特定秘密保護法が施行された。

 何が秘密か、わからない。「特定秘密」は特定できず、行政の恣意的(しいてき)な判断の余地を残している。それを監視すること自体、難しい。危うさを抱えたままの施行である。

 衆院解散の直前、安倍首相はテレビ番組でこう語った。

 「特定秘密(保護)法は、工作員とかテロリスト、スパイを相手にしていますから、国民は全く基本的に関係ないんですよ。報道が抑圧される例があったら、私は辞めますよ」

 安倍首相がそう思ったとしても、そもそも国民が全く関係ないとは言えない。

 政府内の情報を求めて動く報道機関や市民運動などの関係者は対象となり得る。乱用を許せば、時の政権の意に染まないメディアや団体への牽制(けんせい)に使われないとも限らない。

 安倍首相が辞めるかどうかも問題ではない。問われるのは、どんな政権であっても法を乱用できないようにするための措置であり、その実効性だ。現行法のままでは、それが担保されているとも言えない。

 多くの国民の懸念や反対を押しきって施行にこぎ着けた安倍政権が言いたいのは、要するに「政権を信用してほしい」ということだろう。

 その言い分を、うのみにするわけにはいかない。

 政府内に監視機能が設けられるが、権限は強くない。衆参両院の「情報監視審査会」はまだできていないが、いずれ発足して秘密の提出を求めても政府は拒否できる。指定期間は最長60年で、例外も認める。何が秘密かわからないまま、半永久的に公開されない可能性もある。

 行政情報は本来、国民のものであり、「原則公開」と考えるべきだ。それを裏打ちする情報公開法や公文書管理法の改正は置き去りにされている。

 安全保障上、守らなければならない秘密はある。しかし、それは不断の検証と将来の公表が前提だ。制度的な保証がなければ、乱用を防ぐための歯止めにはならない。

 民主党政権下で秘密保全法制を検討した有識者会議の報告書に、こんな一節があった。

 「ひとたび運用を誤れば、国民の重要な権利利益を侵害するおそれがないとは言えない」

 懸念は払拭(ふっしょく)されていない。

 ちょうど1年前、安倍政権は数を頼みに特定秘密保護法を成立させた。そして衆院選さなかの施行となった。世論を二分したこの法律がいま、改めて問われるべきだ。