- あべひさんは あくまでも素人です
・・にも関わらず 彼のネットの記事を拾って断定する態度は注意したほうが良さそうです
しかもリンク先のデーターも集計としては統計論にしか過ぎないので
確定的ではありませんし サイコパス自体 その時、その時に応じて判断が変わるので
一律ではありません。 また、そういった判断や誤ったメッセージが
レイシズムやモラルパニックに通じてしまうので慎重に扱わないといけないのですが
どうやら彼には その概念がない・・というか
やたら心理学やサイコパスなんかにこだわっているんだけれど
もしかしたらこいつが・・・というのが ここに参加した当初から見受けられますね
- 自分の意見に合わないと(もしくは都合が悪くなると)⇒アク禁動議⇒削除
それでも問題があって その反論を書くと⇒荒らし扱い⇒そしてサイコパス犯罪者扱い
こういうレッテルを貼って 相手を貶め 自分の保身に磨きをかける
ところでサイコパスに興味がある様子ですが
もうひとり それにこだわりすぎて 根拠なく某市議会議員をサイコパスだと断定し
その後 名誉毀損で訴えられて最高裁で断罪されたライターさんがいましたよね
やり口がそっくり・・というか
- (以下引用)
インターネットのコメント欄などに必ず出没するといっても過言では
ない「荒らし」は、必ずしも目的を持って他人のコメントに反応して
いるわけではなく、ただ周りからの反応が欲しいという理由でウソ
をついたり、仰々しい言葉を並べたりします。
「こういった荒らし行為を行う人には何か特徴があるのか?」ということで・・
http://gigazine.net/news/20141210-internet-troll-narcissist-psychopath-sadist/
- 大黒法 号外発刊!
日蓮正宗に激震!創価学会から永久決別宣言!
歴史的快挙!創価学会 会則を改正!
2面は法華講の皆さんへ
PDF版はこちら http://xfs.jp/jydbaM
- 数学の天才 岡潔
「人の中心は情緒である」
- >>41278
>>
>>何をすり替えてるんだ
>>
>>O副会長が富士宮でやった事だよw
>>
>>あんたら、その不正を知りながら誤魔化すなよ!
>>
>>女子部の暴力事件をも隠蔽するだけの事はあるな
>>
>>だから、同じと言ってるんだよ
TKさん
暴力事件については、刑事事件として判決が下されています。
既に公知されてる事案ですが、私は内容を書く事はしません。
阿部日さんが興味本位で話題にする事が関係者に迷惑がかかるかも知れないと言う想像力が足りないんでしょう。
何も知らないんですよ。
何をすり替えてるんだ
O副会長が富士宮でやった事だよw
あんたら、その不正を知りながら誤魔化すなよ!
女子部の暴力事件をも隠蔽するだけの事はあるな
だから、同じと言ってるんだよ
>>41273
>>※大勝利さんは、同じ時期に沖浦さんの板で、同様のことを書いて私をなじり、
>> 掲示板「富士宮ボーイ」の管理人某氏(実名)と自分は知己だが、
>> あんな人間(マグマグ)を常住させるとはもってのほかだ(取意)と怒っていた
>>---
>>
>>たしか、熱原の公演の事でしたっけ。
>>http://goo.gl/6EC6Sf
>>
>>ルサンチマンという言葉を思い出しますね。
ルサンチマンとは、
本来の「反動」、すなわち行動によって反応することが禁じられているので、
単なる想像上の復讐によってその埋め合わせをつけるような徒輩(ニーチェ)
となっています。
被害者意識があっても何らかの抑制がかかり、正面からそれを述べられない状態で、
無関係に周囲で起こることに対しても過敏になり、猜疑心を抱き、
被害者意識を深くするパターン、が、あるそうです。
で、直截にお前が犯人だ!加害者だ!と断定する言説を吐ける人には、
ないものだそうです。
その点、TKさんはご安心下さいね。
が、発言には気をつけましょう。マグマグo(*^▽^*)o~♪
DSM‐Ⅳによる演技性人格障害(Histrionic Personality Disorder)の診断基準
過度に情緒的で、度を越して人の注意を引こうとする行動の広範な様式で、
成人期早期までに始まり、種々の状況で明らかになる。
以下のうち5つ(またはそれ以上)で診断される。
1. 自分が注目の的になっていない状況では楽しくない。
2. 他者との交流は、しばしば不適切なほどに性的に誘惑的な、または、挑発的な行動によって
特徴づけられる。
3. 浅薄ですばやく変化する感情表出を示す。
4. 自分への関心を引くために絶えず身体的外見を用いる。
5. 過度に印象的だが内容のない話し方をする。
6. 自己演技化、芝居がかった態度、誇張した感情表現を示す。
7. 被暗示的、つまり他人または環境の影響を受けやすい。
8. 対人関係を実際以上に親密なものとみなす。
(引用元)
http://www5f.biglobe.ne.jp/~mind/griffin/histrionic.html
//////////////////////////////
最近、『世界一騙されやすい日本人』
http://bookman.co.jp/shop/society/9784893088321/
という書籍が出版されました。
この書籍の紹介の中に
“騙されやすいのは「愚かな人」ではなく「心配性の人」である”
というタイトルがあります。「至言」だとおもいますね。
興味のある方はご一読されることをお勧めします。
- http://6001.teacup.com/qwertyui/bbs/15376
マグマグ殿の投稿内容が消されていますので、なんだったか覚えていません
が、「事実と違う」ことと「名誉毀損」は直結するわけではありません。
なにやら他にも「情報が欲しい」人が突然降って湧いてきたみたいですが(笑い)
※特区長らが女子部を悪者に仕立てて隠蔽し、組織まで巻き込んだ大変な問題
とかいいながらも
※事件全容の事実を明確にし、O副会長が何をしたか、しっかり説明しなさい!
なのだそうです。
真相をなにも知りませんと言っているに等しい。
または「言えない」立場の方なのかも(笑い)
- 阿部日もマグマグも同じかw
富士宮の件で訴えられたら困るだろうな
富士宮で、起きた特区長による女子部に対しての暴力と隠蔽事件が事件だけにな
特区長らが女子部を悪者に仕立てて隠蔽し、組織まで巻き込んだ大変な問題だ。
ところで、本部と連携をとりながら、除名工作の指揮をとったO副会長は富士宮で何をして、何で出ていったんだ。
>富士宮の処分者の一件
などと嘘ぶく前に、事件全容の事実を明確にし、O副会長が何をしたか、しっかり説明しなさい!
- ※大勝利さんは、同じ時期に沖浦さんの板で、同様のことを書いて私をなじり、
掲示板「富士宮ボーイ」の管理人某氏(実名)と自分は知己だが、
あんな人間(マグマグ)を常住させるとはもってのほかだ(取意)と怒っていた
---
たしか、熱原の公演の事でしたっけ。
http://goo.gl/6EC6Sf
ルサンチマンという言葉を思い出しますね。
- 再度確認致します。
HN阿部日ケ~ン(院政)さんを人定する為の調査を開始したいので、阿部日ケ~ン(院政)さんの意志を確認したいのですが、人定作業を始めて別に構わないですよね?
過去マグマグさんは構わないとの事でしたし、実際大したことではないとのご意見です。
きっと阿部日さんも別にかまわないとのご返事だろうと思いますが、念の為確認したいのです。
御許可いただけますか?
誤、が、あなたは、その宿坊様の掲示板に
正、が、あなたは、沖浦さんの掲示板に
思い出しました。当時の経過を。。。
宿坊様の板に沖浦さんが現れた。私も参加して沖浦さんとの対話にのぞんだ。
突如として大勝利さんが現れ、「事実無根のことを書いて名誉棄損した」と怒り、
管理人様(宿坊様)に私のIPの開示を求めた。
大勝利さんは、同じ時期に沖浦さんの板で、同様のことを書いて私をなじり、
掲示板「富士宮ボーイ」の管理人某氏(実名)と自分は知己だが、
あんな人間(マグマグ)を常住させるとはもってのほかだ(取意)と怒っていた。。。
と言う、奇妙な関係性と経過でした。誰が誰を名誉棄損してんだか、笑。
以上、余計なことですがご参考まで。マグマグo(*^▽^*)o~♪
- あぁ 大勝利さんが、どこのだれなのかを人定(?)するという意味だと
考えたのですか?
ちがいますよ。
こちらでは「うらら」さんの投稿を分析するだけの話です。
大勝利さんの事で気になるのは
※この掲示板を御覧になってるかどうかは知りませんが、
今後個人的に私に注意が回ってきたならば、確認されてる
との事でしょうから。
その場合はその個人名を公表させていただきます。
【本部職員さんが、 投稿者:大勝利 投稿日:2014年10月28日(火)12時30分50秒】
http://6027.teacup.com/situation/bbs/14693
との発言ぐらいかな?
「今・後」注意が回ってくる・・と表現されているので
「富士宮の処分者」に対して、大勝利さんが現場でなにがしかの注意でも
受けられたのかな?と。
もし、件のことでなにか貴殿が「注意」を受けられていることが「公益性」
があるというのなら、組織糾弾派の意図にも叶っているのではないかと
愚考しているわけです。
大勝利さんが・今・回・も・何をお怒りか存じませんが、
同じようなことが、今年3月にありましたよね(当板№38648)。
――大勝利氏が何をご立腹か存じません(意味が分かりません)が、
私が訴えられるのに何の不都合もございません。
また管理人様が大勝利氏の要求にお応えになり、
私のIPをご開示になるのもまったく問題ございません。
(2014年 3月27日(木)16時05分18秒、マグマグ於宿坊様板)――
当時、私は直ぐに弁護士に相談しました。
ともかくも、何で訴えられるのかまったく分かりませんでしたし。
ところで、それは今となっては大したことでありません。
今もってどこからも何も言って来ませんし。
が、あなたは、その宿坊様の掲示板に、
こちら掲示板「富士宮ボーイ」の・管・理・人・様・の・ご・芳・名・を、
書き出しておられましたよね。私の罪を・あ・な・た・が問うためにですが。
そこで質問です。↑実名の掲示は、あなたが今回ご自身で書かれた、
――web上を含む一切の個人情報及び身辺調査を禁じます――に、
抵触、該当しないことなのでしょうか?
私はこのことを他、勿論こちら富士宮でも、誰にも伝達しておりません。
自分が二重に罪を犯すことになりかねないからです。
まあ、と言っても、いずれも私にとって冤罪なのですが、笑。
ご都合がお悪いのならば、そうお書きになればいいだけのことです。
どうしていつも激昂して相手を訴えると、がなり立てられるのですか?
ちょっと冷静におなり下さい。マグマグo(*^▽^*)o~♪
- では、貴方の人定作業を行いたいと思いますが御許可いただけますでしょうか?
- >>41258
※web上を含む一切の個人情報及び身辺調査を禁じます。
発見した場合は損害請求させていただきますので宜しくお願いします。
意味がわかりません。
だれの個人情報および身辺調査ができるというのでしょう。
たしか大勝利さんは、御自身の掲示版に、富士宮の事件関係者を
かくまったうえで・・
/////////
※説明の必要などないでしょう。
hobbitの投稿を削除する必要などどこにもありません。
おかしいのは貴方の方です。
[2849] 管理人
/////////
と庇い立てしましたよね。
宿坊の掲示版での以下の投稿
※過去も当掲示板で話題に上ったように、除名の手続きやシステムはあまり周知
されておらず、「学会を除名になる」という事は、「とにかく悪いことをやったに違いない」
との認識だけが一方的に広まっているような状況と思われますので、過去の事実を
ある程度公開することは公益性を考えても有意義であると思います。
http://6027.teacup.com/situation/bbs/14919
大勝利さんは処分者に関する話題に、「事実をある程度公開することは有意義」と
言っているのです。
上記発言で五年前を思い出したので、確認をとったまでです。
拙は忠告させていただきましたよね。
「ハンドルを呼ばれて直ぐに反応するのは 軽率です。」と。
- >>41263
>>仏様がどこかに行っちゃった、だと~?
>>「日顕宗の仏様」は、「戒壇の大御本尊と不二の尊体」である「阿部日顕」ではないか。(大笑)
>>>>創価学会では仏法僧の三宝は別々なんですね。
>>日顕宗では、「凡夫僧・日蓮」のお立場が、すっぽり抜けている。
>>「僧宝即日顕即戒壇の大御本尊」
>>これが、日顕宗の邪義のキモだ。恥を知れ。
創価学会では別物なんですね。
やはり。
- 日達さん曰く
「--あなた方の各仏壇に安置するところの
御本尊様が、大聖人様の御精魂である。
大聖人様即、法身報身応身の三身相即したと
ころの御本尊様でございます」と。
---------------------------
御本尊は大聖人の魂
ーーーーーーーーーーーーーーーー
生命は遺伝子の連鎖で連綿と続く
どの生命も等しく尊い存在
ーーーーーーーーーーーーーーー
大聖人の魂である御本尊は、真筆であっても
書写された御本尊であっても、どの御本尊も
等しく尊い存在 等しく
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
先生の全集83 P188抜粋
『私どもは、いよいよ「御本尊根本」に、
無量の功徳を受けながら
「世界広布の黄金の道」を
悠々と進んでまいりたい』
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「受持」とは、
例えば、
私が、入会勤行会で御本尊を「受け」
各家庭に御安置し「持(たも)って」行くこと
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
考察
「弘安2年の御本尊」を受持の
対象にはしない、としたのは、
「出世の本懐の御本尊ではない」
という立場を採用した為。
学会の信心からは、「弘安2年の御本尊」も
他の御本尊と同じく等しく尊い御本尊であるが、
邪義邪智の者が所持している御本尊であるから、
邪義邪智と決別するために受持の対象に
はしない、とした。
また、どの御本尊も等しく尊い御本尊なので
あえて、大石寺に安置してある御本尊を、
「受け」家庭に御安置し「持(たも)って」行く必要はないから。
- 歴史的経過 1→2→3→
1の時点ではAが正しいとされていた。
2の時点ではBが正しいとされていた。
3の時点ではCが正しいとする。
1.42年間説いてきた法が正しい
2.法華経迹門が正しい
3.法華経本門が正しい
4.末法では大聖人の仏法が正しい
1.大聖人の出世の本懐は弘安2年の御本尊の建立。(後付教義)
2.熱原の法難での日興上人教化の農民信徒の強盛な信心の姿に
広宣流布の成就を確信され、出世の本懐は遂げられた、と宣言された。
そして、「弘安2年の御本尊」を建立される。
3.
ーーーーーーーーーーーーーーーーー
1・論文Xの「あ」~「お」は全て正しい
2・論文Xの「あ」~「う」だけ正しい
3・論文Xの「あ」だけ正しい
1.「あ」~「お」を採用する
2.「あ」~「う」を採用する
3.「あ」だけ採用する
ーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大聖人に違背した者が、大聖人の御本尊を所持していても
広宣流布はできない。
邪義をいくら広めても大聖人の仏法の広宣流布とは言わない。
法主信仰は、邪義
法主のみに血脈があるというのは邪義
信心の血脈が正しい
「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
大聖人の仏法の本義に基づく改正
世界広布新時代 躍進の年
- 仏様がどこかに行っちゃった、だと~?
「日顕宗の仏様」は、「戒壇の大御本尊と不二の尊体」である「阿部日顕」ではないか。(大笑)
>>創価学会では仏法僧の三宝は別々なんですね。
日顕宗では、「凡夫僧・日蓮」のお立場が、すっぽり抜けている。
「僧宝即日顕即戒壇の大御本尊」
これが、日顕宗の邪義のキモだ。恥を知れ。
>>41262
>>>>41256
>>
>>>>最後になるが、学会では事の一念三千、三大秘法の南無妙法蓮華経を「久遠元初の法」と呼び、蓮祖証得の根源の法で、蓮祖御存在そのものであると考える。法と蓮祖がどうして同じかはともかく、法への帰命が即人への帰命と考える。
>>>>実にこの考えは、日顕宗や正信会にかつてあったが、後付けで発生したホッスの存在意義や、法門を己心に押し込む偏狭な一念三千の考えが生まれる以前のもの。上代回帰でもなく、日蓮直結、御書直結による根本教義と言えよう。マグマグo(*^▽^*)o~♪
>>
>>創価学会では仏法僧の三宝は別々なんですね。
- >>41256
>>最後になるが、学会では事の一念三千、三大秘法の南無妙法蓮華経を「久遠元初の法」と呼び、蓮祖証得の根源の法で、蓮祖御存在そのものであると考える。法と蓮祖がどうして同じかはともかく、法への帰命が即人への帰命と考える。
>>実にこの考えは、日顕宗や正信会にかつてあったが、後付けで発生したホッスの存在意義や、法門を己心に押し込む偏狭な一念三千の考えが生まれる以前のもの。上代回帰でもなく、日蓮直結、御書直結による根本教義と言えよう。マグマグo(*^▽^*)o~♪
創価学会では仏法僧の三宝は別々なんですね。
- >>41256
>>最後になるが、学会では事の一念三千、三大秘法の南無妙法蓮華経を「久遠元初の法」と呼び、蓮祖証得の根源の法で、蓮祖御存在そのものであると考える。法と蓮祖がどうして同じかはともかく、法への帰命が即人への帰命と考える。
法が客体として存在しているのでしょうか?
- >>41256
>>が、実際の信仰は相当違っている。日顕宗が一番奇妙で、一念三千の当体が戒壇さま、同時に蓮祖内証を体しているのがホッスさまであるとし、この二つの根本をもって宗旨の肝要とする。で、拝む対象はホッスが書写した曼荼羅。
>>そして、戒壇さまと書写曼荼羅にはなお且つ密接な関係があり、いずれにせよ、ホッスの手や開眼を経たもの以外は無効であるとする。つまり、信仰者の側からは、どうしてもホッスを経由した信仰形態、内容となるわけだ。
それで、創価学会配布の本尊は大石寺御歴代?
大聖堂に飾ってる本尊も大石寺御歴代。
それで「信仰者の側からは、どうしてもホッスを経由した信仰形態、内容となるわけ」なんですね
- >>41256
>>
>>会則改訂で色々と議論があるが、法や御本尊の存在について、近代以降、実際は異なる考えがある。客観的に、学会は法中心、日顕宗は戒壇さま中心、で、今回紹介する正信会では、それらを折衷したようなことが語られて来た。
面白い!
創価学会は法中心ですと。
人法一箇ではないわけですね。
- >>41257
>>富士宮の処分者の一件で、また動きがあるようですが、こちらで対処して
>>よろしいですか?
>>
>>http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/12481/1414734770/
>>
>>
>>特にこのケースとか
>>
>>http://6027.teacup.com/situation/bbs/14689
>>http://6027.teacup.com/situation/bbs/14693
>>http://6027.teacup.com/situation/bbs/14854
>>
あべひさん
御断り致します。
web上を含む一切の個人情報及び身辺調査を禁じます。
発見した場合は損害請求させていただきますので宜しくお願いします。
- 富士宮の処分者の一件で、また動きがあるようですが、こちらで対処して
よろしいですか?
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/12481/1414734770/
特にこのケースとか
http://6027.teacup.com/situation/bbs/14689
http://6027.teacup.com/situation/bbs/14693
http://6027.teacup.com/situation/bbs/14854
会則改訂で色々と議論があるが、法や御本尊の存在について、近代以降、実際は異なる考えがある。客観的に、学会は法中心、日顕宗は戒壇さま中心、で、今回紹介する正信会では、それらを折衷したようなことが語られて来た。
――大聖人は「日蓮がたましひをすみにそめ流して書きて候ぞ、信じさせ給へ」と仰せられているのである。「日蓮が魂」とは大聖人の民衆仏法・事の法門、換言すれば内證本尊である。「墨に染め流して書きて候」とは、その事の法門・内證の本尊を一幅の曼荼羅として図顕されることである。そして最後に「信じさせ給へ」と仰せられて、受持の一行・信の一字によって、刹那に己心に本尊が建立されることが示される。このところを事行という。形と顕われるのは「墨に染めながす」ところだけで、その前後に文字通り目に見えぬ事の法門、信の一字(事行)があって、この全体をもって、はじめて大聖人の御法門、本尊観といえるのである。(大日蓮、昭和59・1984年8月号)――
読者諸賢はどうか誤解なきよう。この一文は当時の正信会、在勤教師会なるものの考え方で、宗門当局が批判のために出した引用箇所。ご注目頂きたいのが「内證本尊」の語で、これがやり玉にあげられていたとご認識下されば十分だ。
読みようによっては、沖浦さんの「人本仏迹」に似ている。いやいや、沖浦さんの発想はこれの焼き直し、二番煎じと類推する向きもおありだろう。尚、当時、正信会は宗門、学会と対立していた。その歴史的事実も併せてご考察頂きたい。
内証は、内面に証得した悟りのこと。大聖人が得られた悟りそのものが内証で、それを曼荼羅として図顕されて御本尊となる。で、その悟りとは事の一念三千、三大秘法。この点、上に挙げた三者は・一・応・同・一・の見解を持つ。
――観心本尊抄冒頭に止観第五の一念三千の文を示されているのを、漫然と見過してはならない。/略=本尊抄本文/この一念三千の文が観心の本尊の依文であり、一念三千の法門が「己心の法門」であることは論ずるまでもない。寛師はこれを文段抄に、「観心の文に此三千在一念心等と云ふは、此の一念三千の本尊は全く余処外に在ること無し、但我等衆生の信心の中に在す故に此三千在一念と云ふ也。若し信心無くんば一念三千の本尊を具せず、故に若無心而已と云ふ也。(中略)宗祖の所謂、此の御本尊は只信心の二字に収れりとは是れ也」と説かれている。一言の説明の余地もないが、今流の本尊観とは全く違っている。宗祖や寛師は究極的には本尊は余処に求めるものではなく、衆生の信心の中にあると示されている。(同、昭和59・1984年7月号)――
が、実際の信仰は相当違っている。日顕宗が一番奇妙で、一念三千の当体が戒壇さま、同時に蓮祖内証を体しているのがホッスさまであるとし、この二つの根本をもって宗旨の肝要とする。で、拝む対象はホッスが書写した曼荼羅。
そして、戒壇さまと書写曼荼羅にはなお且つ密接な関係があり、いずれにせよ、ホッスの手や開眼を経たもの以外は無効であるとする。つまり、信仰者の側からは、どうしてもホッスを経由した信仰形態、内容となるわけだ。
くだんの正信会はどうか。上に引いた二つの引用はいずれも彼らの主張で、掲載月の順が逆になっているのを念頭にお読み頂きたい。後の引用に「己心の法門」とある通り、蓮祖のそれと信者のそれが同一のものであると考えている。
一見正しいように思われるが、実は違う。前の引用にある「内證本尊」とこの「己心の法門」が同一であると見るのが、一番の誤りだと言える。先ず蓮祖と私の己心は同じでない。言うならば、一念三千に包摂される個別の実相だ。
次に、蓮祖と私は人として生を受けたと言う共通項はあっても、それぞれの一瞬一刻変化する生命の状態、即ち境涯(境界)は違う。そして、一念三千を修行し、体得したかどうかの実際の過程、結果において、蓮祖と私は違う。
彼らの「己心の法門」は、ミクロの視野で見るとそう見えるだけで、それらを・そ・う・な・ら・し・め・る・も・の・こ・そ・が・一念三千であると言うことに、気づいていない。現象、作用や運動を分析した結果があるのみなのだ。
また、寛師の仰せは「一念三千の本尊」で、彼らの言う「法門」即「本尊」であるかの恣意的な表現も誤っている。この点、当時の宗門はおざなりだが正答を与え、同じく文段の「蓮祖心具の十界三千」の曲解であると断じている。
最後になるが、学会では事の一念三千、三大秘法の南無妙法蓮華経を「久遠元初の法」と呼び、蓮祖証得の根源の法で、蓮祖御存在そのものであると考える。法と蓮祖がどうして同じかはともかく、法への帰命が即人への帰命と考える。
実にこの考えは、日顕宗や正信会にかつてあったが、後付けで発生したホッスの存在意義や、法門を己心に押し込む偏狭な一念三千の考えが生まれる以前のもの。上代回帰でもなく、日蓮直結、御書直結による根本教義と言えよう。マグマグo(*^▽^*)o~♪
- >>41254
>>この上で今回私は、
先生の
『「久遠元初の法」を根本としてこそ』との指導を更に深く拝し、
サムさんの
「創価学会は世界宗教として普遍妥当性を追求すべきであり、大聖人御真筆の真の本門戒壇の御本尊は既に形を変え、久遠元初以来の根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法として、これからも存在する」との確信を受け止め、
久遠元初の法を根本に、
自身の家庭の御本尊を(直接)受持{全ての御本尊も(間接的に)受持したことになる}して行きます。
『「弘安2年の御本尊」は受持の対象にしない』とは、直接に拝する必要はない、と認識しました。
- 以下、5年前私が○○さんに宛てた発言です。
曼荼羅御本尊も凡夫即極の大聖人の命であるから、
衆生と同じく「本」である、と認識します。
○○さんへ
『観心とは我が己心の仏界を観じる、すなわち信心です。
私共凡夫が成仏するためには信心をする、信心には本尊がいりますね。
その信心のための本尊ですよ。本尊のための信心じゃないよ。
その信心のための本尊を、五の五百歳に始めておいたよ。
こう読むんです。
だから大聖人様はありがたいんです。
凡夫が信心するための本尊なんです。
私共が主体なんです。』(趣意)
先生のご指導に同意します。
このご指導を、私は、人と本尊は、本迹の関係としてではなく、
一面主客の関係としてのご指導である、と認識しました。
○○さんの、文字曼荼羅とダイヤの対比について、
私は、先生の「御書の世界」の中の、
「文字」は「心」の表れ、と言うことからと、
文字で記されたもののなかでも高低浅深がある、
人々を導くためにその能力に会わせて説いた「随他意」の経典と、
仏の真意を直ちに説いた「随自意」の経典との違いがある、言うことから、
ダイヤを随他意の経に置き換え、
曼荼羅御本尊を究極の随自意の経と認識し、
ダイヤは「迹」
曼荼羅御本尊は「本」と認識しました。
○○さんが言われる
迹だから粗末?
それは嘘ですよ。
に対しては、
私は、本迹勝劣から、迹は劣と認識しています。
『・・もとより、御本尊が、私どもの「根本尊敬」の対象であられることは
言うまでもない。そのうえで、曼荼羅それ自体は、物体という側面から
いえば永遠不滅ではありえない。当然、そこに計りしれない御仏意が
あられると拝されるが、曼荼羅としてあらわされた「法」は永遠である。
いずれにしても、大聖人の仏法の真髄である、「久遠元初の法」を根本と
してこそ、永遠の妙法流布の道が開ける。ーー』
出典・・・・池田大作全集 82
小冊子 創価のルネサンス 52
平成5年5月3日 「5.3記念 勤行会」より抜粋
私は、上記の先生の指導で、
「曼荼羅それ自体は、物体という側面から言えば・・」ということから
物体としてではない側面がある、と認識しました。
また、永遠の法は曼荼羅としてあらわされた。
「久遠元初の法」曼荼羅を根本にする、と認識しました。
曼荼羅にあらわされている、ではなく、
曼荼羅としてあらわされた、であるから、、
曼荼羅と法は一体である、曼荼羅には物体の側面だけでなく
法の側面がある、と認識しました。
先生は、物体は永遠ではないが、曼荼羅の物体の側面については、
計り知れない御仏意がある。と言われています。
先生の御義口伝講義の
御義口伝寿量品二十七箇の大事第二十五建立御本尊の事に
「本尊とは法華経の行者の一身の当体なり」とあります。
646拝見しました。「三大秘法を広宣流布ーー」と認識しました。
常住で滅びない真理(法) 本尊
真理を証得する智慧(報) 題目
衆生を救済の為応現(応) 戒壇
一身即三身・三身即一身
常住の法と滅するもの別々にみると、成り立たない、と認識します。
常住の法は常に滅するものと共にあり、
滅するものの(命)本質(生命)は、常住である。
以上、5年前の私の発言。
この上で今回私は、サムさんの
>>「創価学会は世界宗教として普遍妥当性を追求すべきであり、大聖人御真筆の真の本門戒壇の御本尊は既に形を変え、久遠元初以来の根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法として、これからも存在する」
の確信を受け止め、久遠元初の法を根本に、
自身の家庭の御本尊を(直接)受持し{全ての御本尊も(間接的に)受持したことになる}、
『「弘安2年の御本尊」は受持の対象にしない』とは、直接に拝する必要はない、と受け止めました。
- >>41252
>>「ず」のような打ち消しのあとに「じ」という打ち消しはつづきません。
>>
>>仮に大勝利さんのいうような「打ち消し」の「打ち消」しなら
>> 「書き得ずじや」は 「(書けないと思ったのに)書けてしまった」という
>>妙な事になります(笑い)
あべひさん
決め付けない 方が良いです。
「うず」もあるし、助動サ変型の「ず」もあります。
この場合の「ず」は、推量「〜だろう」ですので、
連用形も「ず」なので、終止形推量否定の「じ」に接続可能なので、
「かきえずじ」はあり得るのですが、それこそ他に用例があるかどうかですね。
- >>41248
※例えば、連用中止。と同じ考え方になると思います。
「聞き、見、言はざる」なら、三つとも打ち消してると読む場合が多いですよね。
口語でも「聞けない」と「聞かない」はちがうように「書けない」と「書かない」は
違いますよね。
また「連用中止」の用法の場合は、その後にまた同格の文章が続きます。
「雨降り、風吹く」というような書き方です。
また、得・ず・じ・や ではなくて 「得・ず・じや」 古文には「ゃ」が「や」
になります。
「ず」のような打ち消しのあとに「じ」という打ち消しはつづきません。
仮に大勝利さんのいうような「打ち消し」の「打ち消」しなら
「書き得ずじや」は 「(書けないと思ったのに)書けてしまった」という
妙な事になります(笑い)
ポイントは日精が家中抄で表現していない「之を書写」という説明部分が
日因の文書に組みこまれていることだとおもいます。
サムさんが「弟子が書いた」と錯覚されたのも、蓮祖以後の弟子が書写
した本尊授与の讃文に「之を書写」とか「之を授与」というものが
あるからでしょうね。
- 平成5年5月3日の
記念勤行会での先生の指導の中に
「究極に求められるものはなんでしょうか」
との質問に、
「久遠元初の法です」
と、先生は答えられます。
(今から40数年前とのことです)
そして、
『(略)曼荼羅それ自体は、物体という側面からいえば永遠不滅ではありえない。(略)
曼荼羅としてあらわされた「法」は永遠である。(略)「久遠元初の法」を根本としてこそ、
永遠の妙法流布の道が開ける(略)』
と、ありました。
5年前、「弘安2年の御本尊」についての対話を掲示板でされていたとき、
上記の指導を提示された方がみえました。
当時私は、先生の『「久遠元初の法」を根本としてこそ』との指導をしっかりと
受け止められていなかった、と思います。
先見の明を持たれていた諸先輩方に改めて感謝申し上げます。
- >>41238
白麦様
初めまして、ご挨拶が遅くなりまして申し訳ありません。
HNをサムといい、ブログやコメント投稿をはじめて、1年3ヶ月ほどになりますが、まだまだ未熟です。 現在68歳、年金生活ですが、ボランティア活動などで、結構多忙を極めています。
創価学会で多くの功徳を戴き、報恩・感謝の気持ちで、日々活動しています。
今後共、宜しくお願いします。
- >>41239
お答えします。
>>○貴方は「書写せられり」の「せられり」を受動態だと考えなかったのですか。
他人に質問する前に、
受動態で訳してみなさいよ。
○No.41224の私のコメントで既に述べています。 つまり、
私の解釈では
「弘安二年十月十二日に、(日蓮大聖人は)本門戒壇の大御本尊(現存の板御本尊とは別の真の真筆御本尊、紙墨?)を日興上人に付嘱され、(その後、大聖人以外の人により)堅牢の楠板に書写せられた。」
なお、「付嘱され」は丁寧語で、後の文節の「書写せられた」は丁寧語ではなく、主語は「御本尊」になります。 また、前の文節は、丁寧語ではなく「付嘱し」の方が原文に近いだろうと思います。
どちらも丁寧語とし、主語を「大聖人」としても文章は完成しますが、動作の時系列を考慮した場合には有り得ない事象なのです。
- ※動詞の連用形を否定すると、書いていない、つまり最初から動作を
していないことになるのですか?※
多くの場合そうなると思います。
例えば、連用中止。と同じ考え方になると思います。
「聞き、見、言はざる」なら、三つとも打ち消してると読む場合が多いですよね。
「あらかきえずじや」は難しいですね。あべひさんの仰ることももっともだと思いますよ。
あら(嘆詞)、書き得ずじ、や(嘆詞)と「じ」までいれると推量否定。
たしかに「えずじ」と言うのは聞き慣れないですが。
「え」を連用副詞化として読んでもも達成を表す表現なので、「書くことが達成できないではないか」との意味になり、「途中までは書けた」ではなく最初から書けないになると思います。
まぁ私も最初は口語体かとの思いもあって、
①連用+連用+否定+嘆詞 と読んでましたが、
②連用+連用+補助動詞+否定推量+嘆詞 かも知れません。
ですが、どちらも最初からの不可能を表すと思います。
「けり」のような過去を表す助動詞がどこかにあれば別だったんですが・・・。
- ここで、整理するために伝承の本文と、大勝利さんの訳をならべてみますね。
◎聖人只一幅に書き玉ふに鼻連石の上に之を書写す、而(しかる)に此石
中窪なり、時に大聖仰に云くあらかきえずじやとの給ふれば此の石即平に
なりけり云云
( 有師物語聴聞抄佳跡上 )
--
大聖人は28枚の紙を一枚に大きくして御本尊を鼻連石の上で書こう
となされた。ところが石がでこぼこだったので、「あらかきえずじや」
と言ったとたん、あら不思議。この石が平らになってしまいよったとさ
( 大勝利さん訳 )
//////////////////
一番大事なのは、日蓮大聖人御自ら ”曼荼羅を書き顕されている” ことを
「書写」としている文献はあるの?というサムさんの大勝利さんへの質問
からですよね。
かなり脱線していますが、あともう少し(笑い)
「しかるに」とは、大勝利さんのいわれるように「ところが」という解釈で
あっているとおもいます。
前段が「書きたまふに」「書写す」ですから、いずれも曼荼羅の図顕は
一度終わっていることになります。
ですが、大聖人は 「あら かきえずじや」( あぁ書く事ができなかった )
と言われたのです。
大勝利さんの解説では、書・く・前・に「書けない」ことを日蓮大聖人が
察知しておられたという風に読んでいることになります。
文章そのものの時系列を交ぜているのではありませんか。
- 「ず」は否定ではありません。
活用形の未然形のうしろについて「打ち消し」となります。
「書き得ず」の場合、打ち消しているのは「書く」ことではなく「得」です。
書いてみたけれど書けなかった ので、私は 書き(うつし)損じたと解したのです。
- 大をつけたら箔がつくとでも思ってるのかね。
大勝利に大前進、大確信。
戸田さんが大つけるのが大好き(笑)だったんだよね。
そんでもって大作かな?
そもそもあんたら大聖人の大と大御本尊の大の意味しってるの?
白馬の鉄塊持ち上げ職人丁髷爺ちゃんなら知ってるかもね。
- >>41237
>>>>「書こうとされたが」 の古文表現は 「書かむ(ん)としたまふ」
※「書きたまふ」は連用+終止。
たぶんつっこんでくるとおもいました(笑い)
~された、が、 になると 「書かむ(ん)としたまひけるが」とか
になりますね。
「書き得ず」は連用+連用+否定=未然形
動詞の連用形を否定すると、書いていない、つまり最初から動作を
していないことになるのですか?
じゃ 三猿で有名な「きかざる」は 「聞いてない」
ということになりますが(笑い)
ようするに大勝利さんの解釈では、日蓮大聖人が帰依された民の求めに応じ
鼻連石の上で曼荼羅を、「さぁ書こう」とおもったけれど、石がくぼんで
いたので、書き顕せなかったということになります。
これでは書写以前の問題になってしまいます。
だから。平らになったので曼荼羅が書けたというのが、隠された前提という
ことですか?
文脈として変でしょう。
- >>41238
>>>>41224
>>
>>初めまして。宜しくお願いいたします。
>>
>>>>「創価学会は世界宗教として普遍妥当性を追求すべきであり、大聖人御真筆の真の本門戒壇の御本尊は既に形を変え、久遠元初以来の根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法として、これからも存在する」
>>
>>
>>サムさんと大勝利さんのやり取りを拝見していました。古文の難しい内容で、理解できていなかったのですが、上記の「」内のサムさんの確信に、目から鱗というか、目が釘付けになったというか、
>>激しく「そうだ」と叫びたいです。嬉しくてしかたないです。
>>
>>信力を深めていこうと、自分なりに「弘安2年の御本尊」をどのように捉えたらいいか試行錯誤していました。でも「もうこれで大丈夫」と大確信で前進していきます。
>>
>>ありがとうございます。
>>
>>
>>
>>
あ~あ、やれやれ。
目から鱗というよりも、目に瘡蓋だな。
>>41239
>>
>>>>○貴方は「書写せられり」の「せられり」を受動態だと考えなかったのですか。
>>
>>他人に質問する前に、
>>受動態で訳してみなさいよ。
>>
>>「非情の受身」「迷惑の受身」「被害の受身」のどれになりますか?(笑
>>
真面目なご論客に対して、こんなつっけんどんな物言いはおやめ下さい。
こちらの板の気風にかかわります。
そのように話題をそらされるから、いつまでも結論に至らないのです。
ともかくも、国語にご自信がおありなら、ちゃんと相手に分かるようにお書き下さい。
同志に対して詰問口調はいただけませんよ。マグマグo(*^▽^*)o~♪
かつての高位実力者がお縄になっている。整風とも呼ばれ、対象は党員だが社会にも強い影響を与えることになる。いや、党員で高位が占められているので、実際には国の屋台骨を揺るがしかねない大事件でもある。
処分の目玉は、党籍剥奪と司法機関へ移送しての審査。逆に考えると、党籍があれば司法と関係がないのかと不思議に思うが、日本と特に違う部分――党が司法の上にあるのを考え合わせると、漠然としているが合点が行く。
党には規律委員会があり、問題児の党性、つまり思想的立場、忠誠心、貢献度等々を審査し、党籍留保や剥奪への処分案を出すらしい。司法機関は、法律や社会道義上の罪を問い、党員は二重の枷(かせ)に縛られているのが分かる。
体制上、この上下が入れ替わることはことはない。党籍を剥奪され、司法によって罪が確定して刑に服す際、悪くして「政治的権利の剥奪」が加えられることがある。さしづめ基本的人権の司法による剥奪とでも考えられよう。
――澤梁無禁、罪人不孥(孟子、梁惠王下)。密漁を禁止しないが、有罪と判断された場合、罪はその罪人にだけ問い、妻子眷属に及ばない。周(西周:前1046~前771年。東周:前770~前256年)をひらいた文王の治世のこと。
孟子は孔子の弟子らしく、文王の世を理想社会だと考えた。性善説が発想の底部にあり、実際の国の統治では消極的な人道主義に過ぎないとの批判もある。問題は、妻子が連座させられるほどの罪とは何かだと思うのだが。
別に中国をかばうつもりでない。今回もまさに一族郎党の芋づる式(株連九族と言う)となった。で、注目されたいのは、関係者のそれぞれが・単・純・に・無・辜・で・な・い・こと。個々のエゴや邪心による利益小集団を各地に形成していたから、大問題になったようだ。マグマグo(*^▽^*)o~♪
- >>「得(う)」(可能)の複合動詞表現です。
古語辞典で調べたら、
補助動詞「得」+「ず」とともに用いることがある。
これは不可能を強調したものとも解せる・・・とあります。
「書けず」の打ち消しをより強調して「書き得ず」として不可能を表すと読む方が自然な感じだと思います。
>>○貴方は「書写せられり」の「せられり」を受動態だと考えなかったのですか。
他人に質問する前に、
受動態で訳してみなさいよ。
「非情の受身」「迷惑の受身」「被害の受身」のどれになりますか?(笑
- >>41224
初めまして。宜しくお願いいたします。
>>「創価学会は世界宗教として普遍妥当性を追求すべきであり、大聖人御真筆の真の本門戒壇の御本尊は既に形を変え、久遠元初以来の根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法として、これからも存在する」
サムさんと大勝利さんのやり取りを拝見していました。古文の難しい内容で、理解できていなかったのですが、上記の「」内のサムさんの確信に、目から鱗というか、目が釘付けになったというか、
激しく「そうだ」と叫びたいです。嬉しくてしかたないです。
信力を深めていこうと、自分なりに「弘安2年の御本尊」をどのように捉えたらいいか試行錯誤していました。でも「もうこれで大丈夫」と大確信で前進していきます。
ありがとうございます。
- >>41234
>>
>>※「書き得ず」ですので未然形と言うやつです
>>
>>単純に書いていない状態(未然)なら「書か」です。
>>
>>「書く」も「聞く」も同じ動詞四段活用ですよ。
>>
>>「か」「き」「く」「く」「け」「け」
>>古文辞典の語例に載っています。
>>
>>
>>「書く」と「得(う)」(可能)の複合動詞表現です。
>>
>>また未然形に「たまふ」という謙譲表現は不自然です。
>>
>>「書こうとされたが」 の古文表現は 「書かむ(ん)としたまふ」
「書きたまふ」は連用+終止。
「書き得ず」は連用+連用+否定=未然形
- >>41232
>ちなみに、日亨上人の「親付し」「書写せられり」ですが、「せられり」は強い尊敬語です。
「親付し」には何もついてませんね。
親付した大聖人に丁寧語も付けず、大聖人以外の人に尊敬語をつけるのはおかしいですね。
つまりこれは「親付し」も「書写」も同じく大聖人であるので文末「書写」に尊敬語をつけて「親付し」では省略したと考えるのが一般的だと思います。
○貴方は「書写せられり」の「せられり」を受動態だと考えなかったのですか。
それでは、主語が誰か考慮し「親付し」を尊敬語・丁寧語に変換して、私が提示した文章を現代語訳してください。 宜しくお願いします。
確かに「鋪」は畳や「本」などの助数詞なので、畳の助数詞として考えれば
「聖人只一軸あつて然るべしとて廿八枚一鋪に書き給ふに」の訳文は、
「大聖人は一軸だけ仕上げても問題無しと考えて、白紙廿八枚を畳一畳に広げ繋げて書かれる為に」が相応しいのかもしれません。
また、「聖人只一幅に書き玉ふに鼻連石の上に之を書写す」も恐らく同様の意味で書かれたのかも知れませんが、上記の文意とは全く一致していません。
「之を書写」の「之」が「何」を指すのか不明なので、私はこれまで、「(書かれた一幅を真似て)書き写した」と訳してきたのです。
いずれにしても、何回も言いますが、他に大聖人御真筆の御本尊を「書写した御本尊」と呼ばれている文献があるのなら別で、大聖人が御本尊を顕された場合には、大聖人御真筆の御本尊であり、「御図顕」或いは「御建立」と称していると思っています。
※「書き得ず」ですので未然形と言うやつです
単純に書いていない状態(未然)なら「書か」です。
「書く」も「聞く」も同じ動詞四段活用ですよ。
「か」「き」「く」「く」「け」「け」
古文辞典の語例に載っています。
「書く」と「得(う)」(可能)の複合動詞表現です。
また未然形に「たまふ」という謙譲表現は不自然です。
「書こうとされたが」 の古文表現は 「書かむ(ん)としたまふ」
- >>41222
お久しぶりでございます。
ご挨拶遅くなりました。
Bである、と確信いたします。
>>ご研鑽の一番の武器、唱題で魔を打ち払い、
>>いや、魔をも救う信心の気概、気迫で参りましょう!
はい、
三代の師匠と共に、大聖人直結で、異体同心の団結で、
大聖人の御本尊を信じ、自行化他の唱題で広布の躍進をしてまいります!
- あべひさんは最初に、
「かきえず」を「書き損じた」と訳しましたが、
「書き得ず」ですので未然形と言うやつです。
ですのでまだ書いてないのです。
「書き給う」は連用終止ですので、書き終えた完了ではないです。
「廿八枚一鋪に書き給ふに、鼻連石の上にて書き給ふに此ノ石中窪なり、此ノ故にやら書きえずじやと仰せられければ此ノ石平ラに成りけり」
「廿八枚一鋪に書いてくださるに、鼻連石の上にて書いてくださるに、この石中窪です。この理由で「書きえない」と仰せられければ、この石平らになった。」
つまり、この後平らになった石の上で書いたことが省略されてることが読めるので、
意訳としては、「書こうとなされた」の方が通じやすいとおもいましたので。
ちなみに、日亨上人の「親付し」「書写せられり」ですが、「せられり」は強い尊敬語です。
「親付し」には何もついてませんね。
親付した大聖人に丁寧語も付けず、大聖人以外の人に尊敬語をつけるのはおかしいですね。
つまりこれは「親付し」も「書写」も同じく大聖人であるので文末「書写」に尊敬語をつけて「親付し」では省略したと考えるのが一般的だと思います。
>>41230
>>
>>既に皆さんがお書きの様に,家中抄日法伝です。
>>「甲州郡内郡、大原村の内に石有り鼻蓮石と号す、此ノ東に小堂有り大聖此ノ堂に入り休す、
>> 郡内ノ男女多く集リて僧衆を視る時に御説法有り聴聞し奉る渡辺等即受法す、
>> 聴聞の諸人本尊を所望す受法の人々廿八人白紙一枚づつ持参す、
>> 聖人只一軸あつて然るべしとて廿八枚一鋪に書き給ふに、
>> 鼻連石の上にて書き給ふに此ノ石中窪なり、
>> 此ノ故にやら書きえずじやと仰せられければ此ノ石平ラに成りけりと云々、
>> 此ノ本尊を書イて渡辺藤太夫光長に授与す」
>>
>>書いてあるとおりではないでしょうか?
>>二十八人が一枚づつ持参した白紙を,繋ぎ合わせて一鋪にして
>>大きな御本尊様を認められたという事でしょう。
>>
>>http://homepage3.nifty.com/juhoukai/mandara/057.html に
>>2439*1249 (大小28綴) 現存御真筆中第一 とあります。
>>
お手数をおかけして申し訳ございません。
ああ「聖人只一軸あつて然るべしとて廿八枚一鋪に書き給ふに」ですか。。。爆笑
ところで、おやおや、日精では「書写」な~んて単語、ないんですねネ。
わざわざ有難うございました!一つスッキリしました!マグマグo(*^▽^*)o~♪
追、すみません。また私の言葉足らずです。
「日精以前の元ネタ」のつもりだったんですが、、、笑。。。
- お返事遅くなりまして申し訳ありません<(_ _)>
>いや、私は最初「家中抄」だと思ったのですが、
>どうも元ネタの出典は曖昧で、
>光長寺さん(現在、法華宗らしい)の古文書か何かみたいです。
>業務連絡、終り。
突然,何のお話かと思いましたが,例の御本尊様の事だったんですね?ww
既に皆さんがお書きの様に,家中抄日法伝です。
「甲州郡内郡、大原村の内に石有り鼻蓮石と号す、此ノ東に小堂有り大聖此ノ堂に入り休す、
郡内ノ男女多く集リて僧衆を視る時に御説法有り聴聞し奉る渡辺等即受法す、
聴聞の諸人本尊を所望す受法の人々廿八人白紙一枚づつ持参す、
聖人只一軸あつて然るべしとて廿八枚一鋪に書き給ふに、
鼻連石の上にて書き給ふに此ノ石中窪なり、
此ノ故にやら書きえずじやと仰せられければ此ノ石平ラに成りけりと云々、
此ノ本尊を書イて渡辺藤太夫光長に授与す」
書いてあるとおりではないでしょうか?
二十八人が一枚づつ持参した白紙を,繋ぎ合わせて一鋪にして
大きな御本尊様を認められたという事でしょう。
http://homepage3.nifty.com/juhoukai/mandara/057.html に
2439*1249 (大小28綴) 現存御真筆中第一 とあります。
- >>41226
日精の※家中見聞下に、
A「鼻連石の上にて書き給ふに此ノ石中窪なり、此ノ故にやら書きえずじや・・」
日因の解説には
B「聖人只一幅に書き玉ふに鼻連石の上に之を書写す、而に此石中窪なり」
-----------
なるほど。
しかし大勝利さん。
日因は大聖人が、「鼻連石の上にて本尊を書き給ふ」事を、「之を書写す」と
記述しました・・ではオカシイでしょう。
『鼻連石の上で本尊を書き給う』・・ つまり、すでにここで曼荼羅を書され
たことを書き終えています。
「たまふ」は ~なさる、お与えになる、との意であって
( http://kobun.weblio.jp/content/%E3%81%9F%E3%81%BE%E3%81%B5 )
~しようとされたが・・という意にはなりません。
ただ、日精の家中抄の表記では「書きえず」の対象が二十八紙本尊に
なってしまいます。
書こうとしたが「書き得ず」つまり、曼荼羅を書する事ができなかった
ということになるので、日因は「鼻連石」に写された曼荼羅の一部が「書き得ず」
だという解釈をしたのではないでしょうか。
- >>41226
お答えします。
家中見聞下の記述
「聴聞の諸人本尊を所望す受法の人々廿八人白紙一枚づつ持参す、聖人只一軸あつて然るべしとて廿八枚一鋪に書き給ふに、鼻連石の上にて書き給ふに此ノ石中窪なり」
○こちらは、「白紙廿八枚を本一冊の様に重ねて一度に書こうとした」であり、
有師物語聴聞抄佳跡上の記述
「丁聞の人衆御本尊を所望す受法人廿八、白紙一枚宛持参す、聖人只一幅に書き玉ふに鼻連石の上に之を書写す」
○こちらは、「大聖人が只一枚書いて、(其の後、これを真似て)書き写した」と読めますね。
- ※他に大聖人御真筆の御本尊を「書写した御本尊」と呼ばれている文献があるのなら別ですが※
既に日因の記述を出しています。理解なされなていないようなので、再度補足します。
家中見聞下に、下記の記述があります。
「甲州郡内郡、大原村の内に石有り鼻蓮(ツラ)石と号す、此ノ東に小堂有り大聖此ノ堂に入り休す、郡内ノ男女多く集リて僧衆を視る時に御説法有り聴聞し奉る渡辺等即受法す、聴聞の諸人本尊を所望す受法の人々廿八人白紙一枚づつ持参す、聖人只一軸あつて然るべしとて廿八枚一鋪に書き給ふに、鼻連石の上にて書き給ふに此ノ石中窪なり、此ノ故にやら書きえずじやと仰せられければ此ノ石平ラに成りけりと云々、此ノ本尊を書イて渡辺藤太夫光長に授与す、時に黄梁焼米を以って大聖升に伴僧に供養す此ノ時の例を以ッて今に本尊入御の時は先づ藤太夫が家に入れ奉り黄梁焼米を供養して次に妙法寺に移し奉るなり已上門中相伝なり。」家中見聞下
上記大石寺第十七世法主の「家中見聞下」を、第三十一世法主は「有師物語聴聞抄佳跡上」にて、
「甲州郡内大原村の内に石あり鼻連石と号す此の東に小堂有り大聖此堂に入り休む郷中の男女多く集りて僧衆を視る、時に御説法有り丁聞し奉る、渡辺等即受法す、丁聞の人衆御本尊を所望す受法人廿八、白紙一枚宛持参す、聖人只一幅に書き玉ふに鼻連石の上に之を書写す、而に此石中窪なり、時に大聖仰に云くあらかきえずじやとの給ふれば此の石即平になりけり云云、此御本尊渡辺藤太夫光長に授与す、仍て、藤太夫黄梁焼米を供養し次に妙法寺に入るなり云云、」
と、
大聖人が、「鼻連石の上にて本尊を書き給ふ」事を、「之を書写す」と記述しました。
貴方がいくら「※大聖人が御本尊を顕された場合には、大聖人御真筆の御本尊であり、「御図顕」或いは「御建立」と称すべきであり、称していると思っています。※」
と思っていても、大石寺の法主は「大聖人が真筆本尊を書かれる」ことを「之を書写す」と用いていています。
ご理解いただけましたでしょうか?
- >>41219
度々の御返事、有難うございます。
>なんにしろ、大聖人が本尊に書写されたとの貴方のご意見のようですので他を答えます。
○そうは言っておりません。 他に大聖人御真筆の御本尊を「書写した御本尊」と呼ばれている文献があるのなら別ですが、私は、大聖人が御本尊を顕された場合には、大聖人御真筆の御本尊であり、「御図顕」或いは「御建立」と称すべきであり、称していると思っています。
>貴方は論拠に、日霑、日量、日叶等々を使用してるようですが・・・。
○別に意識して使っている訳ではありませんが。
>日亨上人は、図顕と書写を区別して使った可能性は充分あるとは思います。
また、貴方の言う通り最初紙幅に書かれたのではないかと考察していた可能性もあるとは思います。
ですがここでは、書かれた文字を削ると言う前提があるのであえて「図顕」ではなく「書写」との文面にしたものと私は思います。
○書かれた文字を削る必要があったのでしょうか。
>私は「当身」「親ら付す」「自身に」と言葉を変えて答えてますが、説明のしようがないので。
○「親付し」=「(親しい関係者に)付嘱し」で別に問題は無いと思いますが。
「しんぷ(親付)親しく授け付嘱すること。 法華文句八下には、仏法守護のため仏が国王に法を親付したとある。」(日蓮大聖人御書辞典 聖教新聞社発行 620頁)
>親付と授与の時系列ですが
○私は「親付」と「書写」の時系列に着目したのです。 この文章は堀日亨上人の本音と解釈しました。
本文の要点は
「弘安二年十月十二日に、本門戒壇の大御本尊を興上に親付し、堅牢の楠板に書写せられたり」
私の解釈では
「弘安二年十月十二日に、(日蓮大聖人は)本門戒壇の大御本尊(現存の板御本尊とは別の真の真筆御本尊、紙墨?)を日興上人に付嘱され、(その後、大聖人以外の人により)堅牢の楠板に書写せられた。」
従って、堅牢な楠板御本尊への転換は、結果として大聖人と日興上人の合作とも言うべきであり、令法久住、広宣流布の為であったと理解していました。 しかしながら、宗門は、広宣流布に邁進する創価学会を謂われなく一方的に破門し、葬式宗教に矮小化してしまいました。 このまま放置する事は、大聖人の本意では無いと考えます。
また、形ある物、永遠では有り得ません。 私は、創価学会は世界宗教として普遍妥当性を追求すべきであり、大聖人御真筆の真の本門戒壇の御本尊は既に形を変え、久遠元初以来の根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法として、これからも存在すると信じているのです。
改正点の要約は、次の様に思います。
①大聖人御図顕および書写した本尊は、全て等しく「本門の本尊」である。
②「本門の本尊」に唱える南無妙法蓮華経が「本門の題目」であり、その唱える場が「本門の戒壇」となる。
③「御本尊」は創価学会が受持の対象として認定し、弘安2年の御本尊は受持の対象とはしない。
原田会長は池田先生と相談の結果、細部については、若き青年部に未来と共に託されたのだと推測しています。
>>41220
>>
>>また、大聖人の仏法を広宣流布し、事の戒壇を建立するのは、AとBのどちらでしょう。
>>私は、Bだと思う。
>>
白麦様、まことにお久しぶりにございます。
ご挨拶がこんなに遅れましたことを、
更に失礼と存じながら、同時にお詫びを申し上げます。
私もBだと確信致します。
で、これは信心の問題、次元のことだと思われます。
――狗犬が師子を吼えて其の腹破れざること無く
修羅が日月を射るに其の箭還つて其の眼に中らざること無し
(富城入道殿御返事、御書全集994頁)――
信心なき狗犬は、どこまでも、いつまでも狗犬の域を出ません。
白麦様ご研鑽の一番の武器、唱題で魔を打ち払い、
いや、魔をも救う信心の気概、気迫で参りましょう!マグマグo(*^▽^*)o~♪
- 大聖人と同意でない者Aが、大聖人の「御本尊A」を所持している。
大聖人と同意の者Bが、 大聖人の「御本尊B」を受持している。
「御本尊B」は、
大聖人と同意の者が、
事の戒壇に安置される予定の「御本尊A」を書写した御本尊であり、
意義において「御本尊A]と全く同じ御本尊である。
三大秘法(本門の本尊・本門の題目・本門の戒壇)のうちでは本門の本尊であり、随一である。
AとBのどちらが、大聖人の仏法を正しくCに伝えることができるでしょう。
私は、Bが、大聖人の仏法を正しくCに伝えることができると思う。
また、大聖人の仏法を広宣流布し、事の戒壇を建立するのは、AとBのどちらでしょう。
私は、Bだと思う。
- >>41213
>>※それで理解できました。 「書写の本尊に現文あり」とは、房州妙本寺 日我上人が『観心本尊抄拔書』で述べている事ですね。 これは、大聖人が仰った言葉ではないという事が一つ、二つ目は妙楽大師の文言「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し」が書写された御本尊という使い方で、「書写の本尊」と言ったまでであり、「現物(図顕・建立)」と「書き写し」の区別での「書写」では無いようですね。※
理解できたのはけっこうですが、ちょっと苦しい読み方ですね。
日我の考え方は、曼荼羅本尊(法)、御影本尊(人)の両方の本尊というような考え方なのです。
「問ふて云はく本尊と申すは諸宗諸門同じき名目なり当宗当門に於いて其の躰如何、答へて云はく此の事は余り大事なる間不審する人も稀なり、但本尊堂の本尊のつとめの香花のと斗り云つて其の躰を問ふ人是れかたし、況や分別すべき事大切なるか即座に顕はし難き間、修学を待つべきのみ、然りと雖も粗其の心遣ひ斗り之れを示す、当宗当流に於て二個の本尊常の如し三大秘法本尊問答抄の如し、然る間本尊御影と両尊にわくる時は本尊は題目なり、本尊と妙法蓮華経の五字と申す時は本尊は御影の御事なり。」 化儀秘決
ですので、前述の「造立の仏に現証あり」とは聖人御影のことであり、おそらくは妙本寺の生御影でしょう。
ですので紙幅の本尊自体を「書写の本尊」と言い、御影本尊、板本尊と三つ並べてるわけです。まぁここはあまり関係がないので参考程度でけっこうです。
なんにしろ、大聖人が本尊に書写されたとの貴方のご意見のようですので他を答えます。
>>※これは、大聖人が仰った言葉ではないという事が一つ、※
貴方は論拠に、日霑、日量、日叶等々を使用してるようですが・・・。
>>※「現物(図顕・建立)」と「書き写し」の区別※
日亨上人は、図顕と書写を区別して使った可能性は充分あるとは思います。
また、貴方の言う通り最初紙幅に書かれたのではないかと考察していた可能性もあるとは思います。
ですがここでは、書かれた文字を削ると言う前提があるのであえて「図顕」ではなく「書写」との文面にしたものと私は思います。
次に、親付と授与の時系列ですが下記に戸田先生の質問会講義を紹介して終りにします。
私は「当身」「親ら付す」「自身に」と言葉を変えて答えてますが、説明のしようがないので。
ーーーーーーーーーーー
なかにはこういう議論を立てる者もいます。「大御本尊様は日興上人に授与したのであるから、なぜ対告衆を日興上人になさらないのか」と。
それは、日興上人を対告衆としたのでは、一閻浮提総与とはならないのです。この一閻浮提総与の御本尊すなわち南無妙法蓮華経というものは、全世界にひろめる人、まずこれを日本にひろめて戒壇を建立する人に授与すべきものなのです。
ここで問題が一つあります。そのまえにいっておきますが、私がおどろいたことが一つあります。
それは、私が東之坊を創価学会として総本山へご寄進申し上げたときのこと、僧侶から話がありまして
「仏器から御厨子(おずし)までぜんぶ私がお引き受けしますから、あとはよろしく取り計らっておいてください」といったのです。
そうしましたら、東之坊の御本尊の対告衆は私になっているのです。ほんとうなら東之坊に御僧侶がいらっしゃるのですから、その御僧侶へお下げ渡しになったらいいはずでしょう。
「私の名前でやってください」といったのではないのです。しかるに、御本尊お下げ渡しの原則によって、私にお下げ渡しになっている形になっています。
しかし、あの御本尊様は東之坊の御住職の、身にあてたまわる御本尊です。ただ対告衆が、私であるというところを、よくよく考えてもらわなければなりません。
ーーーーーーーーーーーー
※その帰り河口湖に寄り、小立の村人に大曼荼羅を書いた。村人が
持ち寄った紙28枚を継ぎ合わせて書き進めたところ、人面に似た
石の所に達し、筆跡の見事さにその人面石がのぞき見をして、
その鼻が象の鼻のように垂れ下がったという。
以来この石を「鼻曲がり石」と呼んでいる
http://powerspot.crap.jp/s/6317.html
>>41215
>>
>>富士宮の処分者の一件で、また動きがあるようですが、対処して
>>よろしいですか?
>>
>>http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/12481/1414734770/
阿部日様
何が何だがしっかりと把握出来ませんが、すごいことになっているみたいですね。
以上、読後感第一声のみにて。マグマグo(*^▽^*)o~♪
富士宮の処分者の一件で、また動きがあるようですが、対処して
よろしいですか?
http://jbbs.shitaraba.net/bbs/read.cgi/study/12481/1414734770/
- >>41213
私が提示した『観心本尊抄拔書』の文には、漢文を忠実に和文にしています。 文中の「と者は」は「者」を抜いて「とは」と読んでください。
- >>41204
今、帰ってきたら、コメントが書かれていましたので、お答えします。
>「当に知る身土一念○故に成道の時と者末法の出世也、称ふ此の本理にと者は事行の南無妙法蓮華経也、身と者は名字約身約位也土と者は本国土也一念と者は事の南無妙法蓮華経の己心の日蓮の一念也、然る間本尊御影造立此の事也脱仏の造立失ふ時機を物恠也、在世と滅後とかれとこれと一往再往を分別して置き玉ふ上は不る及ば異論に処を本迹一致の一品二半の八品所顕のなんどと構ふる己義を事以つての外の誤也、御抄の御文相に打ち任せて可き奉る付け信を也、此の上に証文を御引証あらんより於て其の上に書写の本尊に現文あり造立の仏に現証あり、久遠寺の板本尊今留大石寺にあり大聖御存日の時の造立也」
上記この部分は観心本尊抄の下記の部分を説明しています。
「上行無辺行浄行安立行等は我等が己心の菩薩なり、妙楽大師云く「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し」等云云。 」
そして、
「書写の本尊に現文あり」と、「書写の本尊」にこの現文がかかれていると言われてますね。
○「当に知る身土一念○故に『成道の時』と者末法の出世也、此の『本理に称ふ』と者は事行の南無妙法蓮華経也、『身』と者は名字約身約位也『土』と者は本国土也『一念』と者は事の南無妙法蓮華経の己心の日蓮の一念也、然る間本尊御影造立此の事也脱仏の造立時機を失ふ物恠也、在世と滅後とかれとこれと一往再往を分別して置き玉ふ上は異論に及ば不る処を本迹一致の一品二半の八品所顕のなんどと己義を構ふる事以つての外の誤也、御抄の御文相に打ち任せて信を付け奉る可き也、此の上に証文を御引証あらんより其の上に於て書写の本尊に現文あり造立の仏に現証あり、久遠寺の板本尊今大石寺にあり大聖御存日の時の造立也」
それで理解できました。 「書写の本尊に現文あり」とは、房州妙本寺 日我上人が『観心本尊抄拔書』で述べている事ですね。 これは、大聖人が仰った言葉ではないという事が一つ、二つ目は妙楽大師の文言「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し」が書写された御本尊という使い方で、「書写の本尊」と言ったまでであり、「現物(図顕・建立)」と「書き写し」の区別での「書写」では無いようですね。
- 二十八紙御本尊という名称も、大判の曼荼羅を書き顕されたというよりも
説法を聞いて帰依された男女の郷衆の存在を留める意義ではないかと思います。
なにせ弘安元年の事です。
「白和紙」があるというのは、それなりの有力者が用意したという事だと
おもいます。
飛び曼荼羅もそうですが、日蓮大聖人の真筆曼荼羅については
様々な伝承がありますね。
なにせ、古文の解釈はややこしく、当時の「一般」は現代人が計り知ることが
できにくいので、混同される方がいても仕方がないでしょう。
それを指して「国語の問題」だとか相手を下すのは、失礼ではないでしょうか。
マグマグ殿が言われるように「どうとでも解釈」ができるために
後世のものが、都合の良い解釈をするための「文書」としている場合も
あります。
なんとなく、間違っている事は解っても、それがどのように間違っているのかを
自分が説明できない以上、討論上の「反論」たりえません。
さて問題は「書写」ですが「写」には「ありのままにうつし取る」という意が
あります。
日蓮大聖人のお立場からみれば、曼荼羅は法華経経文の「上行無辺行浄行安立行等」
四菩薩が顕れた虚空会の儀式を「ありのままに写された」といえます。
大聖人は曼荼羅本尊を指し「是全く日蓮が自作にあらず」(日女御前御返事)
とされていることからも 「書写」=弟子が書き写した という意に限定
されるわけでも、相貌に関する説明で「書写」と書かれたから、大聖人が
直筆された御本尊全体も「書写」であるとするわけでもありません。
したがって、引用された部分をもって
「万年広布流溢の時大戒壇に安置すべく、弘安二年十月十二日に、本門戒壇の
大御本尊を興上に親付し 堅牢の楠板に書写せられたり」
の解釈を「板曼荼羅に図顕された」と解する根拠とするのはちょっと弱いとおもいます。
「書写」で
- ※また、日因上人も「私見」と前置きしたうえで、引用された伝承の矛盾に疑問
を呈されている箇所が見て取れるということでしょうか※
28紙御本尊があったので、それにまつわる伝説、逸話、昔話が出来ていったものと考えますね。
注意しなければならないのは、この御真筆が真筆だからと言って、この記述が「実話」にはならないことです。「実話」でないからと言って「ニセ」にもならないですね。混同して必死になってる人が1名おられるようですが(笑 (サムさんではありません)
ですが、28紙御本尊を当時、日因が知っていたこと、「之を書写す」との用法を知っていたことの根拠にはなります。
当然、堀氏も当然知っていたことでしょう。
仰せの通りです。が、日精でもないようですよ。
私には全然分かりませんので、これ以上は申し上げませんが、笑。
それと、私が着目しているのは、
(この辺は真面目なサム様と違うところで)
言いだしっぺが出したのは「戒壇大本尊」のことで、
その人が出して来るのは、それ以外の例ばっか、なんです、笑。
で、それらの引例と堀上人の逸文が噛み合わない、、、爆笑。
大勝利さんは、戒壇大本尊も他の曼荼羅と同じだとお思いかもしれませんが、
私は、ちょっと違うと思います。もちろん個人的にですが。
ああ、だからと言って、私はもう信受していませんので、
その辺はご安心下さいませ、笑(^O^)
説文解字に追われて、原意や真意をはかろうとしないのは、
木を見て森を見ずになっちゃうんじゃないでしょうかね。マグマグo(*^▽^*)o~♪
日蓮大聖人が鎌倉から身延にお帰りの際に、山梨県の大原村を通られた。
その村には「鼻連石」と呼ばれる石があり、その東脇にお堂があり
そこで、一行が休憩をされていたところ、郷中の男女が集まってきたので
大聖人が説法をされた。
この時に渡辺某(地頭?)が帰依し、聴聞の民二十八人も帰依したので
彼等にも白紙を一枚ずつ宛て日蓮大聖人に御本尊を所望した。
大聖人は只一枚のみ曼荼羅を書かれたのだか、その際「鼻連石」の上で
書かれたので、石に曼荼羅の一部が書き写されてしまった。
石の表面はでこぼこしているので、大聖人は「おや、書き損じだね」と
いわれると石が平らになってしまった。
遅くなったが、先ずサム様にお返事したい。細かなお心づかいに感謝申し上げます。ところで、私は、あなた様に特に傾倒しているのでなく、この屈折した議論の早期決着をのぞむもので、時々こうして茶々をいれているだけです、笑。他意はございません。
――此の上に証文を御引証あらんより於て其の上に書写の本尊に現文あり造立の仏に現証あり、久遠寺の板本尊今留大石寺にあり大聖御存日の時の造立也(観心本尊抄拔書)引用:大勝利氏――
――日要云ク、『付当流本尊造立書寫ノ不同如何』、答フ、『奉レ晝本尊ハ譬へハ軍勢ノ時有大将著到ヲ付ケタルカ如シ、今書キ顕シ給フ本尊ニハ高祖ノ御判形アリ、即高祖ノ法體ニシテ下種ノ導師ニテ御座セハ末代ノ本尊也、故ニ脱ノ教主釈尊ヲハ不造也』云云」(雑雑聞書)引用:同上――
さて、また引用が、笑。しかも古文書。まあ、先の謎の伝説よりは進歩している。で、大勝利氏は気づいていないようだが、こう引用すると、サム氏のご主張を・半・分・認・め・た・ことになる。種明かしは続きからご高察頂きたい。
――弘安二年十月十二日に、本門戒壇の大御本尊を興上に親付し、
万年広布流溢の時、大戒壇に安置すべく堅牢の楠板に書写せられたり――
お手数ながら、読者諸賢は発端にお戻り頂きたい。先ず大勝利氏の「大本尊が元々紙幅で図顕されたと思う者はいまい」から始まった。で、出て来たのがこの堀上人の逸文。そして、主語は誰か、書写の字義はどうかに流れて行く。
振り返るに、大勝利氏は、サム氏のご主張――つまり、堀上人は、興上親付と楠板書写の二つの行為が、それぞれ別の主体によるものとお考えだったのでは?に対して、回答らしい回答を与え渋っているように感じる。
その点、サム氏の懇切なご対応には好感が持たれるが、反対に、大勝利氏の大事な作業の欠落に気づく――堀上人の他の著作、文献の精査だ。それと用語づかいだけに注目し、内容理解に至らないのに、傍証の提示に腐心していること。
加えて、傍証の内容確認もない。先の謎の伝説が好例で、どうしてそんなもので、堀上人の逸文を検証したことになるのか? ご当人不在の中、もとより真意の理解には誰も至らない。が、真摯に本文と取り組む姿勢が、氏には特に欠けているだろう。
――日興の弟子分に於ては在家出家の中に或は身命を捨て或は疵を被り若は又在所を追放せられ一分信心の有る輩に忝くも書写し奉り之を授与する者なり(富士一跡門徒存知の事、御書全集1606頁)――
試みに大勝利氏にならい、真偽不詳、出処不明の文献を引く、笑。そして、サム氏をはじめ普通の学会員は、この固定観念を持っている。こう言う伝統的な不文律、掟があるとして、御本尊の存在を受容する精神土壌が広く存在する。
要するに、蓮祖は御図顕、他は書写で、書写であれば蓮祖内証か、はたまた書写者当人の本地か境地かと言った議論となり、収拾がつかなくなる。そして、サム氏が仰せの「宗義」が、それらに歯止めをかける役割を果たして来た。
が、そこで、どの時代の人でもなく、昭和の御世の大学者、不世出の碩学堀上人の(大聖人は?)「大戒壇に安置すべく堅牢の楠板に書写せられたり」を、我々が不思議だとするのも当然。探るべきは用語づかいでなく、この文意なのだ。
ところが、大勝利氏はまた古文書を引っぱり出して来る。一言で悪いんだが、一つ先のものは、私の理解では、被造物の物理的形状の違いを論じているだけ。紙幅であれ楠板であれ、蓮祖内証、法魂の顕現ならばOK、他の造像物はNOの意ではないか?
それと用語「書写」。漢籍を愛好される向きならば当たり前にご存じのこと。主体者が誰でも「書く」の意のみ。但し、日本では五種法師の書写から派生して「書き写す」の意。行為そのものに、いずれ宗教的に特別な意味はない、、、にも関わらず、だ。
大勝利氏のように勉強熱心で、教学の裏街道を歩んで来た人ならば知っていたはず。――戒壇の大御本尊が元々紙幅で図顕されたと思う者はいまい!は結構だが、で、氏は反論に対して、無関係な古文書の引用ばかりを続けている次第。
いつもの通り余談ながら、確か十年ほど昔、一つのはやり言葉「感動創造」があった。私は今回、大勝利氏のその発言に一種の感動を覚えた。同時に、何と無謀で不要なことをとも思った。論証するなら早く、反論するなら早くなさい。やめるならば今の内に、よ~くお考え下さいね。マグマグo(*^▽^*)o~♪
- >>41193
※念のために申し添えますが、議論上、必要や意味があるならば、
それくらいの古文(謎の伝説)、常客のほとんどが現代語訳出来るでしょう。
現代語訳はいたしかねますが、拝見する限り「有師物語聴聞抄佳跡」は
中興の祖とされる日有上人(大石寺九世)が伝えたとされる話を陰尊と
なった日因上人(大石寺31世)が記し見解をのべているもののようですね。
さて、日因が「此の丁聞書 誰人之を記するや 未だ其の人を見聞せざるなり」
と前おきしているように、誰が書き残したものであるか定かではないとの
ことなので、伝承が事実かどうかはさておいて、文章からみるに
大聖人が御本尊を一幅認められたことについては皆さん異論がないところでしょう。
それが「渡辺藤太夫光長に授与」されたものとのこと。
http://homepage3.nifty.com/juhoukai/mandara/057.html
ただ、サムさんは文書内の「書写」という記述に注目され、御本尊を所望
した丁(聴)聞のものたちへの曼荼羅を弟子が書き写されたと解されて
いるようですね。
注意しなければならないのは、この部分は日精上人(大石寺17世)の「家中抄」
から引用したものであるということ。
また、日因上人も「私見」と前置きしたうえで、引用された伝承の矛盾に疑問
を呈されている箇所が見て取れるということでしょうか。
- 「当に知る身土一念○故に成道の時と者末法の出世也、称ふ此の本理にと者は事行の南無妙法蓮華経也、身と者は名字約身約位也土と者は本国土也一念と者は事の南無妙法蓮華経の己心の日蓮の一念也、然る間本尊御影造立此の事也脱仏の造立失ふ時機を物恠也、在世と滅後とかれとこれと一往再往を分別して置き玉ふ上は不る及ば異論に処を本迹一致の一品二半の八品所顕のなんどと構ふる己義を事以つての外の誤也、御抄の御文相に打ち任せて可き奉る付け信を也、此の上に証文を御引証あらんより於て其の上に書写の本尊に現文あり造立の仏に現証あり、久遠寺の板本尊今留大石寺にあり大聖御存日の時の造立也」
>>※この文章も大聖人御真筆御本尊を「書写の本尊」と言っているのではありませんね。
>>「久遠寺の板本尊」以下は別の話題です。※
では、簡単に説明します。
観心本尊抄拔書の
「当に知る身土一念○故に成道の時と者末法の出世也、称ふ此の本理にと者は事行の南無妙法蓮華経也、身と者は名字約身約位也土と者は本国土也一念と者は事の南無妙法蓮華経の己心の日蓮の一念也」
上記この部分は観心本尊抄の下記の部分を説明しています。
「上行無辺行浄行安立行等は我等が己心の菩薩なり、妙楽大師云く「当に知るべし身土一念の三千なり故に成道の時此の本理に称うて一身一念法界に遍し」等云云。 」
そして、
「書写の本尊に現文あり」と、「書写の本尊」にこの現文がかかれていると言われてますね。
>>※何を根拠にその様に主張されているのでしょうか。※
平賀本土寺の一念三千本尊と呼ばれる真筆です。
この真筆御本尊の讃文には「當知身土一念三千故成道時稱此本理一身一念遍於法界」と書かれています。
サムさんは、この一念三千本尊をお認めになりますか?
若しサムさんが「書写の本尊」が大聖人以外の誰かの書写の本尊であると言われるならば、
「當知身土一念三千故成道時稱此本理一身一念遍於法界」と書かれた日蓮以外の誰かの本尊を出していただくようお願い致します。その上で検討いたしましょう。
- >>41199
お答えします。
>「此の上に証文を御引証あらんより於て其の上に書写の本尊に現文あり造立の仏に現証あり、久遠寺の板本尊今留大石寺にあり大聖御存日の時の造立也」観心本尊抄拔書
この文での「書写の本尊」とは大聖人の真筆本尊を指しています。
○ご提示の文証「御抄の文相に打チ任セて信ヲ付ケ奉ル可キ也、此ノ上に証文を御引証アランより其ノ上ニ於テ書写の本尊に現文あり造立の仏に現証あり、久遠寺の板本尊今大石寺にあり大聖御存日の時ノ造立也」(房州妙本寺 日我上人記『観心本尊抄拔書』富要集4巻170頁)とあり、「於て其の上に」は「其の上に於て」の転記ミスの様ですが、この文章も大聖人御真筆御本尊を「書写の本尊」と言っているのではありませんね。 「久遠寺の板本尊」以下は別の話題です。 何を根拠にその様に主張されているのでしょうか。
>ここでも、教主釈尊の造に対して「書キ顕シ給フ」本尊を書寫と表現してます。
○、よく読んでくださいね。 私は出典元を見つける事ができませんでしたが、これは明らかに「書キ顕シ給フ」本尊を書寫本尊と表現しているのですが、『本尊造立書寫ノ不同如何』は「本尊の造立(図顕)と書写が同じでないのは何故ですか」と質問しており、「戦いにおいて見方を鼓舞する為に屈強な大将の存在を主張する様に『今書キ顕シ給フ本尊』は書写本尊ですが、高祖の御判形があり、即ち高祖の法體にして下種の導師にておわすので末代の本尊なのです。 だから脱益の教主釈尊の本尊は造らないのです。」 この様な意味だと思うのですが、如何でしょうか。
再び質問します。
大聖人御内証の御本尊を紙幅なり板なりに写して形のある御本尊にする場合を、特別に「御本尊の書写」と教学的に呼称された事例の文献は存在するのでしょうか。
中途半端な書き込みをしてすみません。
弟子云々は、サムさんの
※「一幅一幅の書写」は弟子が為されたのであろうと考えました。
という「書写」の部分にかかるものですね。