挿絵表示切替ボタン
▼配色







▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる
<R18> 18歳未満の方は移動してください。 この作品には 〔ボーイズラブ要素〕 が含まれています。

誰の幸せを願おうか

作者:伊織アヤト
母親が再婚すると言ったとき、素直に喜べた。
自分が自立したときに母が一人になるのが不安だったからだ。
ただ、その相手を連れてきたとき絶句した。
小さい男の子に足を掴まれながら棒立ちになっている男は、困ったように眉尻を下げて乾いた笑い声をあげる。
母がその男を紹介するように腕を引っ張った。

瀬戸久秋(せと あきひさ)さん」

嬉しそうな母につられて笑顔になるけれど、正直きちんと笑えている自信はない。
だって知っているのだ。男の名前も、顔も。

「この子が息子さんの紅葉(もみじ)くん」
「こ、こんちには…」

瀬戸の足に掴まっていた男の子は、背中を押されて挨拶をした。
息子がいるとは知らなかった。
そんな話は一度も聞いてない。

母が今度は自分の息子の腕を引っ張る。

「で、こっちが私の息子の諒平(りょうへい)。現在高校三年生」
「どーも」

目をそらしながらぶっきらぼうに会釈をする。
瀬戸も気まずい表情をしていることだろう。

「受験が近いからピリピリしてるの、ごめんなさいね」

母が愛想の悪い息子をフォローする。
瀬戸は「いやいや」と首を振った。
受験のことが関係ないと分かっているのだ。

昔付き合っていた相手が父親になるなんて思いもしなかった。



 +++



「オッサンはやめとけ」

彼は何度もそう言った。
けれど、年齢も性別も関係ないと思えるほど好きになってしまったのだ。
仕方ないと思うしかなかった。
瀬戸の言葉に「知らない」と諒平が答えると瀬戸は苦笑して「しょうがないな」と頭を撫でた。
それが心地よかった。
別れを切り出したのは瀬戸だった。
今まで何人かと付き合ってきたが、未練の残ったのは彼だけだった。
それでも、仕方のないことなのだと自分に踏ん切りをつけたのは最近。

「ってわけで元彼が義父になった」
「オモシロい話のネタをどーも。おかげで昼飯が美味い」

友人の紺野(こんの)が棒読みにそう言う。
じと、と紺野を睨みつけながら諒平は瀬戸の作った弁当をもそもそと食べる。
懐かしい、と思ってしまう。
朝には自分でいれたブラックコーヒーを飲むこと。
自分で作った料理しか食べないこと。
ご飯を食べた後にタバコを1本吸うこと。
すべてが懐かしい。
この弁当も味付けも。

「今まで通り草薙って呼んでいいんだよな?」
「俺って分かれば呼び方なんかどうでもいい」
「言うと思った」
「つか話はそこじゃない」
「瀬戸サンだろー?いい男だった。……っけ?」
「まぁ…いい男ではあった。けど息子がいるとは知らなかった」

瀬戸と付き合っていたのは二年ほど前だ。
半年付き合ったが、一度もそんな話は聞いていない。

「息子いくつ?」
「小三。なんか俺にビビってるのか人見知りなのかいつも瀬戸の傍にいる」

一緒に住み始めてから、一週間。
瀬戸とは一度も会話らしい会話はしていない。
向こうも会話をしてこようとはしない。
ずっと息子の相手をしているからだ。
食の好き嫌いを減らすため一緒にご飯を食べ、小学校の送り迎えをし、風呂上がりには髪を拭いてやる。
甲斐甲斐しく世話を焼いている。

「何、やきもち?」
「…ちげー」
「嘘くさ」
「うるせ」

嫉妬などできる立場ではない。
母も嬉しそうにしているのに、和やかな空気を壊すわけにはいかない。

「俺って我慢強い…」
「前言撤回しろ、嫉妬してんじゃねぇか。それよか近々、頭髪チェックあるから戻しなよ」
「えー…めんど…」

せっかくキレイに染まったのに、と唇を尖らせる。
校則違反の金髪も、ピアスも瀬戸は似合ってると褒めてくれた。
だから、というわけではないが。

「……」

瀬戸が自分に与えた影響は大きかったらしい。
だはぁっと溜めた息を吐き出した。

「黒に染めるー」
「俺は黒も似合うと思う」
「戻しても笑うなよ。笑ったらビンタ」
「しっぺで」
「笑う気満々かこら」



 +++



バイト先も、よくこんな頭で通ったなと思う。
コーヒーショップでの仕事をこなし、ロッカーで着替えていた先輩を捕まえる。

「先輩、頭染めんの手伝ってー」
「おー。お母様に頼むのはちょっとなぁ…」
「逆プリンは回避したい」

少し広めのバックヤードにイスを用意して、座る。
後は先輩にヘアカラーリング剤を渡して諒平は目を閉じた。

「キレイに染まってんのになー」
「やっぱ勿体ない気してきた…」
「もう後戻りできません」

ぺと、と頭に冷たいものが当たる。
この状態で止めると、逆プリンよりひどくなる。

「やー、頭髪チェックあるし、黒でいーっす」
「じゃあ遠慮なく」

わしわし。
ビニール手袋と髪が擦れ合う音がする。
キレイに染められた金髪が黒へと染められてゆくのが目に浮かぶ。

「お。草薙が槌谷(つちや)にいじめられてる」
「髪染めてるだけっすよー」

突然やってきた声に、そろっと目をあける。
バイトの先輩である玉木(たまき)だ。
玉木が勢いよく入ってきたためか、槌谷がびくりと震えた。

「あ、悪い。制服についた」
「え!」
「ありゃー…落ちねぇな」
「落としてくる」
「今から20分安静」

ぐっと二人に肩を押さえられて、椅子へと押し戻された。
20分経って、お湯が出る洗面所で頭を流す。
鏡に映る久しぶりの黒髪の自分は誰だかわからなかった。
明日学校で紺野に笑われることを覚悟する。
ビンタは2回にしよう。

「どー?」
「自分かどうか分かりません」
「キレイに染まってんね」

玉木が真っ黒になった髪をタオルでガシガシと拭く。
ふと、瀬戸を思い出した。
優しい父の表情で息子の髪を拭いている。

「…先輩もう乾きましたから」
「しっかり拭かねーと風邪引くぞ」
「受験生なんだから気にしろよ」

槌谷がぺしん、と軽く頭をはたく。
意地悪してやろうという気になって、にやりと笑う。

「制服汚れてるって減点されたら先輩どうにかしてくださいね」
「ブレザー脱いでけ」
「風邪引けと」
「きれいに染まって良かったなー」
「それはありがとうございます」

槌谷の棒読み加減に苦笑しながら礼を言う。
ガシガシと自分で軽く髪を拭いて、帰り支度を始める。

「飯食って帰らねー?」
「乗った!」

槌谷の提案に玉木が挙手する。
それから槌谷は諒平を見た。

「俺はパスで…家で食います」
「おやま。お母さん一人では食べさせらんないか」
「いや。再婚して、仲良くなるためにできるだけ家族でいようって母さんが」
「そっかぁ…なら仕方ないなー」
「また誘ってください」
「誘う誘う。槌谷奢りで」
「大学受かったら奢ってやるよ」
「マジで!?」
「玉木は自腹な」

嘆く玉木と当然だと言いたげな槌谷に挨拶をして店を出た。



「黒にしちゃったの?」

家に帰って母に、おかえりよりも先にそう言われる。

「ピアスも外しちゃったのねぇ」
「頭髪チェックがあるんだってさ。あと受験生の自覚持てって怒られた」

嘘はついていない。
それでも少しだけ心に引っかかるものが残る。

「似合ってたのに」

ポツリと呟いた母の言葉には苦笑するしかなかった。

「親の言葉じゃないよ」

部屋に戻る途中、風呂から出てくる瀬戸と目が合った。
少し驚いた顔をしていた。

「ただいま」
「あ、あぁ…おかえり」
「着替えたら晩飯食うから温めといてください、義父さん」

瀬戸の顔は見れなかった。
見て言える自信はない。
部屋のドアを閉めて、もたれかかる。
溜め息がこぼれた。

もうアンタを想ってる俺じゃない



 +++



「ちょっと!なんでもう振りかぶってんの!?」

紺野と教室で顔を合わせ、ビンタをする動作に入ると紺野が叫んだ。

「あ?笑うと思った」
「笑わねーよ。似合ってるし」
「それはそれでキモい。ビンタしていいか」
「なんでそんな血の気多いんだよ…俺が何かしたか!」
「なんか殴りたい」
「理由になってねーよ」

紺野がため息をついて席に座る。
それを見て、大人しく諒平も席についた。
体を横に向けて、後ろの席の紺野と話しやすい体勢にする。

「何かイラついてんの?」
「…べつにー」
「嘘つけ」

ぽこん、と筆ばこで諒平の頭を叩いた。
痛い、と拗ねたような口調で頭をさする。
話す気がなさそうな態度を見て、また紺野はため息をついた。

「ピアスもやめたの?」
「校則違反だろ。印象悪いだろうし」
「お前がそんなこと言い出すとはね」
「受験生なの自覚しろって怒るのお前だろー」

呆れたような紺野の態度に、諒平は唇を尖らせた。
真っ黒になった見慣れない髪の毛を、わしわしと指を突っ込んでかきまぜる。

「なに」
「黒髪もピアスしてないのもヘンじゃないよ。草薙って色白いし美人だから何でも似合う」
「褒められてる?」
「何も出さなくていいからな。今のお前からはビンタしか出ない」
「お望みとあらば」
「ちょ、拳!拳!」
「紺野、HR始めるから黙れー」
「ぅあ、はーい!」

担任にヤケ気味に返事をする紺野に、してやったりとにんまりと笑ってみせると悔しそうに睨んできた。



諒平が黒髪にしたというのはすぐに広まった。
諒平は見目が良く、男女問わず人気があるため噂好きの女子が広めたのだろう。

「見に来てるな」

昼休み、パンをかじりながら紺野が言う。
鬱陶しそうな目で諒平を睨みながら。
睨まれる諒平は窓の外に視線を流す。

「落ち着いて食えないな」
「…俺のせいではない」

廊下の窓や扉から男子や女子が数人覗いている。
透き通ったような金髪から艶のある黒髪になった諒平を見に来たのだ。
好奇の目に晒されてだんだんと居た堪れなくなる。
まだ弁当のフタすら開けていないのは、視線でお腹いっぱいになったのだろうか。
紺野は少し考える。

「弁当ちゃんと持ってろ」
「え?…っおわ!」

黄色い悲鳴が上がる。
紺野が諒平を軽々と肩に担いだからだ。

「ちょーっと揺れますよ」

紺野は車を運転してるかのような台詞を、冗談めかして言って、諒平はしっかりと弁当を握る。
そして堂々と歩きはじめる。
集まっていた女子生徒たちは困惑気味だ。
扉を通りすぎるとき、その中の一人が声をかける。

「あの…草薙くん……」

どうするの?と言いたげだ。
紺野はにんまりと笑う。

「草薙と二人きりになりたいんだよ」

間。
周りが沈黙する中、諒平を担いだ紺野はすたすたとその場を後にした。
立入禁止の冊を越え、屋上の扉を開けた。

「草薙と付き合ってる説が濃くなっちゃった」

屋上に腰を落ち着けて、紺野は悪い、と謝る。
諒平はその隣に座って一言。

「別に困らん」
「そう言うと思ってた」

「男前ー」と茶化す。
それを聞き流しながらようやく諒平は弁当を広げた。

「てかまだ紺野と付き合ってるなんて噂あったのか…」
「こないだ女の子に告られたの断ったら、やっぱり草薙くんと付き合ってるんですね…って落ち込まれた」
「お前に告る物好きがいたなんてな」

紺野はパンをかじりながら、隣で義父の手づくり弁当に複雑な表情をしている友人を見遣る。
それから諒平とつるむようになった行き先を思い出した。



諒平とは一年生のときからクラスが一緒である。
入学当初から金髪だった諒平はどこか浮世離れした雰囲気を持っていた。
さらにのっけから問題児だった諒平にわざわざ話し掛ける者もおらず、それを気にかけることもない諒平は自然と孤立していた。
そんな諒平に臆することなく話し掛けたのが紺野。
単純に授業のノートを取り忘れていたから貸してくれと目の前に座る人物に言っただけだ。
諒平は見た目に反して授業中に寝ていたりすることはない。それどころか成績優秀だ。
諒平に借りたノートは綺麗に色分けされていて丁寧だった。
そのギャップがおもしろくて何度か話し掛けるうち、見た目より男前な性格だと知った。
色白で釣り目がちな色気のある目に筋の通った鼻。美人、眉目秀麗という言葉がぴったりな顔つき。
女装でもすれば、色っぽい姐さんにでも見えるんじゃないだろうかと思っていた。
それが草薙が気まぐれに入った生徒会により実現することになった。
その時の生徒会の面々は顔立ちが良いのが揃っており、またお祭り好きな生徒会長だったため、誰かが投書した『生徒会の皆さんの女装コンテストなどいかがでしょう』という馬鹿げた提案があっさり通ってしまった。
見目が良いとは言っても、やはり男のがたいで、美人というよりはカッコイイと言われていた面々は見事に似合わなかった。
その中で似合うと持て囃されたのはセーラー服を着て羞恥に俯いていた男子と、黒の着物を着た諒平だった。
セーラー服の男子には様々な声が飛び交っていたが、諒平が壇上に上がると誰もが息を飲んでその色香に静まり返った。
その一件以来、諒平のファンとも呼べる存在が男女問わずに増えたのだ。
毎日のように誰とも知らない相手に、もう一度女装しないかだの好きだのと言われ苛立ちを募らせる草薙を宥めたり八つ当たりを受けたり、その場から避難させたりしていたのが紺野で、唯一諒平が気を許す相手が紺野ということもあり、二人が付き合っているという噂があっという間に流れた。
あの諒平の姿を見た後では男同士でなどと気持ち悪がる者も不思議に思う者もいなかった。

「草薙ー」
「?」
「かわいいワンコを撫でておくれ」
「主人を担ぎ上げるワンコがどこにいる」
「あれは助けたんじゃんよっ」
「ハイハイ」

これで満足か、と頭を乱暴に撫でる。

「あんま溜め込むなよ」
「何を」
「色々。ワンコは主人のイライラを感じ取るんだよ」

そう言うと、撫でる手つきが幾分か優しくなった。
悪いな、と口にはしないが撫でる手が語る。
それを感じ取って紺野は

「わん」

と吠えた。



 +++



日付が変わった0時過ぎ。
寝付くことも出来ず、ウォークマン片手に机に向かっていた。
受験勉強のつもりだが朝にはほとんど記憶に残っていないだろう。
ため息をついて部屋を出る。
風呂に入るかホットミルクを入れるかしようと考える。
ウォークマンを外して、耳に入ってきた声にどきりとする。
向かいの瀬戸の部屋からだ。
母の嬌声に肝が冷えた。
諒平だって女性の喘ぎ声を聴いたことが無いわけではない。
実体験であったりDVDだったりするが、AVのそれより慎ましやかな声。
母にそんな淫らなことをするなと言いたい訳でもないが、あえて聴きたい訳でもない。
その相手か誰かもすぐに分かって、イヤホンをしてウォークマンの音量を上げた。
今までどのくらいしてきたのだろうか。
知っても仕方の無いことをぼんやりと思う。瀬戸の過去に興味を抱いたことはなかった。
けれど一度浮かんだ考えを振り払うことはできなかった。
だから気づかなかったのだ。
階段を降りたすぐ脇のトイレから水が流れた音が聞こえなかった。
とん、と軽い衝撃が足に当たる。
それだけでドサッと子供が尻餅をついた。

「っ悪い……もみじ、だっけ」

挨拶程度にしか話したことがなく、膝をついて顔を覗き込むと控えめに頷いた。

「痛いとこないか?」

小さく頷く。

「こんな時間まで起きてて大丈夫か?寝れないのか?」
「…いつもお父さんと寝るから……」
「……そっか。ホットミルク飲む?」

瀬戸が紅葉の傍にいない理由を言える訳もなく、そう言ったのだが紅葉は少し嬉しそうに頷いた。

「ちょっと熱いから気つけてな」

マグカップを差し出すと、こくんと頷いて紅葉はカップの取っ手を掴んで息をかけてホットミルクを冷ます。
諒平はその様子を見ながらカップに口をつけた。
懸命に飲む姿に思わず目許がゆるむ。
紅葉は一口飲むと、顔を上げて諒平をじっと見つめる。

「…おいしい」
「良かった。飲み終わったら一緒に寝るか?」

紅葉が起きていることも瀬戸は知らないだろう。
諒平もいろいろと考えてしまいそうで誰かがいたほうが寝付けるだろうと思った。
それだけのことなのに、紅葉は特別なことのように目を輝かせて大きな頷いた。
飲み終えたコップを片付けて、一緒に布団にもぐった。
紅葉が躊躇いがちに体を寄せてきたため、ぎゅっと抱き寄せた。
嬉しそうに紅葉は顔を埋め、すやすやと寝息を立てはじめた。
諒平も子供の体温が心地好く、すぐに眠りについた。



次の日、紅葉は瀬戸と風呂に入るのを断った。
ぎゅっと諒平の服の裾を握って「諒平お兄ちゃんと入る」と言った。
母は嬉しそうに顔を明るくし、瀬戸は複雑そうに眉根を寄せた。
それ以降も諒平と風呂に入ったり一緒に寝たりテレビを見ているときに膝に座ってくるようになったりと、紅葉が諒平に懐くのに時間はかからなかった。
諒平も嫌ではなかったし、こうして慕われるのはむしろ心地よく義理の弟として可愛いと思い始めていた。



瀬戸の帰りが遅く、母も出かけて紅葉と二人きりで留守番をすることになったある日。
部屋で教科書に向き合っていると、紅葉がぴと、と体を寄せてきた。

「僕も宿題」

えへへ、と諒平を見上げて紅葉ははにかんだ。
漢字ドリルを開いて、大人しく書き取りに励んでいる姿を見て、諒平もノートに視線を戻した。
書き終えた紅葉は、唸りながら首を捻る。
やがて、自分の中では答えが出なかったのか誰にでもなく叫んだ。

「悪を使って単語をつくりましょう!」
「悪寒」
「おかん?どんな字ー?」
「こんな」

ノートの端にさらさらと書く。
とっさに浮かんだ言葉にしては酷いなと苦笑する。
字を見て、紅葉は顔を明るくした。

「寒い!書けるよ!」
「おー偉いな」
「ふふふー、こないだ習ったもん」

嬉しそうに書きあげる。
できた、と喜色満面にドリルを諒平に見せる。
キレイな字に、よくできましたと頭を撫でた。
一時休憩、とリビングでお茶を飲む。紅葉には牛乳。

「紅葉さ、俺の母さん好き?」
「美代子さんすきっ!諒平お兄ちゃんもすきだよー」
「ありがと。ほんとのお母さんと離れてて寂しくない?」

紅葉は、母親について何も言わない。
「会いたい」も思い出すら。
初めは美代子たちに気を遣って言わないのかと思っていた。
もしくは、新しい環境に好奇心を満たされて、そっちばかりに気を取られているのか。
なんとなく引っ掛かっていたことを聞いてみると紅葉はあっさりと

「さみしくないよ」

と答えた。
いつものはにかんだ表情もなく、ただ本当に寂しくないのだと目が語る。

「お母さんね、あんまり家にいなかったから」
「…そうなの?」
「うん。だから今のお家のほうが好きだよ」
「そか。それなら良いんだけどな」

寂しい思いをしていないならそれでいい。
優しく頭を撫でると、紅葉はまた嬉しそうにはにかんだ。



瀬戸の代わりに紅葉を迎えに行くと、紅葉は何かを言いづらそうにもじもじとしていた。
手をつなぎながら帰る道すがら、どうかしたのと尋ねてみる。
紅葉は諒平をちらりと見て視線を落とす。

「こう君の家に泊まりに行ってもいい…?」
「さっき手振ってた子?」

帰り際、校門のところで母に手を引かれながら紅葉に懸命に短い手を振る男の子がいた。
紅葉も嬉しそうに手を振っていたのを思い出す。
紅葉はこくん、と頷いた。

「居場所が分かってたら母さんは何も言わないけど…お父さん怒る?」
「…わかんない」
「メールで聞いてみるよ」

仕事中に返事があるかは分からないが、一応瀬戸に聞いておくべきだろう。
瀬戸からの返事は家に着くまでに返ってきた。

「いいってさ」
「やった!」
「こう君とこ電話しな」
「うんっ」

バタバタと跳ねるように走って行って紅葉は電話に手をかけた。
諒平は鞄を部屋に置きながら菓子折りは何がいいのかと考える。
制服のネクタイを緩めようとして、送っていくならきちんとしていたほうがいいなと思いなおす。

「紅葉、電話貸して」

相手の親に挨拶をして、準備をして紅葉と家を出た。
途中で人数分のプリンを買って、こう君宅へと向かった。
また挨拶をして、よろしくお願いしますと頭を下げ、紅葉には良い子に、と言い残した。
少し寂しさを覚えながら家に帰ると、瀬戸しかいなかった。

「母さんは…?」
「真子さんと遊びに行ったよ」
「真子さんなら今日は帰ってこないか…」

母の学生からの友人らしく、穏やかに見えるが二人でいるといつまでも話しが終わらない。
子供の頃に一緒にいて二人の会話に入れずよく退屈したものだ。
風呂にでも入るかとため息をついて、瀬戸と目があった。

「…………風呂行って、きます…」
「あ、ああ。出て来たら夕飯食べるか?」
「あーそうする」
「用意しておくよ」

お願いします、と消え入るような声で呟いて、そそくさとリビングを出た。
瀬戸と二人きり。
それだけで少し頬が緩む自分が許せなかった。
変わらない夕飯の味にも安心してしまった。
夕飯の間は、どちらも話そうとしなかった。
瀬戸が口を開いたのは、食器を洗ってソファで一息ついた時だ。

「…彼女とかいるのか」

突然の質問にダイニングテーブルに座ったままソファの背もたれを見つめていた諒平は目を丸くして口をつぐむ。
黙りこくる空気を打開するため、瀬戸は振り返った。

「ああいや、父親らしい会話をと思って」

他意はないと首を振る。
諒平はお茶を一口飲んで、目を伏せた。

「いない」
「あ…悪いこと聞いたか」
「別に。…それより紅葉」
「紅葉?」

瀬戸は首を傾ぐ。
思ったより普通に話せることに驚いた。
いつものぎこちない空気が薄れてきた。
過去の関係を隠さなければいけない相手が帰ってこないという安心感のせいだろう。

「…子供がいたなんて聞いてない」

拗ねたような口調と咎めるような視線に瀬戸の瞳が揺れる。
すでに親子の会話ではない。
ダイニングテーブルから移動して不貞腐れたような態度でソファの隣にドサッと座り質問したまま目を合わせようとしない諒平に瀬戸はあっさりと答えた。
先程とは違って緊張した空気はなくなって。

「離婚するとき、浩子が引き取ったんだけどな。自分が再婚するからって最近になってお前が育てろって」

浩子とは瀬戸の前妻だ。
再婚相手に子持ちは嫌だと言われたか隠しているかだろう。
紅葉が母に会いたい素振りを見せないところや最近預けられたという瀬戸への懐きぶりを見ると、あまり愛情豊かに育てられた訳ではないだろう。
諒平の考えていたことを見抜いたように、瀬戸は元恋人の黒髪をくしゃくしゃに撫でた。

「諒平と付き合ってたときには一人だよ、ちゃんと」
「………子供一人で家に待たせて寂しい思いさせてるのにあんな夜中まで一緒にいたのかと思ったら腹立って…」
「してないしてない。子供いたら諒平と一緒に遊ばせてたって。だいたい諒平に隠し事はしてない」
「子持ちなのは隠してた」
「聞かれてないからな」
「わざわざ聞くことじゃないし…」

唇を尖らせて瀬戸からつい、と目を逸らす。
しばらくその状態で沈黙が続き、ついには吹き出してしまった。
瀬戸を見ると同じように柔らかく笑っていた。
変わらないことに安堵する。
だから、忘れてしまっていた。
母の再婚相手だということを。
頬に軽く瀬戸の指先が触れ、くすぐったさにはにかみ、視線が絡み合い、どちらからともなくキスをしてしまっていた。
唇を離したあとのまだ相手の息遣いを感じる距離、見つめ合う視線に恋人同士の甘い空気が漂う。
これが恋人同士ならばこのままベッドへ行って愛を確かめ合うこともあるだろう。
だが元恋人で義父になる相手だ。
そういう訳にはいかない。

「あ…」

一挙に気まずさが込み上げる。
瀬戸はどんな反応をしているだろうかとちらりと見上げれば、真っ直ぐに諒平を見つめていた。
どくん、と脈打った。
目が逸らせなくなる。

ああ。恋人同士ではないのに。

嘆きの声はどこかへ消えて。
関係が終わっていることを忘れてしまう。
分かっているが、目を背けた。
ただ今だけはあの時のまま。
瀬戸の唇を塞いで、ソファに倒れ込んだ。



男と付き合ったのは瀬戸が初めて。
諒平の性感帯を探り当てたのも彼だけだ。

「…ふぁ」

腰の線を指でなぞられて声がもれる。
瀬戸が満足げに微笑む。
諒平はシャツ一枚を申し訳程度に引っ掛けているだけである。
脚の付け根を舐められてぴくんと体が跳ねた。
そのすぐ横、諒平の中心ではすでに熱が頭をもたげていた。
それを諒平に見せ付けるようにねっとり舌を絡み付かせながら口に含む。
生暖かく、ざらざらとした感触に体を震わせる。

「ん、…ン」

舐めあげる度に薄く開いた唇から吐息がこぼれた。
瀬戸は諒平のイイところを知っているはずなのに、その傍まで触れては、わざと外していく。
じれったさに腰が疼く。

「瀬戸…」
「うん?」

堪らずに名前を呼ぶと、わざとらしく見上げてくる。
頭にくるが、怒るほどの余裕はない。

「ちゃんと…さわれ……」
「どうしてほしいか分からないな」

言いながら、裏筋をぐっと押さえて刺激する。
ゾクッと快感が走り抜けた。

「ッは…ぅあ、声だす、からぁ」

瀬戸が意地悪をするときは、諒平があまり声を出さないことに不満があるときだ。
それを分かって言うと、瀬戸はにんまりと笑った。

「ちゃんと鳴けよ?」

愉しそうに言って、諒平自身をくわえる。
亀頭にやんわりと歯を立て、舌で全体をねっとりと舐めあげる。

「あ、ふぁン…」

舌の感触に諒平が慣れてくるのが分かると少し歯を立てて刺激する。
噛み付き、ときに吸い上げて、手で扱く。
水音がいやらしく室内に響き、さらに諒平の喘ぎ声が重なる。
瀬戸の手で根本を刺激されて腰が揺れた。
声を押し殺さない諒平にご褒美とでも言うように、舌が先端をえぐった。

「…っつぁあ!」

一際大きな嬌声をあげて、瀬戸の口内に吐精した。
瀬戸はそれを飲み下し、残滓を吸い上げる。
残らず嚥下してようやく口を離した。

「濃いな」
「は、ぁ…うるさい、な…っはぁ」

言下に瀬戸の濡れた指が秘孔に触れて息を詰める。
つぷりと指先が侵入して身を硬くした。

「息、吐き出して」
「っン…は、ふぅ…」
「いい子」

諒平の頭を撫でて緩んだ隙をついて一気に指を押し進めた。
異物を感じて押し出そうとするのを瀬戸は構わず指を動かす。
久しぶりの感触に痛みを覚えながら、だがある一点に触れられてビリビリと背筋に快感が走る。

「ひぁあ…っ」

諒平の喘ぐ声に瀬戸はぞくぞくと震えて妖しく笑う。
その一点を外しながら指をうごめかせ、諒平に余裕の色が少しでも浮かぶと前立腺を掠めた。
指を二本に増やし、ぐちゅぐちゅと卑猥な音を立てながら掻き混ぜる。
耳を覆いたくなるような音に煽られて快楽を拾いやすくなる。

「ぁ、っくぅ…」

裏返りそうになる声を押さえると、瀬戸が意地悪を仕掛けてくる。
それに一際嬌声を上げて体を捩った。
いつの間にか増やされた指でも物足りなくて、腰が疼く。
決定的な快楽が来ず、それでもゆるやかに与えられ続ける刺激に眉をひそめる。
いやらしい水音が聴覚を犯し、感覚を麻痺させる。
快感だけはしっかりと拾うのだが、そうではなく。

「瀬戸……っ瀬戸、欲しいっ」

こういう恥をかなぐり捨てるくらいには麻痺させられていた。
それが瀬戸の狙いだと分かっているだけに妙な悔しさがこみ上げるが、それどころではなかった。
諒平が叫んだ声の下、瀬戸の昂りが一気に押し寄せた。
息を詰まらせたが、体はしっかりと痛いほどの快楽を感じ取っていた。
悲鳴に近い声を上げて懸命に瀬戸の背中にすがりつく。

「ぁああ!ッああ、くあぅ…っ」
「っ…」

激しい律動に思わず爪を立ててしまう。
背中の痛みに顔をしかめながらも瀬戸は動きを止めようとはしなかった。
むしろそのせいで火がついたのか動きは緩急をつけて諒平を追い詰める。

「ふあっ!あん、ぁ、はぁっ…あああっ!」

肌と肌がぶつかる音も諒平を煽る要素の一つで、感覚が麻痺した体は従順に快楽だけを追い続けた。

「あ、ああっく、せとっ…いくッ」

瀬戸は諒平の手を握った。
応えるように諒平は瀬戸のゴツゴツした手に指をからめた。
それを合図に瀬戸の動きは一層激しくなり、瀬戸が諒平の中に劣情を放ち、その熱に震えて諒平も果てた。



 +++



「絶望的な顔してる」

バイト先にやってきた紺野が、諒平の顔をみた開口一番がそれだ。
あからさまにげんなりとして見せ

「ご注文は」
「笑顔笑顔」

型どおりに尋ねると、からかうような顔をして諒平をたしなめる。
店のバックヤードから出てきた槌谷が、客に笑顔を向けない諒平の肩を叩いた。

「上がっていいぞー」
「あ、はい。お願いします」

レジから立ち退いて頭を下げた。
世間話を交わしながら注文を取る二人を横目に諒平はバックヤードに引っ込んだ。
エプロンをロッカーに投げ入れて、作っておいてくれと頼んでおいたサンドイッチとカフェラテのトレイを受け取る。
二人席に座る紺野の向かいにトレイを置いた。
サンドイッチを認めて紺野は諒平を見遣る。

「今5時だぞ、家で飯食えんの?」
「……できれば帰りたくない」
「あん?なんかあったか?」

母思いの諒平が帰りたくない理由など一つしかなかった。
カフェラテを飲みながら諒平の顔色を伺う。

「瀬戸さん?」
「………婚前とは言え、やっぱ不倫は不倫だろうか…」

繋がらない会話に頭を捻り、結論に至った紺野は目を見開いた。

「うそぉ…」

それしか言えず、また諒平は紺野から気まずそうに目をそらした。
目をそらす諒平に紺野はさらに追求する。

「……ABCどれだ」
「例えが古い」
「いいから答えろよ」
「あー…C?」
「…アウトだろ。正直、キスだけでもどうかと思うけど」
「ABCの例えどこ行った」
「ちょっとビックリしすぎて」

悪い、と口先だけで謝る。
それから神妙な顔をして

「一回なら誤射だ」
「発言を控えろ」
「言い方が悪かった…。一回ならまだ誤魔化しが効くんじゃなかろうか」

紺野の精一杯のフォローに、諒平は更に閉口する。
それから、顔を俯けてピースサインを紺野に向けた。
それは決して大丈夫という意味ではない。2回という意味だ。
あのあと、もう一度関係を持ったのである。
言いようもなく、二人そろって口ごもる。
目を泳がせていた紺野はやがて話を変えた。

「今度、先輩たちと勉強会兼ねて飲もうって話してんだけど来る?」
「行く」
「気分転換にはいいと思う」
「いつ?」
「日曜。今週の」
「わかった」

紺野と話し込んだ後、家に帰るのも気が引けて、足を向けたのは父の家。
離婚したあとも父との交流は途絶えることなく続いている。
一言メールをしてから家に行くと、夕飯が用意されていた。

「うまいか?」
「普段美味いもん食ってるだけにイマイチ」

正直に感想を述べると、父はそうかぁと呟いて少し眉尻を下げた。
食べ終わり、二人で手を合わせてごちそうさまと告げる。
食器を片付けてお茶を淹れながら、あることを思い出す。

「母さん再婚するって」
「ほう。どんな人だ?」
「……いい人」
「浮かない顔だな」

言い当てられたことを隠すこともせずに口をへの字に曲げる。
お茶を差し出しながら、ため息と一緒に吐き出した。

「母さんは幸せそうだからいいよ」
「そうか」

わしわし、と瀬戸とは違った頭の撫で方に安心を覚える。
全身からふっと力が抜けた。
湯呑みに口をつけながら、今まで聞いたこともなかった質問をしてみた。

「今さらだけどなんで離婚したの?」
「俺が浮気したんだよ」
「そんな器用だったんだ」
「二回したが二回バレた」

ふーん、と興味なさそうに答えながら、頭の片隅がチリチリと痛む。
もし瀬戸との事がバレれば、婚前ではあるが父の二の舞だろう。
そんな事になれば、母は落ち込むどころでは済まなくなるのではないだろうか。
息子も信じられなくなるなど、考えも及ばない。

「母さん怒った?」
「一回目は怒らなかったけど二回目は怒ったね」
「?一回目は怒んなかったの?」
「俺は回数のことかと思っていたが違ったんだよ。一回目はまぁ…遊びだったんだ。若い子に声かけられて舞い上がってたんだなぁ…」

その頃の自分を思い出し、自嘲めいたようにカラカラと笑う。
それからマジメな、慈しむような目つきになる。

「二回目はな本気になってしまったんだ。美代子さんと天秤にかけるくらいにな。そしたら美代子さんに誰の幸せが大事なのかハッキリしてくれって怒られてなぁ…。浮気したことには腹立ててなかったんだ」
「そう…なんだ」
「浮気してても全力でバレないようにするのが優しさだって…俺には難しい話だったな」

初めて知る事実に言葉をためらってしまう。

「その人とは…?」
「今も続いているよ」
「再婚しないの?」

父は、うーんと唸って顎をさする。
椅子の背もたれに深く背を預けて、ひとり言のように呟く。
言葉を選びながら、ぽつぽつと。

「まだ諒平が自立してないからなぁ…養育費を払い終えたら…親の役目が終わったら自由、というかアレだね。好き勝手しても諒平には迷惑かからなくなるからね。それまでは再婚する気はないなぁ」
「そっか」
「諒平もアレだよ。美代子さんみたいに誰の幸せが一番大事なのか考えなさいね。俺が言えたことじゃないけど、それを考えると何でも頑張れるから」
「…うん」

いつになく穏やかな表情で言うものだから、頷くしかなかった。
それから父はマジメな話をした自分に恥ずかしくなったのか茶化すように言葉を重ねる。

「難しいけどねぇ…受験のほうが楽だよ」
「あ、試験日とかまたメールするよ」
「お守りとか買ったほうが父親ぽいかな?」
「お守りって神社に返すんだろー?めんどいからいらない」
「それもそうだな、陰ながら父は希望校に行けるように祈っているよ」

ありがと、と返しながら希望校も特にないのだけれど、という言葉は呑み込んだ。
それよりも誰の幸せが一番自分にとって大事なのか、父の言葉が頭の中で繰り返された。



 +++



勉強会と称した飲み会会場へと向かう途中、出掛けに言われたことを紺野に告げた。

「帰りに瀬戸が迎えに来るそうだ」
「なんでまた」
「最近帰りが遅いから心配って母さんが」
「親子二人が長かったら心配にもなるか…」
「それはいいけど、酒飲んだら怒られっかな…」

思わず渋い顔になる。
二十歳を過ぎた先輩も来るため、当然酒が出るだろう。
その勧めを断る気は男子高校生はあまり持ち合わせていない。
未成年ということを度外視して紺野は諒平を窘める。

「お前は酒弱いんだから飲むな」
「記憶飛んだりしないって」
「記憶飛んだことに気付かないんだから止めとけ」

心底から止めてほしいという声音で念を押す。

「今日は戸塚(とつか)先輩来るし…」
「来るんだ…」
「草薙が来るのは伏せてたんだけどな」

二人揃って表情にどっと疲れが募る。
戸塚、というのは在校中、諒平に付きまとっていた先輩である。
諒平の女装姿に見惚れた中でも、群を抜くほどに諒平に魅入られていた。
隙あらば諒平にセクハラを仕掛けてくる始末だ。
それを思い出して、頭痛がするような気がした。

「ばんわー、はじまってます?」

座敷に上がりながら、紺野がふすまの奥にいた先輩たちに声をかけた。
その後ろで、諒平も軽く会釈する。

「誰も酒は飲んでねーぞー」
「そりゃ良かったっす。勉強会はほんとに口実ですね」

誰ひとり、それらしい道具を持っていないことに苦笑しながら言った。

「草薙くんっ!君が来るとは思ってもいなかったよ!!」

座ったまま振り返った彼は諒平を見つけるなり立ち上がり、さあ飛び込んで来いと言わんばかりに両腕を広げた。
その圧力に気圧されて、というよりも有り余る積極性に若干、引いて二、三歩後ずさりをする。
彼が件の戸塚先輩である。
戸塚も見目は良く、女子にとてもモテた。
諒平についてしゃべらなければ。

「結構です…」

青ざめながら距離をとる。
その距離を、ずずいと詰めてくる。
いくら見目がよくとも、その先にある自分への危険を考えれば、恐ろしい意外の何者でもない。
紺野の背後に小さくなって隠れる。
手馴れたもので、紺野は小さく溜息をつくと背後に隠れる諒平を庇うように手を後ろにやる。

「すみません先輩、怯えきってるのでこれ以上詰め寄るのはやめていただけませんか?」
「君はいつも本当に邪魔だなあ…どうして草薙くんが君と付き合っているのか未だに理解できないよ」
「理解しなくていいんじゃないでしょうか…」
「おーいお前ら、睨み合ってないで座れ。草薙は俺の隣」
「はーい」

勝ち誇った笑みを見せて、紺野は諒平の腕を引いて信頼の置ける(かがみ)という先輩の隣に座らせた。
もちろん、反対側には紺野が腰を落ち着ける。
飲み物を注文して、戸塚の熱い視線を受けながら適当に会話を始める。

「ここ来てんの、推薦とかでもう学校決まってるやつばっかなんだよ」
「え、そうなんですか?」

隣に座る鏡に言われ、周りを見回す。
同じ高校のため、見たことのある顔ぶれだが、すでに決まっている生徒がいるとは知らなかった。

「決まってないのはお前らくらいだぞ」
「公立は試験遅いんすよ」
「げ、公立受けんの!?草薙は?」
「俺も公立です」
「お前は頭いいから分かるけど…紺野…」
「やりたいことないなら賢いトコ行っとけってじいさんの遺言で…」
「嘘つけ。お前のじいさん畑仕事してピンピンしてたぞ」

あはは、と誤魔化すように笑う。

「まあ、やりたいことないから賢いとこってのはホントっすよ」
「にしても公立はやりすぎなんじゃねーの?落ちるって絶対」
「デリケートな受験生にそんなこと言わんでください」
「言うよ。思い切り言うよ。絶対ムリだって」

言い切る鏡に、紺野は目を光らせる。

「じゃー受かったらなんかくださいよ」
「何でも買ってやるよ」

二人のやり取りを見ていた他の先輩達もなんだなんだと集まってくる。

「何?賭け?」
「そ。紺野が公立受かるかって賭け」
「ぜってー無理。俺は受からないにベット」
「俺も受からないに一票だな」
「つーか何で受けようと思ったの、ばかなの?」
「バカだよ、紺野は。俺も受からないほうに賭ける」
「ちょおい!先輩たち酷いって!誰か俺の可能性を信じてよ!」
「無理無理ー、てか全員受からないと思ってんなら賭けにならんて」

それぞれが笑う。
口々に好き勝手を言う中、諒平は手をあげた。

「俺は紺野なら受かると思います」
「え、マジで!?」
「いくら賭けるよ?」
「120円」
「安っ」
「草薙…俺の可能性はジュース一本分なの?」
「俺が勉強教えれば大丈夫だろ」

にんまりと笑うと、先輩の一人が頭を抱えて嘆いた。

「その可能性は考えてなかった!!」
「でもあと一ヶ月もないだろ?」
「あ、ならそんなに成績上がる訳も無いか…」
「じゃあ先輩たちは受からないでいいんですね?」

諒平が確認をとると、それぞれ頷いた。
それを見て、諒平はふんわりとけれど妖しく笑う。
全員が見惚れて息を呑んだ。

「俺の一人勝ちは決定ですね」
「君が受かると言うのなら僕も受かるに賭けるよ!」

静けさをぶち壊して滔々と宣言するのは戸塚である。
それを受けて諒平は初めて戸塚に笑顔を見せる。

「受からないほうに賭けて俺に投資してください」

残酷な、と誰もが思う。
いくら戸塚でもこれは受け入れられないだろうと彼の顔色を伺う。

「わかったよ!言い値を賭けよう!」

有り得ないとその場にいる全員が突っ込みたかったが、戸塚の満面の笑顔の手前、誰一人として首を突っ込む気はなくなった。
とんとん、とノックが聞こえて障子がスライドした。
飲み物が入ったグラスを持ってきたことで、その話題を引っ張るものはいなくなった。
ようやくメンバーとグラスが揃い、みんなで乾杯とグラスを交し合った。

「あ、先輩それ酒っすか?」

透明な飲み物に目をつけて、紺野は鏡に尋ねる。
二十歳を超えている先輩はこともなげに頷いた。

「飲む?」
「いりません。というかそれ草薙に与えないでくださいね」
「俺は飲ませないけどさぁ」

言葉を区切って、ちらりと諒平に目をやる。
諒平は他の先輩たちと話していて、その輪の中でグラス片手に楽しそうに笑っている。
鏡は二の句を継いだ。

「他は知らないよ?お姫様は酔わせてみたいでしょ、あんなに色っぽくなるならさ」
「っわー!!草薙それ飲むな!!」

先輩に手渡されたグラスに口をつけようとする諒平は紺野の声に驚いて手をとめた。
きょとん、と紺野を見やる。

「オレンジジュースだから酒じゃないって」

グラスを持ち上げて、オレンジ色を見せる。
な?と紺野を安心させるように言う。

「酒じゃないなら…まぁ」

いいか、という言葉を耳にしてグラスを呷る。
ストローくらいさせばいいのにと呆れながら、鏡との世間話に戻った。
やがて食べ物が運ばれてきて、それを食べながら楽しく過ごし、水分を取りすぎてトイレに立った時。
帰ってきて座敷に入って唖然とした。

「やっぱり飲ませたの酒かよ…」

膝から力が抜けてその場に崩れ落ちる。
赤く上気する頬、潤む瞳、まわらない呂律。
そんな状態の諒平は周りの人間に手厚く介抱されていた。

「悪い悪い、こんな弱いと思ってなかった」

介抱している中の一人が笑う。悪いと言いながら悪びれた様子はこれっぽっちもない。
その中心に歩み寄って、諒平に声をかける。

「草薙」
「こんのー」

名前を呼びながら、ぎゅう、と紺野にしがみつく。
それから何がおかしいのかケタケタと笑いだした。

「カシスオレンジ2杯で酔うとは思わなかった」
「酔うんですよ!」
「うるさい…」

諒平はしかめっ面になって、もぞもぞと紺野の胸に顔を押し付ける。
ごめん、と諒平をたしなめていると、先輩たちがはやし立てた。

「心配なさんなって、手出さねーし」
「お姫様は紺野のモノだってちゃぁーんと分かってるよ」

紺野が言いたいのは、この状態になった草薙を面倒みるのが自分だから手間はできるだけ省きたいだけなのだが、周りの人間は二人が付き合っていると思っているため、妙な誤解を生んでいる。
嫉妬などではないのだこれは。
と、言ってしまいたいが、それを言えば戸塚が絡んでくるためうっかりでも口を滑らせるわけにはいかない。
例えば先輩たちに諒平が襲われたとしても面倒を見るのだから付き合っていると思われているほうがいくらか面倒を避けられる。
うんざりしながら、怒鳴らない様に気をつけて周囲を牽制する。

「手出しかねんでしょう、アンタら」
「こんな可愛かったら男でもいいって」
「それは思う」
「可愛かったら何でもいーんすか」
「そうだとも!!」
「言い切ったよ…」
「欲求不満児は恐ろしいな」

鏡が他人事のように笑った。

「ったく…おーい草薙、迎え来るとは言っても寝るなー」
「姫、迎え来んの?」
「車乗ってきてるから俺送るのに」
「ケダモノには送らせません」

皮肉を行ってかわすが、よく考えればケダモノは瀬戸なのだと気付く。
このままダラダラと関係を続けてしまうのだろうか。
この間は無理やり話題を変えたが、もっときちんと聴いて考えるべきだったのかもしれない。
諒平が相談する相手は紺野だけなのだから。

「あああ…今になって後悔はないって…」

紺野の膝枕で体を丸めて寝る諒平の頭を撫でて、ごめん、と胸中で謝った。
その内に、瀬戸から「迎えに行く」と短いメールが諒平の携帯に届いた。
本人は内容を確認せず、紺野に携帯を寄越して眠ったのだが。
部屋の場所だけを返信に認めた。
座敷の縁側に座り、瀬戸の到着を待つ。
やがてそれらしき人物を見つけて、声をかけた。

「瀬戸さん?」

相手は、どこかで会った相手だろうかと頭を捻っている。
その様子見て、一度も会ったことがないのを思い出した。

「諒平の友達です。瀬戸さんですよね?諒平の……父親の」
「あ、ああ」

元恋人、と言いかけて思いとどまった。
怪訝そうに見つめてくるのは、紺野がどういう人物なのかを品定めしているのだろうか。
ここに諒平がいないことが疑問なのか。
なぜだか、いらっとした。
だから、つい言ってしまった。

「諒平は酔って寝てたので先輩が送って行きました。戸塚って人なんですけど諒平のこと好きみたいできちんと家に送ってるかは知りません」
「戸塚って…」

やはり、諒平は戸塚の話を瀬戸にしていたらしい。
見るからに動揺していることにほくそ笑んでしまう。
こうやって、瀬戸が諒平への想いをいつまでも振りきれないでいるから諒平も迷うのだ。
早々に未練を断ち切らなかった諒平も諒平だが、結婚すると決めたのならさっさと結婚すればいいものを過去の恋人とまた関係を持って、今みたいに他人に取られることにひどく動揺する瀬戸もどうかしている。
未練がましいったらない。
これでは、結婚するのは無理にでも諒平を忘れようとしたいからと受け取られても仕方ない。
この行動がさらに諒平を惑わせるのだ。まだ自分にも望みがあるのではないか、と。それでも諒平は母の笑顔を見てしまえば非情になりきれない。
件の登場人物の中で紺野が一番大切なのは諒平だ。
だから、その諒平を苦しめる瀬戸が気にいらない。

「瀬戸さんってまだ諒平が好きなんですか?」
「…は?」
「諒平への想いが断ち切れなくて無理やり相手見つけたんですか?」
「ちが…っ」
「なら…」
「おーい紺野、姫がお呼びー…って、誰?」

鏡が座敷から顔を出して、瀬戸に目をやった。
ため息をついて、紺野は瀬戸を紹介した。

「草薙の父親。草薙ー、迎え来たぞー」
「あ、草薙の友人の鏡です」
「…戸塚って子が送って行ったんじゃ……」
「……紺野が余計なこと言ったみたいですみません」
「ちょっとした冗談っすよ」

くてんと酔い潰れている諒平を横抱きにして連れてきた紺野は平然と言う。

「なんか腹立ったんで」
「ややこしくするなバカ者」

鏡が紺野の頭を叩いた。
紺野はすみません、と悪びれた様子もなく謝った。
座敷にいた人間がわらわらと集まってくる。

「姫のお父様ってことはあれじゃん」
「なんすか?」
「挨拶しなきゃ」
「は?」
「お付き合いさせていただいてますって」

先輩たちの何気ない言葉に、瀬戸と紺野は固まる。

「……付き合ってるの?」

瀬戸のぎこちない言葉に答えるのは面白がっている先輩たちだ。

「そーなんですよー」
「かれこれ3年くらい?」
「ずっとべったりですよー」

3年と言われると瀬戸との交際期間にどっ被りである。
このあと瀬戸が諒平に問い詰めるのかも、この件が諒平に知れた時に何を言われるかどういう暴力を受けるのかも見当がつかなかった。
明らかに紺野を見つめる目つきに悪意らしきものが含まれたのが分かった。
奪うように諒平を抱き、大人らしい挨拶をして瀬戸は去って行った。
紺野を見る目つきだけは大人げなかったのだが。
引きつった笑顔で見送り、うっ、と腕で両目を覆った。

「先輩、俺泣きたい…」
「胸は貸さん」
「いりませんよそんな胸板…いった!」

鏡にかかとで足の甲を踏まれて涙が出た。



諒平を車に慎重に寝かせて、静かに車を走らせた。
あの紺野という男子の冗談は戸塚についてのみだろう。
鋭い目つきで尋ねてきたのは冗談ではなく本気だった。
返答次第ではつかみ掛かると目が言っていた。
赤信号にゆっくりとブレーキをかける。
すやすやと寝息を立てる諒平にちらりと目をやる。

「俺と付き合ってたときにはあの子と付き合ってたのか…?」

呟くように言う。
当然、返事はない。
答えの出ない質問にため息をついて、青信号に車を滑らせた。



 +++



諒平の家の前で紺野は立ちすくむ。
あの夜から約一週間。
その間に、学校は自由登校になり諒平とは一度も会っていない。
家でゆっくり勉強しているのだろうと思っていたのだが、メールのやり取りもあったのに、一度もあの夜のことには触れなかった。
それが逆に怖い。
そしてつい昨日、最後の悪あがきをするから家に来い、とのメールがあったのだ。
こうしていても埒が明かないと腹をくくり、インターホンを押して、じっと待つ。
玄関が開いて、諒平が出てきた。

「いらっしゃい」

怒っている風でもなく、いつもと変わらない様子に、少しだけ肩すかしをくらった気分になる。
それでも怒られないのならそれに越したことはないため、遠慮なく足を踏み入れた。

「おじゃまします」
「先、部屋行ってて」
「はいよ」

靴を揃える背中に、さっさと上がれと促す。
何を焦っているのか分からず紺野は諒平の顔色をちらりと窺う。

「何」
「家の人いないの?」
「いる。紅葉はいないけど」

それ以上は言わず背中を押され、階段へと足を向ける。
諒平はリビングに向かった。
階段を上って、扉の開いている右側の部屋に入ろうとした時、後ろから扉が開く音がして振りかえった。

「あ…」
「……どうも」

瀬戸が扉を開けたままの状態で固まっていた。
紺野も同様に固まり、なんとかぺこりと頭を下げて諒平の部屋へと逃げた。

「やーっぱあれはまずったよなぁ…」

がっくりと項垂れて、ベッドに凭れかかる。
いまだに周囲の誤解は解いていないが、瀬戸に誤解をさせるくらいなら解いたほうが諒平のためだろうか。

「冷たい麦茶しかなかったごめん」

トレイにコップとお菓子を載せた諒平が、そう言いながら部屋に入ってきた。
座りなおして、トレイを受け取る。
それを机の脇に置いて、鞄を探った。

「数学だっけ?」
「そ。文系は無理だ」
「文系だからイマイチ自信ないよ」
「俺よりは大丈夫だろ」
「学校で補習やってんだっけ?」
「草薙が来てない間行ってたけど、あれ授業と変わらんから身に入らん」
「あんま意味ないだろ。過去問以外ののプリント貰えんのは助かるけどさ」
「あ、それいっぱいもらってきた」
「じゃーそれから片付けるか」

ばさっとプリントの束を置いて、取りかかる。
諒平も自分のノートや参考書を取り出している。
カリカリとシャープペンが走る音とページを繰る音だけが部屋に響く。

「草薙、ここ分かんない」
「…代入するもん間違えてる、あと単純に計算ミス」
「あ」

言われた箇所を訂正して、また静寂。
カリカリと。
その静寂と、紺野の集中力が切れるのは同時だった。

「諒平、お菓子切れてない?」

ノックもなく部屋に入ってきたのは諒平の母と思われる女性。
お目にかかるのはこれが初めてだ。
嬉しそうに目と口許をしならせて、随分と陽気な人だという印象。
外見は若く、諒平の美貌は母親譲りなのだと納得させられた。
その諒平は俯いたままわなわなと唇を震わせて、声を張り上げた。

「頼むから落ち着いてくれ!それから勉強の邪魔するな!」
「だって諒平が友達連れてくるなんて滅多にないじゃない!見たいじゃない!」

このまま口論していても怒号しか返ってこないことを察した母親は、すぐさま紺野に振りかえった。

「こんにちは。諒平の母です。美代子ちゃんって呼んでね」
「あ、はい。お邪魔してます…紺野です」
「遠慮しないでいつでも遊びに来てねっ、あ、夕飯は食べて行くかしら?」
「母さんもういいから出てって」
「もっと紺野くんとお話したいっ」
「晩飯のときでいいだろ」
「久秋さん諒平が意地悪言うのっ!」
「すぐ久秋さんに告げ口するなー」

わっ、と泣いた振りをしながら部屋を飛び出していく美代子に、諒平はしれっと言い放ちながら扉を閉めた。
ため息をつきながら元の位置に座りなおす。

「はぁ…ごめん、騒がしくて」
「や、いいんだけど…」

久秋さん、という言葉が引っ掛かった。
さすがに親の前では「瀬戸」と呼び捨てるわけにはいかないからだろうか。
諒平は口ごもる紺野を怪訝そうに見上げる。
言え、と目が促す。

「……瀬戸さん、に聞いた…?」

そのことか、と興味もなさそうに諒平はノートに向き合った。
それから質問の答えではない返事が返ってくる。

「こないだ、親父と話したんだ」
「うん?」
「いろいろ端折るけど、誰の幸せが一番大事なのか考えろって言われた」

カチカチ、と数度シャーペンの頭をノックする。
世界史の年表にさらさらと何かを書き足しながら、言葉を紡ぐ。

「ここ何日か考えてた。……お前を省いて、今回の問題だけ考えるとさ、大事なのって母さんなんだよ」
「そっか」
「うん。我ながらマザコンだとは思う」
「そーだな」

茶化すように笑う。
それから諒平はシャーペンの頭を押したまま、ペン先をノートにとんっと打ちつけた。
芯を収めたシャーペンをくるくる回しながらもう片方の肘をついてそこに顔を乗せる。
どうにもアンニュイな表情の諒平はとても絵になった。

「あの夜、紺野と付き合ってるってことになったろ」
「う…すみません」
「いや、あのあと車の中で話したんだ」



滑るように車が走って、ふと瀬戸に声をかけた。

「瀬戸以外とは付き合ってなかったよ」

頭をゆっくりと動かして、フロントガラスをぼんやりと見つめる。
驚いたように息を飲む声が聞こえて、瀬戸は諒平を見た。
それも一瞬で、すぐに視線を戻す。

「本当に…?」
「信じるも信じないも好きにしたらいいけど、瀬戸に嘘ついたことも隠し事したこともないよ」

まだ酒の余韻が残る頭でも、しっかりと言う。
そうか、と安心したような瀬戸に呼びかけた。

「瀬戸」
「なに?」
「俺のこと好き?」

単刀直入に。
言葉につまって、逡巡した瀬戸はやがて頷いた。

「俺は今のところ、アンタよりも母さんの幸せのほうが大事だ。母さんが笑ってないと俺はどうしたらいいか分からない…」
「…だから?」
「だからアンタが俺を想ってるなら、俺との過去は無かったことにして母さんを幸せにしてくれ……母さんと結婚するのは俺を忘れるためじゃないんだろ?」
「当たり前だ」
「…なら、もう元恋人でも何でもない」
「親子?」
「そ。親子」

それを言うのには勇気がいった。
認めてしまうのがイヤだった。
瀬戸もそうだといい、なんて自分勝手なことを考えて、ちらりと瀬戸を盗み見る。
真剣な顔して考え込むように口を閉ざしていた。
それだけで、なんとなく分かってしまった。
もう終わりだ。

「……わかった。美代子さんも諒平も紅葉も幸せにするよ」
「ありがと……義父さん」

それだけ言うと、また瞼を閉じて眠りについた。



「以上。だからもう紺野が気を揉む必要はないよ」
「気付いてたんですか…」
「飼い犬が主人の気分に敏感なように、逆も然りなんだよ」
「さいですか……。まあ、良かったよ」
「うん。ありがと」

つきモノが落ちたように、ふんわりと笑う。
思わず、どきっと胸が跳ねた。
それを隠そうと慌てて取り繕う。

「あああ、でも、いいのか、本当に」
「いいって、何が?」
「いやだって本気で惚れてたし…」

諒平が年相応に、無邪気に笑うのは瀬戸の話をしているときだけだった。
それほどまでに心を許していた相手なのに。

「いいんだよ。もう俺と瀬戸のワガママだけで成り立つ話じゃない」
「二人のままがよかった?」
「二人でも…話の終わりは見えてるよ」

母も紅葉も邪魔だと思ったことは一度もない。
むしろ邪魔だと感じるのは…

「そんなことないよ」

紺野がまっすぐに見つめてくる。
見透かされたような気恥かしさがこみ上げて、誤魔化すようにひらひらと手を振った。

「やっぱ母さんと子供は泣かせられないって」
「子供って…紅葉だっけ?」
「うん。母さんにも俺にも懐いてるし、…あんま前の母親と居たくないって言うしさ」
「…そっか」
「ま、瀬戸がいなくてもわんこがいれば寂しくない」
「良い意味で受け取っておくよ…」



すっきりした気分で臨んだ入試は見事に合格。
あれ以来、根を詰めて入試対策をした甲斐あって図らずも同じ大学に紺野も合格した。
賭けは諒平の一人勝ちとなり、入学祝にしては少し多めの額を得た。
大学は毎年留年の危機にさらされる紺野を助ける以外は難なくこなし、バイトでそこそこ稼ぎながら充実した毎日だった。
難を上げるとすれば、大学でも紺野との交際が噂され、4年の間に一度も恋人ができなかったことだ。
いっそ本当に付き合ってしまおうかと悩むほどにはその噂が付きまとった。
それからもう一つ。

「諒平っ」

小さくて可愛かった義理の弟はすっかり大きくなり、この春から中学2年になる。
「諒平お兄ちゃん」とたどたどしく呼んでいた面影は残っているものの、声変わりもしてすっかり男らしくなった。
身長はまだ諒平のほうが高いが、体格なら諒平よりもずっと良い。
だんだんと父親に似てきていた。

「諒平、家出てくってホント!?」
「…呼び捨ては慣れないからお兄ちゃんで妥協」
「たまにそういうこと言うのやめなよ…」
「出てくよ」

就職先は家から離れているため、4時起きを強いられる。
朝が苦手な諒平はどうしてもそれを避けたくて、母に猛反対されたのだが家を出ることを決めた。
紅葉は、ぐっと諒平の両腕を掴んだ。

「4時に起こすよ!」
「起きたくないから」
「俺も起きるし!」
「それ意味ない…てか、出て行っても会えない距離じゃないんだからいいだろ」
「やだよ!」
「なんで」

即答する紅葉に問うと、少しだけ瞳が揺らいだ。
逡巡してから発した答えはどうにも嘘っぽかった。

「一緒に寝たい!」
「そんなガキでもないだろう」
「そー…だけど……」

言おうか言うまいか、必死に迷っている。
その隙に、するりと抜け出して部屋へ向かおうと階段に足をかけたところで紅葉が叫んだ。

「諒平が好きなんだ!」
「は?」

呆気にとられて振りかえると、覚悟を決めたように凛とした瞳が見据えていた。
おそらくは兄弟のそれだろうと適当にあしらう。

「ハイハイ。俺も好きだよ。今日一緒に寝てやるから」
「ばっかそういうことじゃなくて!」
「馬鹿ってなんだ馬鹿っ…」

言いたい意味には気付いたが、あえて誤魔化すように言った。
その言葉を奪われる。
唇に軽く触れるだけのキス。
唇が離れると必死に背伸びをして見上げてくる紅葉で視界がいっぱいだった。

「ホントは身長超えたら言うつもりだったけど…」

言葉を区切って、紅葉の顔つきが変わる。
少しだけ大人びて、獰猛に。

「絶対オトすから」

それだけ言うと満足したのか、紅葉は階段を上って自分の部屋へ行ってしまった。
一人取り残されて、もともとの話はどこへ行ったとぼんやり思う。
射抜くような瞳、背伸びしていても大人びて見えた表情を思い出す。
それから、まだ唇に残る感触に指を触れて、へたり、と階段に座り込んだ。

「……ガキのくせに」

腕で顔を隠しながら呟く。
どうやらまだ「瀬戸」からは逃げられそうにないらしい。
読了感謝ですっ。

実は、もうちょっとお話を書くつもりで紺野や槌谷たちを出したのですが、そこまで広げるとまとまりがなくなってしまうので、何やら中途半端に「彼ら必要?」みたいな感じになってしまいました…。ごめんね。
紅葉中学生編もいつか書けたらなーと思います。

評価や感想は作者の原動力となります。
読了後の評価にご協力をお願いします。 ⇒評価システムについて

文法・文章評価


物語(ストーリー)評価
※評価するにはログインしてください。
― 感想を書く ―
感想を書く場合はログインしてください。
― お薦めレビューを書く ―
レビューを書く場合はログインしてください。
+注意+
特に記載なき場合、掲載されている小説はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている小説の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による小説の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この小説はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この小説はケータイ対応です。ケータイかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。
小説の読了時間は毎分500文字を読むと想定した場合の時間です。目安にして下さい。
↑ページトップへ