学者とマスコミが人類を破滅に導く

224418 金貸しは本当に、頭がいいのだろうか。
>僕らより遥かにIQの高い(であろう)彼らが、こんな単純な事に平時であれば気づかぬ筈がないのだが、それ程までに戦いが混沌としているという事なのだろうか。/以前なら鋭く回っていた金貸し達の頭は、現在比べるとそれほどでもないと感じてしまう。

確かに、そう思う。では、なぜそう感じるほどになったのか?その最大の転機は、下記の投稿が明示しているように「’00年の私権観念の崩壊→社会不全の急増⇒真っ当な判断基準の出現」にある。

33821 超国家・超市場論23 『必要か、必要でないか』という真っ当な判断の土俵が出来てゆく
>’00年、私権観念(「お金第一」「自分第一」で社会のことなど関係ないという観念)が崩壊し、一気に社会不全が膨らむと、遂に「豊かさ追求」という目標共認も溶解し始める。そして、「物的な豊かさ」という目標が溶け崩れて、初めて『必要か、必要でないか』という真っ当な判断基準が潜在思念の奥から姿を現してきた。

私権時代、彼らが勝つために収束(修錬)してきたのは、「私権意識」であり、「私権闘争の圧力に対する認識」である。それらが(巨大な資本蓄積を可能にし)勝敗を決してきた。しかし、そこには大きな落とし穴があったのだ。

33995 超国家・超市場論24 必要か否かの『判断の土俵』が、国家と市場を呑み込み、解体し、再統合してゆく
私権闘争の圧力で満たされた社会では、人為的な私権の強制圧力とそれに基づく共認圧力によって、「私権だけが絶対的に必要」(従って、何にたいしても必要か否かの判断は一切無用)という極めていびつな状態が作り出されてきた。
>従って、貧困が消滅し、私権の強制圧力が衰弱すれば、人工的に作り上げられた「私権だけ」といういびつなタガが外れて、生物本来の基底的な判断機能が再生されてゆくのは当然である。

今や、私権収束が強かった者ほど、大衆の意識潮流(本源収束)に鈍く、偏向した判断に陥る。一方、私権衰弱⇒潜在思念を解放する素人ほど、真っ当な判断になる(自我私権に歪められず→全的に対象化)。

34154 判断の土俵とは、人々の潜在思念が作り出した共認圧力の場
>それを捨象できるのは、国家に守られて生きてゆける統合階級や、無圧力空間に引き篭もった関係捨象派だけです。
>だから逆に、普通に生きている人には、『必要か否か』の判断は、そんなに難しいことではないはずだと思います。

その結果、“多数の素人”による共認圧力の場ができあがり、『人数』こそが(224418で言う「どれだけ仲間を伴うかこそが」)、「お金」を超える最先端の評価指標になる。それゆえ、『有能・無能』の判断基準も、真っ当な以下(全的に「みんな」を対象化できているか)になったのだ。

220979 社会における有能・無能とは
>『自分のことしか考えていないのが無能
> みんなのことを考えて追求するのが有能』

これは、もはやキレイゴトではない。そのことは、昨今の「大学の評価」に如実に現れている。

34051 判断の土俵と解体・再統合 大学の例
>大学の評価は、かつての偏差値評価が廃れ、人数による評価が端的な評価として使われる。具体的には入口としての応募者数、出口としての就職者数。入学金や授業料が評価の指標となることはなく、金額は後から付いてくる程度のものでしかない。
>学士様という言葉は死語になり、大学を出たからといって箔がつく時代は終わった。大学に行くか否か、どこの大学に行くべきか、その判断は実際どれだけ役に立つのか、社会に必要とされているのかという視点になってきている。

つまり、支配階級であれ特権階級であれ、『真っ当な判断(本源収束)の土俵』に立たされている!!ということなのだ。



福田尚正  にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

NPOなどの運動団体がメジャーになりつつある昨今だが、「自由・人権・環境」などの概念に対する違和感が高まってきていることから、「なんか違うんじゃないかなー」という声も多い。

その理由は、以下の文章で明らかになった。

”もともとこの社会(市場社会)は、近代思想(恋愛・自由・個人・人権etc)に導かれて成長してきた。その同じ思想に立脚して、体制を転換させることなど出来る訳がない。にも拘らず、(新しい思想を構築しようとはしないで)「運動」を存続させようとすれば、身近で具体的な運動目標を結集軸にするしかなく、(もともとが体制と同じ思想に立脚しているので)身近な運動目標に埋没すればするほど体制に絡め取られて、体制の補完物になってゆく。”(9050

多くの人が薄々こういうことに気付いているにも関わらず、運動団体に足を踏み入れるのは何故だろうか?

1つ思い当たるのは、世間の大多数の人間が「就職」することだ。
現在の社会システムに疑問を抱き、企業を就職先として選ばない人は、別の可能性として運動団体を選ぶことが少なくない。それが目に見える「可能性らしき受け皿」だからだろう。

学校を出る段階になれば、必然的に次に所属する組織を選ばなければならない。これが社会意識が高い人間を運動団体に収束させ、結果的に体制補完に絡め取られてしまう。

この「どこかに所属しなければ」「収入を確保せねば」という意識が新理論構築に向かう可能性を摘んでいるのなら、別の方向に向けなければならない。

可能性としては、何かしらの仕事をして収入を得ながら、理論構築を行う『兼業』スタイルが良いのではないだろうか。決して楽な話ではないが、本当に社会に求められているのが新理論である以上、意識の高い層にとっては応えたい課題だろう。

「なんで屋」「ネットサロン」など、そういう兼業を実現できる基盤は既にあり、実際に多くの人が集まってきている。

「可能性っぽいところ」に安易に収束せず、きちんと生活を確立しながら本当の可能性に向かう道はあるのだ。



小西良明  にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

> ●変に論理的に考えようとしてはならない。論理的に見た途端に99%既成観念に絡め取られて、新しさ=面白さが流産する。10194

なぜか?

旧観念(自由・個人・人権etc)も支配共認となるべく高度に洗練され体系化されている。その旧観念の体系を駆使して学者は本を書き、マスコミは社説を書く。私たち素人が普段目にする“(一見)論理的に見える文章”は、こうした旧観念に立脚したものが圧倒的に多い。

だから、新観念の肉体化、あるいは人類史の根源まで遡るような本格的な追求無しに、単に「論理的な文章を」との浅い発想から生まれた文章は、無意識のうちに見慣れた旧観念体系のトレースになってしまう。それは既に変化している潜在思念とはズレていて、新しくも面白くもない。

そのような借り物の論理より、実感(潜在思念)をそのまま表出した方が読み手の潜在思念にも届く、新しく面白い=役に立つ発信になる。





田中素  にほんブログ村 政治ブログ 世直し・社会変革へ

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