
 さようなら、アリナ。ちょっと外の世界見てくる。
 自分の中で物語を綴る千紗は、己の冒険を「浮気」だとは考えていない。アリナとは決して、恋人同士ではないのだ。あれだけ身体を弄んでおきながら、彼女は一度も「愛している」と言ってくれなかった。不良生徒を監督し更生させる役目を担った優等生として、手荒な手段を駆使して千紗を管理していた。それだけのことなのだ。
 アリナは千紗を、愛しているわけではない。その証拠に、千紗の服は脱がせるが、自分は一度も裸を見せないではないか。あれはきっと、心を許していないからで、千紗のことなど奴隷程度にしか思っていないのだろう。
 物見は千紗の手を引いて、「アムール」という名のラブホテルへ連れていった。六階だての細長いビルで、見るからに古くて汚い、ロマンのかけらもない建物である。入ってすぐに部屋を選び、機械を操作してキーを出し、エレベーターでその階へ行く。オーソドックスなシステムになっている。
 三○二号室のドアを開けると、淡い水色の照明の下に大きなベッドが見え、「海の中みたいだな」と、千紗は呑気な感想を抱いた。
 物見はドアを閉めると、急に真顔になり、無言で千紗を抱き締めて口づけてきた。
(何するんだよ)
 千紗は不快になったが、突き飛ばしたりはしなかった。
 誰かとキスするのは初めてだった。アリナは一度もそんなことしなかった。
 ベッドに押し倒され、ぼぅっとしているうちに、制服を剥ぎ取られそうになった。
「何であたしばっかり脱ぐの?」
 千紗はきゅっと相手を睨みつけて抗議した。
 首筋や鎖骨に口づけを繰り返していた物見の動きが止まり、ぽかんとした表情が浮かんだ。
「君、変わってるね」
 呆れているようだった。
「カレシいたことある?」
 続けて尋ねられ、「フツウ」と千紗はふてくされた声で答えた。
 先ほど口をついて出た一言は、ずっとアリナにぶつけてやりたかった科白だった。今目の前にいて相手をしているのは物見なのに、千紗の精神は、アリナとセックスしているようなのだ。
 アリナはいつも、千紗に恥ずかしい格好をさせて楽しむくせに、自分はかっちりと軍服もどきを着込んで、その上からペニスバンドをつけている。ペニスバンドを使用すること自体、千紗は疑問に感じていたし、何が気持ちいいのか理解できなかった。映像を見て湧いてくる興奮が、激しく膣を貫くペニスバンドの使用感にかぶりやすいのだろうか。男の真似をしているようで、何だかイライラする。
 そのままの身体でぶつかってこい、そしたら好きになるかもしれないから。アリナに向かって、何度そう言ってやりたくなったか分からない。
 険しい顔をしている千紗を覗き込んで、物見は軽いため息をついた。
「抱いてほしいのかと思ったのに、君、僕の身体見たいだけなの?」
 彼は話の分かる男だった。
 千紗のような身勝手で理不尽な女は、この時点で愛想を尽かされたって文句は言えないと思うのだが、物見は彼女の希望を汲むだけの優しさを持った、稀有な青年だった。
「見ていいよ」
 彼はするりと息をするような軽さでジーンズとトランクスを下ろした。
 ダサいパーカーをまくりあげると、大人の男の下半身が露わになった。
 千紗は上体を起こし、まじまじとそこを見つめた。人間を凝視するときの、不可解極まりないと言いたげな猫に似た瞳で。
(思ってたよりグロい)
 それが率直な感想だった。
 アリナの使う性器には、毛が生えていなかったし、ナマの鳥肉みたいな二つの袋もついていなかった。
 目にするまでは「本物のほうがよいはずだ」と頑なに信じていたのに、実物はレプリカより醜くいやらしく思われた。自分の股間を手鏡で覗いたときは、「この穴がどこかに続いていそうで可愛い」と、肯定的な気持ちになったのに、今は否定的な感情でいっぱいだった。
「どう?」
 物見はおもしろがっているように、笑いを含んだ声で訊く。
 男は基本的に、自分の性器を凶器のように捉え、鋭利な剣のようでもあるそれを振りかざして、女の怯えた顔を見るのが好きなのだろう。
「キライじゃない」
 千紗は、理解できない美術品を見たときのような評価を下した。遠慮しているつもりだった。
 物見は紳士らしく、千紗がじっと見つめても、先端をぴんと天へ向けたりはしなかった。
 その点に関しては、「王子様みたいだな」と、ひねくれ者の千紗も、素直に好意的に受けとめた。
 問題は、それ以降のことだ。「お代は見てのお帰り」ではないが、普通見せ物にはしない部分を見せてもらった以上、千紗もお礼に何かしなければならないだろう。
「あたしとしよう」
 おかしな論理を展開させて、千紗は覚悟を決め、唐突に、まっすぐな言葉で誘った。
 王子様とでも呼ぶべき人の手首を掴み、ぎゅっとひっぱって、ベッドに寝転ぶ自分の上に倒れさせる。
 セックスするときは常に騒音の中なので、静かだと気恥かしくて集中できない。枕もとのリモコンを操作して、何を言っているのか分からない洋楽の激しいやつを大音量で流し、千紗は自ら服を脱いだ。
 物見の下になって天井を眺めている間、「ラプンツェルもこんな夜を過ごしただろうか」と、くだらない感傷に耽っていた。
 遠目に見れば、タイプは違えど自分とアリナは瓜二つの存在なのだと、彼女はまだ気づいていなかった。


 稚拙な演奏者の手の中にあるらしい縦笛が、とぎれとぎれの音を撒き散らしている。音符を拾い集めて推測するに、『ラヴァーズ・コンツェルト』のメロディだ。千紗は幼いころ、母の好きな薬師丸ひろ子の歌う日本語バージョンをいっしょに聴いていたので、今でも口ずさむことができる。
 そう難しい曲ではないのに、なぜもっと滑らかに吹けないのだろう。きっと、指先の不器用な垢抜けない生徒が、思い詰めた顔を真っ赤にして、息を吹き込んでいるに違いない。
 笑いを噛み殺しながら音楽室のドアを開いた千紗の目に飛び込んできたのは、意外にも見慣れた後ろ姿だった。カタカナで「ド」とか「シ」とかふってある楽譜を睨んで、あの抜目アリナが、たどたどしくアルトリコーダーを吹いている。
「校音の練習してるの?」
 千紗は楽譜の側に回って、遠慮がちに声をかけた。校音とは校内音楽会、全校生徒がクラスごとに合唱や演奏を披露して優勝を競う、恒例行事だ。
「私の曲、耳障りか?」
 縦笛から口を離すと、アリナは尋ねてきた。
 千紗は首を振る。相手が相手なので、率直に「ヘタクソ」と口にする気にはなれなかった。
 器用で何でもそつなくこなせそうなアリナが、リコーダーを上手に吹けないなんて、何だか意外な気がした。
 音楽の授業は、美術・書道を合わせた芸術三科目の中からの選択制になっているので、アリナは書道をとっているのだ。歌はいつも歌っているし得意なようだが、楽器となるとどうもうまくいかないらしかった。
「もうすぐ音楽会だし、私だけヘンな音を出すわけにもいかないしな」
 今はまだまともに吹けないので、普段の合同練習のときは指だけ動かして、吹く真似でやり過ごしているらしい。いっそ本番もそうすればいいのにと千紗は思うのだが、妙なところでマジメなのがアリナなのでしかたない。
 まさか、放課後残って練習していたとは知らなかった。千紗はたまたま、授業で使う歌の冊子を音楽室に忘れて、取りに来たついでに見てしまったのだ。
 物見に抱かれた日からこちら、千紗はアリナを何となく避けていた。もちろん、土日に呼び出されるのには逆らえないし、相変わらず暴力的なセックスを享受する日々だったが、自分から彼女のほうへ足を向けることはせず、視線もそらしがちに過ごしていた。
「浮気だ」と責められるような粘っこい愛は、主従に似た二人の間にはない。物見のことがバレたとて、詫びるつもりはない千紗だったが、それでも、ほんのひとかけら後ろめたいものを抱いている。
「千紗、おまえ、音楽得意だろう。手本に吹いてみてくれないか」
 アリナが珍しく下手に出て、千紗に教えを請うてきた。美しい黒髪を垂らし、優等生然とした姿を保ちながら、にこりとも笑わない無表情なアリナ。刺すようにまばゆい金髪の彼女とは、別人のように見える。
 千紗は、アリナのリコーダーを借りて、滑らかな指使いでラヴァーズ・コンツェルトを吹いた。リコーダーを吹くときは、「タンギング」という舌を使うテクニックも重要である。間接的に口づけていることが、より生々しく感じられて、千紗は内心平静ではなかった。目を閉じて曲に集中するふりをしながら、触れたことのないアリナの口唇やその奥の歯、岩陰で眠る魚のように横たわる舌を思い浮かべる。
 物見と経験した、プラスチックのような味気ない口づけとはまるで違う心地が、彼女とのキスにはあるだろう。実体験より妄想のほうが熱く感じられるなんて、自分でもおかしいと思うが、「リアル」など結局、その程度のものなのかもしれなかった。本物の男根を持つ物見とのセックスはあまりに薄っぺらくて、千紗に何も残さなかったのである。得たものがあるとすればそれは、「手を伸ばしてもぎ取った葡萄がおいしいとはかぎらない」という、くだらない教訓だけだった。塔の外を覗くことによってラプンツェルは、自分の閉じ込められていた部屋のほうが居心地のよい場所だったと思い知らされたのだ。
 切ない感情のこもった愛の曲に耳を傾けていたアリナは、返されたリコーダーをためらうことなくまた口に咥え、懸命に千紗を真似始めた。
 吹かれた部分の日本語歌詞を、千紗は隣で口ずさむ。
 アリナは高い音が苦手らしく、シャープの記号のついた音符を奏でるときは、「ピーッ」と高温になったケトルのような妙な音を出していた。
 千紗は別段、アリナに向けて歌っていたつもりはなかったのだが、繰り返すうちになぜか、自分自身が彼女に対して歌詞にあるような想いを抱いているような錯覚をしそうになった。追いかけて追いかけて、相手のためならどんなことでもできそうな、マゾヒスティックで献身的な愛に苛まれている。自分が相手の所有物だと告げたところで、恋人は鼻で笑ってすませるのではないか? 薬師丸ひろ子が透き通るような声で歌っていた歌詞は、あまりに一方的な恋を思わせて、「協奏曲」というよりは、「狂想曲」のようだ。もちろん、字面の上でのみの話だが。
 そのとき、現実に引き戻すように、ポケットの中のケータイが震えた。開いてみると、物見からメールが来ていた。一夜をともにした翌朝にメルアドを訊かれたので教えたら、ときどき送ってくるようになったのである。面倒なので、千紗は二回に一回しか返信しないし、絵文字もほとんど使わない。
「今度の土曜、いっしょに映画を見に行かないか」とか、「君の好きそうなアーティストのライブがあるんだけど」とか。物見はどうやら、千紗と「つきあっている=恋人の関係である」ような気持ちでいるらしい。千紗のほうは、「一度寝ただけの知人」のつもりなのに。「愛してる」とか「好き」とか言わなくても恋人になれるなら、自分とアリナはいったい何なのか。おそらく、アリナも千紗と同じような感覚で、「何度もセックスしただけのクラスメイト」だと思っているのだろうが。
 どれだけ物見に誘われても、土日祝はアリナに拘束されているのでどこにも行けないし、もはや抜け殻にしか見えない彼にわざわざ会いに行くのも面倒くさい。「会えない」とぶっきらぼうな四文字で答えると、「どうして?」と彼はしつこく詮索してきた。千紗は、アリナのことまで教えてやる気になれず、「用事があるから」と、躱し続けていた。
「メール、誰からだ?」
 リコーダーを吹くのをやめ、アリナが珍しく千紗の交友関係に興味を示した。女の勘とやらで、何かを嗅ぎ取ったのかもしれない。
「友達」
 千紗は、覗かれないうちに、ケータイをパタンと閉じた。
「ふうん」
 アリナはそれ以上追及せず、リコーダーを付属の道具で掃除して、楽譜といっしょに片付けた。
「帰るの?」
「あぁ」
「あたしもいっしょに帰る」
 こんな、普通の女子高生らしい会話をするのは初めてだ。いつもべつべつに帰っていたので、誘ったことも誘われたこともなかった。
 千紗は徒歩だが、アリナは自転車通学である。自分に合わせて、自転車を押して歩いてくれる彼女が、千紗には新鮮に感じられた。
 アリナの自転車は、何の変哲もない通学用のシルバーで、交通安全教室のときに褒められそうなくらい、模範的な姿をしていた。
「喉渇いたな。どこか、寄るか?」
 アリナに誘われて、千紗は近くの喫茶店を選ぶ。
「セックス」なんて、好き合ってもいない同性同士では普通しない行為は何度も経験したのに、いっしょに喫茶店へ行くというようなフツウのことはどれも未経験で、何だか妙に照れくさかった。


「私はクリームソーダにする。おまえは?」
 メニューをちらりと一瞥しただけで決められるアリナは、実は炭酸が大好物なのだ。飲み物の良し悪しは、炭酸の含有量で決まると思っている。
 自分の好みを何でも押しつけてくる彼女が、飲み物を選ばせてくれたことは奇跡的だった。密かに感動を覚えながら、千紗は口を開く。
「じゃあ、あたしはフルーツミックスで」
 甘いものが飲みたいんだ、と言いかけたとき、背後のテーブルにいた先客が覗き込んできた。
「あれ、千紗。来たんなら声かけてくれればいいのに。メール見たんだろ?」
 げっ。
 千紗は、あまりのバッドタイミングに白目を剥きそうになった。
「物見クン……」
 さっきのメール、見てから畳めばよかったな、ケータイ。
「誰だ、そいつは」
 アリナが不審げに見ている。
「友達の友達」
「カレシ」だとは、千紗も認めていなかった。
「そっち行っていい?」
 物見は、千紗との再会がよほどうれしかったのか、返事も待たずに、自分の飲み物と伝票とともに移動してきた。初対面のアリナと互いに名乗り合い、物見はひとのよさそうな笑みを浮かべるが、アリナは仏頂面のままだ。
 やがて、ウェイトレスが注文をとりに来ると、気を利かせたつもりなのか、物見は、伝票を自分のとまとめるように言った。払ってくれるつもりらしい。あとで二枚レジに持っていけばいいのに、この場でまとめさせるとは、二人に対する好意のアピールなのかもしれない。
(わざわざ今やんなよ)
 恩着せがましいな、と千紗は冷めた目で彼を見た。
 自分の中の「どうでもいい」から「キライ」の箱へ、物見を移し替え始めている。
「ずうずうしいじゃないか。いったい、千紗の何なんだ、おまえは」
 人間関係にぴしりと折り目をつけたがるアリナが、不機嫌な声を出した。
「一応、つきあってるつもりなんだけど……。千紗から何も聞いてないの?」
 いつのまにか、呼び捨てにされている。さっきもそうだったし、メールでも気になっていたのだが。アリナに同じことをされても素直に受け入れられたのに、この男に呼ばれると不快きわまりない千紗だった。
「あたし、つきあってるつもりないよ」
 氷を口に含み、噛み砕きながら、千紗は彼の思い込みを否定した。
 世間では一般的に、セックスすれば「恋人同士」と認め合うものなのだろうか。無垢なうちにアリナに洗脳され、おかしな関係を築くことに慣れさせられた千紗は、その常識に違和感を覚えてしまう。
 自分はただナマのペニスが見たかっただけで、セックスしたのは単なるお礼のつもり、結局アリナの疑似ペニスのほうがよく感じられたので、戻ってきたのに過ぎない。
 こうなるとは思っていなかったのでメルアドを教えてしまったが、会わない間に彼の中の自分が、都合のよい「カノジョ」像に塗りこめられるとは、完全に想定外だった。
 無言になった三人のテーブルに、ウェイトレスが飲み物を運んできてことんと置き、氷が沈んでいく音だけがしばし空間を占めた。
「じゃあ、この間のはただの遊びだったってことか」
 物見は、もうとっくにぬるくなっているコーヒーを一口飲んで、苦そうな声で言った。
「遊びっていうか……『見せて』って言っただけで、つきあいたいとか好きとかいうのは全然なかったし」
 こんな話をしたくない、と千紗は思う。
 隣で複雑な表情をしているアリナにあの夜のことがバレたら、罰を与えられそうな気がした。
 しかし、怯えるその一方でなぜか、「そうしてほしい」と願っている自分がいるのにも気がついている。鞭打たれることで罪悪感が失せるなら、AV女優のように陳腐な科白で許しを請うて、楽になってしまいたい。
 マゾヒストになりかけている千紗に、物見がため息をついてこぼした。
「僕さ、ユミコに君のこと頼まれてるんだけど」
 彼が「セックスした」と打ち明けたら、彼女は千紗の変化をおおいに喜んで、背中を押してくれたらしい。
「詳しくは言えないけどあのコ今ヤバい状態だから救ってあげてほしいって。それが千紗のためだって、すごい期待されて来たのに、どうすりゃいいの?」
 理不尽な展開に疲労しているらしい物見が、投げやりな口調で問う。
 アリナがちら、と千紗のほうを見た。答えない千紗の代わりに口を開く。
「物見くん、とりあえずおまえは身を引け。千紗のことは私に任せて、もう一切連絡をとってくるな。ヤバい状態からは私が救うから、問題ないと、ユミコって奴に言っておけ」
「ヤバい状態」が何をさしているか、アリナはどうやら気づいていないようだ。
 一方的な通告を受け、物見は当然、釈然としない顔でアリナを見つめている。年下の女とは思えないような物言いや、物見の感情などあっさり無視した発言内容は、彼の心証を害したらしい。
「いったい何なの、君は。千紗の何?」
 腹立たしげに言って、怒りを含んだ浅い笑みを口元に刻んだ。
「指導者だが」
 アリナはまったく動じることなく、涼しげな顔で即答し、クリームソーダを豪快に飲み干した。
 自分とアリナの関係を、千紗はこのとき初めて知った。
(そうか、アリナが指導者で、あたしは教えを受け導かれる者なのか)
 それは、師弟とは違うし、主人と奴隷という関係でもない。師は弟子を暴力で躾けたりはしないだろうし、主人は奴隷を叱りつけはしても、思想で導くことはしないと思われるからだ。
 物見は無言で伝票を取り、支払いをすませて店を出ていった。
「おかしな宗教にでも入ってるんじゃねェの」
 外へ出る瞬間に吐き捨てた言葉が、目で追っていた千紗の耳に届いた。


 アリナは今日、すこぶる機嫌が悪い。昨日の校内音楽会では、不協和音を一つも出さずにラヴァーズ・コンツェルトを吹ききって、上機嫌だったのに。
 土曜の早朝、いつものように呼び出された千紗は、腕を組んで目を閉じているアリナに、何と声をかければいいか分からず、沈黙していた。古い掛け時計だけがカチカチと前へ進み、朝の陽射しがアリナの金髪の上をゆっくりと走り抜けている。
「何か、怒ってるの?」
 ようやく、意を決して尋ねてみたら、アリナは片目を開けてちらりと見た。今日は西洋風の赤い軍服姿で、肩には金モールまでついており、どこかの歌劇団の主役か絵本の王子様みたいである。
「この間の男のことだ」
 腕を組んだまま、アリナは冷たい声を出した。
 千紗はあれ以来、物見とはまったく連絡をとっていないし、すでに縁は切れている。
 今日まで何も追及してこなかったのに、今ごろ腹を立てるなんて、アリナはいったいどうしたのだろう。千紗が気に入らないことをすれば間髪いれず責める彼女でも、この件については逡巡し、不満をためこんでいたのだろうか。
「アイツがどうかしたの?」
 千紗は、ドキドキ波打つ胸を押さえながら訊く。脈の速さが光と競っているようだ。なぜ、同い年のクラスメイトなんかの一挙手一投足に、ここまで怯えなければならないのだろう、自分は。
 恐ろしいのは罰なのか、それとも彼女に捨てられることなのか?己に問うても分からない。
「おまえ、あの男と何をした? 正直に話せ」
 アリナはやはり、千紗の裏切りを感知し、問い詰める機会を窺っていたのである。
「何って……何もしてないよ」
 千紗はこの期に及んでしらばっくれようとした。目をそらせば、休日仕様にゴテゴテ塗りたくったマスカラや長い睫毛が、動揺を隠してくれそうな気がした。
「何もしてないなら、なぜあの男はあそこまでおまえに執着し、『つきあっている』という錯覚までしていたんだろう」
 一人考えているような口調だが、千紗を責めているのは間違いなかった。
 千紗が答えに詰まっていると、アリナは席を立ち、足音高く詰め寄ってきて、平手打ちをかました。突然のことに、千紗はそばの小テーブルともども床に倒れる。調味料の小ビンやコーヒーのボトルが落ち、派手な音をたてた。
 千紗の胸に初めて、強烈な反抗心が芽生えた。それが剣だったなら、すぐさま引き抜いてアリナの心臓に突き立てていたことだろう。
実際には、己の身体を抱くようにして顎だけを気丈に上げ、震える声で訴えるくらいしかできない。
「何で叩くの、いきなり。浮気したって責めてるの? 恋人でもないくせに。だいたいアンタ、勝手なんだよ、いつもいつも……ッ」
 すべて言い終わらぬうちに、家の中でも履きっぱなしのヒールの高いブーツで、顔を踏みつけられた。頬に食い込む踵に眉をしかめ、千紗は言葉を失う。さすがに、ここまでされるとは思っていなかった。
 いつも、もっとひどいことをされているような気はするが、顔を踏まれたのは初めてだ。疑似ペニスで貫かれることより、鞭で背中を打たれることより、この一撃のほうが何倍も自尊心を傷つけた。人間だとすら思われていないのではないかと、泣きたくなった。
 アリナの顔には表情らしきものはない。眉毛の一本さえ微動だにしない冷たい顔のままで、アリナは千紗を荒々しく罰した。間接的ながら腰に接点を感じられるペニスバンドではなく、指だけで自在に操れるバイブレーターを使って。
 壊れても不思議ではないような扱いを受けて、なおも逃げ出すことは選ばないラプンツェルは、いっそこのまま力尽きますようにと願いながら、意識を失った。


 自分はいったい、何を「指導」されているのだろう。気分しだいの攻めの快楽に酔いしれている、美しい指導者に。
 塔の外の世界は確かに醜くつまらなかったが、ここにとどまっていることも決して自分を幸せにしないのだと、魂ごと幽閉されたラプンツェルはすでに気づいている。
 折檻の翌々日、普通に登校した千紗は、珍しく欠席しているアリナの机に射し込む陽を目でなぞりながら、ぼんやり考えていた。
 彼女に矯正され、まじめに授業を受けるようになったおかげで、今やっている古典のテキストの内容は、ほぼ完璧に理解できている。アリナがいない日くらい、深呼吸するようにぼうっとしたっていいじゃないかと、千紗は朝から妙にやさぐれた気分だった。
 彼女は今、購入以来肌身離さず持ち歩いていたケータイを所持していない。アリナに責められた夜、なくしたのだ。「こんなものがあるからふしだらなことをするんだ」と、忌々しげに言った彼女が、台所の金だらいに張った水につけて、ダメにしてしまったのである。
 自分は決して「愛している」とも「好きだ」とも言わないくせに、千紗を縛りつけたがり、男と関係したことに激昂するアリナ。夫の浮気をなじる嫉妬深い妻のように千紗を罵倒し、暴力をふるう彼女は、ラプンツェルを束縛する中年の魔女にも似ていた。
 大音量でお気に入りのフォークやメッセージソングを流し、アリナは炭酸飲料をしこたま飲んだ。ヤケ酒するみたいに。
 休み明けの今日、学校に来ていないのは、未だにふてくされているからだろうか。昨夜別れてからあとのことは知らないので、彼女が今どんな気持ちでいるのかは分からない。昨日はお互いほとんど黙ったまま、白黒ビデオの乱れた映像を眺めていた。画面の中では、かなりの人数の学生たちが一致団結しているというのに、たった二人の自分と彼女が背を向け合っているのは、何とも奇妙な気がしてならなかった。
 千紗は授業をぼんやりと聞き流し、一日、空き缶になったようにほとんど何も考えずに過ごして、下校時間を迎えた。いつも、コンビニに少し寄るくらいで早めに帰宅するのだが、今日はなぜか帰りたくなかった。
 家とは違う方向に伸びている道を選んで、あてもなく歩いてみる。アリナの家にだけは近寄る気になれなかったので、その方面は当然避けた。
 アリナから何の指示も与えられない日は、中味の入っていないシュークリームのように空虚で、千紗は、一日を消費した実感を得られなかった。彼女なしの生活はありえないのではないかと気づき始めているのに、その一方でそれを否定する自分がいる。
(あんな女のいうことなんか、二度と聞くもんか)
 いっそこのまま、知らないところへ逃げてやろうか、と思う。アリナの声の届かない場所で、独りになってやり直したいと。
 その逃避行が非現実的なものであることは、高校二年生の千紗には、十分に分かるのだが。どこにいても首輪をはめられたままのようで、自由になれない自分にいやけがさしていた。
 千紗は目的もなくぶらぶら歩き、「水際公園」と名付けられた多目的広場にたどり着いた。幅の広い川のそばのその場所は、祭のときには出店を並べるスペースとして利用され、小規模の野外演奏会などの会場になることもある。
 学校帰りらしい女子高生の二人組が、石のベンチに腰かけて、アイスクリームを食べていた。肩が触れ合うくらいの距離で座り、たわいないことを大事件のように大袈裟に語って、明るい笑い声を弾けさせている。
 とても仲がいいのだろう、それぞれ違う色のアイスクリームを一口ずつスプーンですくって、食べさせ合っていた。
(最後にあんなことしたの、いつだっけ)
 千紗は、高校などとっくに卒業した中年女のような枯れた気分で、自身を振り返る。アリナの家でアイスクリームを食べたことはあるが、そのときはスプーンですくってではなく、冷たい床に腹をつけて舐めたのだ。アリナは黒革のブーツの甲に高級バニラアイスを盛って、千紗に与えた。「靴を舐めろ」というのと同じだ。朦朧としていた千紗が、懸命に舐め取ったアイスは、微かに牛革の臭いがした。
(何であたしたち、普通の友達同士じゃいけなかったのかな)
 突然襲われたときから、二人の間には上下関係ができ、千紗はアリナの命令を唯々諾々と受け入れて今日まで来た。アリナもそれを「指導」という善意の行為と信じていて、千紗に暴行を加えたことも後悔はしていないようだった。
 物見と一夜をともにしたことは、千紗から彼女への反抗だったのかもしれないが、その行為によって自分の居場所がどこかを思い知らされたのはむしろ、千紗のほうだ。理解不能の性癖を持ち、「愛」という感情が欠落しているようにすら見えるアリナを、千紗は自分でも気づかぬまに支柱としてあがめ、絡みついて依存していたのだ。
 二度と会うまいと何度誓っても結局、千紗はアリナのもとへ向かってしまう。全裸で床に這わされ、血の通っていない疑似ペニスで貫かれなければ、自分を確認できなくなっているのである。
 楽しそうに戯れている少女たちを見ているうちに、物見と偶然再会した日のことが、蘇ってきた。あの日、気まぐれを起こして喫茶店へ行きたがったアリナは、物見が現われなければ、何か語ってくれていたのだろうか。二人の間にも、あの女子高生たちのような対等の友情が、わずかでも芽生えていたのだろうか。起こらなかったことは、どんなに考えても妄想でしかない。
 ぼんやりと二人の少女を見ていたら、ふいに誰かが後ろから呼んだ。
「城木!」
 名字のほうで呼ぶのは、中学時代の友人たちか、高校の教師たちだ。
 力の入らない首をゆるりと回して振り返ると、ユミコが公園の入口に立って手を振っているのが見えた。千紗がその場から動かずにいると、何か伝えたいことがあるらしく、ユミコは犬のように駆けてくる。
「どしたの?」
「どしたの、じゃないって。探してたんだよ、城木のこと」
 もしかして、物見に関することで何かあったのだろうか。
「あたし、物見クンとはもう会わないよ」
 先回りして言ったら、ユミコが首を振った。
「そうじゃないよ。城木をいじめてた奴をさ、浜倉たちが許せないって言って、シメたんだよ。城木、もう自由だからさ、大丈夫だって、伝えてこいって……」
 何の話だかさっぱり分からない。
 久しぶりに聞く浜倉という名に、千紗は中学時代の後輩の顔を思い出していた。激しくてケンカっ早い性格の少女で、髪はいつも橙色、手に負えない不良で教師たちを困らせていたが、なぜか千紗にだけは従順だった。
 当時千紗は不良ではなく、ごく普通の少女だったのだが、なぜか同性によくモテて、下級生からラブレターをもらったこともあった。その中で、誤字脱字だらけでありながらいちばん情熱的な手紙を書いてきたのが、浜倉だったのである。彼女は中学を卒業後、暴走族の少年と同棲し始め、前会ったときには、結婚するとかしないとかでモメていると言っていた。定時制高校に進学したので、今はユミコの後輩でもある。
「あたし、いじめになんかあってないケド」
 早とちりの浜倉の誤解で、不必要な犠牲が出ていなければいいな、と千紗は優しいことを思う。
「嘘つきなって。抜目アリナってコに相当ひどいことされてたんでしょ」
「……」
 千紗の眉が寄った。
「まさか、シメたって、アリナを?」
「だと思うよ。浜倉から、ケータイにメール入ってたもん。城木、メールしても返事来ないし、電話つながんないし、家にもいないし。ケータイどうしたの?」
「なくした」
 本当は、アリナが水没させたのだ。
「ねぇ、アリナをシメたってマジなの?」
 千紗はなぜか冷静だった。あの強いアリナがそんなに簡単にやられるわけがない、と信じる気持ちが勝っていたのだ。
 しかし、ユミコは縦に首を振る。
「けっこう本気でボコッたみたい」
 千紗には、「誰かに負けたアリナ」というのが想像できなかった。痛めつけられたと聞いて、「ざまぁみろ」と嘲笑う気持ちを、「何てことをしてくれたのだ」という憤りの両方が湧いた。二種類の感情が拮抗して、千紗を無表情のまま硬直させているのだった。
「信じられないだろうから、連れてきてその目で確かめさせてあげてって、浜倉がメール送ってきたんだよ」
 ユミコは、浜倉たちにパシリとして使われているようなところがある。気前がよく何でもしてあげるタイプの彼女は、後輩から頼りにされることと、都合よく利用されることが半々だった。
「それで、浜倉たちどこにいるの?」
 千紗は、ケガ人に現在地を尋ねる救急隊員のように落ち着いた声で訊く。
「アリナってコの家。浜倉のグループにたまたま、あのコの家知ってる奴がいたらしくて」
 千紗をさんざん嬲りものにしたあの「塔」の中で、アリナは魔女狩りに遭ったらしい。
「行くよ」
 逃げてきた道を戻ることになると気づいていながら、千紗は躊躇せず足を踏み出した。


 血の臭いが、鼻の奥の粘膜に絡みつく。昨夜この家を出たときには漂っていなかった悪臭が充満していて、ドアを開けたとたん流れ出してきたのだ。
「浜倉ぁ」
 靴のまま玄関から上がりこみ、奥へ向かって、ユミコが呼んだ。
「城木、連れてきたよぉ」
 ふまじめな彼女だが、ケンカなどの暴力沙汰にかかわったことはない。初めての事態に身体の線が小さく震えて、その恐怖を伝えていた。あれだけアリナに憤りを覚えていたユミコでも、だいぶひどい状態になっているに違いない彼女を見るのは恐ろしいのだろう。
「あ、せんぱーい。上がってきてください、みんな二階にいますからぁ」
 浜倉の声は、至って明るい。まるで、バーベキューでもしていて、肉が焼けたことを伝えるときのようなトーンだ。
 千紗は、ためらっているユミコを押しのけて、階段のほうへ行った。木の階段にまで紙類や布きれが散らばっており、激しい乱闘があったことがうかがえる。
 二階の暴行現場のドアは開いていて、見知らぬ顔の群の中に、浜倉の眉のない顔があった。大量の血が床を濡らし、家具にも彼らの服にもはねている。
 アリナは、無残な姿で床に転がされていた。ぴくりともしないので、意識はおそらくないのだろうが、腹が動いているので息はあると思われる。
「アリナ!」
 自分でも意外だと驚きを覚えながら、千紗は彼女に駆け寄っていた。取り囲む浜倉たちの目をものともせず、自慢の金髪と白い軍服を血で汚しているアリナを抱き起こす。髪を黒に戻して登校準備をする前に襲われたのだろう。気高さを感じさせる濃いメイクが丸のまま残っていた。血で汚れた口唇は薄く開き、頬には靴の跡が散っている。
「城木先輩、うちらがそいつシメたの、うれしくないんスか」
心外だと言わんばかりの声を出して、すねている様子の浜倉を、千紗は、床に座り込んだままで見上げた。
「うれしいよ」
 だって、あたしはアリナに苦しめられていたんだから。
 顔を踏まれたこともあったし、あれこれ理不尽な命令を下されて振り回された。
「そいつ、城木サンに二度とひどいことしないって、一筆書きましたよ」
 浜倉より年下らしい小柄な少女が、血で汚れた紙きれを広げて見せる。
『もう二度と、城木千紗に危害を加えません』
 ときれいな字で記された下に、アリナの署名と拇印があった。千紗の指導者を自負していた彼女のどこかに、「危害を加えている」という自覚があったのだろうか。浜倉たちが無理やり書かせたのに違いないが、気を失っているアリナは、はたしてどんな想いでこれをしたためたのだろう。
「アリナと話したい」
 つぶやいた千紗の声を、そばにいた体格のいい少女が拾った。
「いいっすよ」
 彼女はためらうことなく、とがった靴の先端で、アリナの頭を蹴る。ぐっと喉を鳴らして、アリナは意識を取り戻した。視界の中に現われた千紗と視線が合って、そのうつろな目は見開かれる。
「千紗」と口唇が動いたが、かすれた息が二つこぼれただけだった。
「みんな、出てってくれる?」
 千紗は、浜倉たちを見回す。
「もう帰ってくれていいよ。あたし、すっとしたから。下にいるユミコにも言って」
「承知しやした」
 しばらくの間を置いて、浜倉は敬礼のポーズをとってうなずいた。憎まれ口もきけぬほど弱っている敗者ににやりと品のない笑みを贈って、彼女らは足音高く退場していく。
 昨日までは確かに壁に貼られていたポスターや、アリナの大切なレコードのコレクションを、いちいち踏みつけて。
 台風が通過した直後のような静寂が、残された二人を包んだ。血の臭いにも慣れて、千紗は不思議と、凪いだ海に似た気持ちで、満身創痍のアリナを見下ろしている。
「……ゲバルトは、美しい?」
 自分たちの姿が鏡に映っているのに気づいて、アリナの顔をそのほうに向けさせながら尋ねた。
 細い首は、縦にも横にも揺れない。呼吸がせわしなく響いて、千紗の腕の中にある肩が、二秒に一回くらいの割合で上下していた。
 死ぬかな、と千紗は一瞬怖くなったが、傷は多いものの致命的なのは見つからない。大丈夫なほうに賭けたくなった。
「おまえ、もう、私の指図は受け……」
 なくていいんだぞ、と続けようとしたのだろうか。アリナはそこで激しく咳き込んだ。
「受けないよ」
 千紗は、ふてくされた声で言う。
「もう、教えてもらうことなんてない。アンタに好き勝手されるの、いいかげんくたびれたしね」
 王子様たちの思いがけない乱入によって塔を壊され、囚われのラプンツェルは自由を手にした。しかし、塔に残されて醜く息絶えるであろう魔女を見捨てていけるほど、彼女の心は単純ではなかったのだ。いつのまにやら、愛着のようなものが育ってしまっていた。
「あたし、アンタに抱かれるのヤだった」
 千紗は不満をぶちまける。
「アンタいっつも、服着たままだし、ヘンな道具使うからさ」
 今日なんて、二度と顔を合わさずにすむ場所まで逃げてやろうとしていたくらいだ。もちろん、性の不一致以外にも原因はあるのだが。
 白い軍服の襟元を乱暴に掴み、千紗はボタンを引きちぎる。
「ねぇ、一回くらいあたしの前で裸になってよ」
 千紗の要求を拒むように、アリナは胸元の布をかき寄せる。
 庇おうとする腕を押しのけ、千紗は彼女の上に馬乗りになった。普段なら、腕力ではとうていかなわないが、今は違う。相手は傷だらけの上、極度に疲労していて、いつもの半分も力が出せない状態だ。
 千紗は、プレゼントの包装を破く子供のように無邪気で残酷なやり方で、アリナの服を剥ぎ取った。硬い軍服もどきの下、柔らかな肌に包まれた裸体は痣だらけで、白い雪に紫の薔薇が咲いている光景に似ていた。
「千紗……っ」
 苦しげな声が、中止を求めて空気を震わせる。
 ブラジャーのホックを引きちぎり、真っ白でつるつるした素材でできたパンティーを毟り取って、千紗は仕事を終えた。
 これからは、指図は受けないし指導もされない。代わりに、今度はこちらが相手を屈服させるのだ。千紗は、瞳にたっぷりの好奇と侮蔑をこめて、筆でなぞるようにじっくりと、アリナの肉体を見下ろした。
 いかり肩に繊細な鎖骨、意外に豊かな胸とへこんだ腹、非の打ちどころのない美しいものを、なぜこれまで頑なに隠し通していたのか。彼女の身体は至って普通で、女にあるべきものは存在して、ないはずのものは見当たらない。傷ついてはいるが、十分に鑑賞に堪える、芸術品のような天然の逸品だった。
 千紗は、コンセントを珍しがって指先を入れてみようとする子供のように、無垢な表情で、アリナの秘密の場所を探る。あぁ、彼女の身体に入った亀裂も、どこかに続いているのだろうな。と、女体の神秘らしきものに触れた感動が湧いてきた。
「千紗……」
 アリナの首が、拒絶を示すように揺れる。
「アンタがいつもやってたことじゃん」
 指ではなく、作り物のペニスで。そういや、あれはどこにいったのだろう。浜倉たちは、あの奇妙な物体を見ただろうか。引き出しは床に投げ出されていたが、中はからっぽだった。
 あの人間味のない道具でいきなり貫かれると痛い、ということを彼女に教えてやりたかったが、それはまた今度でもいい。
 千紗は一度、どうしてもやってみたいことがあった。アリナに伝えたいと思いながら、ずっと胸の奥に押し殺してきた欲求が。
 制服のネクタイをほどき、アリナの手首を縛りあげて、千紗は自分のスカートのホックを外す。パンティーを下ろして、ブラウスを脱ぎ、ブラジャーも取ってしまった。
 ――何をする気だ。
 声を出そうとしたアリナの口唇に、自分の口唇で蓋をして、初めて彼女に口づける。物見と試した心の伴わないそれよりも、ずっと生々しくて、人間の味がした。血液、唾液、リップクリームの匂い、歯の感触。
 口唇を合わせながら、アリナに覆いかぶさっている千紗は、剥き出しの身体を擦りつける。胸の先が触れ、内臓の動きが伝わり、普通他人と触れ合わせることのない場所まで重なりあった。
「一度、生身のアンタと混じってみたかった」
 千紗は、笑っているのでも泣いているのでもない、複雑な表情を浮かべて打ち明けた。
「たまにはラジオもテレビもないとこで、しようよ」
 恋人同士みたいにさ。
 リアリティーのないセックスかもしれないけど、あたしたちの関係自体、あやふやでめちゃくちゃで、ありえないものなんだから。誰に間違ってるって言われたっていい、あたしアンタとべちゃべちゃになるくらい混じりあいたいの。
「……愛してるよ」
 千紗は、嘘だか本当だか分からないことを口にした。
 アリナは、「私も」とは言わなかった。
 ただ、見ようによってはうなずいていると取れなくもない動かし方で、首を浅く一度縦に振った。
「姉上が帰ってくる」
 アリナが途中、うわごとのように漏らした気がしたが、ようやく手に入れた恍惚を貪る千紗にはもう、届かなかった。


 アリナのお姉さんは結局、帰ってこなかった。修羅場を演じたあとの部屋で、千紗が再び目を覚ましたのは、しんと静まり返った真夜中だった。
 電気はつけたままだったので、隣に横たわって死体のように眠っているアリナの姿と、荒れ放題の室内がよく見える。非日常の光景のおかげで、一瞬で覚醒できた。
 冷静になって考えてみれば、背筋が冷たくなってくる。自分は何てひどいことをしてしまったのだろう。集団による暴力で傷ついている者に対して、さらに屈辱的な行為を強いるなんて。けれど、アリナも千紗に同じようなことをやってきたので、おあいこといえばおあいこだ。
「ん……」
 罪滅ぼしにもならないが、口元にこびりついた血を拭いてやっていたら、アリナが目を開いた。豹を思わせる鋭く美しい瞳に、千紗の姿が丸々写し取られる。
「おはよ」
 他にかける言葉を思いつかなくて、千紗はわざと軽やかに言う。「あぁ」
 アリナは一つ、欠伸をした。
 気を失う前までのことなど記憶から抜け落ちてしまったかのように、いつもの彼女だった。
「姉上、は」
 ぎしりと軋みそうな上体を起こし、緩く首を動かす。
「帰ってこなかったよ」
 千紗は服を拾って身につけながら答えた。
 ほっとしたように、アリナはまた床に横になる。まだあちこち痛いのだろう。
「アリナ、お姉さんにビビりすぎ。そりゃ今みたいな状態見られたらヤバいの分かるけどさ」
 そういえば千紗は、姉妹の関係やアリナのこれまでについて詳しく聞いたことがない。
「昔っから仲悪いの?」
「いや」
 昔は仲のよい、普通の姉妹だったさ。
 アリナは、目を閉じていた。
 千紗の前に晒された裸体を隠そうとあがくよりも、自分が目を閉じたほうが楽になれると、気づいたのかもしれない。服を引き寄せるのもだるいらしく、生まれたままの身体を冷たい床に転がしてじっとしていた。
「姉上は、私の思想を理解しなかった」
 思想というのは、例の騒々しい演説ビデオで繰り返されていた、反戦・反体制とかのことだろうか。
「いや。要するに、大きな柱に自らを寄り添わせて安寧を得ようとする、私の生き方そのものだよ」
 あまり頭を使わず、気の向くまま素直に単純に生きてきた千紗には、アリナの語ることは難しすぎて理解しがたい。
 噛み砕いてくれたので少し分かるようになったが、つまりこういうことだ。
 抜目アリナは、運動だのデモだの、大勢が一つの理念を掲げて結束する状況に憧れを抱き、その様子を見たり想像したりすることで興奮と安らぎを覚える。自分という利己的な個人の感覚が淡くなって消え去り、理想の実現のみに身を投じる美しい生き物になっていくことこそを、幸福だと捉えているのだ。
 それに対し、姉は、あくまで己一人の価値観で決めた幸せを追求するタイプである。身を飾り媚を売って一人の男の関心を引き寄せ、つがうことで充足を得る。
 妹の目に映る姉は、近頃の世に溢れる動物的で自己中心的な人間でしかなく、姉から見た妹は、奇異で理解不能な化け物だった。
 二人は、アリナが中学に上がった辺りからろくに口もきかなくなり、最近では顔も見ないという。千紗が来ているのも露骨に無視するような人だったので、アリナに関するものはすべてきらいなのだろう。
「同じ親から生まれたのにな」
 顔も覚えぬうちに亡くなった母と、単身赴任をしていて姉妹には無関心の父から生まれた二人は、血のつながらない他人よりもよそよそしく暮らしているのだった。
(もしかして、それであたしに趣味押しつけてくるの?)
 誰にだって、他人に理解されたい、同じことに興味を持って感情を共有してもらいたいという欲求がある。最近ではインターネットなど他人とつながる手段が発達しているから、無理に身近な者を選ばなくても目的は果たせるし、そのほうがかえって大勢と趣味を共有できるのに、アナログなところのあるアリナはそうしなかったのだ。表向きは「不良生徒の矯正」という重要な任務のようだったが、実際には嬉々として己の欲を満たしていたようなところがある。千紗は知らぬ間に、アリナの孤独の亀裂を埋める、コンクリートの役目を果たしていたのだ。
 残念ながら、千紗はどちらかというと姉のほうに近い人間で、個人の幸せ最優先で生きていたが、肉体関係を持ったぶん、不仲な肉親よりも、密接な距離にいるかもしれない。これまではペニスバンドやバイブで弄ばれるだけの受動的な存在だったが、昨夜生身で絡み合い、初めて能動の立場に立った。その小さな変化で「愛情」めいたものを確信した千紗は、思想の部分はともかく、肉体的に、アリナにとって最も身近な人間になろうとしている。
「いっそ、あたしのことお姉ちゃんだと思いなよ」
 寂しい境遇の彼女に同情したわけではないが、何回もセックスした仲というよしみで、千紗は手を差し伸べる。
「姉妹で肉体関係を持つのか」
 アリナはおかしそうに笑って、胸の傷に響いたらしく、再び激しく咳き込んだ。


「ねぇ、何書いてんの?」
 机に向かっているアリナの背後から、千紗はふわりと覗き込む。濡れた髪からフローラルの匂いが舞った。
 他人の家で長風呂をした千紗は、泊まりの用意をしていなかったので、アリナの服を借りている。初めて袖を通した長ランは、細身の千紗によく似合って、拡声器を持たせれば、すぐにでも集会が開けそうだった。もっとも、千紗には、声を大にして叫びたい主張などなかったが。
 アリナは問いに答えないで、書いていたものを無言で千紗に渡した。
「何だ、投書か」
 最近発覚した政治家の献金問題に関する意見を、「檄文」と呼びたくなるような熱く古臭い文体で連ねてあるのだった。宛先は、週刊誌の読者コーナーだ。今どきこれほど政治に関心を持ち、悪を糾弾して辞さない正義の若者は珍しい、と担当者に評価されていたのを見たことがある。
 物の少ない机の上には、交換日記とインク壺と辞書くらいしか見当たらない。千紗の前にシャワーを浴びて、汚れを落としたアリナは、新しい軍服をしっかりと着込んで、国への報告書をしたためる将校のように、書き物をしていた。金髪のままのところを見ると、今日は登校しないつもりなのだろう。
 アリナの長い髪からも、千紗と同じシャンプーの香りがした。千紗はテレビのスイッチを入れ、朝のニュース番組を見ながら、届いたばかりの朝刊に目を通す。アリナとの三カ条は、昨日で失効したはずなのに、彼女の中では続いている。占領が終わっても、敵国の言葉を忘れられない植民地の民のように。
「そういや、浜倉たち、どうやってここ来たの?」
 どこかよその街での暴行事件のニュースを聞き流しつつ尋ねる。
「突然押しかけてきた。バイクを連ねて。あとから自転車の奴らも追加で来たな。名前を確認されたあと、『城木先輩のかたきだ』って。熱心な信奉者がいるんだな、おまえには」
 淡々と語るアリナは、怒ってはいないようだった。
「あたしがちらっと言ったことでブチッときちゃったんだよ、たぶん」
「義憤に駆られたというやつか。いいな」
 他人事のように、批評するアリナ。
 敵ながらあっぱれ、ということか。大勢で一人を襲うような卑怯なやり方で痛めつけられたのに。
 千紗が命じたわけではないとはいえ、暴力沙汰を挟んでも、二人の仲はおしまいにならなかった。むしろ、主従でも「指導する者・される者」でもない関係へと移行し始めていた。
(あたしはもう、囚われの身なんかじゃない)
 自ら進んで塔に住まう者だ。やや不鮮明にではあるが、「出ていくもんか」と思っていたりする。昨夜、アリナと肌を合わせて交わったときに彼女は知った。自分はこれがしたかったのだと。
 物見とした行為の何倍も有意義で、互いに悦楽を極めることができた。ユミコや浜倉たちには悪いが、自分はもう完全に、戻れないところまで来てしまっている。
「アリナ、こっち向いて」
 振り返った彼女の顎を取り、口づける。
 鏡に映る異様な服装の二人は、この銀色の四角の中でなら不思議なくらい自然に、世界に溶け込んで見えるのだった。


読んでくださりありがとうございました。

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