FCCJのルーシー・バーミンガム会長から謝罪のメイルが届いた。
「未だブログに問題個所が残っているので資格停止を5月末まで6か月間延長します」と。「通知書送付を失念していて済みません」。
丁寧な手紙は好感が持てる。しかし僕の認識では総て削った筈だが一体何処に残っているのだろう?
僕は当然11月30日で停止処分解除だと思っていたので、記者クラブフロントに入ったところF理事からいきなり怒鳴りつけられたのが許せない。
何も知らせないのに、僕より遥か年下で学歴も落ちる(済みません、東大卒の悪い癖だ)男が目上の者に向かってあのエラそうな態度は人間として勘弁できない。
フェイスブックの「SOSFCCJ」のアカウントを見て欲しい。
9月1日に掲載された動画がある。
協会職員の大量首切りの元凶・F理事が東京都労働委員会に召喚され、都労委委員長に「不法労働行為」を黙認したと追求されているシーンが出ている。
掲載者はFCCJ元副会長のイタリア人記者Pさん。(よくやった!)
こちらの方はコメントを含めて私の大人しいブログよりかなり強烈でインパクトが強い。
掲載後すでに100日が過ぎたが何の手も加えられず掲載されたそのままで残っている。
日本人であるが故に、私は査問委員会に召喚され会員資格停止処分を受けることになった。
白人のSOSFCCJには協会理事会として先輩だとして足も手も出せないでいる。
Pには未だ召喚状も届いていない。
僕への査問委員会の席上、何か疑問があれば直接理事会に問い合わせてくれと言う。
一つ質問があります、非会員の白人・W氏が協会会員を差し置いて最重要で赤字垂れ流しの食堂委員長を務めているのはどうしてか?と聞く。
F理事は「None of your (fucking) Business!」とバカにした一言でチョン。
何でも質問に答えると言ってこの傲慢な態度。他の理事たちもシラけていた。
SOSFCCJ(Save Our Staff Save Our Club FCCJ)は元会長たちの8−10人の白人グループ。
罰するのは日本人、白人が書けば注意もしなければ査問委員会に召喚もしない。
私が査問にかけられ度にそのことを指摘するが理事会や協会事務局は「その件はしっかりと対応しています」と口をそろえて何度も言う。4か月経っても削除も召喚もペナルティも何もしていない。いや何もできない。
これが日本の首都・東京のど真ん中で行われている紛れもない日本人を見下す「人種差別」だ。
FCCJは如何に白人に弱いか、日本人をバカにしているかが分かる。
白人におもんねてその尻馬に乗り、同輩日本人を叩くF理事のような日本人って許せますか?Honorable Whiteを自認しているのか?
私はいつだって是々非々主義で自分の悪い所は謝って訂正削除するが(この文章も誤りだと指摘されれば削除するのは吝かではない)、F理事のように白人側に付いて、常に自分は正しいと唯我独尊的な人物には初めて出会い戸惑うばかりだ。
(どうも感情の赴くままに書いてしまった、Fさんゴメンナサイね)
宮部みゆきの「荒神」(朝日新聞出版:2014年8月刊)は朝日新聞に連載された(2013年3月-2014年4月)新聞小説を単行本にしたもの。この人は多作で追いかけるのは大変だ。
デビュー作「我らが隣人の犯罪」で注目し「模倣犯」でファンになっただが「深草ふしぎ草紙」以来「あやかし」が出て来ると急にシラケてしまった。それでも「小暮写真館」などはついて行き「ソロモンの偽証」でまた現代劇推理小説のカンバックかと思ったがそうは行かなかった。
この「荒神」も時代劇の上「あやかし」がネタで僕は好きになれないが、それでも宮部ファンとしては一生懸命に読了した。
舞台は元禄、五代将軍綱吉公の時代の東北の1万石と言う香山藩の小さな仁谷村が一夜にして亡くなった。仲の悪い隣の2万石の永津野藩の藩主に取り入り暴れまわる弾正の仕業かと疑うがどうも人間業では無い。
関ヶ原の戦いで徳川についた香山藩は永津野藩から独立したのだが、永津野は香山を合併して昔の姿に戻りたい。二藩の軋轢の最中にとんでも無い怪物が現れたのだ。
仁谷村の生き残りの少年・蓑吉が怪物を目撃する。
鼻がひん曲がるような臭いを放ち小山のような大きさで口から吐く粘液は人間を溶かす。
太くて短い脚。「身体は蝦蟇、脚は蜥蜴、尻尾は蛇。その皮膚はだんだら模様になっている。」
弾正と双子の妹、朱音は怪物と因縁の間柄と後半分かり、怪物退治でクライマックスを迎える。
僕はどうにもこの手の小説について行けない、ジャンルが違い過ぎて面白く無い。
さて今日のこの映画の原作はNYのオフ・ブロードウェイの芝居。
原作脚本家のデヴィッド・アイヴズと監督のロマン・ポランスキーが共同で執筆した。
オフ・ブロードウェイの狭い空間だから小さなオーディションルームと言う設定を、大劇場の舞台と観客席と言うスペースに直した。だだ広い大劇場なので圧迫感が無く殆どの劇中劇も闊達に展開出来る。
古くて大きな劇場の無人の観客席で演出家でこの脚本も書いたトマ・ノヴァチェク(マチュー・アマルリック)はいらついている。
自分が書いた自信作の脚本のオーディションで35人もの女優に会ったが皆、箸にも棒にも引っかからない。「ガキみたいな話し方」しかできない無駄な努力だったと帰り支度をしている。
突然ドーンと正面扉が開き雨に濡れた女が飛び込ん来る。遅刻してきた無名の女優ワンダ(マニュエル・セニエ)だ。オーディションは終わり、調べるとワンダと言う名は名簿にも載っていない。
門前払いされたワンダは執拗に喰い下がる。
この役は自分しかいないと自信満々。さっさと衣装を着替え始める。
芝居の背景、19世紀のドレスはトムの描いた役に似合っているし、黒いブーツに用意して来た犬の首輪は役にぴったりだと認めざるを得ない。
自信家で傲慢な演出家のトマもフィアンセとの食事まで少し時間があるとオーディションにとりかかる。
がさつで厚かましくて、知性の欠けらもないワンダは、手段を選ばず強引に
オーディションを懇願しトマは渋々彼女の演技に付き合うことになる。
ところが、ステージに上がったワンダは、トムの脚本を詳しく読んでいる(何処で手に入れたとトムが追求するが)し、背景の時代の思想や哲学を理解している。そして脚本の原案である19世紀オーストリアの小説家レオポルド・フォン・ザッヘル=マゾッホの自伝的小説「毛皮を着たヴィーナス」まで読んでいるのに驚く。
このフォン・ザッヘル=マゾッホこそ「マゾヒズム」の語源にもなった人物だ。
ワンダは役のキャラクターを深く理解し、そしてセリフも完璧、暗記までしていて書いた本人のトマが脚本をタドタドしく読まなければ付いて行けないのには笑える。
彼女を見下しバカにしていたトマは完全に惹きつけられ、圧倒的な優位でワンダはトマを支配していくようになる。2人の読みあわせの芝居は熱を帯び、次第にトマは役を超えて、ワンダに身も心も支配されることに心酔していく。マゾヒズムだ!
裸舞台の芝居に小道具は前の西部劇が残した大きな張りぼてのサボテン。ワンダが絡むと巨大な男性器に化ける。しゃがれたセクシーな声のマジックに屈しセニエの妖艶な芝居に引き込まれるトマ。アマルリックも負けず劣らずセニエに対抗した熱演。自信も矜持もドロドロに解けてワンダに服従して行く演技は見事だ。
たった二人だけの芝居で中身の濃い96分を堪能させるから役者も監督もたいしたものだ。
ポランスキー監督が同じように舞台をアパートだけに制限した「おとなのけんか」なども何組かの夫婦の議論だけで持たせるが、背景には大きなプロットがあった。芝居の脚本だけで「劇中劇」を多用してこの映画をしっかりと見せてくれる。
「戦場のピアニスト」「ゴーストライター」のロマン・ポランスキー監督も傘寿をすぎて益々盛ん、精力的に新ジャンルの作品を開拓している。
私生活ではポランスキー監督の妻でもある女優エマニュエル・セニエがワンダ役を務め、トマ役には「潜水服は蝶の夢を見る」のマチュー・アマルリックが扮する。アマルリックはロマンスキー自身なのだろう。
公私混同でセニエに支配され服従することで光悦を味わっているポランスキーは観客に同じ状態に同化することを要求している。
セニエは48歳、アマルリックは49歳、ポランスキー監督は81歳、この老年パワー映画はどれだけ若者を劇場に呼べるだろうか?
12月20日よりヒューマントラスト有楽町他で公開される。
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