[書評]こんにちは、ユダヤ人です(ロジャー・パルバース 、四方田犬彦)
『こんにちは、ユダヤ人です』は、ロジャー・パルバースと四方田犬彦の日本語による対談で、テーマは表題が暗示するように、ユダヤ人を巡る話題。内容はけっこうディープなのだが、彼ら自身が対談の終わりで言うように、結論のようなものはない。ユダヤ人とは何か、イスラエルはどうあるべきかといった、よくあるユダヤ人論のようなまとまった主張というのはない。そのことは本書の美点であると言ってよいと思う。
こんにちは、ユダヤ人です (河出ブックス) |
こう言ういいかたはちょっと僭越かもしれないけれど、米国的な世界観でユダヤ人というのは何かというのを論じるなら、普通のユダヤ人はこういう感じですよ、というある地平が見渡せると思う。
例えば、パルバースはこういうふうに自分を語る。
ぼくは二回結婚しているんですけど、最初の妻は宣教師の娘だからユダヤとは関係ない。今の妻もユダヤ人じゃないし、子どもにはユダヤ人のことは何も教えていないです。彼らはユダヤ人のことを知らない。それでいい。ユダヤジンであることが自分の代で終わるということは、全然構わないんです。ぼくがヨーロッパでした経験、それこそ個人的な経験、ぼくが小さいときから聞いたり見たりしたこと、そのすべてを教えることはできないし、彼らの意識にはないことだからどうだっていいんです。
現代の米国的な世界観でのユダヤ人の大半は、そんなふうに生きている、というか、私が若い頃出会ったユダヤ人の多くもそんなふうだった。ただ、本書では「ユダヤ人の母」についてのまとまった言及はないが、母系には多少いろいろあるようには思えた。
読みながら、いろいろな挿話が面白い。あれ?、なんでこんなことに自分は気がつかなかっただろうこともいくつかあった。例えば、アンネ・フランクの母語の問題である。
アンネ・フランクはドイツ生まれでドイツ育ちだったんですけど、一九四三年にオランダに移った。オランダに行けば大丈夫とお父さんが判断した。もうちょっと警戒感があったらよかったかもしれなかった。彼女は、オランダで日記をオランダ語で書いている。
私は彼女がドイツのフランクフルト生まれで、オランダのアムステルダムに亡命したことは知っていた。だから、母語はドイツ語だと思っていたが、反面『アンネの日記』はオランダ語で書かれていることも知っていて、自分の頭のなかでなんの矛盾もなかった。
結論からいうと何の矛盾もないのだが、ちょっと整理すると、本書にあるように彼女の亡命を1934年としていて、彼女の生年は1929年なので、5歳ごろと見てよい。彼女はそこでその地のモンテッソーリ学校に通っている。このころからオランダ語になじんだのだろう。ただ、親との会話は何語だったのだろうか?
その手の疑問というか、ああ、これなあ、と思ったのは次の話である。
四方田 逆に言えば日本人は、ボブ・ディランもポール・サイモンもウディ・アレンも皆単なるアメリカ人だと思って楽しんでいるんです。普通のアメリカのカルチャーだと思っているんです。ポール・サイモンの歌を聴くと、その歌詞の中に「ぼくの前世を思い出すと、仕立屋だったんだ。ぼくはいつも自分を偽っている」という一節がある。
パルバース それは典型的なユダヤ人ですよ。
四方田 ええ、でも日本人はそれが全然わからない。
森鷗外の『舞姫』だって「エリスは町の仕立て屋の娘で」って書いてあったら、それがどういう意味があるかをどうして日本人は考えないんだろう。
これなんだが、私は、ボブ・ディランもポール・サイモンもウディ・アレンもユダヤ人だなと思って理解してきた。『舞姫』についても、四方田のこの意見とは異なり、私はユダヤ人説を知っていた。ただ、「仕立屋」という着眼は面白いなとは思った。
話が逸れるようだが、『舞姫』の原文を見ると、エリスとの出会いの光景に興味深くユダヤ人(猶太教徒の翁)が登場している。
或る日の夕暮なりしが、余は獸苑を漫歩して、ウンテル、デン、リンデンを過ぎ、我がモンビシユウ街の僑居に歸らんと、クロステル巷の古寺の前に來ぬ。余は彼の燈火の海を渡り來て、この狹く薄暗き巷に入り、樓上の木欄に干したる敷布、襦袢などまだ取入れぬ人家、頬髭長き猶太教徒の翁が戸前に佇みたる居酒屋、一つの梯は直ちに樓に達し、他の梯は窖住まひの鍛冶が家に通じたる貸家などに向ひて、凹字の形に引籠みて立てられたる、此三百年前の遺跡を望む毎に、心の恍惚となりて暫し佇みしこと幾度なるを知らず。
今この處を過ぎんとするとき、鎖したる寺門の扉に倚りて、聲を呑みつゝ泣くひとりの少女あるを見たり。年は十六七なるべし。被りし巾を洩れたる髮の色は、薄きこがね色にて、着たる衣は垢つき汚れたりとも見えず。
「仕立て屋」は次のように書かれている。四方田の言うような「エリスは町の仕立て屋の娘で」とは異なる。
余は暫し茫然として立ちたりしが、ふと油燈の光に透して戸を見れば、エルンスト、ワイゲルトと漆もて書き、下に仕立物師と注したり。これすぎぬといふ少女が父の名なるべし。
描写からは、「仕立物師」が重視されていることがわかることに加え、「エルンスト、ワイゲルト」も重視されている。
「エルンスト、ワイゲルト」はドイツ語では"Ernst Wiegert"だが、この"Wiegert"姓はユダヤ人姓が暗示されるとしてもよさそうだ(参照)。とはいえ、鴎外がどの程度それを意識していたかはわからない。あと、言うまでもないが、六草いちか『それからのエリス いま明らかになる鴎外「舞姫」の面影』(参照)のようなエリスのモデル論とは別の話題である。
さて、こういうと矛盾しているようだが、パルバースはユダヤ人なんのだなと私に思えるのは次のような、心に響く述懐である。
パルバース 相手の気持ちを理解すること。それができるのがユダヤ人だと思う。言うまでもありませんが、ユダヤ人でないとできないとは言いません。相手の靴を履いて相手側の目から地球を観察する。しかし、いわゆるホロコーストを存在理由とするユダヤ人は反対です。六〇〇万人が殺されているわけですから、これはもう本当に大災害である。だけど、いつまでもそう語れば自分が必ず加害者になる。ぼくはそう思っているんです。復讐というのは人間の心に必ず潜む。ルワンダやどこかでホロコーストが起きたら、行ってそっちの人を助ける。そっちの人の物語を書く、あるいは絵を描く。「皆さん、見てください。これがあったことをぼくたちはわかっている。それがまた起ころうとしている。だからどうか助けてください」というのがユダヤ人です。いつまでも自己憐憫の気持ちになって、一番ひどい目に遭ったのは自分だと言い続けるのは、ぼくは逆にユダヤ人じゃないと思います。だからイスラエルはユダヤ人じゃない。中上健次はユダヤ的です。それから筒井康隆も、井上ひさしもそうです。
同種の言葉を私は他のユダヤ人で知っている(参照)。
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