生まれる瞬間のことを覚えていない。昨日の記憶も、一時間前の記憶もない。ゆきつぶの人生はいつも、途中から始まる。異様にすっきりと目覚めた朝に、眠る前のことをなかなか思い出せないのに似ている。一度分断された意識の向こう。たとえ見えたとしてもそれは、むしろ夢に近い。
不思議なことに僕たちは、生まれながらに人生についての知識をある程度備えている。生まれる前は水だったこと。最期は溶けて水に帰ること。積もれば春まで石になり、アスファルトやなんかに落ちれば瞬く間に、しゅんと消えること。
生まれたて、まだ加速していた頃、隣のゆきつぶに訊いてみたことがある。
「僕たち、水になったらどうなるだろう。」
「流れるのさ。」
「そんなこた、分かってるよ。僕が知りたいのはね――」
「よせよ、縁起でもないんだから。」
僕には彼の言うことが分からなかった。黙りこくったまま、考えた。水について言及したからって、それが一体何になるだろう。どうして、当たり前のように疑問を遮って、
平然と呑み込んでしまえるのだろう。縁起。死が何かも分からないのに。
たぶん僕と彼の間には、本源的な齟齬があったのだと思う。それは例えばさいころみたいな、優劣も対もない偶然の溝。
しばらく落ちてゆくと、空気の抵抗の所為で加速が止んだ。穏やかな、緩やかな、停滞した時が続く。昼前の空いた電車みたいに、無為で鮮やかな、生活の沈殿だ。
でもそれは、昇り階段の踊り場のような凪であって、ほんの束の間だった。眼下の画は、段々と平面的に、明確な色彩を帯びる。優しい風が、吹き遊びながら言った。
「やあ、君、すてきな結晶をしてるね。なかなかそう、きれいに凍れるもんじゃないよ。」
「ありがとう。でもね、凍ったのは僕じゃなくて、僕になる前の水なんだ。」
「ああ、そうだ。水って、凍る折には生まれ変わるんだっけ……」
僕はそう言われてやっと、水の命を理解した。生まれ変わりを繰り返しながら、ぐるぐる巡りめぐるもの。世界の全てを見て廻りながら、その都度記憶を失くし、答から遠ざかる。そして僕もまた、その切ないぐるぐるの一端を担う、極小のつぶであること。それでも、一片の意味を持ち、生まれては何かを全うして、死んでゆくこと……。
「ねえ、風さん、お願いがあるんだけどね。」
「なんだい。」
「僕、どこかに積もって石になるのなんて嫌だし、アスファルトに吸い込まれて消えたくもないんだ。僕はね、きれいなお花の、その花びらの上に降って溶けたいんだ。」
「君って少し変わってるんだね。」
顔のない風が苦笑した。風のようにさらさらした、ある種の親しみを込めて。
「僕、この近くに椿が咲いてるの、知ってるよ。」
「紅い花でしょ。それがいいな。」
「なんだって、椿を知ってるんだい。」
「さあ……どうしてだろう。昔から不思議に思ってたんだ。僕たちは、見たこともないもののことを知りすぎてる。」
過去の名残。ゆるく繋がった、無数のつぶの人生の、数え切れぬ発見たち。僕は一体、何を残すことが出来るだろう。
風が優しく吹き過ぎていった。辺りは一面紅くて、僕は初めて、美しさの意味を知った。答に限りなく近いと、そう感じた時にはもう、記憶のほとんどが霞んでいた。