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金融システムの闇の超起源 その13

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年11月 1日(土)02時36分54秒
返信・引用 編集済
  http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11906395238.html

≪R.D. Willing 著『マネー/金融システムの闇の超起源』より抜粋(13)≫
2014-08-07 21:22:34
テーマ:R・デュアン・ウィリング
(12頁からの続き)

〔Richard Duane Willing 著, 為清勝彦 訳『マネー/金融システムの闇の超起源―地球を滅ぼす人類最後の宗教』 第9章 高利貸し より抜粋、要約 P.244-P.276〕

■年6%の「高利(ハムラビも反対)」は、無利子返済に比し、70%増にもなる

「高利貸し」という、なにやら胡散臭さを漂わせるテーマに、原始より神々は興味をそそられてきた。石板の記録によると、神は「高利で貸す」ことに反対し、警告していたと伝えられている。マネーが発明される1000年前に、高位聖職者であったハンムラビ Hammurabi(1810?BCE-1750?BCE)も「高利」貸しに反対し警告した。警告するに当って問題があった。無理からぬことではあるが、この当時、原初の人々の思考には、「高利」を構成するものは何かという明確な定義が無かったのである。最近の商習慣(しょうしゅうかん)としては、「高利」とは借金に対する過剰な利率だということになっている。多くのアメリカの州では、10%から12%を超える利率は高利と見なすとした法律が成立している。第二次世界大戦後にアメリカの銀行は、既存顧客(お得意様)に対する貸付金については6%の利率をプライム・レート(最優遇金利)もしくは標準利率とする慣行を採用した。この慣行は、現在の貸付業の多くの実態を見ると、どうやら道端に行き倒れて死んでしまった様子である。銀行のクレジットカードは今や30%の利率に届こうとしていることは周知の通りである。

ここ最近は宗教的権威を持つ定言が無い為、本書では、「高利」とは、「ローンの返済に要求される見返りが、借り手を経済的束縛に追い込み、個人の自由を損なう状態である」と定義しておく。他の信仰と同様に、「高利貸しパワー」も、神として崇敬される存在(パワー)となって活性化されなければ、人間の思考領域の中に休眠状態のままで表に出てくることは無い。そこでモロク神が登場する。モロク神は、法律によって保護された経済霊(営利主義)のエネルギーと一緒に、高利貸しを牽引(けんいん)する力として出現する。高利は、負債が商品として販売対象となり、利子の支払い対象となった瞬間に取引可能となる。利付きの負債、そして、よく将来の引渡しに対して割引価格で売買される負債には、長期債券、中期債券、為替手形、抵当権ローン、その他様々な形態がある。

高利のパワーは、平均的な住宅ローンの中に容易(たやす)く見出すことが出来る。例えば、10万ドル、20年物の利子が無いローンの毎月の支払いは、およそ417ドルとなるだろう。同じローンに年6%の高利が付くと、毎月713ドルに跳ね上がる。6%の利率が課されると、毎月の支払額は70%の増加になる。8%の30年払いのローンであれば、毎月836ドルの支払いになる。利率が2%増えると、毎月の支払額は、42%追加で増えることになる。利子が無い場合に比べると毎月の支払額は二倍である。明らかに、経済霊に取り憑かれ、利子を支払う市民達の生活水準は、高利を支払うことの無い人々と比べて、高利によって低下する。高利を禁止する聖書のルールを守る人々は、ほんの数十年の内に、他の人々よりも巨額な差をもって資産が上回っていることに気付くであろう。


■国債は国を完璧に永久に金融的(天文学的な数字の利払い)に束縛する責具

国際のような負債を考えてみると、30年などという長い期間のものは、国民が負う負債コストを恒久化させる効果を持ち、モロク神傘下の債券の保有者(貸し手)にとっての利益は天文学的な数字になる。利子を支払う納税者のコストは膨大である。例えば、6%で借り入れた10万ドルの国債は、毎月600ドルの支払いで割賦償却(かっぷしょうきゃく)が始まり、その内の500ドルは債券保有者(FRBであることが多い)への利払いであり、残りの約100ドルが元本の返済である。10年経過した段階では、5万6000ドルが利子として支払済みで、1万6000ドルの元本が返済されているだろう。10万ドルの借金に対して合計で7万2000ドルも支払っているにも関わらず、8万4000ドルのローン残高となっている。利子の5万6000ドルが6%で貸し付けられたならば、「72の法則」に従って12年毎に二倍になる。元々1万ドルの預金準備しか必要とされない10万ドルのローンであるが、30年のローン期間を通じて貸し手は30万ドル以上の巨大な利益を得ることになるだろう。この政府保証された安全確実な気前の良い贈り物をプレゼントする為の支出は、言うまでもなく所得税を財源としている。「絶対に借り手になるな、常に貸し手であれ」という旧約聖書の格言は、モロク神の「カルト273」にとって特殊な共感を齎(もたら)す言葉であり、とりわけ政府に対して貸す時に強く共振する。モロクのパワーは、住宅ローンにはっきりと現れている。家を建てる住宅建築販売者は、当初の住宅ローン総額の三割程度を一括で受け取る。住宅ローンの貸し手は、ローンを長期間貸し出すことによって、延々と利益を享受する。高利貸しのタブーを破った支配の威力は凄まじい。

国家財政を国の債務(住宅ローンのようなもの)に依存したらどうなるか?果てることの無い債務が、国をほぼ完璧かつ永久に金融的に束縛することになる。この国債システムから派生して連携している構造が、現代の金融市場であり、株式取引市場である。株式市場の誕生は、スイスのキリスト教伝道者ジャン・カルヴァン Jean Calvin(1509-1564、フランス生まれの神学者、宗教改革でプロテスタント派のリーダー。訳注.モロク神のパワーをアップさせることに貢献したプロテスタント派のリーダー、カルヴァン。伝統的な聖書の教えから逸脱、マネーが利子を生むことを合理化。株式会社生みの父とも)の教えと切っても切れない関係があるようだ。カルヴァンは、マネーの利子を合理化した。この伝統的な聖書の教えからの逸脱は、その後、株式合資会社(現在の株式会社)という形態となって金融制度のより高度な発達を促すことになった。市場における株式会社のパワーは、モロク神のパワーを裏付けるものとして存在する。この権力の維持を可能にしているのが、中央銀行、そして、世界銀行、国際通貨基金(IMF)、スイス国際決済銀行といった超国家組織である〔※関連資料(1マックス・ヴェーバー著『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神 Die protestantische Ethik und der 'Geist' des Kapitalismus』・2・316世紀の宗教改革の黒幕はベネツィアの金融勢力だった・4史上初、完全資力支配国家、アメリカの誕生・5何故黒い貴族達はイギリスに進出したのか?・6ヴェネツィア金融勢力の奥の院・7・8ウィレム・ユセリンクス―カルヴァン主義)〕。


■神々も再三禁じた、地球時間の経過と共に勝手に成長(「呪詛の火焔」)する奇矯(高利)

これらの組織と市場を支える高利の「情報技師」の力量は、主として内部情報の入手能力に掛かっており、その内部情報に基づいてまとまった資金を用意出来るかどうかに掛かっている。こうした性質は、経済霊が支配する現代経済においてだけでなく、マネーが存在する以前の古代にも見受けられる。マネーの利子率、割引率、債務の売買の計算によって自己正当化することを認められたマネー・システムから必然的に発生するのが高利である。株式市場の発生を支えた基本的な駆動力は、債務の売買であった。アメリカ独立戦争 American War of Independence/American Revolutionary War(1775~1783)で価値の下がった国債を償還した「ハミルトン計画」は、ニューヨーク株式市場を大いに儲けさせた。アレクサンダー・ハミルトン Alexander Hamilton(1755-1804 初代財務長官任期:1789~1795)〔※関連資料(1・2・3コメント欄・4Crown Temple・5・6・7連邦準備制度と金融・83つのCityが世界を支配してきました・9)〕によって満額償還されるという期待を抱き、投資家達は株式市場取引を通じて、絶望的になっていた売り手から割引された債務を獲得したのである(Warshow,Alexander Hamilton,1931)。

現代金融市場で尋常ならざる「力」が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)している中、現代宗教の教義に依然として聖書にある通り高利の禁止が残っていることは驚嘆に値する。最近になって、この禁止事項がいまだに意義を保っているのかを確かめる研究がなされている。イエズス会 Society of Jesus〔※関連資料(1聖なるマフィア オプス・デイ・2・3・4ローマ銀行そのぼろ儲けの仕組み・5・6日本人奴隷とイエズス会・7二つのアメリカと二つの日本と『自殺する日本』他・8・9バチカン)〕のバーナード・ロナガン Bernard Lonergan(1904-1984)は、高利貸しの禁止は、その意義ゆえに、基本的には保たれていると考えた。「元々の聖書の文言は、何らかの解釈によって有効でなければならない。聖書に記した人が意図したのは、規範的な意味である。だから、駄目なものは駄目だ」と彼は言う(Fallow,Riley and Boo,eds.,1987,P.206-207)。もし駄目なものは駄目ならば、この経済霊とモロク神に支配された今日の世界に、高利貸しの禁止をどのように適用出来ると言うのだろうか?

聖書による禁止は、申命記、出エジプト記、レビ記に克明に記されている。それぞれの書には高利貸しを禁止する内容が含まれている。出エジプト記22章25節では、「我が民の中で困窮する者に金を貸す時は高利貸しとして振舞ってはならない、高利を課してもいけない」とモーセがイスラエルの民に語っている。後世の作品である申命記23章19節では、「兄弟に対して高利、つまりマネーでの高利、食糧での高利、高利で貸されたものへの高利を課して貸してはならない」と規定されている。この後世に出来た条項は、現代の資本と金融の核心を成している複利による利子を具体的に禁止する効力を持っている。この改良版の禁止事項は、マネー経済を経験した時代を想起させるものであり、恐らく第二神殿の時代に現代のマネーが発明され、その後いつかの時代に組み込まれたものであろう。ということは、紀元前14世紀から13世紀頃の時期に聖書が記録されたとする従来の年代測定は間違っていることになり、比喩的な人物モーセは紀元前6世紀頃の時期にいたことになる。更に考古学における検証は、こうした年代の見直しを支持している。「ピソンの都市は、ユダヤ人がエジプトを離れる前に築いた財宝の都市の一つであることが判明している。発掘調査によると、ピソンには紀元前6世紀より昔には何も無かった」(Toronto Globe and Mail,1988年2月18日)。

聖書で認識されている高利は、心理的な力の形で原初の神々によっても認識されていたと考えられる。精霊の力とも似たこの力は、人間の思考を魔法のように奪い取ることの出来る神秘のエネルギーを伴ってやって来た。それは思考に信仰を齎(もたら)す。マネーが発明されてから、この高利という擬似自然的な所有物は、マネー計算の算術を通じて定着し、人間の思考に深く入り込んで来る。それはまるで経済霊とモロク神が、「神秘の火焔」の如く思考を奪い取ることが出来るかのようである。この侵襲(しんしゅう)された熱中状態は、創造以前の自存の光で燃える焔(ほのお)、「呪詛の火焔」のように思考を圧倒する。多くの預言では、焔が終末を齎(もたら)すと言っている。この焔を比喩的に表現したものが高利なのではないかという考えが頭を過(よぎ)る。生物圏に与えている害悪は、その大半は熱を伴った燃焼の影響であるが、マネーの算術である高利計算に憑き動かされた金融信仰に基づいた意思決定と直接関係している。

高利によってコントロールされた思考と精神は異常に昂揚するが、それは馬鹿げた信仰に完全に丸ごと服従することを意味する。手書きや、コンピュータのキーボードで打ち込んだ数字(マネー)が、地球時間の経過と共に勝手に成長する。こんな奇矯(ききょう)を信じることが必要なのだ。自然界の法則に沿った生命サイクルで成長し、老い、死する天然の全生物とは異なり、マネーは永久にひたすら成長するように計算される。太陽光も水も必要無い。害虫にも天候にも略奪にも影響されない。マネーの成長の魔術は、住宅ローン、銀行預金、割引金融債、保険の数理計算、国債、その他利益を伴う様々な金融商品に組み込まれている。この金融商品の「豪華詰め合わせセット」から発生する異常な力こそが、高利に反対し警告した神々が心配していたことに違いない。


■(モロク神の)狡猾な三位一体の高利金融カルテル

歴史を見ると、高利貸しの商売は、異人種間、異文化間の深刻な軋轢(あつれき)を生んできたようである。特に、ユダヤ・キリスト教がヨーロッパに登場して以降は、そうである。ヨーロッパにおける高利貸しの商売は、特にドイツでは、ユダヤ人とキリスト教徒の間の文化・宗教的関係の奇妙な組み合わせによって促進されてきた。双方とも同じ聖書の禁止事項に従っているはずであるが、高利貸しは、キリスト教徒にとって、ユダヤ人に対する民衆レベルの憎悪の原因となってきた。ユダヤ人とキリスト教徒に共通する聖書で、利子を付けてマネーを貸すことを明確に禁止してあることは言うまでもない。

中世の歴史の一般的な解釈では、ユダヤ人には他の職業に就く機会が閉ざされていた為、やむを得ず金貸しの仕事を独占するようになったと言う。ウィーンのユダヤ人イサク Isaac of Vienna(-)は、金貸しの役割を担うユダヤ人の気持ちを次のように表現している。「王が我々にどんな税金を強要するか分からない。容赦無く多額の賄賂(わいろ)を要求される恐怖に怯えながら、賄賂を送る必要もあり、金貸し業は我々の生き残りの為の対価だ」(Lowenthal,Marvin,The Jews of Germany,Jewish Publication Society of America,Philadelphia,1936,P.58)。この犠牲者ぶった不満は、奇妙な世界観を前提としているようである。と言うのも、時の経過と共に、「村全部、町と領土全部がユダヤ人の所有財産となってしまった。この時期の平均利率は約43%から50%であった。利率の範囲は、ローンの目的によって幅があったが、21%から108%の間であった」(前掲書 P.58-62)〔※関連資料(1131頁及び193頁・2money lending is the price of our existence・3ジャック・アタリ著, 鈴木正昭 翻訳『ユダヤ人、世界とお金』1~12)〕。

ローマ教皇が、キリスト教徒から財産を手に入れたユダヤ人に、獲得したその財産に「十分の一税」を払えと要求した時、ユダヤ人とキリスト教徒の間には緊張が走ったに違いない。既に1230年代には、特にドイツにおいて、ユダヤ人は王との関係で目立つ存在になっていた。ユダヤ人は、諸国の財政に格別な関与をし、「宮廷の召使い」或いは「王に仕えるユダヤ人」として広く認知されていた(Ancient and Medieval Jewish History,P.285)。

発生期にあった経済霊のプリズムを通してこの時期を眺めれば、もっと洗練された(踏み込んだ)理解が可能である。王の宮廷や中産階級の周囲にほぼ例外無くユダヤ人が存在したということは、緊密な連携作業があったことを示唆している。財政に関することが最も優先度の高い問題であったことは間違いない。ユダヤ人街の金貸し業者は、他に就業の機会が無いことを補填(ほてん)する為に一方的に活動していたという思い込み(或いは意図的な思い込ませ)は、民間伝承の物語、都市伝説の類(たぐい)として退けておくべきだろう。

利子付きマネー・ローンの高利貸しは、膨張せんとする教会のキリスト教社会と貴族とユダヤ人の貪欲な共同作業の結果であることを事実は示している。この共同作業の本質は、キリスト教徒とユダヤ人双方による狡猾な聖書解釈であった。聖書の宣言によって、利子を付けてマネーを貸すことは、ユダヤ人だけでなくキリスト教徒に対しても禁止されているが、それに対して巧妙な解釈が付与された。この禁止を回避する為の理屈としては、キリスト教とはユダヤ人から借りれば協議を犯したことにならず、またその反対も同様であるという、狡賢(ずるがしこ)いものであった。何れにせよ、旧約聖書は異邦人との取引は例外扱いしているのだ。商業と金融と教会の結び付きは、現代的な感覚で考えると、極端に近親相姦的なものだった。メディチ銀行 Banco Medici/Medici Bank(1397~1494)は実質的に主要な商品の取引をコントロールし、市場における信用、価格、利用可能なマネーに対するコントロールを確実に手に入れた〔※関連資料(1メディチ家の歴史・2・3・4ルネサンスがイタリアで起こった理由とメディチ家・5倉都康行 著『金融vs.国家』・615世紀西欧の為替手形為替レートと利子率に関する一考察)〕。

教会は、様々な教会評議会の公式協議研究に基づく布告を出すことによってこの状況を是認した。キリスト教徒はユダヤ人から借金出来るだけでなく、借金に対して利子を払うことも許可された。更に、例えユダヤ人が貪欲な高利貸しであっても、キリスト教徒にとってはユダヤ人を危害から保護してやる必要があった。神によって「特別に選ばれた民」であるユダヤ人が領地内にいなければ、キリスト教のメシア(救世主)は戻って来ないからである。ユダヤ人が自発的にカトリックに改宗する時が、本物のメシアが登場した証拠になるようである。この為、地元のユダヤ人が自発的にカトリックに改宗することが、巷(ちまた)を徘徊している怪しげなキリスト教の伝道者がメシアであるかどうかを証明することになる。この抱腹絶倒の知恵(ままごと)遊びから察知すれば、経済霊と利子付きローンのマネーこそが、当時のユダヤ教社会とキリスト教社会双方のエリートにとって、彼らの富を増殖させる本当の駆動力であったことが分かるだろう。

教会とユダヤ人と貴族という三位一体で構成される金融カルテルは、社会の生産者に借金を負わせることで繁栄した。この基本的な繁栄の方程式は今日に至る迄、全てのヨーロッパ型の文明に踏襲(とうしゅう)されている。だが、それでもリスクはあった。ユダヤ人はキリスト教徒に対して借金取立ての要求を突き付けることが許されていなかった。ユダヤ人の金貸し業の存続は、偏(ひとえ)にキリスト教徒の貴族達の恵みと保護に依存していた。このカルテルのメンバー間の金銭的な相互の結び付きは、通常の感覚では決して理解出来ないものである。当時借り手側であった農民と小売商人は、教会と貴族と高利貸しのマネー計算に絶えず脅(おど)されていた。カルテルに抵抗するなどとんでもない。すれば忽(たちま)ち窮地に陥っていたことだろう。キリスト教徒の悪意の為に利子付きでマネーを貸す以外に生存の道が無かったとして、恰(あたか)もユダヤ人を人道的人種的な被害者であるかのように描くのは明らかに間違いである。このカルテルを取巻く環境からより明確に分かることは、モロク神が存在すること、そして、ヨーロッパ人の意識の中に経済霊が入り込んで来たことである。


■「聖杯の秘密(神秘の計算マニュアル)」I(利子)=P(元本)×R(利率)×T(期間)を発見した「テンプル騎士団」

11世紀の初頭に、カルテルを取巻く環境は引っ繰り返った。それまでユダヤ人の「宮廷の召使い」の独占的秘密として保持されていた高利貸しの基本ルールが、エルサレムで十字軍戦士によって発見された。ヨーロッパの貴族や農民からなるこれらの戦士は、異教イスラム教徒から聖地を開放する為の1096年の十字軍の召集に応じたものだった。不思議なことに、これはエルサレムで十字軍戦士によって次のような調査がなされた時期でもある。

測量や計測に関する多くのことが学習され、代数学の神秘についても速やかに習得された。この千年紀の事件の陰で、一部の学者肌の十字軍戦士が、それまでユダヤ人金貸しだけの秘伝であった、マネーに付随する利子の計算式、投資やローンの法則を発見した。若干の想像を加えるならば、「ソロモンの伝説」と「聖杯エピソード」は、この知的洞察を世代から世代に引き継ぐ為の寓話であり、暗号であると見ることも可能である。

新奇で刺激的な発見を手に入れた十字軍戦士のカルト(秘密結社)は、一頭の馬に二人乗りで、即座に興奮気味にバチカンを目指して急いだ。教皇への報告内容は、利子マネーによる利益=「聖杯(チャリス Chalice)の秘密」であった。彼らは「I×P×R×Tの神秘の方程式」を発見した。マネーの利子(Interest)は、ローンの元本(Principal)に利率(Rate)と、貸付期間(Time)を乗じた結果である。教皇はこの情報を伝えた者を「テンプル騎士団 Ordre du Temple/Knights Templar/ラテン語:Pauperes commilitones Christi Templique Solomonici(キリストとソロモン神殿の貧しき戦友達)」(1129~1312)と名付けた〔※一部関連資料(1宗教騎士団・2ナチスとバチカン・3黒い騎士団「SS」・4キリスト騎士団・5・6コロンブスとテンプル騎士団・7ザ・テンプル・8シティも恐れるテンプル自由特区・9「アメリカの本当の所有者は、現在もローマカトリック教会」他・10二つのアメリカと二つの日本と『自殺する日本』他・11国家と市場の力関係の逆転1~8・12・13・14・15・16・17・18・19論証数学の誕生と数の歴史・20・21ロスリンチャペル・22テンプル騎士団とマルタ騎士団・23「イグナチオ・デ・ロヨラはテンプル騎士団の非軍事的なバージョンをモデルにした新しいグループをカトリック教会に浸透させる任務を割り当てられた光明派の上級メンバーであった」・24・25欧州原子核研究機構(CERN)とWWWとNeXT Cube・26イルミナティ絡みの陰謀論と情報操作の関係について・27キリスト教と「悪魔に魂を売る」話の関係について・28ダン・ブラウンの『天使と悪魔』と70年代小説『イルミナティ・トリロジー』の関係について・29CERNとシヴァと無知の小人・30三人のロバート・ウィルソン・31CERNの粒子加速器使用「実験」と終末論の関係性摘示に関し補遺として・32CERNとマンハッタン計画とアーネスト・ローレンス・33問題意識の所在1~16厖大な内容だが重要・34鬼塚英昭 著『黒い絆 ロスチャイルドと原発マフィア』)〕。

この騎士達には教会カルト内で並外れて特権が付いた地位が与えられた。彼らはバチカンの財政と投資の面倒を見る役割を果たすことになった。テンプル騎士団が急に成功して裕福になったこと
で、あらぬ嫌疑と嫉妬(しっと)を招いた。テンプル騎士団は「バフォメット Baphomet」という異教の神を崇拝していたとか、常軌を逸脱した儀式と倒錯した崇拝をしているという噂も立った。王と聖職者達も、このような噂に気付き始めていたが、次第に、レバント Levant(シリア・レバノン・パレスチナ・エジプト・ギリシャなど)の秘密を探究したり、計測、計数、筆記について異常な好奇心を抱くようになっていた。フランスのフィリップ4世 Philippe IV Ie Bel(1268-1314 仏国王在位:1285~1314)は彼らの研究の成果を踏まえ、大地を揺るがすような発明(金利の秘密の発見)をした。そこで彼は教皇と連絡を取り、或る協調行動を取った。1307年10月13日金曜日、テンプル騎士団の組織は突然破壊され、その記録は封じ込められた。

それまで騎士団は特権による利益を存分に享受していたようである。ユダヤ人居住区での伝統的な貸付金利率は年43%程度であった。テンプル騎士団はバチカンの教皇に年利65%で貸し付けていた。一目見て分かる証拠によると騎士団はユダヤ人から金を借りており、その金を教皇と信用力の高い諸国の王に貸す前に五割の利益を上乗せしていた。教皇クレメンス5世 Clemens V(Bertrand de Gouth 1264-1314 ローマ教皇在位:1305~1314)とフィリップ4世が、この狡猾で大胆な金融搾取のことを如何に不快に思ったかは想像に難くない。騎士団が消滅すると、未返済の債務残高は帳消しになった。誰も騎士団に対する債務の返済を申し出なかったようである。そうなると、騎士団に貸したローンを回収しようとしたユダヤ人はどうなったのか疑問である。ユダヤ人の大量追放は、消滅した騎士団が提供していた抵当をユダヤ人が要求したことと関係があるのだろう〔※関連資料(1世界初の国際銀行の破綻・2「本当のところフランス政府とテンプル騎士団との財政関係がどのようなものだったのかは歴史学者達の間でも意見が分かれ未だに謎である。何しろどちらが債務者でどちらが債権者なのかそれすら分かっていないのである。騎士達が逮捕された時、帳簿の殆どが何故か『行方不明』になってしまったからだ」・3テンプル騎士団が形を変えたのがイエズス会 十字軍の世界進出・4明治維新以降の天皇家とマルタ騎士団・ガーター騎士団・5『天皇破壊史』・6ユダヤの陰謀の正体は大英帝国主義である・7【Echelon―英米同盟(UKUSA)、英連邦 Commonwealth of Nations(本国を含め54カ国)】)〕。


■「キリスト(資産)」であり「反キリスト(負債)」である「バフォメット(二重思考)」

テンプル騎士団に絡むバフォメットの謎であるが、バフォメットはキリストの姿であると同時に、モロク神の前身である反キリストの姿でもあるという発想に関係しているようである〔※一部関連資料(1双尾の人魚と悪魔崇拝?・2ZEITGEIST他・3イエスの実像を探る・4羊と山羊・5)〕。テンプル騎士団は神殿の儀式でこの奇妙な偶像を崇拝していたと伝えられている。この優れてオカルト的人物像は、マネーの謎と何らかの関係がある。思い起こせば、貸付金(ローン Loan)の利率と投資(ファイナンス Finance)の計算には、貸付金(ローン Loan)は同時に資産(アセット Asset)であり借金(デット Debt)であるという特定の「二重思考」が絡んでいることが理解出来る。バフォメットのイメージは、キリストと反キリストの特徴を同時に併せ持っているが、それは矛盾した二重性である。この比喩は、如何にして同時に成された一つの取引によって同じ金額が、貸し手にとって資産となると同時に借り手にとって負債となることが出来るのかを示している。バフォメットの秘密を究明せずにはいられないという強い欲求がヨーロッパ全土に拡大し、これが異端審問と言われる残忍なものになった。諸国の王と聖職者達は、ユダヤ教の会堂シナゴーグ Synagogue を襲い、タルムード Talmud などユダヤ教の数多(あまた)の書物を略奪した。これらの書物には、テンプル騎士団がマネーの富を着服する為に使用していた「神秘の計算」の教則(マニュアル)が記載されていたと言う。

テンプル騎士団が「表舞台」を退場して以来、ヨーロッパでは利率を巡り状況は混乱を極め続けた。諸国の王や聖職者達がマネーの秘密と高利貸しの計算を血眼(ちまなこ)になって習得し始めた為、高利貸しユダヤ人にとってはいよいよ厳しい時代となっていた。大抵の借り主は、借用書に記載された融資条件の厳しい内容を一読し、その非道さに仰天し、即刻ローンを解約した。どの地でもユダヤ人の国外追放は頻繁に行われていた。イタリアの金融業で有名なロンバルト一族でさえもヨーロッパ中を彼方此方(あちこち)放浪せざるを得なかった。ロンドンのシティはヨーロッパ中から逃亡してくる金貸し達を受け入れた。金貸し業にとっては極めて困難な時代であった為、ロンドン・シティ CITY OF LONDON のユダヤ人は、生涯利子を払うと約束する借り手であればマネーをくれてやるほどであった。

モロク神と利子マネーの経済霊(拝金主義)が今日大いにのさばっているが、その起点はと言うと、この16世紀におけるロンドン・シティでのヨーロッパ人(ユダヤ人)の思考と共に始まったようである。
 

金融システムの闇の超起源 その12

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年11月 1日(土)02時34分5秒
返信・引用 編集済
  http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11903446478.html

≪R.D. Willing 著『マネー/金融システムの闇の超起源』より抜粋(12)≫
2014-08-02 00:52:27
テーマ:R・デュアン・ウィリング
(11頁からの続き)

〔Richard Duane Willing 著, 為清勝彦 訳『マネー/金融システムの闇の超起源―地球を滅ぼす人類最後の宗教』 第8章 善悪二重基準の倫理 より抜粋、要約 P.222-P.242〕

■律儀な道徳人がいるから、背徳者ケインズ一派(ズル賢いグローバリスト)は儲けられる

何を善とし、何を悪とするのかの判断基準は人類皆共通と一般的には考えられている。国や慣習の違いを超えて、あらゆる人々にとって自明のものとされている。この道徳的な価値観は、それぞれ民族の神から「聖なる導き」として、教えられている。だから道徳に反する行為は神に対する犯罪となる。何であれ自ら信奉する神の「神聖なる指示」に従わなければ、道徳的でないとされ、それは神に対する犯罪になる。そして道徳律に反する行為は、カルト(閉ざされた運命共同体)の規範に縛られない外部者(よそもの)に向けて遺憾なく発揮される。カルトは、通例、外部者に対しては用心深く無関心を装うが、身内には贔屓(ひいき)をする。

二重基準を応用し、冷徹(クール)に合理化した経済思想は極普通に見られる。現代経済学の父と言われるジョン・メイナード・ケインズ John Maynard Keynes(1883-1946)〔※『ロマノフ家の黄金』より【系図8・36・37・38・39】及び関連資料(1―IMF・2―Victor Rothschild, 3rd Baron Rothschild(1910-1990)・3・4・5・6・7国際金融機関設立の目的 IMF・世界銀行と金貸しとの関係その1・8その2・9その3・10―Darwin Family―Rothschild Family)〕は、「厳密な意味で言えば、私は背徳者だ」と堂々と本音を述べている。「グローバル経済」なるものが芽生えつつあった頃、ケインズを取巻く人々の間では、窮屈な道徳的制約などは無視して当然という空気だった。「一般的な規範によって押し付けられたあらゆる制約を完全に拒絶する。この姿勢に、他者は恐怖を抱き、攻撃であると見なし、それを我々の最も危険な性質と恐れる。我々は因習と旧来の価値観によって押し付けられたあらゆる道徳的な習慣を拒否する。言っておくが、我々は、言葉の厳密な意味において、背徳者である」(Beaugrand,Philippe,Thornton,Henry,Un Précurseur de J.M.Keynes,Presses Universitaires de France,Paris,1981,P.113)。この意気盛んな草創期の背徳者達を引き継ぐ現在の背徳者達が、十戒を否定する風潮の先頭になっていることは不思議ではない。市場の力の邪魔になるからということで、益々裁判所が性的な逸脱を保護し、伝統的な道徳を否定する行為が蔓延(まんえん)するのを保護しているが、そんな傾向を先導しているのも彼ら(ケインジアン Keynesian)である。

私の考えでは、ケインズ派というのは、経済霊の徒党一派として理解すると正確に把握しやすい。ケインズ派は、善悪の二重基準なくして成り立たないことは明らかである。何故ならば、彼らの「身内」モロクが動かしている、道徳を逸脱したグローバリズムは、道徳に束縛された人々なくしては成り立たないからである。倫理観や一般に認められた道徳の制約によって縛られているからこそ、契約や合意は、市場で意味を持つのである。ケインズ派の言う背徳とは、彼ら御一統が如何に背徳から利益を得ることが出来るかという意味で使われているだけのようであり、彼らが利益を得る為には、その他の人々は道徳の制約に縛られている必要がある。これは、モロク神と経済霊が要求する善悪の二重基準の分かりやすい特徴である。

■「左から右横書き(ヨーロッパ)」「右から左横書き(ユダヤ・セム族)」「縦書き(ハムラビ・東洋)」の異なる世界観

社会秩序にとって必要不可欠な規範や価値観は、それぞれの社会で主要な地位を占める宗教が影響を与えているということに異論は無いだろう。古代神殿の書記官は人間のことをよく理解していた。社会というものは、当時も今も、大きく違うものではない。富裕者の成功もあれば貧困者の不安もある。正しいことと間違ったことを弁(わきま)えることは、常になされていた。約束は守らなければならないという決まりはいつの時代も同じだ。倫理的価値観の態様(たいよう)は、文化や人種、地域といった外因性の要素に左右されることはあっても、生命に向き合う基本的な態度や、命を損なうことに対する禁止事項や規則に関する処置は何(いず)れもよく似ている。

しかしながら、世界の様々な慣習の類似性を比較すると、地域によって世界観に相当の違いがあることが明らかになる。それはまるで、ノア Noah の三人息子の物語が、実は、人類の価値観の分類をしているかのようである。例えば、ヨーロッパ人は主に、個人を強調した観点で民族や人種について考える。中東のセム族 Semite にとってはカルト(信念体系を同じくする運命共同体)が基本的な観念であり、華族や部族を強調する。東洋では、家族が強調され、それは時系列上の家族=先祖崇拝としてもよく表れている。これらの異なる世界観は、文章を書く時、①左から右へ横書き、②右から左へ横書き、そして③縦書きという三種類の方法に、視覚的な違いとなって表れている〔※関連資料(1ヒエログリフとヒエラティックとデモティック・2全てが存在するヒエログリフ・3・4・5神話的考察・6「日本人シュメール起源説」の謎・7「イエスはこのユダヤ教の排他性を取っ払った」〕。

これら異なる書字(しょじ)方向形態に対応する「読む技能」も、それぞれの文化と宗教の重要な構成要素となっている。異なる文化群の倫理的な文章を比べてみると、何気なく読むと一見同じことを言っているように思えるが、普遍的に受け入れられるべき思想に、排斥的な感覚(ニュアンス)が加味されたりしている。例えば、(③縦書きの)ハンムラビ法典 Code of Hammurabi の全てを受容する倫理では、「自分自身にしたであろうことを他人にもせよ」と本来は求めている。だが、後の時代にユダヤ教によって修正された(②右から左へ横書きの)記述では、「自分自身がされて嫌なことは他人にするな」という排斥的な倫理に変化している(Steinberg,Milton,Basic Judaism,Harvest HBJ Books,NY&London,1947,P.12 邦訳はミルトン・スタインバーグ著, 山岡万里子 訳『ユダヤ教の考え方―その宗教観と世界観/ユダヤ教の基本』ミルトス 1998年/2012刊行)。

商取引は、文化的な背景や有力な宗教の浮き沈みに左右されない堅固(けんご)な中核的(コア)な倫理基盤で成り立っている。ビジネスにおける契約や代金回収には、倫理的な価値観が共有されていなければならない。異なる文化を横断的に行き交うマネーによる商業活動の為には、宗教ドグマの違いに影響されない普遍的な倫理が不可欠であると言えよう。世界市場を求めて様々な文化に不法侵入している経済霊は、様々な宗教の教えから腹一杯に諸々の倫理を呑み込んだ結果、自分自身が一つの有力な宗教となってしまった。そして、特に「約束を守る」という倫理を基盤としている。


■「釣り鐘曲線/正規曲線(生命活動の物差し)」と「パレート曲線(8対2の法則)」をどう使うか?

商売を業(ごう)とする経済霊の倫理の最も重要な物差しは、「正規曲線」もしくは「釣り鐘型曲線」と言われる統計手法である。この曲線に関する古代の知識を、聖書の中に見出すことが出来る。市場の母集団の属性や傾向は、この曲線状の位置に従って予測することが出来る。正規曲線もしくは釣り鐘曲線は、原初以来の、あらゆる商業的、社会的生活、そして自然の生命に共通のパターンを示している。生命(生活)の中のあらゆる出来事と事実は、この宇宙の不思議によって表される。この物差しは、収穫高を季節的に検証している。

自然及び生命の活動の物差しとしての正規曲線に加えて、人間の企業活動にはもう一つの観察すべき属性がある。それは発見者の名前に因(ちな)んで「パレート曲線」と呼ばれる。これは経済活動に関わる物事を測定する時に役立つ曲線である。しばしば8対2の法則と呼ばれるが、パレート曲線は、約8割の企業活動は、約2割の商品によっていることを示している。利益についてもこの法則は当て嵌(は)まり、利益の8割は、売上の2割によって齎(もたら)される。古代の聖職者や書記官も、共同体社会の中で倫理的に公正な商品の分配を行う為に苦心していたはずであり、この現代統計学的手法について少なくとも直感的に体得していたに違いない。

「釣り鐘曲線(つまり正規分布)」の表された物差しは、現代の商業と社会のあらゆる局面に存在している。この曲線では、どんな母集団でも6つの集団に分離して捉える。それぞれの集団は、対象となる母集団のおよそ16%を含んでいる。定着した手法としては、平均値(つまり中間グループ)は母集団の63%で構成され、曲線の中央を挟んでそれぞれ2つの集団を合わせたものである。この中位グループを構成する4つの集団に属する個体が、母集団の平均を示すと考えられている。だが、この事実にも関わらず、自分の社会的な地位を質問された時、母集団の約9割の人々は自分が中流階級に属していると思っているのが通常である。

社会統計の意味と感覚が一般に共有されていないのか、或いは、一般民衆の思考に及ぼすモロク神の力の成せる業(わざ)なのか、どちらかである。一般的に数学で表現すれば、母集団の半分は、数学的にちょうど平均となる値よりも上であり、半分は下である。

中間クラスにいる約63%の人々が平均的であると思っているとすれば、残りの部分である約3分の1の人口は平均よりも上か下かに分割されることになる。残りの人口は均等に分割され、約16%は平均より上に、同じく約16%は平均より下になる。聖書の知恵は、およそ7人に1人は総人口に依存する状態にあることを知っており、こうした測量手法を認識済みであることを明示している。聖書は、収穫の7分の1(約14%)を貧困な人々の為に畑を残しておくべきだと言っている(旧約聖書 出エジプト記 23章11節)。

聖書は、この農村的な時代においては、老齢、病気・怪我、能力等の理由で、およそ7人に1人は虚弱な人がおり、その他の人々が生活の必需品を与えてやる必要があることを寓話的な表現で伝えている。公式に計測されたわけではないが、この統計は、恐らく現代経済にも該当するものではないかと思われる。経済霊の経済システムでは、社会的弱者として無収入層も追加しておいたほうがよいだろう。平均以上の集団の中には、際立って平均を超えている約16%と、特にマネーという観点で注目すべき並々ならぬ能力を持った2~3%が存在する〔※関連資料(1格差社会と正規分布・2「カーストは歴史的に脈々と存在したと言うよりも植民地時代後期の特に20世紀において『構築』または『捏造されたもの』とも言われる」・3ガンジーとアンべードカル・4・5新自由主義と新たなカースト制度・6―TPP・7【THRIVE~世界支配の計画を暴く~】・8これを知った今どう生きるべきかI~V)〕。


■シャマシュ(ハムラビ指導の太陽神)直伝、イエスの強烈な反モロク黄金律「債務を赦せ!」

人類と人間活動における「釣り鐘曲線」の統計的現実が普遍であることは、支配層が倫理の原型を作る際に着想を与えたであろう。聖書に記録される前の時代に、太陽神シャマシュ Shamash/Utu(紀元前1700年頃)は、シュメールのハンムラビ Hammurabi(1810?BCE-1750?BCE)に統治者としての特別な指導を与えたと伝えられている〔※関連資料(1「古代中近東ではシリウスが信仰されていたが、紀元前3000年から2000年にかけて太陽信仰への大掛りなシフトが行われた」・2「聖書に出て来る神は黒い神と白い神の二つの面を持っており、その時々で両者を使い分ける」)〕。シャマシュは統治の目的は、「正しいことが勝利することを推し進め、強者が弱者を不当に打ち負かすことを防ぎ、国民を教化し、全ての人々の生活を改善する」(Barthel,Manfred,What the Bible Really Says,William and Morrow&Co.,NY,NY,1980,P.120)ことであると言った。この崇高な言葉の意味は、何百年もの時を経てイエスなる人物によって「山上の垂訓」の中に取り込まれた。使徒マタイとルカは、これらの思想を要約し、黄金率に組み入れた。「自分が他者にしてほしいことを、他者にせよ」(新約聖書 マタイ伝 7章12節及びルカ伝 6章31節)。この規律はキリスト教独自のものと考える人もいるが、同じ規律は、遠く離れたインカ文明を含む多くの社会に存在する。

新しい信者向けに教義の中心テーマ説明するという難しい課題に直面した使徒は、新しいキリスト教徒に教える為の要約文をイエスに依頼した。この聖書マタイによる福音書6章12節「主の祈り」の一節には、直感的に(対モロク)「オカルト・パワー」があることが窺(うかが)える。そこには、イエスなる人物の決意として、「我々が債務者を赦すように、我々の債務も赦してください」と述べられている。かくしてイエスから使徒に発せられた究極の指導の中に、かつて投げ掛けられた言葉の中で最も強烈な反モロクの言葉を見出すのである。モロクは債務なくして存在し続けることが出来ない。この一節をオカルト的に解釈すると、モロク神を聖書の文言の中に隠す暗号の痕跡であろう。このマタイによる福音書6章12節には、経済霊のマネー「72の法則」のパワーが込められていることが察知出来る。オカルト数秘術で理解すれば、6と12を乗じた数はモロクの「72の法則」になる。

モロクの欲望の根本は、利子付きで貸した金額が2倍になるのにどれだけの期間が掛かるのかを知ることにある。元金が2倍になる為に必要な期間は、72を利率で割ることで計算することが出来る。6%で貸し付けられた1000ドルは12年で2000ドルになる。或いは、12%で貸し付ければ6年で2倍になるといった感じである。この72という数字には、金融魔術がある。マネー計算の基本的なルールは、誰にでも見ることの出来る形で聖書の一節に暗号となって隠されている。このルールが隠されているのが、まさにそのルールが依存している債務の返済拒否を求めている文言の中であるというのは、痛烈な皮肉である。「主の祈り」の中に表現された債務免除の要求は、当時(今日でもそうであるが)、最も革新的な宣言であった。


■「72の支配(モロクの経済的グローバリズム)」を明確に拒絶したナチ党経済要綱

72の数字に連動した力を更に知ることが出来る事例として、1924年6月24日にベルリンで起きたドイツの外務大臣ヴァルター・ラーテナウ Walther Rathenau(1867-1922)〔※関連資料(1・2・3・4『ドラッカー名著集9「経済人」の終わり』・5労働運動の源流としての「マルクス」+金貸し支配と労働運動は繋がっていた?・6『Geschäftlicher Nachwuchs』・7『天皇破壊史』)及び広瀬 隆 著『赤い楯』より【ドイツ工業界からナチスへの資金の流れ・系図83】を参照〕の政治的暗殺がある。暗殺現場の車の中で息が絶えるまでの間、彼は「72が世界を支配する」と繰り返し最後の言葉を発した。ヴェルサイユ条約による弾圧を緩和させようとした交渉は、彼の死によって断絶した。彼の暗殺に引き続いて起きた一連の出来事が、第二次世界大戦を不可避にしたと言ってもよいだろう。民族社会主義の経済要綱は、ドイツにおける「72の支配」から利益を得ていた政治的・経済的集団を無力化することを目的にしていたと言う事実からも、このことは明らかである。

ナチ党の経済要綱は、「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率」によって牽引(けんいん)される経済的グローバリズムにとって必要不可欠な要素の大半を、明確に拒絶していた(Angebert,Jean Michel,The Occult and the Third Reich,Macmillan Pub.Co.,NY,NY,1974,P.13-14)。「72の法則」といった社会秩序のコントロールの中に存在する秘密の知識が現実にあることは記録された事実である。モーセは、70人の長老達に囲まれていたが、この他にアーロン Aaron(生没年不詳、モーセの兄)とモーセ自身が加わる。時代の経過と共に、長老達の知恵はモロクによって利用され、経済霊の道具となったようである。モロクは反対勢力のことに気付いていないか、無関心である。有史以前のエジプトにおいてすらも、社会的抑圧に対抗する最初の大規模な民衆蜂起の主な原因は、秘密の知識によって生命をコントロールされていることに対する憤(いきどお)りであった。ファラオ自身の上流階級の区域に下層階級の者が侵入して秘密の知識を獲得したことによって、エジプト上流階級の名誉は傷付けられた(Mumford,Lewis,The City in History,Harcourt Brace Jouvanich,Orlando,Fla.,1961,P.100)。

太陽神シャマシュによってハンムラビ王に示され、後にキリスト教の黄金律として再発見された基本倫理が「受容」の精神であるのと異なり、善悪の二重基準の倫理は「排斥」である。人と人を分離し、人を排斥し、人を騙す。これが善悪の二重基準というものの常套手段で、全体にとっては何一つ良いことはせず、全体を犠牲にしながら自らのカルト(独利的富裕集団)だけの利益を資する。このように経済霊がカルト(運命共同体)の生活に支配的に介入すると、善悪の二重基準が必然的に現出する。善悪の二重基準を率いる経済霊の正体とは、「我欲の為に人間を予(あらかじ)め決められた形式で或る行動に走らせる、内面における複合的な顕在意識或いは潜在意識」と言ってもよい(Fanfani,Amintore,Catholicism,Protestantism and Capitalism,Whitefriars Press Ltd.,London,1935,P.20 邦訳はアミントレ・ファンファーニ著, 佐々木専三郎 訳『カトリシズム・プロテスタンティズム・資本主義』未來社 1968年刊行)。

(弱肉強食を戒めるイエスの「山上の垂訓(黄金律)」にも通じる太陽神シャマシュの指導を受けたシュメールのハンムラビ王。債務が飯の種のモロク神の倫理は冷酷な「排斥」と「二重基準」だが、ハンムラビ王は「受容の倫理」を適用、自然と調和しながら繁栄を目指した)

社会がマネーという尺度で動いている時、経済霊は最も存在感を輝かす。或る社会において経済霊の力がどれほどのものかは、金持ちがより金持ちになり、恵まれない者がより貧しくなり周辺部に追いやられていく、この落差の度合いによって窺(うかが)い知ることが出来る。「釣り鐘曲線」を見れば分かるように、共同体の一定割合を排斥しようとする力は常に発生する。古代の聖職者は、この排斥しようとする力を打ち消すことが自分達の役割であることを自覚していたはずだ。

ハンムラビ王の聖職者としての倫理が、どのように変貌していったかは、モロク神と経済霊が介入してからの経緯を見れば分かる。経済霊がやって来る以前は、商業では価格と価値は別々のものであった。価格には道徳的基準というものがあって、人々の需要に応じて理性ある聖職者の判断によってその価格は適切に設定され、決定されていた。経済霊の権力の下では、例の「善悪の二重基準」が顔を出し、剥き出しの利欲で付けられた価格が冷酷に割り当てられる。人々の需要は無視される。見られる通り、現代社会では聖職者の判断に関係無く、中央銀行と呼ばれる組織で働いている「モロクの司祭達」が経済霊の影響下にある政治的プロセスに沿って、値付けをするのみである。全ての政策は、物質的な判断と現世的な価値観によって牽引(けんいん)される。

現在のところ、往々にして社会の日陰(ソーシャル・アウトカースト Social Outcaste)にいるような芸術家や一部知識人の、極僅かな人々だけが、意図せぬもモロク神に挑戦する思想や批判を投げ掛け、何かしら公共の善に貢献しようとしている。残念ながら彼らは率直に社会が抱える懸念を表明しているが、社会・文化を支配しているのが隠れたモロク神と経済霊であるということの本当の意味を理解していないし、しようともしない。彼らは時代の真相を見逃している。それどころか彼らの思考は、まるでモロク神そのものに乗っ取られたかのように、そちらの方向に向けて開かれている。覚醒への入り口で足止めを食らっているようだ。「聖霊(ザ・ホーリー・スピリット The Holy Spirit)はこの世界から撤退した。もはや自然の中に現れることはない」(Salvadori,Fulvio,“Art and Catastrophe”in FlashArt Transatlantica,Feb.1983,P.51)という彼らの世界認識は間違いである。


■隠匿を促している聖書は「善悪の二重基準」の教則本(ルールブック)

善悪の二重基準は、法律や規則を通じて詐欺や二枚舌を使う欺瞞(ぎまん)のパワーである。モロク神の善悪の二重基準は、早い段階から聖書の中に侵入している。聖書のカルト(各種集団)は、聖書の規律を選択的に適用する方法を教えられ、それを習熟することで、経済的な利益を得ている。法律は、一般的に理解されているような普遍的な正義の為の道具にも、平等の為の尺度にもなっておらず、単に利益を獲得する為の道具に成り下がってしまっている。

その生々しい事例をキャスリーン(キャシー)・アン・オブライエン Cathleen Ann O'Brien(1957-)は『恍惚のうちに作り変えられるアメリカ Trance Formation of America:The True Life Story of a CIA Mind Control Slave』(Global Trance Formation Info Ltd. 1995年刊行)で取り上げている〔※関連資料(1これを知った今どう生きるべきかⅣ 悪魔の証明・2I~V・3・4・5)〕。性奴隷を雇う秘密交渉、麻薬、ワシントンとメキシコの高級官僚に対する現金の賄賂などに絡み、聖書のモロクの暗号が、如何に現代の国際法に悪影響を与えているかを示している。つまり法は、正義の番人として機能していないのが、この著作を読むと痛いほど分かるのだ。

慎重に工作された法的手段であるNAFTA条約は、現代の「カルト273」(国際金融資本家)に気前の良い贈り物と秘密の利益を齎(もたら)した。余所者(ゴイム)を詐欺で騙して経済的な不利益を被らせておきながら、仲間内(カルト)にはしこたま利益が入り込むように仕組んでいる。色々な意味で、聖書は「隠匿(いんとく)を促している」ようである。モロク神の介入を巧妙に誤魔化して隠していることが分かる。聖書は、普遍的な正義を高らかに宣言しながらも、正反対の結果が生じることを許容している。聖書の文言は公式には「お前達の国の為の法律と、異邦人に対する法律は、同じものを適用しなければならない」(旧約聖書 民数記 15章16節)と述べている。

更に「異邦人(ゴイム Goyim)を怒らせてはいけない」とカルト(営利組織)に対して注意を喚起している(旧約聖書 出エジプト記 22章21節)。明らかにこれは異邦人との商売によって利益が齎(もたら)されることを意味している。そこで矛盾するのは、異邦人はカルトにとっての正義から除外されていることである。借金しても利子を支払うことの無いカルトのメンバーとは異なり、「異邦人は利子の無い貸付金(ローン)から利益を得てはならない」と記載されている(Sombart,Le Bourgeois,1956,P.251)。更にカルトは「常に貸し手であれ。決して借り手になってはならない」と指令している(旧約聖書 申命記 15章6節)。聖書の規則は具体的に、カルトの内部では高利を取ることを禁止し、異邦人との取引においてのみ高利を課すことを許可している。債務の免除はカルトの身内では定期的に行われ、永久に債務は帳消しにされているが、異邦人に対しては利子付きの債務を新たに負わせる(旧約聖書 申命記 23章20節、15章2節~3節)。

ここに明らかに、聖書の文言の中には、善悪の二重基準という正反対の観念があることが証明される。これらの諸節は、偏見の無い正義の精霊ではなく、経済霊の方式によって不当な利益を得ることに大いに関係している。そして更には、実は聖書をよく読むと別の精霊のことを伝えていることに気付く。ここに発見された別の精霊は、聖書の中に存在するモロクの概念に繋(つな)がっているようである。この別の精霊は、ヘブライの指導者カレブ Caleb(生没年不詳)に特別の好意を寄せる。「カレブは、もう一つの精霊と一緒だった。(モロクは)カレブが赴(おもむ)くところで土地を与え、カレブの種がその土地を所有した」(旧約聖書 民数記 14章24節)とある。交換手段として機能するという点で、種子という語は、経済的にはマネーと同等の意味を持つ。

善悪の二重基準の倫理は、明らかにハンムラビ王、そして後にイエスという人物像によって説かれた社会主義の中核を成す倫理を拒否するものである。それは、自然と調和しながら繁栄するということは、「排斥」ではなく黄金律にある「受容の倫理」の全面的な適用に依存していることを示唆している。これは勿論、高利によってカルトに利益を齎(もたら)し、異邦人に不利益を被らせることを勧める「反逆の掟(ルール)」への挑戦を意味する。モロク神と経済霊が、異邦人から利益を得るという聖書の発想を伴って社会にやって来たことは明らかである。利益がカルトの身内だけに差別的に蓄積されることが熱望された。この利益は、カルトの形態が、宗教団体であろうと、国や企業であろうと関係無くこの不当な利益を得ることが可能である。


■「知的転移」でYHWH(デーモン、ヤハウェ)の「完全に見通す力」を反転、中央銀行を廃止する

本書では、この力はモロク神に属する力と考えているが、この力の概念を支持する思想が聖書の教義の中にある。それはギリシャの神聖四文字(テトラグラマトン Tetragrammaton)、聖書の神の名エホバを表すYHWHである。最も驚くべき新発見であるが、カバラによると「YHWHという名前の文字は、この世界の王子である悪魔(デーモン)と同義である。置換法を知っていれば、他の言葉から或る言葉を抜き出すことが出来る」(Davidson,Gustav,Dictionary of Angels,Collier Macmillian Cda.Ltd.,Toronto.,Out.,1971,P.228 邦訳はグスタフ・デイヴィッドスン著, 吉永進一 監訳『天使辞典』創元社 2004年刊行)。変形されたYHWHは、「神聖な人物は、恵みを齎(もたら)すと同時に、危険の源でもある。“その魔術的な効能は、極めて厳密な意味で移ろいやすい”」と言う(Fraser,James George,The Golden Bough,1994,P.174)〔※関連資料(172の数字について・2ソロモンの72柱・3ヘブライ語新約聖書が原典?「新約聖書の最も古い写本はギリシャ語で書かれたものである」・4・5仮説)〕。

YHWHに投影された「完全に見通す力」というものがあると考えられており、それによって人は人間として完全な成功を伴って行動することが出来るようになると言う。プラトン Plato/Platon(427BCE-347BCE)は、これは哲学者のみに存在するものであり、彼の目的に完全に沿って生きることを社会環境が許す時だけに限り、彼の中にも存在すると信じていた。社会によってこの目的が否定されれば、哲学者は疎外され、破壊する側の力となる(Gould,1955,P.188)〔※関連資料(1キリスト教三位一体と新プラトン主義の流出説・2・3セフィロトの樹・4全ての始まりゼロと無限・5カバラ創世記・6・7・8モレク コメント欄含む)〕。

聖書のエペソ人への手紙(エフェソの信徒への手紙)6章12節(ここでまた「72の法則」へのヒントが暗号化されている)を見ると、「戦いは肉と血に対するものではなく、この世界の暗闇の支配者達に対するものであり、天の邪悪な精霊に対するものである」とある。この世の「悪魔デーモン Demon」であり、天にあって支配している「闇の勢力」がモロク神であること、そして、知的転移によって「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率」の哲学から脱出すれば、このモロクの力が反転するかも知れない。そんな可能性を思うと、この物質主義的な金融の時代において、科学的ではないにせよ、エキサイティングではある。

自然と調和しながら繁栄する為の地球の世話人から、経済霊の高利に衝き動かされる「マネー利益の管理人」という反対の観念へと、どのように知的連環(シプナス)が倫理観を反転させていったのか、その過程を聖書の物語が暗号化して伝えているのではないかという疑問に対する答えを想像すると、心が凍(い)てつく。しかし逆に、もしかすると、このモロク神と経済霊の領土からの脱出(転調)が、単純に最転調するだけで達成出来るのかも知れないと思えば、思索は更に理性を超え、心霊的な次元に入り込んでいく。

環境汚染の害悪と、貧困を齎(もたら)す不公正な構造は、集合的な意志を反転させることによって修復することが可能である。目覚めた者によるほんの簡単なことで、恐らくは「地球の世話人カルト(運命共同体)」が中心となった立法が成されるだけで、「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率の神モロク」の神殿である中央銀行の息の根を止めるには十分である。

一般的に「金融」と言われている(聖書では「高利貸し」と呼んでいる)経済霊の活動を消滅させても、現代の経済システムはそのままで、十分に機能し、マネー・システムと豊かさは実現出来る、そう思えるのだ。

 

金融システムの闇の超起源 その11

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年11月 1日(土)02時25分23秒
返信・引用 編集済
  http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11900865192.html

≪R.D. Willing 著『マネー/金融システムの闇の超起源』より抜粋(11)≫
2014-07-27 23:20:11
テーマ:R・デュアン・ウィリング
(10頁からの続き)

■宇宙の力を込めた暗号「イスラエル」「マネー」が意識のパラダイムを大転換(詐欺の許容)

旧来の宗教からイスラエルへの意識の変化によって生じた思考の変化は、マネーの経済霊とモロク神が登場する為に十分な素地を与えるものである。出エジプト記が創作された可能性が高いと考えられる紀元前9世紀から紀元前5世紀の間に、人間の意識には実質的な革命が発生し、思考のプロセス自体が根本的に変わってしまったようである。「この人間意識のパラダイム転換によって掻き立てられた、ものの見方・考え方が、金融やマネーという概念である」(Jaynes,Julian,The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind,Houghton Muffin Co.,Boston,1976,P.77 邦訳はジュリアン・ジェインズ著, 柴田裕之 訳『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』紀伊国屋書店 2005年刊行)。この変化は余りにも深甚(しんじん)であった為、「古代の習慣を翻訳する時に、現代のマネー・金融の用語を使用することは完全に間違いである」(前掲書 P.201)。

私の考察によると、エリート知識人は、「イスラエル Israel」という名前を、後にエルサレム神殿として知られることになるものに当て嵌(は)めた。光合成の理解に必要な理論との類似性から、「イスラエル」という名前を、マネー創造の仕組みを理解する為の定型化イメージを呼び出す符号として使用した。先述の通り、マネーの存在の基盤となる信用(クレジット)は、マネーが創造される前に「信用」として使用される為に存在していなければならない矛盾を抱えている点で、マネーと光合成は同じ謎を共有している。

更に、聖書の最初の5章分は暗号で記述されており、他の通常の言語に翻訳することは無意味であるというカバラ(QBLH)の説も忘れてはならないだろう。暗号は宇宙を浮遊する生きた力である。暗号が込められた文章には、その宇宙の力を我々の生活に反映させる意図があり、その為に啓示として機能する(Suarés,Carlo,The Cipher of Genesis,Shambala Publications,Boulder and London,1978,P.53)。ここでは、カバラの尋常ならざる言語は、暗号名「イスラエル」を利用して人類の中に登場する経済霊、モロク神、そしてマネーのことを語っていると理解しておく〔※関連資料(1ユダヤ教徒の「カバラ」と「メシア運動」の歴史・2三大教典、他・3・4・5カバラ・生命の木の対応表、他・6秋端 勉 著『実践魔術講座 リフォルマティオ〈上巻〉』)〕。「イスラエル」という名前を暗号として理解してよいことは、聖書の中でマネーという言葉が使われているところでも裏付けられる。マネーという言葉が使用されているという観点で聖書の登場人物の活動を再検討するならば、人類の祖先や出エジプトの物語は、何千年、少なくとも何百年は最近寄りのことであったと修正する必要があるだろう。マネーへの言及と聖書の人物像が一致する時代は、イスラエルの神である聖書のヤハウェが初めて記録された時期、紀元前850年頃に修正されなければならない。

ヤハウェと共に始まり、第二神殿の時期として一般に理解されている紀元前539年頃に終了する時代は、マネーが誕生した時代という特徴を持つ。市場でマネーが使われ始めた時期、第二神殿の時期と時を同じくして、紀元前539年辺りに「割礼(かつれい)がユダヤ人特有の慣習であると見なされるようになった。神殿の聖職者達はこの些細(ささい)な文化的特徴を神との契約の象徴に仕立て上げ始めた」(Barthel,Manfred,What the Bible Really Says,William and Morrow&Co.,NY,NY,1980,P.78)。この年代によれば、モーセに関する物語の大半と、出エジプト記、アブラハムの割礼の話は、もっと後世のことになる。

この地域の気象条件は大幅に変わった為、聖書のアブラムがいたとされている時代に旅をしたならば、ラクダではなく馬を使っていたはずである。ラクダを使ってエジプトまで移動する方法がこの地域で知られるようになったのは紀元前600年以降である。一部の研究者は、モーセとイクナートンが恐らく同一人物ではないかと推定している。これを支持することになると思われるのが、ミケーネ時代とギリシャ時代の間の暗黒の600年間は存在しなかったというイマヌエル・ヴェリコフスキー Immanuel Velikovsky(1895-1979)の発見だろう。この新たな年代特定によって、火山と嵐の神として認識されているヤハウェ神の起源が、テラ火山の噴火により近付くことにもなるだろう。

聖書の出来事の年代を、紀元前1250年頃から紀元前850年頃に修正することによって人類の祖先達が使った「市場のマネー」も、実際にマネーが発明され使用された時代に配置することが可能である。イアン・ウィルソン Ian Wilson(1941-)は、その著『出エジプトの真実 Exodus:The True Story Behind the Biblical Account』(Harper&Row 1985年刊行)において、出エジプトの真実が大幅に異なることを指摘している。一つの時期としては紀元前1100年プラスマイナス190年ぐらいから始まる。この年代範囲によれば、テラ火山の噴火は最初の記録と共に、ヴェリコフスキーの年代特定は、聖書の物語の大半を有史以前ではなく、より具体的な時期に再配置することを裏付けてくれる。聖書の詩篇78章52節~54節に、聖なるヤハウェの山は火山として記録されている点は注目すべきである。

マネーの発明、そして、モロク神と共に到来した経済霊の物語を暗号化する為に「イスラエル」という名を使って聖書に暗号化された思想を追求することは、当然ながら、思考の根本的な変化、信仰の突然の飛躍を伴うことが想定される。この種の人間心理は、創世記の「第一子を殺す」という聖書の記述として初めて記録されている。幼児殺害は、新たな思想を受け入れる為に、親が伝統的な思想を拒絶することの比喩である。或る種の新思想が最初に出現したのは、イクナートンの新しいイスラエルの宗教においてであった。時代が経過すると、「イスラエル」の名前は別の聖職者によって盗用されたようである。この聖職者による編集が発展し、マネーを発見した直感を隠す暗号としての意味を持たせ、公開された聖書となった。


■地球を汚染し攪乱するマネー信仰(詐欺と背信妖術)の暗号名

本書の狙いは、宗教として我々の政界に入り込んできた経済霊のマネーの駆動力を識別し特定することである。マネーという姿で表現された信仰体系は非常に強力であり、その実践は常識をも凌駕(りょうが)する勢いである。地球が益々汚染されているのは、マネー計算の結果であることが広く認知されている。マネーの計算による意思決定の結果、生物圏にとって有毒なものもやむなしと容認することが出来る能力は、マネーという尺度が絶対であるという進行に基づいているようである。それはまるで地球の世話人の責務を否定する一種の妖術のようなものであり、人間の思考を暗号名「イスラエル」の力で攪乱(かくらん)している。

「イスラエル」という名の普遍的な力が人類に入り込んできたことは、一般的にも理解されている。この概念を支える聖書の教義は、紀元前400年頃に最初の草案が完成した文書に基づいているようである。これとほぼ時を同じくして、マネーは市場で力を持ち始めていた。ジュリアン・ジェインズ Julian Jaynes(1920-1997)教授は、「騙すこと」について、長期と短期の事例を挙げて議論しており、その中で騙すことは、裏切りという形で人間の経験に入り込んできたと述べている。これは旧約聖書のイザヤ書が証明しているようである。イザヤ書の新たな思考能力に関する記述によって、我々は新しい人間の能力を窺い知ることが出来る。今や「内側では或ることを考え、外側では別のことを言う」(Jaynes,Julian,The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind,Houghton Muffin Co.,Boston,1976,P.220 邦訳はジュリアン・ジェインズ著, 柴田裕之 訳『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』紀伊国屋書店 2005年刊行)ことが可能となった。この倫理を超越した能力は、マネーの創造と貸付における経済霊の働きにおいて「騙すこと」の重要さを考えると理解出来る。現在の金融システムにおいて、マネーの創造と貸付は、或る種の詐欺を必要とする。それは、現金のマネーとなる以前に全てのマネーは貸付金から創造されていなければならないのに、貸付金は預金者のマネーに依存しているという神話である。この驚くほど単純なアルゴリズム(インチキな錬金術)について明確に理解されていないままであるのは、モロク神と経済霊の到来を隠匿(いんとく)する暗号名「イスラエル」のヴェールの裏で蠢(うごめ)いている特別な力の心理的な支配があることを示唆している。


■王(ファラオ)の金融コンサルのヨセフは、元祖MBA(経営学修士)、マネートレーダー、金融詐欺師

ヨセフ Joseph(生没年不詳、ユダヤ人の祖ヤコブの子の一人とされる)は、市場に力として登場したマネーを理解する上で要(かなめ)となる人物である。聖書の創世記の物語に描写してあるように、ヨセフは市場と商品を統制するエジプトの最高位の官僚であった。勿論、他の多くの聖書の人物像と同様に、ヨセフは歴史上実在する人物ではないだろう。ヨセフが重要人物である理由は、経済霊の到来と、発生したばかりのマネーの力について述べた寓話を人格化した存在だからである。ヨセフがマネーの発明を初めて交換システムに適用したという物語があるが、それ以前のエジプト経済は物々交換であった。利益を得る為に交換するという慣習はまだ無かった。「市場のマネー」以前には、全ての経済取引はファラオのカルト(統治組織)の直接管理下にあった。

ヨセフは、イシュマエル Ishmael(生没年不詳、アラブ人の祖とされる)の子孫の商売活動を通じてファラオの“ホワイトハウス”に辿り着いたことを聖書から知ることが出来る。彼らはマネーを使った商人(トレーダー)であり、ラクダの隊商を組んでパレスチナからエジプトを商売して回っていた。聖書の物語によると、彼らは銀20枚と引き換えにパレスチナでヨセフを購入した。この取引でマネーとラクダが使用されていることから、この出来事とヨセフの物語は、紀元前600年以降のいつかであることが分かる。その年代以降でなければ、この地域にはラクダと硬貨の形態でのマネーは存在しないからである。ヨセフを取得しエジプトに納品した話の中には、やはり隠匿(いんとく)されてはいるものの、「割引」という金融の概念が巧妙に描かれている。

ヨセフは兄弟によって井戸の中に捨てられていたようである。ミディアン Midian の行商人は、エジプトからの帰路でヨセフを発見して救い出した。エジプトに行く途中だったイシュマエルの子孫は、ミディアン人 Midianites から銀20枚でヨセフを買った。ここでもしも、ミディアン人が誰かをファラオに納品するという単価契約を、例えば銀30枚で締結していたとすれば、割引率の一例となり得る。イシュマエル人 Ishmaelites は既にエジプトに行く途中であったのだから、ヨセフの購入は納品時点で銀10枚の利益を齎(もたら)すことになる。ミディアン人は納品をする必要は無くなり、即金で銀20枚を手に入れることが出来る。割引の概念というのは、将来受け取る見込みのマネーよりも、手持ちの即金マネーは価値があるというものである〔※広瀬 隆 著『アメリカの経済支配者たち』より【図1~4】を参照〕。

マネー創造の経緯を隠匿する暗号という観点を念頭に置きつつ、また、マネーに関する物事には「騙すこと・詐欺」が革新的な役割を果たすことを認識すれば、ミディアン人とイシュマエル人の大商人が、ヨセフをエジプトに連行したのは、エジプト人をマネーの束縛に陥(おとしい)れることが目的であり、人類初の大掛かりな金融詐欺だったと言えなくもないだろう。この偶発的な人間関係の変異のことを、「カルト273」、及び、現在我々が中央銀行と呼んでいるものの起源が秘められた寓話であると考える研究者もいる。また、ミディアン人とイシュマエル人の現代版が今日の日本と中国の大商人組織であり、エジプト人がアメリカ人に相当すると指摘する人もいる。

ヨセフは、聖書の物語では、経営者ファラオの愛顧(ひいき)を受けることになる。ヨセフは、聖書の神話になるような不幸な犠牲者ではなく、バビロン Babylon(現イラク Iraq)とダマスカス Damascus(現シリア Syria)の高度な経営者養成学校を卒業したプロの経営者層を人格化した存在である。現代のMBA(経営学修士)の原型とも言うべきものであるが、これによってコンサルタント業や政府の役人として出世することが出来た。

ファラオは、バビロンとダマスカスの優秀な学校や学界から専門職を引き寄せ、洗練された手法を提供させたり、「世界市場」の鍵を握っていたセム語の知識を利用した。契約では、専門コンサルタントはエジプトにやって来て、国際貿易に必須であるセム語に精通していないエジプトの役人を補助することになっていた。どんな有能なコンサルタントでも同じだが、外国人の専門家が入り込んでくれば、人事面や経営方法の変更を勧めようとするものである。

経営の専門家達は、ナイル川からユーフラテス川にかけた地域に幅広く重要なポストを占めていた。聖書はこの地域のことを大イスラエル Greater Israel と回想している。外国人コンサルタントに地位を奪われたエジプト人達の受け止めは、コンサルタントで酷い思いをした現代の経営者の気持ちに近いものがあっただろう。殆んど実務経験の無い新参者によって地位を奪われた経験豊かな経営者達は、卒業したばかりの新人の出現を邪魔に思ったに違いない。こうしたMBA風の侵入者に起因する経営方針の変更によって、楽しみにしていた昇進の機会を失った者も少なからずいただろう。この時代のエジプト史は、侵略者の到来を思わせる、「イブル Ibru」または「ハイブリ Hibri」の到来のことを伝えている。

エジプトの厄介者としてのイブルまたはハイブリの歴史は、有名なエル・アマルナ El-Amarna の粘土板(アマルナ文書 Amarna Letters)によって初めて発見された。これらの粘土板は、シリアの王とエジプトのイクナートンの間に通信があったことを伝えている。一般的な想定としては、侵入者の「イブル Ibru」または「ハイブリ Hibri」は、聖書のヘブライ人 Hebräer のことであると思われている〔※関連資料(1「国外追放された賎民から神の選民へ:イスラエルとは古代社会において前代未聞の新興宗教信者に対する集団名称であったが、これを彼らは『神(エル)』とさえ『競う(イスラ)』者と解して自らの出自を湖塗した。また、ヘブライ人の『ヘブライ Hebräer』とは、河を「超えてやって来る」余所者を意味したが、何故わざわざ遠くからやって来るのかと言えば、強盗略奪殺戮を恣(ほしいまま)にする為であって、その原形『ヒブル Hibru』と『イブリ Ibri』はアマルナ文書に頻出するならず者集団『ハビル Habiru』『アビル Abiru』とは同じ根から出た同義語である」・2・3)〕。もしそうだとすれば、その当時の彼らはまだ、後にユダヤ人と呼ばれるようになる「聖書の民」といったようなカルトとしては存在していなかった(Graham,Lioyd,Deceptions and Myths of the Bible,Bell Publishing Co.,New York,1979,P.152)。

比喩的な存在であるヨセフは、エジプト史のいつの時代なのか聖書の不明瞭さの為に分からないが、ファラオの側近の長として聖書の物語に登場する。エジプト人が侵入者イブルの到来を伝えているのも、歴史的に曖昧なこの新時代を迎える時期である。もしかすると、ヨセフは、この地域に蔓延した経営専門家やコンサルタント集団を担った侵入者イブルの中でも最も成功を収めた人物なのかも知れない。明らかに、この専門家階級は、虐げられた農民という固定観念的なイメージよりも、「聖書の民」ヘブライ人の特徴によく合致している。


■エジプトでのヨセフ活躍物語は金融(有利子マネー・システム)による束縛支配(牛、種子、土地)の完全モデル

ファラオの“ホワイトハウス”の高みより、ヨセフは、市場の知性の理解、つまり、マネー経済の先駆けとなるものを実際に行ってみせた。ヨセフは、政府の権力の全幅の信頼を完全に掌中に収め、天才的な外交の才能を発揮した。ヨセフがエジプトの聖職者による反発を早々に察知し、宥(なだ)めたことは、マネーの力を行使して社会を操作する方法への道筋を開くことになった。ヨセフの官僚としての才知の威力は、創世記41章34節に窺い知ることが出来る。ヨセフは、財産を巡って規制権力の聖職者達と争うよりも、全ての土地の二割を彼らに与えるように取り計らった。

時はヨセフに味方していた。七年の豊作の後に、七年の飢饉(ききん)がやって来た。豊作の七年の間、ヨセフは経済生産の余剰をファラオの蔵に蓄積した。当時、長期の保存方法も技術も確立していなかった為、倉庫に貯蔵するという話は明らかに寓話であり、或る種の比喩的な表現をしようとしているのが分かる。欠乏の七年間に、ヨセフは、貯蔵した産物を、元々それを生産した人々に売り戻したと伝えられている。ここにマネーが絡んでいる臭いがする。飢饉の間、商品は、特に交換手段としての穀物は、底をついていたか、不足していたはずだからである。

このマネーによる取引を必要とした初めての経験は、明らかに以前の経験とは違っていた。それまでエジプトの商取引は、マネーを使用せず物の交換によって成り立っていたのである。更に、マネーが必要になったことは、土地は豊富に所有していたが、マネーは持っていなかった聖職者達にとってショックであったに違いない。そもそもヨセフが提案した取引を受け入れた時、マネーの力によって土地が如何様(いかよう)にもなるなどとは、創造もしていなかったはずである。また更に、国内で痛切なまでの需要があるにも関わらず、自分達の貯蔵品が外国人に売られているのを目の当りにしたエジプト人は、追い打ちを掛けられたようなカルチャー・ショックに襲われただろう。何百年もの間、共同体の財産であると思ってきたものを手に入れる為に、マネーで支払う必要があるということは、気絶するほどの驚きであったに違いない。物や土地に対するマネーの力は、気絶するほどの驚きであったに違いない。物や土地に対するマネーの力は、エジプト人の原始的な経済感覚を粉砕したに違いないのである。金と銀を大々的に騙し取られたのに加え、貴重な物資がヨセフと同類の異民族出身の外国人に販売されているのを見て、それまで彼らに信頼を寄せていたエジプト人は深刻な裏切りを感じたに違いない。

この新しいマネー経済のサイクルの全体は、創世記47章に、以下のように記述されている。豊作の七年間に余剰が蓄積されつつあったので、ヨセフは血縁者達をエジプトに移住するよう勧めた。この血縁者達は、臨時の外国人労働者として使用可能であるという虚偽の名目でやって来て、エジプト人の牛の世話をした。飢饉が始まると、物資不足は極限に達し、エジプト人にはパンが無かった。ヨセフは残り在庫の食糧をマネーと引き換えに人々に売った。そうしてヨセフは全てのマネーを手に入れる。各地の社会にマネーが欠如していることは、マネー・システムの欠陥であると考えられた。実際のところ、この最初のマネー・システムは、権力を集中させる為の完璧な道具であることを見せ付けるものであった。

人々が所有している財産といえば、もはや牛しかなかった。牛はヨセフの血縁者が管理していることになっていた。エジプト人は、生きる為のパンを得る為に牛と交換することを余儀なくされた。そして、人々は、生き延びる為には、食べ物になる植物が必要であり、その為には種子が必要なことに気付いた。マネーを持っていない人々は、必要な種子を購入する為に、土地を手放してヨセフからマネーを得る以外に方法が無かった。この市場のマネーのメカニズムこそが、ヨセフが全ての土地を配下に置くことが出来た理由である。かつてその地の市民であり、ファラオとその一族の末裔(まつえい)であると思っていた人々は、ヨセフの農奴として小作人になり、マネー価格の経済霊に服従することになった。ヨセフの寓話を通じて分かることは、聖書というものは、人間に関するものというよりは、マネーと詐欺の威力に関する想念の履歴を記したものであることだ。

聖職者によって所有されていた二割の土地は、ヨセフの購入対象とはならなかった。マネーのコントロールは、土地のコントロールよりも遥かに大きな力を齎(もたら)す。事実、ヨセフは、エジプトの毎年の収入から聖職者達に定期的に給与を払うことで、彼らに対する支配力を強化した。完全なる全体主義権力の確立は、市場のマネーをコントロールし操作することから始まったと言える。ヨセフにとって最終段階は、植え付けの為の種子をコントロールすることにあった。現代の巨大穀物複合商社は、日々、全農作物の種子を掌握しようとして遺伝子操作も含め開発改良実験を繰り返し、種子の知的所有権や栽培方法の専売特許を独占しようと必死である。人々を支配するヨセフの全権力は、マネーに依存した小作人の隷属状態なくして存続出来なかった。エジプトでのヨセフの物語は、金融による束縛支配の完成モデルであり、これが現代のマネー・システムとなって現れていると解釈出来る。この唯金発想(アルゴリズム)こそが、現在、世界中の銀行や国際金融機関によって管理された「有利子マネー・システム」の中で、中央銀行が国の債務に寄生する構造を可能にしていると理解することが出来る。


■賄賂、詐欺、威圧のヨセフ戦術を駆使したベトナム占領の布教団

共産主義のリーダーとして有名なホー・チミン 胡 志明(Nguyen Sinh Cung/Nguen Tat Thanh 1890-1969)は、キリスト教会の布教団が旧約聖書さながらの金融戦術を使用したと伝えている。彼によれば、ベトナムの植民地時代に、教会はエジプトのヨセフと似たような戦術を使ったそうである。農民から耕作地を奪取しようと賄賂、詐欺、威圧など、教会は考え得る限りのあらゆる手段を行使した。「穀物の不作の機に乗じて、農民達から田畑を担保に取り融資を行った。利率が異常に高かったので、農民達は借金地獄から抜け出せず、やむなく布教団に担保の田畑を差し出さざるを得なくなった」(Fall,Bernard,Ho Chi Minh on Revolution,Signet Books,NY,NY,1968,P.68,69)〔※関連資料(1・2)及び広瀬 隆 著『赤い楯』より【系図54-1――インドシナ戦争~ベトナム戦争『地獄の黙示録』・54-2】『地球のゆくえ』より【系図1――キリスト財閥とロスチャイルド】を参照〕。


■父ヤコブの国葬行列にかこつけ、敏捷(びんしょう)に搾取マネーを避難させたヨセフ

植民地の教会は、聖書二千年の歴史から学び取ったに違いない。ヨセフのマネーによってコントロールされた新政権では、エジプトの聖職者でさえも国家のマネー・システムに服することとなったのである。エジプトの人々は伝統的に生産物の10%を一種の「十分の一税」としてファラオに納めるのを慣わしとっしていたが、今やヨセフに生産物の20%を支払わなければならなくなった。聖書の記述によれば、この100%の増税は、既にマネーに依存する存在となっていたエジプト人には好意的に受け入れられたという。人々はヨセフに対して「あなたは我々の命を助けてくれた、我々は進んであなたの奴隷になりたい」と言ったとヨセフは述べている。ヨセフは人々の賞賛に応えて「見よ、私は今日、お前達を買った。そして、お前達の土地も」と語る(旧約聖書 創世記 47章23節)。

人々は、政府への依存の代償として、個々の農奴としてマネーで根付けされ富者(ふしゃ)に売られる存在に成り下がったのだが、これは全くの嘘の口実によって実現された。ヨセフはファラオの為に土地を買ったと言ったが、エジプトでは伝統的に以前から全ての土地は事実上ファラオの所有とされていたのである。更に、農作物の管理の仕事は、以前は聖職者の専任職務であったが、それも「民営化」されエジプト人の個々の小作人が行うことになった。こうして、穀物の不作による不足が、価格の変動を齎(もたら)し、マネーによって動かされる経済にとっては非常に好都合になった。ヨセフの物語には、かつて信用されていた政府のシンボルと職位を、ヨセフが狡賢く巧みに利用し操っていたことが明らかに述べられている。経済霊がやって来て強要したマネーへの依存と束縛は、伝統的な考え方の人々には理解もされず、受け入れられるはずもなかった。

ヨセフが推進した伝統的な経済の破壊は、社会不安を積み上げていったに違いない。そしてヨセフが蓄積したマネーは危険に晒(さら)されていただろう。社会不安に直面したヨセフは、経済感覚溢れる敏捷(びんしょう)さで、獲得したマネーをエジプトから即刻避難させ、有名なベテル市 Bethel の近くのパレスチナ Palestine に移した。今日の中央銀行の原型(プロトタイプ)であるヨセフの権力は、彼の父であるヤコブの葬式のエピソードの中に窺(うかが)うことが出来る。ヤコブはエジプト社会では完全に余所者(よそもの)であり、偽装移民であった。しかし、まるでファラオ一族に生まれた者であるかのように、ヤコブの葬式は70日間続いたという。ヤコブの遺体は、エジプト王家のしきたりに従って防腐処理されたそうである。国葬の過程で、ヤコブの防腐処理された遺体は、埋葬の為パレスチナに戻された。

この国葬の行列は、個人に敬意を示す習慣と警備する警察権力のお蔭で、ヨセフが不正に利得したものを安全に隠匿出来る地ベテルに移送する為に好都合な道具立てとなったことだろう。この土地は、メルキゼデク Melchizedek とエルサレムの第二神殿との結び付きという意味で、オカルト的に深い重要性がある。この地域には、何か超常的な意識の信号線(レイライン)のようなものがあるらしく、それによってこの地域は、ヨセフの窃盗・詐欺が公正な神の概念と相容れないことを隠している聖書の宗教と繋(つな)がっている。出エジプト記にしても、ヨセフの物語にしても、中心となっているテーマは、詐欺と窃盗と裏切りである。モロク神と経済霊の力は、数百年もの期間を通じて聖書を教える人々の思考を占領してきた。その為、聖書を説く人達は、大半の聖書の物語の基盤は詐欺と窃盗であることを、大っぴらには認めていない。この中心テーマに人々が気付かなかったことが幸いして、モロク神と経済霊の二千年近い支配を覆い隠すヴェールとして聖書の宗教が利用されることを可能にしたのである。


■詐欺、窃盗、裏切りが常習イブル(「侵入する民」)出身「出し抜く者(イスラエル)」ヤコブ

更に聖書の物語の考察を続けていくと、「神々に選ばれた民」、「侵入する民」イブルの経済的繁栄は、往々にして詐欺と窃盗の成果であることが分かる。モーセという人物像に続き、ヨセフの物語があり、ヤコブ Jacob(生没年不詳、ヨセフの父でありユダヤ人の祖とされる)という別の登場人物の話で補完される。これらの擬人化された人物像の特徴は、何れも詐欺によって富を得る能力である。それはまるで経済霊に元々備わっている性質が詐欺を促しているようである。侵入者イブル族には脆弱(ぜいじゃく)な経済環境しかないことを考えれば、彼らは支配者としての地位を賢明に死守せざるを得ない。多くの聖書の人物像がそうであるように、窃盗行為を働いたとしても何の不思議も無い。聖書のカルト(異常逸脱集団)の物語として伝えられた「世界主義的な侵入者」に望まれる特質は、「ヤコブ」という人物に擬人化され発展した。

「ヤコブ」という名前は、出し抜く者、騙す者という意味があり、詐欺師のことであるが、ヤコブの話の中で、「イスラエル Isra El(神に勝つ者)」に変化している。この詐欺の概念は、エジプト人が全ての金銀を詐取された時の、モーセによるエジプト人への詐欺行為に相通じるものがある。株式市場のマネー・システムのような現代経済の機能の中に存在する経済霊にとって、どれだけ詐欺や不正といった要素が核心を成しているかは注目に値する。

聖書の中で、皮の向こう側に隠れているヤコブに会うことが出来る。ヤコブの妻と子供達は、ヤコブの詐欺が原因で、怒りを買い懲罰を受ける事態に直面し、川の反対側に捨てられていた。ヤコブは家族をも騙したようである。恐怖に襲われながら隠れて過ごした夜に、ヤコブは夢を見た。この夢の中で、ヤコブは、新たな特別な存在としてイスラエルが始まることを告げる特別な人間として特徴付けられる。狡猾(こうかつ)なヤコブは、神の天使と格闘する夢を見る。夜明けが近付き、強要された格闘試合を終結させる取引がなされる。ヤコブが、狡賢(ずるがしこ)いコンサルタントと公務員の経歴を持つ侵入者として有名な集団の出身であるかも知れないことは、この夢の中で完成された取引の性質に現れている(旧約聖書 創世記 28章20節~21節)。

この取引文書は、商業的・官僚的な身勝手を明言したものとしては、最も完成されたものであると言えるだろう。ヤコブは、神が、生活に必要な基本的なことに配慮し、最低限の生活水準を維持し、ヤコブに自由に旅行出来るようにし、「父の家から」(旧約聖書 創世記 28章20節~21節)追放されることのないようにするならば、「イスラエル」になることを承諾することにした。また、巧妙な詐欺師ヤコブは、神が同意するならば、全ての将来の営業活動によって得られるものの一割を神に与えることにした。用心棒代もしくは強請(ゆすり)という形で、ヤコブとモロク Moloch の間に「十分の一税」が成立したものであると考えることも出来るだろう。この取引では、当期利益と純資産は考慮されていない。聖書によると、神の天使は、合意し、提案を受諾した。この取引は、聖書の中で「十分の一税」に言及した二番目の箇所である為だろうが、よく第二の契約を正式化したものであると解釈される。最初に「十分の一税」の言及があるアブラム Abram がメルキゼデクとの取引に基づいてアブラハム Abraham となった時(創世記17章5節)とは異なり、この時は、「十分の一税」(タイズ)の税率は一割に設定された。この取引の条件と、ヤコブの性格から考察すれば、ヤコブの神とはモロクである可能性が高い。

明らかにヤコブの取引には道徳を無視した感があり、神は、下僕達の道徳的な善、無私の精神、公正な取引に対して報いるものであると言う考えと相容れないものである。パスカルによると、こうした矛盾が存在するところが、暗号に秘められた箇所の証拠である。ヤコブが取引した神は、道徳に無関心な神の存在を示しているとも言える。この無関心は、地球の世話人としての責務を求めた最初の契約と全く相容れない。神との取引をパーセント条件で決めることが出来たということは、聖書の第二神殿とマネーが誕生した頃の時代に成立した取引である可能性が高い。十進法が初めてこの地域に知られるようになったのは紀元前400年頃(Blavatsky,Madame,Isis Unveiled,Theosophical Society,NY,NY,1898,P.300)のようであるから、それによって年代を証明することが出来そうだ。ヤコブの取引は、最初の契約で求められた自然を守る世話人の義務というよりも、マネーの管理人としての義務に関連したものであったと推測出来る。


■「燃える森」で(燃え尽きぬ)利子を閃(ひらめ)き、万民を巧妙な束縛(中央銀行システム)に導いたモーセ

モロク神と経済霊を探し出す為に、寓話的な意味で気になる三番目の人物は、有名なモーセ Moses(生没年不詳)〔※関連資料(1ZEITGEIST・2ZEITGEIST・3・4聖書アラビア起源説1~32)〕である。モーセは灼熱の砂漠に足を踏み入れ、靴も服も(下着も)替えずに歩き回ったのであるから、実際には36年でも40年ぐらい掛かったと思っても無理は無いだろう(モーセは84歳で開始し、120歳で死亡したので、36年になる)。モーセは聖書の宗教に、「独特の火」に導かれて入った。「炎は燃えているが尽きることの無い」(旧約聖書 出エジプト記 3章2節)火の点いた森があった。モーセは燃える森の中から民に告知し、神は囚われた人々を解放することを誓ったと言う。モーセは、エジプトで奴隷になっている人々を解放することを命じられたと言った。この燃える森からのメッセージを解釈する上で問題は、当時エジプトには奴隷制度の慣習が無かったことだ(Neubert,Otto,Tutankhamun and the Valley of the Kings,Mayflower Books,London,1957,P.126)。

その訳はこうである。「燃える森」の言外の意味は巧みな比喩となっており、モーセが囚われた人々を解放するように啓示を受けたというよりも、「金融的な束縛」の理解に繋(つな)がる閃きを擬人化したものであることを示唆している。燃えていながらも、その源を費やすことのない炎という発想は、債務から発生する利子マネーを優美な比喩(暗号)で表したものである。マネーは、利子と呼ばれる「得体の知れないもの」によって何故か金額が増えていくと普(あまね)く信じられている。当然の如くマネーから派生する利子は、源を費やすことなく(元本を減らすことなく)燃え盛る「神秘の焔(ほのお)」をイメージさせる。

利子マネーを「燃える森」で発見した閃き、ヨセフによって初めて企(くわだ)てられたマネー操作の手本。この稀有な体験を経て、モーセは究極の現世的な力に気付いた。また、モーセは、利子付きでマネーを貸す金融活動をシステム化すれば、カルト(金融寡頭権力)による世界支配が可能であることを知っていた。利子付きの負債マネーは最終的に人々を囚われの身にしてしまう。モーセは万民を束縛から解放したどころではなく、ヨセフが作ったマネーの運営基盤に乗り、もっと巧妙な束縛を生み出したのである。そして今、モロク神は中央銀行と呼ばれている組織を通じて、嬉々として国を債務でがんじがらめに束縛し、現在の社会を支配しているのである。

 

金融システムの闇の超起源 その10

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年11月 1日(土)02時22分35秒
返信・引用 編集済
  http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11897716469.html

≪R.D. Willing 著『マネー/金融システムの闇の超起源』より抜粋(10)≫
2014-07-21 21:04:07
テーマ:R・デュアン・ウィリング
(9頁からの続き)

〔Richard Duane Willing 著, 為清勝彦 訳『マネー/金融システムの闇の超起源―地球を滅ぼす人類最後の宗教』 第7章 暗号名(コード・ネーム)はイスラエル より抜粋、要約 P.172-P.220〕

■「イスラエル」の元々の意味は地名ではなかった

イスラエルが地名だというのは誤解である。勿論、こんなことを言うと、何百年間も人間がやってきたことを否定することになる。多くの宗教もイスラエルを土地の名前として教え伝えている。「ユダヤ人 Jewish」を自称(詐称)する人々にとって「イスラエル Israel」は、(欺き騙す)「ユダヤ Jews」思想の核心を成す重要な土地である。原理主義プロテスタント Christian Fundamentalism などのキリスト教各派もイスラエルを土地の名前だと考えている。彼らは、聖書で神が存在すると言っているからイスラエルは存在するはずだと主張する。イスラエルという土地に、「エルサレム Jerusalem(新たな平和)」という聖都がなければならないと言う。現在のイスラエルが聖書の中で「ユダ Judah」として記述されている場所にあるにも関わらず、現状のイスラエル国とエルサレムは聖書の言い伝えによるものだと考えている人がいる。都市エルサレムは聖書のユダに存在していたが、決してイスラエルには存在していない。

あちこちから盗用して掻き集めた話を散々書き換えて編集して出来た聖書にある通り、神は「イスラエル」を、神自らが「選んだ民」の土地として与えた、と信者は言い張る。古代イスラエル人に関する聖書の話は、よく史実であると表現される。聖書が歴史を記したものであるという証拠は何一つ無いが、何故か多くの研究者は記録された史実として扱っている。信者が自明の如く歴史上存在すると主張する「イスラエル」や「選ばれた民」を示す証拠が全く無いことは驚くべきことである。才能豊かなラビ Rabbi であるエルマー・バーガー Elmer Berger(1908-1996)でさえも、「実際のところ、現在のイスラエル国家がユダヤ人の先祖代々の祖国であることを歴史的に証明するものは無い」と言ったそうである(Graham,Lioyd,Deceptions and Myths of the Bible,Bell Publishing Co.,New York,1979,P.120)。聖書の預言は「私はエルサレムを全ての人間にとって苦難の石とする。その石を背負う者は例外無く痛みを伴って傷付くであろう」(旧約聖書 ゼカリヤ書 12章3節)と宣告する。ロンドンの首席ラビは、第2次世界大戦の前、(よくあることだが)表向き飛び降り自殺と処理される高所からの落下死の少し前に、「シオニスト国家イスラエルを考え出したのはユダヤ人に対する罠である」と公言した〔※関連資料(1土地と血に関する完全なデマゴギー・2「本質上異なった二つの恵みの契約があるのではなくて、違った時代の下に、同一のものがあるのである」・3・4ジグムント・フロイト著『モーセと一神教』・5・6「ああ、我が民よ、あなた達を案内する者達は、あなた達を邪道に導き迷わせる」「私はユダヤ人(Jews)が生き残ってユダヤ(Jewry)は死んでもらいたかった」―イスラエル・9.11・明治維新と満洲他・7・8)〕。

聖書に縁の無い宗教の人々にとって「選ばれた民」の為に「特別な土地(約束の地)」があるという話は、意味不明なだけでなく、恐らくは恐怖心すら掻き立てられる、実に傲慢な態度に思えるだろう。不義不正を許せない生真面目な人であれば、セム人 Semite(実際はセム人ではないのだが)の優越性を殊更強調することで論外な喧嘩を売ってるのではないかと受け取るはずである。或いは弱者を騙す狡猾な陰謀をそこに嗅ぎ取る人もいるだろう。こうした困惑に応える為であろうが、最近は、セム系の宗教の考え方を拒絶する様々なイデオロギーが登場しつつある。「選ばれた民」と「イスラエルという土地」の物語には、邪悪な想念が含まれていると言う人もいる。彼らは聖書の神話と政治的な国家を一緒くたにしている。イスラエルの民族国家は北米の政治という身体に出来た政治的な悪性腫瘍であることを示唆する数多くの報告をインターネットで見ることが出来る。レーニン Vladimir Il'ich Lenin(1870-1924 初代ソ連参考指導者任期:1917~1924)〔※関連資料(1・2・3―NWO)及び『ロマノフ家の黄金』より【系図11】を参照〕の預言では「イスラエルは死をもって償うしかない、口にすることを憚(はばか)るような行為をするだろう」(Graham,Lioyd,Deceptions and Myths of the Bible,Bell Publishing Co.,New York,1979,P.121)と予測しているが、預言者達が語っているのが、個人のことなのか、国家のことなのかは、はっきりしていない〔※関連資料(1「イスラエル12支族」と「イエス派ユダヤ人」の謎・2「日ユ同祖論」の謎・3「ハザール王国」と「ロシアのユダヤ人」の謎・4アメリカのユダヤ人・5サンカ(山窩)とゴシェン・6・7『偽イスラエル政治神話』モシェ・ツィムメルマン教授曰く「我々は、これ迄のように振舞うのに絶好の“口実”を持っている。しかし、我々の一人一人の中に怪物が潜んでいて、もしも、我々が、常に正当だと主張し続けると、その怪物は巨大化する。・・・・・・私は、既に現在、或る現象が日々巨大化の傾向を辿っていると考えている。私の定義によるユダヤ人の人口の殆んどが、躊躇うこと無く、ドイツのナチスの生き写しになっている。ヘブロンの植民者のユダヤ人の子供を観察してほしい。彼らはヒトラー・ユーゲントと、そっくりそのままだ。彼らは幼少時代から、アラブ人は皆劣等で、ユダヤ人以外は全て敵だと教え込まれる。彼らは偏執狂になる。ヒトラー・ユーゲントと全く同じように、自分達を最優秀人種だと思い込んでしまう。レヘヴァン・ツェエヴィ(1990年から1992年の間、シャミール政権の大臣)は、全てのパレスチナ人の領土からの追放(“移住”)を主張した。これはナチ党の公式の政策、即ち、ドイツのユダヤ人全ての追放と、全く同じだ」・8ホロコーストの舞台裏・9ナチスの「ガス室」神話の起源、他・10『アンネの日記』検証・11「赤い交響曲」・12マイケルソン(エーテルの否定)はフリーメーソンだったか?・13)〕。


■英国諜報機関が発明した「英国が本当のイスラエル説(失われた十部族)」

「イスラエル Israel」という名前の議論を始めれば、知識人から政治、オカルト分野まで幅広い範囲の様々な心情と解釈が絡み合ってくる。明らかに欠陥のある聖書解釈によって複雑化され、問題は更に混迷を極めることになる。実際のところ聖書では「ユダ Judah」と呼ばれている地域内にあるにも関わらず、今日「イスラエル Israel」と呼ばれるようになった地域(パレスチナ)への諦め切れない思いは、政治的・経済的目的を達成する為の用意周到な詐欺であると考えられる。

古代イスラエルの十部族の神話に支えられて、聖書のイスラエル伝説は依然として有効であり続けている。失われた十部族は、かつてイスラエルで暮らしていたが、一度は消滅し、英帝国のアングロ・イスラエル神話の中に再登場したとされる。英国が本当のイスラエルであるという発想は、19世紀半ばに、英国の帝国主義を正当化する手段として、ケンブリッジとオックスフォードにある英国諜報機関の想像力豊かな研究活動によって発明された。聖書の十部族の物語は、「アングロ・イスラエル神話」を正当化する為に盗用され、大成功を収めた。今やイギリス人こそが本物のユダヤ人であるという神話は、旧大英帝国地域〔※関連資料(1英連邦・2「原爆投下を承認したのは英国」「英国系海洋国家群と日本の位置」)〕の全領域の活動を支え、イギリス人が「選ばれた民」の本当の子孫であり、それ故に旧約聖書の正統の血筋であることを示す根拠となっている。

この思想は、米国でも多くの宗教集会で教宣(きょうせん)されており、アングロサクソン系アメリカ人が特別な存在であることを強調する為に利用されている。一時有名になったカリフォルニア・パサデナの「神の全世界教会 ワールドワイド・チャーチ・オブ・ゴッド Worldwide Church of God(WCG)」の故ハーバート・W・アームストロング Herbert W. Armstrong(1892-1986)牧師は、「失われた十部族」、つまり正真正銘のユダヤ人としての世界のアングロサクソン概念を米国で流布した中心人物であった。アームストロング牧師は、旧約聖書のイスラエルは実は現代の大英帝国 British Empire であると説いた〔※関連資料(1・21917年大英帝国がユダヤ人大富豪家のライオネル・ロスチャイルド卿と「ユダヤ国家樹立」を約束する書簡を取り交わす・3・4・5・6シティ・オブ・ロンドンは金融界のバチカン・7セント・ジョン・ザ・ディヴァイン大聖堂・8・9)〕。そして彼は、1983年2月6日のテレビ放送で、米国の最高裁判所は米国の公立学校から意図的に神を排除したと述べた。「失われた十部族」の本物のユダヤ人(つまり大英帝国)は、アメリカ人をアメリカ独立革命の神意から精神的に切り離し、イスラエル国家に表された俗世の神への服従に置き換えたかったようである。今日の現実世界に存在するイスラエル国は、真のユダヤ人(英国のアングロサクソン)が本当のイスラエルであるという最終的な認知を達成するまでの中間段階に過ぎないという複合暗示だと思えば、身が竦(すく)むような気がする。(中略)

ベストセラーになった『聖なる血と聖杯 The Holy Blood and the Holy Grail』(Michael Baigent, Richard Leigh, Henry Lincoln 共著、英Jonathan Cape 1982年刊行。邦訳版は『レンヌ=ル=シャトーの謎―イエスの血脈と聖杯伝説』林 和彦 訳、柏書房 1997年刊行)は、「アングロ・イスラエル」の神話を、宣伝・普及し、実現する活動の一例である。この話は、英国王室のチャールズ皇太子 Charles Philip Arthur George, Prince of Wales(1948-)は新約聖書のイエスの血を継いだ子孫であると言っている。その他の野心的なヨーロッパの王達も同様にこの本から恩恵を得た。このアングロ・イスラエルの物語は、経済霊とモロクによって衝き動かされる地球規模の中央銀行による金融帝国主義とも大いに関係している。エルサレムに再建される「第三神殿」は、「新しいマネー」と共に中央銀行として使用され、十部族の「真のユダヤ人」であるアングロサクソンによって世界を支配することになり、モロクの「横暴な腕」となることは間違いない。


■モロク神は、BIZWOGの本部エルサレム第三神殿から指令

「ザ・ノース・アメリカン・リーダー The North American Reader」というカナダのニューズレターが以前あったのだが、それによると、エルサレムの第三神殿は、現時点では内密のBIZWOG(the British-Israel-Zionist World Occupation Goverment、アングロ・イスラエル・シオニスト世界占領政府)の本部となるよう計画されているそうである。ヴェールを外したBIZWOGは、マネー・システムと米国のドル通貨のコントロールを通じてモロク神の為に世界を支配することになる。このコントロールの為には、米国はマスコミに操作された電子的な強制収容所として貶(おとし)められる必要がある。企業大商人の従順な下僕である収容所の囚人は、命令された通りに消費する。マインド・コントロールされた囚人達の引き攣(つ)った作り笑いは、真実を直ぐに忘れること、事実に無関心であること、そしてBIZWOGの命令するままに世界中の都市と人々を爆破する準備が出来ていることを、覆い隠すことだろう。BIZWOGのプロパガンダによって囚人達の事実認識は切り替わる。残虐な殺戮(さつりく)行為は、自由と民主主義と解放を追求する為と(イラクやアフガニスタンへの不埒な米国侵略戦争など)考えられるようになる。モロクと経済霊の企業パワーの影響下にある人間の特徴は、自分の利益になることであれば何でも正義であると解釈することである。この利己的な考え方に抵抗する囚人がいれば、直ぐに名誉毀損であるとか、背信行為などと、あらゆる理由で反ユダヤ主義として非難されることになる。

注意深く観察している人にとっては、十部族の神話の陰で蠢(うごめ)いているモロク神の力は極めて明瞭に把握出来る。その為には、モロク神の力が、「イスラエル」を、政治的主体である同時に宗教的信条として利用していることに気付く必要が十分ある。米国の新約聖書に基づく建国来のプロテスタント派キリスト教を、個人的な救済の教義から、旧約聖書のイスラエル国の神話を支持する政治的な教条(ドグマ)に改変したのは、モロクの意識体が持つパワーの生きた証拠であると考えられる。


■「イスラエル」という言葉は生命そのものを指している

秘儀の文献によれば、ここには、宇宙的な勢力が働いていることが判明している。地名としての「イスラエル Israel」という発想に対して、もし地名という考えを横において置けるのであれば、より深い知識を受け容れることが可能になり得る。「イスラエル Isra El(神に勝つ者)」という名前の本当の完全な意味は、「エロヒムに対して継続的に勝利する戦い」(Suarés,Carlo,The Cipher of Genesis,Shambala Publications,Boulder and London,1978,P.190)という宇宙的な感覚で理解されることになる。地球上の生命に関連するものとしての「エロヒム Elohim(Elの複数形)」の定義は、「全ての存在と生命が、人間に対して開かれたあらゆる可能性に向かって進化するプロセス」(前掲書 P.187)として理解しておく。「イスラエル」という言葉は生命そのものを指している。「イスラエル」は、全ての生物の有機的機能を動かしている全プロセスのことである。この全プロセスは、光合成の触媒(しょくばい)の神秘として認識すると最も理解しやすい。人々や土地についての聖書の神話とは違って、イスラエルは、「始まりと存続」に関する科学を指す暗号なのである。

このように目覚めた意識は、「イスラエル」という言葉を、「宇宙において危機に瀕(ひん)している最初にして究極の原理、つまり不確定であることの自由」(Suarés,Carlo,The Cipher of Genesis,Shambala Publications,Boulder and London,1978,P.88)を暗号化したものであることに気付く。将来の時間に従って複利で増える利子のマネーに根本を置く経済霊は、将来のことを確定させる指示をすることによって、「不確定であることの自由」を侵害しているということが見えてくるであろう。自然は、地球の世話人の責務の失敗によって乱されることが無ければ、自然として行うべきことをやろうとする。

地球の世話人としての責務は今、脅かされている。(中略)


■イスラエルの寓話は、マネー・システム(強欲)到来を伝える比喩であり「公開暗号」

古生物学、地理学、考古学の研究は、聖書の「イスラエル」を十分な一貫性をもって分析することに失敗している。聖書の主要人物の記録でもそうであるが、年代特定は問題が多い。それでも尚、介入し続ける神とその選民の神話を信じる者は執拗(しつよう)に存在する。本書は、寓話としてイスラエルの物語を検討すれば、イスラエルの歴史的な問題は理解しやすくなることを提案する。この寓話は、「始まりと存続」に関する科学の観点から、経済霊とモロク神の到来を説明するものである。この寓話に出てくる地理、人々、介入する神は、マネーという現代のシステムが如何にして人類にやって来たのかを伝える為の比喩であり「公開暗号」である。

自然から乖離(かいり)することに固執するイスラエルの神話は、旧約聖書の神のことでも場所のことでもない。イスラエル神話が存続しているのは、人間の精神の知的構造の中のシナプス(私欲連鎖)によるもののように思える。偶然によってマネーが発見されたのも、このシナプスによって引き起こされたようである。この事件によって、古代神殿の聖職者は過剰な権力を持つようになり、商売と生命を解釈する人間の能力が、本当に変わってしまったのである。この超自然的(極めて人為的、人工的)な知的シナプスが、周期的に訪れては人類の思考に衝撃を与え、大激変を齎(もたら)し、宗教(邪教)になっていったものと、ここでは考えておく。


■イクナートンは、光合成(「不確定な奇跡」)から「イスラエル(神の声)」を未知の力の原理卍(鉤十字)と捉える

そのような霊的閃(ひらめ)きの別の例としては、エジプトのファラオ(王)、イクナートン(アメンホテプ4世) Amen-hotep IV/Echn-Aton or Ikhn-Aton or Akh-En-Aten(?BCE-?BCE ファラオ在位期間:?BCE~?BCE、古代エジプト第18王朝のファラオ。ツタンカーメン王 Tut-ankh-Aten/Tut-ankh-Amen は近親婚による実子)による光合成の「不確定な奇跡」の直感的な理解がある。イクナートンは、物理的な太陽ではなく、太陽が持つ何らかの神秘的な力が地上の全ての生命を動かす力となっていることを、何らかの方法で理解し、それを「イスラエル」と名付けた(Schenouda,Anubis,La légende d'Osiris et la vie de la mort de Jesus,Montreal,1980,P.44)。イスラエルという言葉には、物質と生命の創造を齎(もたら)した変換を象徴する、依然として謎めいた力の意味が含まれている。イスラエルという言葉で表現される謎と未知の力の原理は、多くの社会では鉤十字(卍)によって表されると考えられている(Angebert,Jean Michel,The Occult and the Third Reich,Macmillan Pub.Co.,NY,NY,1974,P.191)。イクナートンがこの驚くべき発見をし、その後それを自らの宗教に取り込んだ時期は、イクナートンの治世の年代から特定することが可能である。公式見解では紀元前1250年頃ではないかと思われているが、イマヌエル・ヴェリコフスキー Immanuel Velikovsky(1895-1979)が進めた研究結果によれば紀元前1450年~紀元前1250年という期間では何世紀もずれている可能性があることが示されており、私は、イクナートンの時期はおよそ紀元前850年~紀元前750年頃の可能性が高いと考えている。従って本書では、イクナートンとエジプト脱出の伝説は共に紀元前9世紀頃であろうという前提を採っている〔※関連資料(1『古代文明ミステリー たけしの新・世界七不思議7』・2ジグムント・フロイト著『モーセと一神教』・3イクナートンとモーセとイスラエルとロスチャイルド、黄金仮面(1922年11月26日王墓発見・発掘)より遥かに価値のある何か・4・5・6Ay・7古代核戦争説・8)及び広瀬 隆 著『赤い楯』より【系図40】を参照〕。

この時期の後、人間の思考様式を変質させるような集合意識のシナプスが存在していたようであり、それを裏付けるように紀元前600年までに新しい宗教が幾つも登場している。エジプトだけ見ても、治世のぶつかり合いのようなものがあったことが窺(うかが)え、その後に既存の三つの宗教が合成されたのである。イクナートン以前のエジプトには、「ラー Ra(太陽)」という名前の神がいた。この神は、実際に空に見られる物質としての太陽であった。それから、「イシス Isis(玉座)」という女神もいた。女神は、孵化(ふか)と出産を通じて人類に語り掛けていた。

三番目の力の名は「エル El(神)」であった。当時知られていた全ての世界に共通して、エルは至高の存在を意味していた。それぞれの神は、多くの聖職者によって神殿に祀(まつ)られ、エジプトの信仰体系を包み込んでいた。

ファラオのイクナートンは、これら三つの宗教と、生命と究極の意義について熟慮した結果、これらの対立する宗教は、彼の宇宙観と相容れないものであると判断した。イクナートンは、数が多過ぎる聖職者と神殿に置き換わる新しい信仰体系を打ち出した。イクナートンの思想は、既存の全ての宗教と聖職者を事実上禁止し、死後の世界という思想や、物理的な太陽を神であるとする考え方を排除した。イクナートンの理解では、神は太陽ではなく、太陽が持つ神秘的な力であった。「その力とは全ての創造物が存在する究極の理由であった。そして、太陽の光の声、つまり、生命を与える神の言葉を意味するものであった。それを彼はイスラエルと呼んだ」(Jouven,Georges,Les nombrés caches,Devry-Livres,Paris,1982,P.36)。現代科学では、この生命を支える、目に見えない太陽の力のことを、「光合成の触媒作用の神秘」として捉えている。我々が光合成の触媒作用の神秘として捉えている太陽の神秘的な力を、イクナートンは天才的直感で認識したのである。彼はイスラエルという言葉の音で認識される「神の声」だと考えたのである。

イクナートンの唯一神、「イスラエル」と称される普遍的な力は、既成の宗教勢力による抵抗を受け、最終的には打倒されてしまった。イクナートンの生命を支える一つの神秘の力への抵抗が広がったと思われる時期の後に、奇妙な時期が訪れている。そこには、普遍的な力は混沌(カオス)であるという思想があった。後にプラトンは「思考と物質は宇宙の永遠なる二つの原理であった。この二つは、他の何にも依存していない。我々が知っている宇宙は混沌とエーテル(霊気)が結合した結果生じているものであり、全ての生命は、知性(エーテル)と物質(カオス)が結合した結果生じている」と理論化している(Blavatsky,Madame,Isis Unveiled,Theosophical Society,NY,NY,1898)。

後世になって、東洋学者とカバラ信奉者は、イクナートンの「イスラエル」の情報を発見したようである。彼らは、普遍的な放射理論を創作した。「全ての事物は大いなる一つの根本に由来している。その根本とは、不可視にして不可知の神である。神から、本源的な力が直接発生している。それが神のイメージであり、引き続いて発生する放射の源である。この二次的な根源は、放射のエネルギー(意志と力)によって、様々な性質を送り出し、一次的な根源からの距離に応じて、完全さに差が生じる。物質は、神の放射が及ぶ範囲の最遠部にも及ばないものである」(Blavatsky,Madame,Isis Unveiled,Theosophical Society,NY,NY,1898)。


■光合成の矛盾―光合成(植物)なくして生命は誕生しない

名前としてのイスラエルの議論は尚も続いている。しかし、光合成の事実は何も変わることは無い。あらゆる生命は光合成のサイクルに依存している。光合成のプロセスが一つのサイクルを完了する為には350年の歳月が必要である。地球上の全ての酸素が一巡する為には、およそ2千年が必要である。この科学的なプロセスは、精霊から物質、物質から精霊という神学上の決まり文句に極めて見事に表現されている。

光合成のサイクルは矛盾を抱えている。光合成によって、地球上の緑の植物は太陽エネルギーを吸収し、二酸化炭素と水から生命の源を作っている。ここで矛盾なのは、水が生じるのは、光合成からである。つまり、水が存在する以前から、水によって支えられるはずの植物が最初に存在している必要があるのだ。「あらゆる可能性を考えてみても、この特殊な合成反応無くして生命が誕生することはあり得ない。そして、この合成反応は、現在、単独で生命を支えている」(Soddy,Frederick,Wealth,Virtual Wealth and Debt,Omni Publications,1983,P.49)。

このプロセスは完全に太陽に依存している。光合成は、緑の植物が太陽光エネルギーを受けてクロロフィル(葉緑素)を吸収させ、そのクロロフィルが二酸化炭素と水から炭水化物(糖質)を作るプロセスである。太陽光を化学エネルギーに変換させる方法としては、光合成以外の方法は発見されていない。しばしば葉緑素システムは生命の源であると言われる。地球上の全ての酸素は光合成によって作られ供給されている可能性が極めて高い。光合成の神秘の宇宙的な矛盾は、「如何にして生命の神秘は、生命によらずして発生することが出来たのか?光合成の神秘によらずして、如何にして生命は生命を維持することが出来たのか?」である。フレデリック・ソディ Frederick Soddy(1877-1956)〔※関連資料(1ソディの経済思想・2アイソトープの発見とその応用(放射壊変或いは放射性崩壊)・3・4『富、仮想的な富そして負債―経済学の逆説への解決策』・5「真の富は、化石燃料資源の使い尽くしに基づくのではなく、太陽からのエネルギーの現在のフローに基づくものだ。経済的な会計計算(例えばGDP)が間違っているのは、資源の消耗・枯渇と(それに伴う)エントロピーの増大を、富の創造と取り違えているからである」)〕が指摘したように、「現在、単独で生命を支えているシステム(光合成)なくして、自然に生命が発生して存在するということはあり得ない」(Soddy,Frederick,Wealth,Virtual Wealth and Debt,Omni Publications,1983,P.43)のである。が指摘したように、「現在、単独で生命を支えているシステム(光合成)なくして、自然に生命が発生して存在するということはあり得ない」(Soddy,Frederick,Wealth,Virtual Wealth and Debt,Omni Publications,1983,P.43)のである。イクナートン、如何にして「イスラエル」の音韻と共に、光合成の神秘に極めて似通った概念に近付くことが出来たのかは長年の謎である。

驚くべきことに、イクナートンと類似の洞察を行っていた者が他にも存在した形跡がある。北欧の創造神話には、光合成に対応した類型を使用しているように思えるところがある。北欧の伝説は、底無しの深淵について述べている。そこでは、物質を遥かに超えた次元で、その放射光そのものの中に偉大な存在がいるという「最高天の火」の球から、「未知の神」が慈悲深い意味を吹き出す。暗闇の深淵の水の動きをじっと見ている精霊は、混沌から秩序あれと叫ぶ。そうして全ての創造物に衝撃波が与えられたならば、最初の原因(原動力)は消え、以後永久に「姿を隠した状態」(Blavatsky,Madame,Isis Unveiled,Theosophical Society,NY,NY,1898,P.160)のままになる。プラトン Plato/Platon(427BCE-347BCE)、ユダヤ教のラビ達の哲学、北欧の伝説は、何れも神話であると同時に科学でもある。こうした描写は、イクナートンの「イスラエル」や、光合成の科学的説明とも、大いに共通する点がある。


■創造される以前に存在する「マネーの矛盾」悪用の「アルゴリズム(ニセ金づくり)」

イクナートンのイスラエルの謎と光合成の矛盾は、経済霊のマネーの力を発見した知性とも共通の基盤を持っている。マネーの存在基盤が創造される以前からマネーは存在していなければならないというマネーの矛盾は、光合成の矛盾と同じである。例えば、融資が成立した後に、融資されるマネーは存在することになる。創造される以前に存在するという矛盾を、マネー創造のアルゴリズム/ニセ金づくり(演算論理/錬金術)にすり替えた、聖職者達の直観力には天才的なものがある。それは、イクナートンが「イスラエル」と名付けた創造に関わる原初の洞察と同様に、「究極の自然の崇高力」としてのマネーの駆動力を取り入れた発想である。これは、銀行が創造したマネーが、「完全なる信頼と信用」として人々の精神によって公的に表明された一形態であるという現実を想起させる。

この意味で、当座勘定(小切手)と、クレジットカードも或る意味ではそうであるが、精神状態の一形態を表している。国家の強権によって設立免許を与えられた銀行は、口座を創造する。銀行と借り手がその口座に入れる金額――通常は貸付金(ローン)の形態になる――について合意した時、当座勘定はマネーの価値を得る。この当座勘定のマネーの仕組みは、マネーが創造する仕組みが前もって存在しなければマネーは創造されないという意味で、光合成の触媒の謎を複製したものである。

現代のマネーは思考のシナプス(欲望連鎖)の産物である。貸し手と借り手は、信用(クレジット)と呼ばれる集合意識を共有している。思考のシナプスは、マネーを創造する精神的な信仰に相当するものであり、光合成の矛盾を知的に応用したものである。それは当初「イスラエル」と呼ばれ、そこでは、マネーが創造する仕組みが、マネーが発生する前から存在しなければならなかった。

光合成についての原始的な直感から、信用をベースにしたマネー創造のアルゴリズムへの突然変異こそが、現在の経済霊とマネーの想念の原型となっている。元々は恐らく知性が齎(もたら)した偶然の出来事であったかも知れないが、その後に発生したマネーに関連するシナプスの氾濫(はんらん)は、人類の記憶を様変わりさせる知性の事件へと発展した。生物圏のことを説いたイクナートンの「イスラエル」が、マネーの経済霊とモロク神の由来を隠匿する神話のイスラエルへと変質させられたことは、明かされることのない秘密のまま今日を迎えている。


■「イスラエル(イクナートン)」が撲滅され、自然と調和して繁栄の「カナン(旧秩序)」が復活

その最初の「イスラエル」の物語はイクナートンが姿を消すと同時に終焉を迎えた。イクナートンの宗教は、その後のファラオ達によって弾圧された。復権した宗教と聖職者達は、「イスラエル」の宗教に関するもの全てを全エジプトから素早く撤去した。現存する「イスラエル」に関する資料で既知(きち)のものは一点だけである。

「イスラエル」のことに言及しているたった一つの記録は、メルエンプタハ(バエンラー・メリネチェル) Merenptah/Ba-en-Ra Mery-netjeru(?BCE-?BCE ファラオ在位期間:1213?BCE~1203?BCE、古代エジプト第19王朝4代目のファラオ)の神殿の石碑にある。その碑文は、「反逆者イスラエル(イクナートンの社会秩序)」が弾圧されたことを伝えている。この碑文を解釈すると、追放された聖職者や様々な宗教と神々が、メルエンプタハによって復権されたか、もしくは、メルエンプタハの周囲に「イスラエル」に敵対する聖職者勢力が形成されたか、どちらかであることを示している。国中に平和が取り戻され、王子達は再び以前の神々に服従することになったという要約の中に彼らの勝利が記述されている。石碑のメッセージは「カナンの地は略奪された」(Wilson,Ian,Exodus,the True Story,Harper&Row,New York,1985,P.25)と言っている〔※関連資料(1イスラエル碑文和訳・2・3金 治権 著『オリエント史と旧約聖書 第2巻エジプト』)〕。

石碑は次のように宣告している。



イスラエルは荒地となった。彼の種は存在しない。
パレスチナはエジプトの未亡人となった。
全ての地は一つとなり、平和が戻った。
絶え間なく動き回っていた人々は皆、縛り付けられた。(前掲書 P.25)



この碑文から、「イスラエル」という名前は物理的な場所のことを指しているのではなく、退位させられ陵辱されたイクナートンの信仰体系の名称であった事実が推定出来る。その当時、イクナートンと「イスラエル」の名前は同義語として使用されていた可能性もある。更に、パレスチナ Palestine という名前は、平定された地理的な範囲を指すものであることも確実である。この地域は、断固として、「イスラエル」とは呼ばれてはいなかった。また、カナンの地という言い方も物理的な位置を必ずしも意味するものではなく、イクナートンのカルトの信者がその地域に及ぼしていた影響が終焉したことを意味するようである。

「カナン Canaan」という言葉には特別な秘儀的な意味があり、パレスチナのような物理的な土地や、イスラエルとは全く別物である。「カナン」という言葉は、高いところからの命令、究極の義務のことである。旧来の秩序にあったエジプトの聖職者達にとって、イクナートンの「イスラエル」の息の根を止めることが究極の義務であると考えられたとしても不思議ではない。より大きな秘儀の次元においては、「カナン」という言葉は、全人類に対する高いところからの命令のことを意味する。「カナン」という言葉によって表現される究極の精神は、人間の地球統治における地球の世話人としての義務である。聖書の契約でのカナンは「人類が果たすべき偉大なる征服の追求」(Suarés,Carlo,The Cipher of Genesis,Shambala Publications,Boulder and London,1978,P.153-155)を意味している。これについて本書では、元々の地球の世話人契約において要請されている、自然と調和した繁栄を追求することであると解釈する。

この石碑のメッセージは、イクナートンのカルトの特徴であった本来の「イスラエル」に対する撲滅キャンペーンのことを記述しているという、驚くべき結論が得られた。このキャンペーンは、パレスチナとエジプトという物理的に実在する場所で実施された。イスラエルとカナンは地名ではないが、イクナートンの宗教を排除するという意味で、宗教的・心霊的な重要性を備えた秘儀的な意味を持つ。いとも容易に旧体制の宗教が復活することが出来たのは、イクナートンが肉体的に消滅したからであろう。当地の考古学的な調査によれば、イクナートンの政権が消滅したのは、大規模な自然災害によるものが大きいことが示されている。テラ火山 Thera〔※関連資料(1・2破局噴火・3・4・5ベテルギウス)〕の恐ろしい爆発によって火山灰と有毒ガスが噴出し、ヘリオポリスにあるイクナートンのイスラエルの首都アケトアテン Akh-Et-Aten(現在のアマルナ Amarna)を襲ったのかも知れない(Wilson,Ian,Exodus,the True Story,Harper&Row,New York,1985,P.94)。

このパニックと首都からの脱出は余りに急であった為、王室の犬は犬小屋の鎖に繋(つな)がれたまま取り残された。出エジプト記で有名な炎の柱と煙の柱は、エジプト北部と地中海東部で実際に目撃され経験された、この火山噴火を伝えたものであることが、十分に考えられる。この時期(紀元前850年頃)に、火山の神「ヤハウェ YHWH」が、中東の語彙(ごい)に加わったことは注目すべき事実である。学者の議論は続いているものの、テラ火山が爆発した時期も、およそこの時期と一致する〔※関連資料(1ヤハウェ信仰の地と火山・2ベドゥル火山とシナイ山)〕。この時期に前後して、連続した火山爆発があった可能性もある。

聖書の出エジプト記は、決して歴史的事実ではないものの、実際にあった火山噴火の経験に基づいて巧妙に作り上げられた形跡がある。聖書の出エジプト記の道程では、寓話のモーセはパレスチナに向かって東に進む。その道は、最も火山灰が大量に降り注いだ地域を通っている。パレスチナに向かって逃走しようとした人々は死の行進を経験したに違いない。理屈的には、イクナートン(モーセ)と家来達は、リビアに向けて西に進めば、致死的な火山灰の降下と有毒ガスから離れることが出来た。首都ヘリオポリス Heliopolis(ギリシャ語)/Iunu(エジプト語)/On or Awen(ヘブライ語)にあったイクナートンのイスラエル政権は、火山灰が直接降り注いだ範囲から僅かに西に外れており、危険を避ける為には、パレスチナに向かって東に行くのではなく、西に逃げようとしたはずである。

イクナートンのイスラエル人が西方ルートに逃避しようとしたことは、石碑の文章だけでなく、1962年のリビア Libya での発見によっても裏付けられている。石碑はイスラエルの殲滅(せんめつ)について語っている。考古学者達がリビアで発見したことによると、「丸天井の部屋に骸骨が逆さに吊り下げられていた。何百という頭蓋骨や骨が床に散乱していた。ファラオ達は、人間を逆さ吊りにして首を刎(は)ねていた」という(Neubert,Otto,Tutankhamun and the Valley of the Kings,Mayflower Books,London,1957,P.76,119)。他の多くの聖書の記述の出典も含めて言えることであるが、メルエンプタハの石碑が伝える出来事が、聖書の出エジプト記として編集された出来事の原型ということは、十分にあり得ることであろう。リビアの遺跡は、西に向かって逃走していたイクナートンのイスラエル人が、旧来の宗教の信者によって追跡され捕らえられ、終焉を迎えた場所ではないかと思わせる。

イクナートンのイスラエル人がどの方角に行ったとしても、イスラエルの名前が人類の記憶に残り続けているのは、人間が経験したドラマチックな出来事の結果であることは間違いなかろう。
 

金融システムの闇の超起源 その9

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年11月 1日(土)02時18分41秒
返信・引用 編集済
  http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11895260064.html

≪R.D. Willing 著『マネー/金融システムの闇の超起源』より抜粋(9)≫
2014-07-16 22:30:25
テーマ:R・デュアン・ウィリング
(8頁からの続き)

■「ウォール街のモラルは、モラルが無いことだ」思慮を盲目にさせる焔(熱情)

経済霊の存在を象徴する「呪詛の火焔」の熱情(パッション)は、生物学者でもあり、神秘的科学者のピエール・テイヤール・ド・シャルダン Pierre Teilhard de Chardin(1881-1955、イエズス会神父)〔※関連資料(1)〕が創造の意味を悟った時に表現した心霊的な効用に匹敵するものである。シャルダンは、宇宙の精神を畏敬して火に喩(たと)えている。「火は全ての存在の源である。燃え盛る精神、火、超越した存在、融合の連続。至高の鍵、私は火である。形を成すもの全ての本質、人間は私無くして何も出来ない。これが私自身を燃やし捧げる私の仕事である。私は司祭なのだ」(De Chardin,Teilhard,Hymn of the Universe,Harper&Row,NY,NY,1965)。モロク神が経済霊を焚き付ける行為の中にも、この司祭の熱情に相当するものが疑いなくあることは否定のしようが無い。

一例を挙げると、世界的に有名な銀行家ポール・ボルカー Paul Adolph Volcker, Jr.(1927-、元FRB議長、オバマ大統領の経済顧問)〔※関連資料(1・2・3・4)〕は、株式市場の活況期にエール大学の同窓組織で講演した。ボルカーと、彼の後輩である聴衆の理想は、株式市場の仕組みを崇拝し切ることであり、それは彼らが市場エネルギーと呼んでいる力に従って有効に機能するものと信じられている。けれども、ボルカーとその仲間は、自分達がモロク神と経済霊を崇拝しているとは、噯(おくび)にも出さず、問われても間違いなく否定するであろう。ボルカーは、株式市場のエネルギーのパワーと神秘について熱く聴衆に講義した。「いつしか拍手喝采が始まった。誰からともなく立ち上がり始めた。聴衆は涙を流して泣いていた」(Lewis,Michael,The Money Culture,W.W.Norton&Co.,NY,NY,1991,P.41)。涙を垂れ流して喜びを表現する光景は、熱烈なキリスト教徒の集会で救済の祈りを捧げ、精霊に心を移し入れる時によく見られる、感極まった反応である。エール大学の学生は、経済霊の恵みを通じてマネーを得ることが出来るという心算(しんさん)に、喜びを一堂と共有したのである。経済霊にとっては、本当に素晴らしい一時であったに違いない。モロク神にとってもこれ以上臨むことは無かっただろう。

エール大学のような学校では、将来どんな仕事をしたいか同級生に質問するのが伝統(ならわし)である。ポール・ボルカーの言説に恍惚状態になった学生達は、「我々の時代における神の目的に奉仕すること」(前掲書 P.53)を熱望していると告白した。この学生達の告白は一般に理解されているのとは違う。あくまで「株式市場、利子稼ぎマネー、慢性的な政府債務」という例の観念への献身を表明したのであって、一般的な聖書の創造主である神ではなく、モロク神に奉仕しようということなのだ。

モロク神の物語に夢中になる聴衆は、ここに集まった学生だけではない。「大富豪のマイケル・ミルケン Michael Robert Milken(1946-)は、証券詐欺で起訴されていたが、ニューヨークでの夕食演説の席上、アメリカの大企業のCEO(最高経営責任者)達から二度に亘(わた)る総立ちの拍手喝采(スタンディング・オべーション)を受けた。この夕食会の時、700名ほどの黒いネクタイの聴衆は、その十年期の最高経営責任者を称えた」(The Globe and Mail,1989年3月18日)。金融市場にいるモロク神パワーの更なる証拠として、株式投資のプロ達の間に認められている「ウォール街のモラルは、モラルが無いことだ」(Lewis,Michael,The Money Culture,W.W.Norton&Co.,NY,NY,1991,P.58)という了解事項がある。1998年12月6日(日曜日)の『The New York Times』は、債権の利子の専門家であるジェームス・グラント James Grant(1946-)を引用した。「公開市場でカネを儲けることと、世界を良くするということの間には、根本的に相容れないものがあると思う」と彼は言う。為替取引の教祖であり大富豪であるジョージ・ソロス George Soros(Soros György 1930-)〔※関連資料(1・2・3)〕は、「基本的に市場というものはモラルに関係無いものだが、社会にはある程度のモラル、つまり、善悪の区別が必要だ」と言う(2004年、テレビでのインタビュー)。

経済霊がマネー形成をする際、人間の行動に甚大な影響を与えるというのは明らかなようである。恰(あたか)もマネーの計算が、熱情(パッション)という形で人間の思考を急襲したかのように。この熱情とは、火のシンボルであるが、まさに燃え盛る焔(ほのお)が眼を眩(くら)ませるように、周りの生物や社会の現状に対して人間の思慮を無分別にさせるに十分な威力を発揮するようである。火という言葉は、超自然的な存在との接触を意味する時によく使用される。聖書のモーセ Moses(生没年不詳)〔※関連資料(1ZEITGEIST・2ZEITGEIST・3・4聖書アラビア起源説1~32)〕は、独特の導きによってセム系の宗教に入信する。モーセは特殊な火のある森を見た。そこでは「炎は燃えたが、尽きることは無かった」(旧約聖書 出エジプト記 3章4節)。燃える森からのテレパシーによるメッセージは、「私は、私がなるものになる」だったと、喩(たと)え話に出てくるモーセは伝える。別の報告によれば、森にいた神は、モーセとテレパシーで通信し、「私は私であるものだ」と言ったという。何れにしろ、森に現れた神の力は、人類を支配する「新しい状況」が訪れたことを示すものである。それによって、モロクのカルトのメンバーは、地球の世話人という大きな社会的責務を何ら気にすること無く、マネーのことに心ゆくまで専念出来るようになった。無責任な力ほど強い力は無い。

現在圧倒的に人類社会を支配している力は、明らかにマネーの中に存在している。燃えつつも尽きることの無い火という概念は、経済霊のマネーを「美しく」喩えたものである。燃えながらも尽きることの無い火の森のように、経済霊のマネーは、利子という尽きることの無い永遠に続く稔(みの)りの収穫を齎(もたら)すものと信じられている。この永遠の収穫という想念は、一種の魔法のように人間の頭に入り込んでくる。マネーの利子の魔法は、森を燃やし尽くすことなく燃え続ける神秘の火と似ていないこともない。モロク教のテトラガマトン Tetragrammaton(聖四文字)であるI(利子)=P(元本)×R(利率)×T(貸付期間)の公式のパワーは、自然界には存在せず、目に見えないものである。この公式が、マネーを解釈する(もてあそぶ)人間の思考を支配している。


■別次元から操られた思考形態としての「新しい力」マネー

新たな支配形態として、モロク神がテレパシーを使って人間の思考に直接接続しようとしている証拠が数多くある。「目に見えない手法で遠くから思考をコントロールする。このことは、いまだかつて考えられないほど最強の力を齎(もたら)すだろう」(Whitley Strieber,Black Magic,P.22)。こんな常識を超えた力が存在する証拠が幾つかある。宇宙を旅している時に宇宙飛行士は「絶えず何か外部の宇宙的な力が思考に呼び掛けているように感じた」(Chatelain,Maurice,Our Ancestors Came from Outer Space,Dell Pub.,New York,1979,P.29)と言う。多くの宇宙飛行士は宇宙旅行から帰って来ると、生物圏から守らなければならないという、モロク神とは異なったメッセージを発するようになる。それはまるで宇宙飛行の間に創造主に出会ってきたかのようである。

別次元から操られた思考形態としてマネーが存在する可能性は、マインド・コントロールの精神工学や遠隔透視の実験が広く認知されている以上、簡単に無視するわけにはいくまい。モロクは宇宙での戦闘の神話の片側を代表している。このことを、神話の伝承から容易に見出せるし、それは極めて理に適っている。モーセが新たに経済霊のマネーの力を認識したというのは、事実上、自然そのものから分離した「新しい力」を行使するという宣言だった。モロク神とミルコム神殿についての聖書の言及は、如何(いか)にして経済霊が、地球の世話人としての義務から人類を引き離す力を持つに至ったかを伝える、「公開された暗号」であると本書では解釈する。

人類はマネーの利子計算に挙(こぞ)って没頭するという集団催眠に、いつしか掛かってしまい、このことが経済霊とモロク神のマネーを真の政府(支配者)に押し上げたのである。
 

金融システムの闇の超起源 その8

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年11月 1日(土)02時14分45秒
返信・引用 編集済
  http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11894241621.html

≪R.D. Willing 著『マネー/金融システムの闇の超起源』より抜粋(8)≫
2014-07-14 22:48:07
テーマ:R・デュアン・ウィリング
(7頁からの続き)

〔Richard Duane Willing 著, 為清勝彦 訳『マネー/金融システムの闇の超起源―地球を滅ぼす人類最後の宗教』 第6章 黄金のモロク神とミルコム神殿 より抜粋、要約 P.146-P.169〕

■ソロモン崇敬の「(モロク神を祀った)ミルコム神殿」は、今、中央銀行(マネーの大聖堂)になりすましている

本当に歴史を作っているものは何なのか、意見は様々である。学者達の意見も分かれている。唐突だが、(モロク神の傘下にある)体制権力のインサイダーである秘密諜報員はそんな議論なんか毛ほどの関心も無い。彼らにとって歴史は、彼ら自身が作るものである。秘密諜報員が作ったとされる歴史を真実だとすれば、表向きの公認の歴史など何一つ信じられなくなる。

持って回った言い方だが、彼らはこんなことを言う。「完成された至高なる秩序は、あなた方犠牲者によって尊重され、保持されることになる」。その事例としては、米国と、その盟友ということになっているイスラエルとイギリス、この三者が絡む国際政治の企みの中に容易に見ることが出来る。騙(だま)す技術が高いことが、手柄とされ、高度な技術と思われている。或る秘密諜報員(どちらの味方なのか分からないが)は、疑うことを知らない人々に、こんな有難い警告を投げ掛ける。「悪魔の持つ最大の力は、悪魔など存在するわけがないと思い込ませる力であることを忘れてはいけない」。確かに「ミルコム神殿」が中央銀行という仮面を着け、ありふれた風景の中に溶け込んでいるのは驚きである。モロク神とミルコム神殿は、聖書の列王記上下にソロモンとして描かれている有名な人物の崇敬の対象であったにも関わらず、ユダヤ・キリスト教の宗教ドグマにおいては殆んど無視されている。

モロク神とミルコム神殿のパワーを、中央銀行という誰でも知っている組織の中に隠すことは、史上最高傑作の詐欺と言える。米連邦準備制度(FRS)やイングランド銀行 Bank of England(1694年創設)のような中央銀行は、銀行(会員銀行)の為の銀行として政府権力によって信認されている。一般的に中央銀行というものは、その国の通貨を発行し、金融危機の時には会員銀行にとって最後の頼みの綱となる役割を持っている。中央銀行は、古代の神殿の現代版そのものであり、現代の銀行建造物はマネーの大聖堂であるとよく言われる。

中央銀行の存在を都合よく正当化しているのは、政府は余りにも腐っているし、無能なので、金融に関する問題に責任ある対処は出来ないという考え方である。利率や負債の管理はとても大事なことなので、選挙によって選ばれた(無能な)政府のコントロールには任せておけない、と僭越(せんえつ)にも中央銀行は言っているのだ。国民はえらく舐(な)められたものではないか。

時折、中央銀行から国の信用を取り戻し、中央銀行システムに対する負債や利払いの発生しないマネーを造ろうとする“まともな”政府によって、中央銀行が脅かされたこともある。だが、負債や利子の発生しないマネーを発行することは、ミルコム神殿のモロク神に対するこの上ない攻撃(不敬)であり、通常暗殺もしくは戦争という暴力によって報われることになっている。そのような暴挙をこれ以上許さない為には、「信用(クレジット Credit)」=「貸付金(ローン Loan)」=「負債(デット Debt)」=マネーとなるマネー創造の二重思考を注意深く研究し、経済霊とミルコム神殿のモロクの秘密のヴェールを取り払わねばならない。信用をマネー創造の根拠とすることは、彼らにとって人間を使った実験から得られた大きな収穫である。


■思考停止(魔術的呪縛力)を齎(もたら)す「唯一神」概念を導入したヘブライ人

「二重思考」がマネーの創造を齎(もたら)すプロセスが「余りにも単純過ぎて、思考を寄せ付けない程だ」と言ったのは、現代の中央銀行経済学の父であるジョン・メイナード・ケインズ John Maynard Keynes(1883-1946)〔※『ロマノフ家の黄金』より【系図8・36・37・38・39】及び関連資料(1―IMF・2―Victor Rothschild, 3rd Baron Rothschild(1910-1990)・3・4・5・6・7国際金融機関設立の目的 IMF・世界銀行と金貸しとの関係その1・8その2・9その3・10―Darwin Family―Rothschild Family)〕である。ありふれた日常に隠れた秘密とは、中央銀行組織は、さも公共の利益の為に存在しているように装っているが、私人によってコントロールされ所有された独占企業体であることである。現代のミルコム神殿である中央銀行の本当の目的は、公債と呼ばれる永遠に解消されることの無い負債を造り出すことである。」その公債に課せられた利子は、中央銀行組織に人間文化を隷従させる、旧約聖書の「捕らわれの身(緊縛)」の一形態である。米連邦準備制度及び数多くの国々の中央銀行は、明らかに神話のソロモンのミルコム神殿の現代版である。

公債に対して支払われる利子は、実質的にミルコム神殿のモロク神への「十分の一税」である。この十分の一税の大半は、所得税を徴収してくれる政府のお蔭で実現出来ている。リンカーン大統領達とは違って、自国通貨の発行管理と利率を自らコントロールしない政府は「中央」銀行という作られたイメージの中にミルコム神殿を隠匿(いんとく)することに協力している。更に経済霊に唆(そそのか)され、政府の役人は間違った発表をする。社会にとって必須なことをするには所得税他の税金徴収は必要絶対不可欠であると言う。このような政府の虚言のヴェールに包まれ、誰でも知っている中央銀行の姿に身を潜めたミルコム神殿は、公債という形で永続的な資産を保有することが出来、その公債に対する利子を安定的に受け取ることが可能になっている。

有史以前から神々は神殿を持っていた。時代が経過するに連れ、最終的に多くの神々が存在するという概念は打ち棄てられた。たった一つの髪という概念が生み出されたのは、ヘブライと呼ばれる人々の手によって作られた聖書においてである。この「唯一神」には、それまでとは異質な特筆すべき神概念が取り入れられている。この神が独特なのは、神殿は不要であると言った点である。しかしながら、度重なる要望に応えて、この異質な神は、不本意ながらも、神話の人物ソロモンに神殿を建てることを許可した。「唯一神」という概念は、人間の思考に対して一種の魔術的な力を持っており、止血帯のように、考えることを停止させる働きをする。それは特に、日常的な風景の中にミルコム神殿のモロク神を隠す効果を齎(もたら)している。

神話のソロモンは、彼の「唯一神」の為に神殿を建てるだけでなく、他の神々の神殿をも建築した。その他の神々の神殿の一つが、特別にミルコム(モロク神とも言われる)の為に建築された。それまでの全ての神殿と同様に、この神殿は、人々に犠牲や供物(くもつ)、「十分の一税」を納める義務を課した。これらは、神の住居と神に使える聖職者を維持する為に要求されたものである。

時代が経過するに連れて、自然と調和しながら繁栄することが社会の目的であるという感覚よりも、横道に逸(そ)れて神殿を維持する為の義務のほうが優先されるようになったことが分かる。人間社会の第一の義務は母なる自然の世話人であるが、いつしか優先順位が逆転してしまったのだ。今や人間社会の究極の義務は、モロク神への「十分の一税」としてミルコム神殿(中央銀行)に公債の利子を払うことによって達成されると思わされている。


■自立思考を封じた「二重思考(マネー)」の第一人者「カルト273(モロク神のエージェント)」

聖書の列王記上11章5節に、ミルコム神殿はソロモン王 Solomon(1011BCE?-931BCE?)によって建造されたと言及されているが、この記述は公開暗号になっている。この暗号は、人類社会に経済霊と現代的なマネーが導入されたことを語っている。ここでは、ミルコム神殿の神は、「モロク神」もしくは「モレク神」として理解されている。経済霊とマネーを伴ってやって来た神は、即座に自身のカルトを誕生させ、養成した。このカルトは、新たに発見された十進法の威力を逸早(いちはや)く理解した人間であったに違いない。彼らは、紀元前450年から紀元前150年の時代に、マネーの算術に卓越し、更にそれを精緻化(せいちか)していった。経済的芸術(エコノミック・アート)とも言える信用=貸付金=負債=マネーという「マネーの二重思考」の第一人者は、本書では「カルト273」と称している。モロク神の手下(エージェント)であり、モロク神によって操られた「カルト273」は、「地球全土を征服し、人々が自立した思考を一切出来ないようにし、その後も永久に人々が自立した思考をする可能性自体を消し去ることを目的」(Orwell,George,1984,Penguin Books,Middlesex,England,1949,P.169)としている。

自立した思考は、ミルコム神殿の暗号を解読する力を持つものであり、並行して存在しているモロク神の領土を隠すヴェールを取り払う力を持つ。中央銀行として知られる組織の中に棲みついた奇妙なミルコム神殿は、生命を育む地球そのものを破壊するに十分な力を持っており、そのミルコム神殿の二重思考に気付く能力は大きな意味を持つ。

キリスト自身が体験したと伝えられていることも、モロク神の存在を証明している。新約聖書によると、キリストは、悪魔サタン Satan に服従しさえすれば、世界中の全王国を与えてやると誘惑された。「そこでイエスは悪魔に言った。サタンよ、お前を懲(こ)らしめてやる。ここに書いてある通り、お前の主である神を崇拝せよ。お前が仕えるべき神は他に無いのだ」(新約聖書 マタイ伝 4章8節~11節)。サタンの主なる神とは、「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率」の中央銀行の支配を通じて全王国に力を及ぼすモロクである可能性が高い。言うまでもなく、キリストなる人物によって崇拝された神とは同一ではない。

モロク神の為に神話のソロモンが建築したミルコム神殿は、喩(たと)え話として特別な重要性を帯びてくる。考古学によれば、神話のソロモンが建築したという神殿と思(おぼ)しき建築物が実際に存在した証拠を発見するのは困難との結論に達しており、喩え話であることは明らかである。また、本書では、聖書のダビデ David(1040BCE?-961BCE?)もソロモンも実在した人物ではないという前提にしておきたい。ミルコム神殿は、「経済霊の知的複合体のことを示す仮想的な場所」と考えられる。聖書に記録されている神殿のうち、実在するのは、いわゆるエルサレム第二神殿だけである。ユダヤ・キリスト教の神話にとって中核的存在である第一神殿も、本書では存在しなかったものと考えるが、喩え話として聖書を理解する為には非常に重要な存在である。聖書の記述は、かつては理解されていたが、その後、ユダヤ・キリスト教の神話によって意味不明になってしまった。新種の思考形態に沿って語り掛けている暗喩(あんゆ)的記述と本書では考える。この新たな思考能力は、聖書の第二神殿の時代に人類の頭に入り込んできたようである。実在した不動産としては、第二神殿が第一神殿であると考えたほうが、あらゆる実用的な意味では賢明である。この新しい思考形態とは、聖書の記述では市場のマネーとして言及されているものである。


■エルサレム「第二神殿(エズラ建築)」こそ、モロク神の「仮想神殿(マネー・テンプル)」の「公開暗号」

現在エルサレムと思われている地域に、古代から実際に存在した建築物であって、聖書上の人物が建設したものではない神殿は、恐らく算定された第二神殿の時代に先立つこと数百年、または数千年前のものであろう〔※関連資料(1聖書アラビア起源説1~32・2)〕。有史以前の多くの神々、神殿は、伝説の「メルキゼデク Melchizedek」も含めて、エルサレム地域の商業・貿易の交通の十字路にあった。聖書で高名なエズラ Ezra(生没年不詳)が建築した聖書の第二神殿は、「新たに基礎から」(旧約聖書 エズラ書 3章10節~12節)建築された為、実際は第一神殿と考えられる。

マネーが発明された時期と、エズラによって神殿が建設された時期が一致することや、ソロモンによって建設されたミルコム神殿についての謎めいた聖書の言及は、単なる一つの偶然の出来事ではないことを仄(ほの)めかしている。モロク神と経済霊の話を、「公開暗号」として伝えているが、喩え話として聖書の文章が存在している可能性は十分にある。聖書の記述は、経済霊が人類を支配する目的で如何(いか)にモロク神の「仮想神殿(バーチャル・テンプル)」を造ったかを隠匿(いんとく)するヴェールになっている。第二神殿という偽りの表示で誤魔化しつつも、実際には初めて出現した新神殿のことは、預言書で示されているようである。

聖書は「荒廃によって醜態が到来することを告げる神殿」(Brandon,S.G.F.,A Dictionary of Comparative Religion,Charles Scribner's Sons,New York,1970,P.21)について、人類に警告を語り掛けている。そして、その後に、聖書は、生物圏の荒廃が発生すると預言する。これは、現代の大商人である企業が単純にマネーだけで全て物事を割り切り、商業上の意思決定を正当化した結果である。中央銀行の「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率」という政策は、モロク神の「心霊的な領土」となっている。荒廃を推し進める力は、嫌悪すべき利子率の結果として齎(もたら)される。古代よりずっと、利率は高利貸しの起源であると理解され、多くの人々によって非難されてきた。


■恵み深い「神王マリク」の「意味反転」モロクは「容赦しない、許さない」

「モロク」の名は、聖書では、時には「モレク」、「マラーム」とも呼ばれるが、人口に膾炙(かいしゃ)された結果、超古代の「マリク神 Malik」が人為的に変容されたものと考えられている。マリクは、依然として発掘されていない最古の文明の神王であった。この原初の、恐らく最初の文明は、現在のシリア Syria の都市「エブラ Ebla」に首都があった。エブラの歴史は、聖書の原初の父祖達の神話的時代よりも数百年先立っている。エブラの言語は、ウガリット語よりも古く、当該地域で現在確認されている中で最古のセム系言語である。「エブラ文明」の起源を記した物語によると、「神王マリク」は天空から舞い降りてきて、自身の為の第一神殿を地球人と共に建築したという(Gordon,Cyrus H.,Rendsburg,Gary,and Winter,Nathan H.,ed.Essay on Eblaitica,Vol.1,Eisenbrauns,Winona Lake,Indiana,1987,P.129-135)。マリクという名前は、元々は天地の創造者を意味する言葉として翻訳された。

この壮大な名称は、伝説にある天空から来た神々から恵贈された種子によって、農業が可能となったことによるものかも知れない。マリクは天空から舞い降りて、彼の神殿を建築するのを手伝ってもらう為に、人々を組織化したと伝えられている。マリクの主な関心は、貿易と商業にあり、拡大した領地を上手く統治した。金と銀の交換比率が定着したのはこの頃であり、金と銀の比率は1対5に規制された。「マリク」はエブラで最も人気の高い神であり、楽しみを齎(もたら)す神として認められ、「父なる創造主」として尊敬された。

エブラの社会体制は、我々がイメージするような帝国の強権的体制ではなく、エリアが現在のイラクとトルコの大半に跨(またが)る穏健な商業的体制であった。誰を王に任命するかは、人々の暮らしがどれだけ豊かになったかに基づいて、人々が判断して決めていた(Pettinato,Giovanni,The Archives of Ebla,Doubleday&Co.Inc.,Garden City,NY,1981,P.6)。

「神王マリク」は人類に模範を示した。商業と宗教の勢力範囲は明確に分離された。商業の記録を行う書記官の役割は、聖職者とは切り離されていた。主に商業関係のことを処理するのは、聖職者ではなかった。王が保管した書記官の記録には、膨大な借方(かりかた)、貸方(かしかた)の情報が貯えられ、広範なエリア内の商品の産地、効用、社会に役立つかどうかを知ることが出来た(前掲書 P.245)。

元々の言葉では「マリク」の名は自然の創造者を意味していたが、それに反して「マリク Malik」から変形した「モロク Moloch」の名は、聖書の記述や文脈からは、何か自然に敵対するものに変身している。本来の「マリク」の名を、元々の意味するものと全く反対のことを意味するものに変容させてしまうのは、ユダヤ・キリスト教の歴史では珍しいことではない。キリスト教の歴史では有名なユダヤ人であるサウル Saul はそのような「意味反転」の一例である。一時は出世コースに乗っていたユダヤの高官であったサウルは、サンへドリン Sanhedrin(最高法院)〔※関連資料(1)〕に認めてもらい、エルサレムのヘブライ神殿の高官への昇進を得ようと必死になっていた。

キリスト教徒から徴税する仕事をしているうちに、サウルは罪の意識に悩むようになったと、キリスト教は伝えている。深い自責の念に襲われたサウルは、将来の展望を抱いてキリスト教に改宗し、かの有名なキリスト教徒パウロ Paul(5?-67?、カトリック教会のドグマの基盤を作った中心人物)となり、ヘブライ神殿からは忌み嫌われる存在になったのである。

「マリク Malik」から「モロク Moloch」への変形には数百年を要している。正式に神の名としてモロクが出現するのは第二神殿の時期として定説になっている紀元前539年の約1500年前である。恵み深い支配者であったマリクとは異なり、モロクは「容赦しない、許さない」(Lurker,P.1344)神として歴史に登場する。この性格は、経済霊の(高利貸し)マネー・システムを運営するという意味では、最も相応しい性質である。実際、「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率」の中央銀行組織を運営する上で、容赦・許容する能力の欠如は必須のようだ。中央銀行の機能の核心は、負債を創造して市場流通させるところにある。利子率とその裏返しである割引率によって、負債は売買可能な商品に変えることが出来る。負債を減免したり帳消しにする(赦す)という概念があっては、そのような市場は成立しない。

赦(ゆる)すことが出来ないというモロクの性格は、犠牲者達に与える危害の大きさに比例して、犠牲者達を憎むことが出来る能力があることを意味している。慈悲深い心はモロクには無縁である。モロクの中央銀行カルトは、その寛容心の欠如という特長によって、人類とは異質な存在であることが分かる。モロクのカルトの束縛から無償の救済がなされることは、全くあり得ない。更に、苦しめ傷付けた者に対し、決して赦したり、怯(ひる)んだりしてはならないと書いてある(Blavatsky,Madame,Isis Unveiled,Theosophical Society,NY,NY,1898,P.330)。モロク神の中央銀行パワーに掛かっては、如何なる妥協の余地もあり得ないのだ。

マリクからモロクへの行程には、幾つか脱線があった。オカルト研究者は、サタンの名の下にイスラエル人によって採用された恐怖の「バアル神 Baal」も、モロクとして知られていたと指摘している(前掲書 P.568)。この発想の展開は、「セス Seth」の名の下に、エジプトに起源があるようであり、セスは小アジアでは「セス・バアル Seth-Baal」として知られた太古の神である。この神は、「メレシュ・シェシュ Melech-She'asah」または「モロク・セス Moloch-Seth」としても知られており、赤いロバのシンボルで表されることが多い。完全無欠な動物は、神聖なものの現れと考えられた。徹底的に正統派を貫いているユダヤ人によると、傷の無い赤い子牛の誕生は、聖書の救世主が出現する印であるという。


■「お前の種子(マネー)を火に通してモレク神(火焔の呪詛)に捧げてはならない」

聖書を典拠とする宗教にモロクが登場する謎は、レビ記18章21節の暗号めいた記述から始まる。そこでは、種子を火に通すことについて警告している。この一節は、穀物の種子と同時に、人間の子孫のことも意味しており、共に繁殖に関連している。そして、マネーは種子のように地球時間の経過と共に成長していくことが期待されている。この一節が経済霊とマネーに関係していると言えるのは、当時は交換手段として種子が使用されていた事実があるからである。「お前の種子を火に通しモレク(またはモロク)神に捧げてはならない。お前の神の名を汚してはならない。私は主である」(旧約聖書 レビ記 18章21節)とその一節は告げている。

この禁止事項は、衛生に関する章の途中で唐突に出現することから、特別に奇妙である。これが喩(たと)え話である証拠として、種子を熱に晒すことは農業の基本に反していることは広く認知されていることも挙げられる。この一節を解釈する為には、物質的な行為としてよりも、心理的または私的な観点が必要であるようだ。もしも現実に子供を焼却するような慣習を持つ文化があれば、生き残ることは不可能である。

この禁止の意図は、(モロク神に擦り寄るような)精神的・心理的な状態になる、または、その為の私的な行動を取ることに対する警告であると、本書では捉えておく。経済霊の観点からは、「種子」とは「マネー」のことを言っている。この一節は、「種子(つまりマネー)」をモロクの勢力の支配下に置くような行為をしてはならないと禁止しているようである。モロクの勢力とは、総合的に、「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率、割引率と商品化された負債」のことである。種子と、マネー概念の結び付きは、「元手(マネーの種)」という投資用語として残っている。

創造主の神は、この一節で邪悪な霊のことを語っているようである。この邪悪な霊は、創造物を脅かす強(したた)かな力を持っている。モロク神の邪悪な力は、「火焔の呪詛(かえんのじゅそ)」のように人間の心を掌握する力を携(たずさ)えて、人類に近付いて来たのである。子供を火に通してはいけないという禁止は、マネーの計算に情熱を燃やし、利子稼ぎのエンジン(強欲)を支えることによって、人間の心が如何に消耗するのかを説く象徴表現である。マネーに取り憑(つ)かれた精神状態になれば、創造主である神と疎遠になり、その契約を締結した神に反逆したモロク神に代わりに近付くことになる。

「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率」というマネー概念への信仰の父であるモロク神にとっては、永続する負債(デット)が究極のパワーの供給源である。モロク神にとって最高の成果は、夫妻が世襲によって代々引き継がれる状態であり、もし可能であれば、政府の負債として永久に更新されていく状態にしたいのである。世襲制で負債が相続されていたローマ時代では、貸付金(ローン)と負債のマネーの「火焔の呪詛」に取り憑かれた親の子供は、死亡した親の債権を所有する者の財産になる運命であった。次の世代の個人の自由は、マネー計算のモロクの支配する「火焔の呪詛」によって犠牲となった。

火とモロクの謎めいた話は、宗教上の禁止を語っていると共に、預言にもなっているようである。利率など様々な投資計算の形態を通じたマネーの算術計算から生じる、神秘的とも言える知能への執着は、我々人間の中でも最も才能ある者達の思考を突然に襲ったようである。才能の劣った多くの人間は、マネーについて何とか理解し、洞察して利益を得ようとして無駄な思考を巡らせる。その結果何が起きるかと言えば、マネー計算の「火焔の呪詛」によって、自然のバランスを歪める方向に社会全体は活性化されるのだ。禁止を説いた聖書の記述は、人類にとって危険な、或る大きな力のことに気付いていたに違いない。

殆んど全ての宗教には「聖なる火」という類似の概念があり、モロク神によって吹き込まれた「火焔の呪詛」という発想は、特別なものではない。一般的に、「聖なる火」の概念は、浄化のことを指すか、もしくは、精神的な輝きに繋(つな)がっている。また、「聖なる火」は、ホロコースト Holocaust(大虐殺)〔※一部関連資料(1アンネの日記捏造疑惑・2自由の名の下の民族浄化1~4他・3「愛国者」の二つの意味他・4マイナンバー制度の外注他・5メモ。―ヘーゲルの弁証法(正・反・合)において阪神大震災・村山と東日本大震災・菅が意味すること・6聖火―ナチス―ゾロアスター教)〕のような破壊に結び付くこともある。心霊的な観点からは、火は神聖な力を宿しており、宗教的な目覚めを齎(もたら)すものである。知能的なレベルで言えば、詩的な意味での火は、モロク神と経済霊の存在の証しである消費への熱情を表現していると理解可能である。

 

金融システムの闇の超起源 その7

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年11月 1日(土)02時12分3秒
返信・引用 編集済
  http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11892141475.html

≪R.D. Willing 著『マネー/金融システムの闇の超起源』より抜粋(7)≫
2014-07-10 22:30:07
テーマ:R・デュアン・ウィリング
(6頁からの続き)

■殺戮・強姦の残虐を指示するも「慈悲深き」神信心がモロク神を手助け

第2次世界大戦の残虐行為に現れた暴虐性は、聖書の歴史という文脈の中で見れば、それほど珍しいことではない。読者の中にも、慣習として道徳的とされる行為と、人々が望んでいることや罪の無い者に対して聖書の神が無関心であることとの矛盾に、信じがたいものを感じる人がいるだろう。この無関心が人々に伝わり、聖書の神は一体何者なのかという懐疑論の根拠となり、聖書信仰者への批判となる。アメリカの作家マーク・トウェイン Mark Twain(1835-1910)〔※関連資料(1「しかし、神が誰かにメッセージを託したとか姿を現したとかいうのは嘘であり、旧約にしても新約にしても『聖書』は人間が作り出した(嘘の)作品である」)〕は、残虐な処罰を求める聖書の祈りと、特に「殺してはならない」(旧約聖書 申命記 5章17節)と聖書が言っていながら、多くの罪の無い人々が犠牲になっていることに矛盾を感じ、煩悶(はんもん)した一人であった。

トウェインは、聖書を読解していく中で、神が自らの民に対して「私が相続物として与えた都市を奪う」ことを命令しているのを発見する。「そして、剣の刃で全ての男を殴りつけろ。それから、全ての男の子供を殺し、男と寝て男を知っている女も全部殺すことも必要だ」(旧約聖書 民数記 31章17節)。この聖書の一節は、神が強姦乱交と大量殺戮(さつりく)を命令しているとしか理解しようが無い。

神は冷淡に怒りをぶつける存在なのかも知れないことを知ったトウェインは、何か不作法なことを仕出かせば神を怒らせ、士師記7章16節でミディアン人に起きたような破滅が国全体に降り掛かってくるのではないかと心配した。城壁を汚した都市は全員殺戮しなければ神を満足させることが出来なかった。木に小便を掛けても、母親に小便しても、ズボンに小便を漏らしても罪にならないが、城壁に小便することは許されない。城壁に小便をした者が男性器を切り取られるだけでなく、一族と友人も含めて全て根絶やしにされた(Twain,Mark,Letters from the Earth,Fawcett Crest Publications,Greenwich,Conn.,1968,P.40-4)。

トウェインは、男が女と寝ながら女を殺した可能性について、如才無く沈黙しつつも、聖書の記述に従って正確に伝えている。常軌を逸した神の命令であっても、信奉者の信仰心は揺らぐことは無いようだ。

トウェインは、民数記31章18節で聖書の神によって幼児嗜好的な虐待が命令されたことを意図的に無視している。この一節で神は「しかし、全ての女子供は、つまり男と寝ておらず男を知らない女子と乳幼児は、お前達用に生かしておけ」と言っている(旧約聖書 民数記 31章18節)。もう一つの恐怖のエピソードでは、「さあ行け、殴り殺せ、奴らの所有するもの全てを破壊しろ。容赦せず、男も女も、幼児も乳児も、牛も羊も、ラクダもロバも殴り殺せ」(サムエル前書 15章3節)という指示が神からなされている。ラクダが出てくるということは、この指示がなされた時期は有史前の神話ではなく、紀元前600年以降の古代のいつかに再配置しなければならないことになる。この暴虐の数々から顔を背(そむ)けつつ、尚、聖書の神を慈悲深いものであると解釈する為の独特の専門知識があるのだと、聖書の宗教は言っている。本書では、こうした暴力と殺戮行為は、モロク神と経済霊の系列にある逆神が存在する証拠であると考える。こうした戦慄すべき指示を出す神であっても、聖書の信者と言われる人々は何も言わないのであるから、モロク神と経済霊が聖書の宗教を隠れ蓑(かくれみの)として利用することを、大いに手助けしたに違いない。


■マネーの「二重思考」を示すテンプル騎士団崇拝のバフォメット(ビヒモス)

更に、救世主とイスラエル神殿に関する話で、ユダヤ教とキリスト教の間に馬鹿馬鹿しい矛盾があることに、我々は驚いてはならないだろう。ユダヤ人が待ち望んでいた救世主は、非ユダヤ人の神殿を粛清(しゅくせい)する役割を期待されており、それによってユダヤ人の宗教と商売にとって安全な世界を実現することになっている。一方でキリスト教の救世主は、キリスト教徒と共に神殿を占拠し、ひいてはユダヤ人をキリスト教に改宗させることで一掃する使命を持ってやって来ることになっている。聖書の信奉者にこの聖書の矛盾を解決する気が無いことは、経済霊のようにこれらの宗教から利益を得ている何か別の勢力が恐らく存在する証拠であることを仄(ほの)めかしている。聖書は、人々が「別の神々に向かう」(旧約聖書 申命記 31章18節)時が来るであろうと予測し、この矛盾によってモロクが繁栄する可能性に言及している。

神殿や暴虐行為のことなど言語道断な矛盾があることに加え、様々な聖書の文章はそれぞれの時代の影響によって解釈が変わってくる。例えば、「紅海を渡る人々」という有名な物語は、現代的(合理的)解釈では人々は「葦の海」(スエズ運河の紅海ではなく、葦の生えた湿地帯)を進んで行った教えられている〔※関連資料(1出エジプトの謎を解く・2暴風による可能性・3・4溺死したパロの軍隊)〕。神話上の動物ビヒモス Behemoth(アラビア語読み:バハムート Bahamūt)の棲処(すみか)とされる植物の葦(あし)は、聖書の物語では秘儀的な重要性を与えられている。この野獣は、より大きなオカルト的意味では、悪魔、もしくは、黙示録に記された終末の野獣を象徴していると考える人もいる。更なる秘儀の進化に伴って、ビヒモスは、テンプル騎士団が崇拝した偶像バフォメット Baphomet になった〔※関連資料(1「バフォメットの名前が最初に現れたのは14世紀初頭と言われる。バフォメットの語源がイスラム教教祖マホメット(ムハンマド)である可能性は高い」・2「モンタギュー・サマーズの説では「バフォメット」はギリシア語の〈baphe〉と〈metis〉という語に由来し“知識の吸収”という意味であるという」・3・4)〕。ここでも、裏側にもう一つの顔を持つバフォメットの偶像は、マネーのルールを会得する上で重要な意味を持つ(経済霊とモロク神の)「二重思考」を示している(Marillac,Alain,Le Baphomet Idéal Templier,Louise Courteau Éditrice Inc.,Montréal,1988,P.139-1)。

出エジプトの事件に関する意見は依然として分かれている。36年間(一般には40年間と伝えられている)の砂漠放浪期間に、選ばれた民がどのルートを通ったのか論争がある。こう秘儀的な意味で変化してきたことや、聖書について多くの参照文献に歴史的正確さが欠如していることから、聖書の記述は、すぐれて喩(たと)え話或いは暗号であることが窺(うかが)える。


■パスカルも認めた「暗号としての聖書」は、言葉の象形文字

前出のブレーズ・パスカルは、聖書の文章には比喩と象徴があることに気付いた。パスカルは、聖書で神がなした行為と、慣習的に正義と愛の神として考えられているものの間の矛盾を、暗号の証拠であると見なした。パスカルの分析によると、聖書は暗号で記述されているだけでなく、「一つの暗号には二つの意味がある。預言者は、その意味は理解されること無くヴェールに包まれていると明言している。隠されている(オカルト)為に、我々は理解することなく読むことになる。文字通りの記述に明らかな矛盾を見つけたならば、それは二重の意味を持つ暗号であると思わなければいけない」ことを認識することが重要である。聖書は、辻褄(つじつま)が合っていると同時に合っていない。全てを物語っていながらも、何も語っていない。必要なものは全て文字として記述されているが、同時に、文字通りの文章は意味不明である。聖書は、時の経過と共に意味が明らかになっていくという意味で、トーテム(精霊のシンボル)である(Pascal,Blaise,Pensées;Thoughts on Religion,Washington Square Press,NY,NY.1965,P.202)。

聖書は我々が知っているような暦(こよみ)に従って、時系列に出来事を記述したものではないことは確かである。聖書の宗教が、信じる者に対して、比喩や寓話を使い、何かを伝える暗号文のようなものとして、歴史の中を進んでいることは明らかである。聖書の最初の5章分は暗号で記述されており、普通の言語として翻訳することは不可能であるとカバラ(悪魔学)で言っているのは、そのことを知っているからである〔※関連資料(1正カバラ・2逆カバラ・3悪魔とカバラの関係・4ユダヤ教徒の「カバラ」と「メシア運動」の歴史・5イスラエル建国の謎)〕。この暗号は、宇宙を浮遊する精霊である。暗号テキストは、実は我々自身の中に投影されるように意図されたものであり、その為に啓示として機能する。「暗号としての聖書は書き記されたシンボルである。特に説教の中で大きな声で読まれた時に威力を発揮する、言わば言葉の象形文字であり、その中に暗号化された意味が隠されている」(Suares,Carlo,The Cipher of Genesis,Shambala Publications,Boulder and London,1978,P.53)。このような啓示が起きるはずなのに、聖書の教えは反対に、人類と自然との間に介入する「新たな力」が出現したことを隠そうとしているようだ。この商売と市場の中に現れた「新たな力」は、地球規模の市場力を持つ大商人を動かす経済霊として簡単に見出すことが出来る。「この算術で表現される力がマネーとなって現れる時、無限の価値を得て、人類に終末を齎(もたら)すのに十分な規模の甚大な害悪を及ぼす力を持つことになる」(前掲書 P.63)。

経済霊のマネー的側面は、聖書に登場する多くのヒーローや預言者達の寓話を通じて窺い知ることが出来る。これらヒーローや預言者達のお蔭で、地球の歴史を通して、経済霊の暗号が公開テキストとして確実に伝達される。暗号が解読されないままのほうがモロク神の利益になるようだ。聖書の来るべき千年王国 Chiliasmus(英語:Millennium)の間に、ヴェールを剥(は)ぎ取り、鎖でつないでおかなければならない。そうしなければモロクのカルトは、有害なマネー計算の影響を及ぼし地球に荒廃を齎(もたら)す。モロクのカルトは、こんな最後の醜態を見せるのに十分な力を発揮するだろう。マネーの副作用である自然汚染によって地球の時代が終わるという予測は、様々な分野で明白になっている〔※関連資料(1Norman Cohn著『千年王国の追求』・2・3世界の終わりの話目次・4・5・6「日本人は、世界の動きが見えなくても生き延びる民族、とベラスコは言い放っている。~だがその反面で、「国際化」と称して外国勢力の片棒を無原則に担ぐ日本人には要注意と警告する」)〕。


■カトリックのドグマを大掛かりに変更した「宇宙からの存在」

経済霊とモロク神が到来した話を隠匿(いんとく)する比喩や寓話、暗号に加え、聖書を信じる者にとっては、まだ他にも矛盾がある。逆神モロクが金融カルトとして人類の中に存在するという可能性だけでなく、それとは別に、時折地球に出現する「宇宙からの存在」があることを示す証拠がある。(中略)無理からぬことであるが、多くの人にとって宇宙船の存在は余りにも進行と矛盾したものであり、必然的に宗教の教義やドグマ(教条)を拒絶せざるを得ないものだった。そのような宗教拒絶は、前もって想定されていなかった。宗教の教義や組織は、何百年もの間、変化を吸収する包容力を見せつけてきた。宇宙船の旅人達によって突きつけられた変化への「対応力」は、ローマ教会によって既に示されている。ヨハネ23世 Ioannes XXIII(Angelo Giuseppe Roncalli 1881-1963、教皇在位:1958~1963)はいつもらしくなく緊急対応をし、1960年から1963年の第二バチカン公会議 Concilium Vaticanum Secundum(1962~1965)を召集した。

この会議の結果、長きに亘(わた)って堅持されてきた幾つかのカトリックの真実は覆された。第二バチカン公会議の結果、救済はカトリック教会だけの特別な領域ではないという決定がなされた。異端者の定義を変更したこの決定の衝撃は、未だに多くの研究者達をはぐらかしている。

第二バチカン公会議を急遽開催し、永年堅持してきたカトリック教会のドグマを大掛かりに変更した背景には、「宇宙からの存在」と遭遇したという人々の根拠のある報告と直接に関係しているようだ〔※関連資料(1・2)〕。オルフェオ・アンジェルッチ Orfeo Matthew Angelucci(Orville Angelucci、1912-1993、訳注.1950年代に地球外生命体とコンタクトした人々の中でもとりわけ稀有な経験をした。1948年に、健康上の理由で、ニュージャージー州からカリフォルニアに移転し、ロッキードの飛行機工場に勤務する。著書『円盤の秘密 The Secret of the Saucers:How UFOs Work』(Forgotten Books 2008年刊行)によると、1952年夏より、自動車で通勤中に、空飛ぶ円盤と、その操縦士――人間の形をした友好的な宇宙人――に遭遇するようになる。無人の円盤に乗せられて、地球の軌道に連行され、巨大な母船が通り過ぎるのを丸窓から見るといった不思議な経験をする)のような献身的なカトリック信者が、数々の地球外生命体の来訪と誘拐について伝えた。(中略)

アンジェルッチや、彼に続いてUFOに誘拐された人々の報告によれば、「宇宙からの存在」は、人間の経済活動の影響によって生物圏がダメージを受けることを心配しており、その経済活動は悪魔によって動かされていると考えている。生物圏への配慮が道徳の尺度であるならば、経済霊のカルトとモロク神が悪魔を手助けする勢力であることは明らかである。宇宙人達は、人類に対し、自然環境を守るように、警告し、要請し、哀願している。

この為には明らかに、モロク神の経済霊の力を退けることが求められる。元々国家が権威を与えたマネーなのに、その主権国家が中央銀行(FRBなど)から利子付きでマネーを借りなければならないという奇妙なカルトじみた思い込みを捨て去ることが急務である。中央銀行を設立許可した当の国家が、政策を実現する為に、その同じ中央銀行にどういうわけか依存している。この許せざる矛盾を思うと、激しく不快な気持ちにある。中央銀行カルトお得意のドグマである(国家が背負わされる)永続的な責務、不当な利子稼ぎのマネー、株式取引による詐欺に縛られることを、もういい加減に容認するのは止(や)めにすべきだ。そして、地球のお世話に邁進する「新しいカルト」を構築し、支持しなければならない。

 

金融システムの闇の超起源 その6

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年11月 1日(土)02時06分26秒
返信・引用 編集済
  http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11891085563.html

≪R.D. Willing 著『マネー/金融システムの闇の超起源』より抜粋(6)≫
2014-07-08 22:12:34
テーマ:R・デュアン・ウィリング
(5頁からの続き)

〔Richard Duane Willing 著, 為清勝彦 訳『マネー/金融システムの闇の超起源―地球を滅ぼす人類最後の宗教』 第5章 矛盾とカルト より抜粋、要約 P.112-P.143〕

■「よそ者であれば」毒物であろうとも与えて構わない、と申命記(「神聖な指示」)の神(モロク)

通常あまり意識しないかも知れないが、商業(コマース)というものは、色々な意味で宗教に深く関わり依存しているものなのだ。取引は、「嘘をつかない」という最低限の道徳的規範を守らなければ成立し得ないわけで、この道徳を根底から支える宗教は非常に重要なのである。宗教心に篤(あつ)い信者達は、(当り前と言えば当り前だが)嘘をついてはいけないと教えられ、祈りや願い事を通じて神に近づく正しい方法を宗教から教えられる。誠実に祈り願い事をすれば、その者の潜在的能力がどんどん引き出され、望ましい選択に辿り着くことが出来るとされる。神は、信徒のより良き生活に必要不可欠な規則や規範が身に着くように宗教を通じて語り掛ける。熱心な信徒の集団は、草創期には(秘密結社的なニュアンスで)「カルト Cult」と呼ばれることが多い。

新たな神を擁する新興カルトは、しばしば既成宗教の考え方と鋭く対立する。とかく新興カルトは、正邪を峻烈(しゅんれつ)に識別し善悪を厳しく弁別しがちで、彼らを導く新たな知恵(教え)を、神から自分達が特別に授かったと言い張るものである。神が与えた戒律なるものは、人間が正しく生きられるように、あれこれ間違った行動の戒めを懇切丁寧(こんせつていねい)にも具体的に纏(まと)めたものである。伝統宗教のユダヤ教、キリスト教、イスラム教と同様に、多くのカルトにとっても、十戒(訳注.モーセがエジプト脱出の後に、シナイ山にてイスラエルの神から与えられたとされる十の戒律のこと)〔※関連資料(1ZEITGEIST・2ZEITGEIST「“モーゼの十戒”については完全にエジプトの死の本の呪文125の盗用だ」・3・4聖書アラビア起源説1~32・5『日の下に現われ出る為の書』・6666・7ニムロド、セミラミス偽りの三位一体・8・9善悪二元論と陰陽二元論・10)〕は、基本的な規律として認識され採用されている。この個人の日常生活における道徳的な指導は、商業の世界においても守られるべき正しい商行為の規範(ルール)となっている。

ところが、申命記14章21節を読むと、今述べたような「正しい行為」と矛盾していることがよく分かる。聖書の神は、誰もが持っている誠実の概念を、突き崩そうとしているかの様である。この神は、良き人間関係を築く上で必要不可欠な信頼に基づく営為を露骨に荒々しく拒絶している。聖書の主なる神は、彼のカルト(ユダヤ教、キリスト教、イスラム教)に「特別な(とんでもない)指示」を与える。これは「神聖な指示」とされているが、一般的に理解されている道徳的・社会的な行動に余りにも反しており、「神聖な意志」からなされたと言うよりは、経済霊と逆神モロクによるものであるとしたほうが、遥かに納得出来るものだ。

申命記の神は、彼のカルトに、「よそ者であれば」毒物であろうとも与えて構わない(毒餃子事件が想起される)と具体的な指示をしている。そして聖書は、そのように神が人々を「指導」したと伝えている。「お前達は、主なる神へと繋(つな)がる人間なのだから、死んだものを食べてはいけない。町にやって来たよそ者に与えれば食べるだろう。もしくは、外国人に売ってもよい」(旧約聖書 申命記 14章21節)と神は言った。そのような穢(けが)れた食べ物を不正に売買する「神聖な指示」が、慈悲深く、万人に普(あまね)く恵みを与える神意から出てくるとは到底考えられない。

この申命記の主なる神の形跡を、遺伝子操作した種子と食品(自然主義者は「汚染物」と言っている)〔※関連資料(1重要・2・3・4・5・6ヨハネの黙示録の四騎士・7・8・9・10・11ハラル市場参入と日本企業の可能性)〕を製造して天然の生命を人為的に支配しようとする現代企業の活動に発見出来るが、経済霊と逆神モロクのことを考えれば何の不思議も無い。


■神と共謀、エジプト人から「全ての金銀」を騙取(へんしゅ)したモーセ

更に聖書を読み進んでいけば、もっと矛盾したことに遭遇する。ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒の基盤となっている聖書のカルトは、エジプト脱出の物語(出エジプト記)に起源がある。選ばれた民は、シナイの砂漠を36年間放浪した(40年と主張しているが、モーセが84歳の時に脱出を始め、120歳で死去したのであれば36年になる。旧約聖書 申命記 34章7節)。彼らの衣服や靴の耐久性は抜群だったのだ。この信じ難い出来事は、彼らの神の指揮による、とんでもない詐欺と窃盗行為の末に起きている。その集団を率いたモーセは、聖書の長々しい神話的人名録中ヒーローの一人であるが、聖書の記述によると、神と共謀して詐欺を計画し、周到な手順でエジプト人から「全ての金と銀」を騙(だま)し取った。

この話から想像すると、恐らくモーセを操った神(反神モロク)は、新たなカルトを組織するに当って、尋常ならざる巨額資金を必要としていたのではなかろうか。この神は、カルトに所属する女は、返す気が全然無くてもよいから、隣人であるエジプト人から「全ての宝石、金、銀」を借りるようにと指導している。エジプトにいた人々で、カルトの一員でないものは全て、騙し取られる標的となった。こうして騙し取った大量の財産は子供達の身に着けさせた。略奪品を抱えて逃走を続ける間に、借りた金銀を盗んだことを隠す目的だったのは明らかである。この大胆不敵な詐欺は、一時は高位の役人をしていたモーセに関して聖書が記録していることであり、「エジプト人から略奪せよ」(旧約聖書 出エジプト記 3章22節)という計画的な目的を持つ神の命令によって行われた。エジプト人を確実に破滅させるという目的を除き、盗んだ金の最終的な行き先について、物語の内容は如何にも矛盾しており、不明瞭である(訳注.映画『十戒』などでは、エジプト王が如何にユダヤ人を奴隷にし、理不尽に扱ってきたかを執拗に描いているが、とんだ食わせ者だったらしい。聖書自身が自白しているように、反神モロクの指導よろしきを得て大胆不敵にエジプト人を破滅すべく詐欺略奪を働いた)。

聖書の記述から明らかなのは、詐欺と騙しによる窃盗は、モーセへの指図に示された、カルトの神の具体的な意志によるものであったことである。そこには、人間の最たる責務である、地球の世話人としての責務のことを考えたり、尊重したりする姿勢は一切無い。人類に入り込んできた新しい神の力は、略奪の標的となったファラオの思考さえも動揺させた。

テレパシーを使った心理操作の力によって、エジプト人は策略の犠牲者として協力させられてしまった。「そして神は、エジプト人に同情を起させるようにした。その為、エジプト人は求められるままに物を貸した。そうしてエジプト人から奪い取った」(旧約聖書 出エジプト記 12章36節)と聖書にある通りである。エジプト人が人間として幸福に生きることについて、完全なる無関心状態である。この「新しい神」には、新たに組織したカルトが貧乏であってはならないという、露骨(あからさま)な願望があったことが明確である。「手ぶらで旅立ってはならない」(旧約聖書 出エジプト記 3章21節)などという神の指示を道義的に正当とするのは、どう考えても蒙昧(もうまい)だろう。


■「主なる神」の覆い(ヴェール)の陰で経済霊が虎視眈々(こしたんたん)

この詐欺と窃盗の話が、如何にして真実と寛容を信奉する宗教の基盤として解釈され得るのかは、永年の謎である。この道義と敢(あ)えて矛盾対立するストーリーを記載したのは、何らかの暗示的な意味があると、ここでは考えることにする。その暗示とは、詩のような象徴的なものであり、聖書の出エジプト記が、精霊というよりも、経済霊の誕生について語っていることを暗号化して隠しているということである。

そうでないとすれば、聖書の神の窃盗精神に頬被(ほおかぶ)りして無視を決め込もうとする聖書の宗教の性向は、腹黒さと、ご都合主義と、反神モロクとの計画的な共謀を意味することになる。しかしながら、依然として、現代の聖書解釈は全般的に出エジプト記の経済的な側面を意図的に見過ごしている事実がある。それはまるで、人類に忍び込む「新しい神」が自然に逆らった性質を持つことを隠そうとする巧妙な策謀でもあるかのようである。恐らく善意の聖書の教えが次第に乗っ取られ、現在では人類にぴたりと張り付いている経済霊とモロク神を隠匿(いんとく)する暗幕(眼くらまし)になっているという印象を受ける。

人類の歴史は、既成の宗教と反逆の思想を持つカルトの戦いの連続であるかに思える。思想は常に緊迫した対立関係にあり、論破合戦を繰り返してきた。新興カルトの脅威は絶えず迫っていた。ここで依然として謎なのは、かつて侮蔑され嫌悪されていたカルトから生まれた思想(観念)が、如何にして既成宗教に侵入し最高位の座に登り詰めることが出来たのかということである。社会の異端としてのカルトと、社会の基盤であり中軸となっている教義そのものの起源を生み出したカルトが同居しているという矛盾は、宗教研究における多くの矛盾のほんの一つである。信じる者にとっては、既存の秩序に侵入していったカルトと、根本原理を生み出したカルトの間の矛盾は、皮肉なことにかえって彼らの神の至高さの証拠となる。真っ当な(敬虔な)信者というものは、かつて軽蔑の対象であったカルトが公式な宗教へと進展していった矛盾について疑いもしないものである。

宗教の起源について信者が疑問を抱かない理由は幾つかあるだろうが、無視出来ない理由として、新興カルトは開祖の出身教団の有名人物を巧みに流用するということが挙げられる。例えば、旧約聖書を基盤とする各宗教諸派では、神は、強奪の繰り返しを通じて出現する性癖があるものと見られている。聖書が作られる以前は、全てのセム人にとって神の総称は「エル」だったが、一説によれば、カナン人の神であったバアル神が旧約聖書の神ヤハウェに変身したそうである(Graham,Lioyd,Deceptions and Myths of the Bible,Bell Publishing Co.,New York,1979,P.156)。

零細なカルト的観念から始まって主流の堂々たる信仰体系へと、思想は発展を遂げる。例えば、国際的な共産主義は、卑小なカルトが如何にして短期間で世界的な信仰に発展することが出来るのかを示す好例(モデルケース)であると長らく考えられてきた。共産主義はしばしば宗教(妖教)という言葉で表現された。大商人のカルトは、共産主義のことを口にするだけで、不安に怯えた。ソビエト連邦が消滅した後も共産主義思想が持続出来るのか、それはまだ分からない。しかし、社会秩序の中に諸々の矛盾が存在する事実は、国際共産主義の勃興と共に、大きく浮かび上がった。共産主義のドグマ(教条)は、「世界が進歩する中で、それぞれの歴史段階の資質を決定する駆動力が存在する。それぞれの段階での主たる駆動力が、人類の経済的関係に根本的な矛盾を齎(もたら)す。この矛盾こそが革命による解決を求める」(Olekh,L.,How to Study the Theory of Scientific Communism,City:Progress Publishers,1988,P.47)と言う。聖書の物語におけるモロク神の登場は、そのような矛盾の一例に違いあるまい。


■聖書「殺人の奨励(「出エジプト記」)」は、商業(マネー)の象徴

神と宗教を頑(かたく)なにかつ公然と拒絶して出現した共産主義とは異なり、経済霊(エコノミー・スピリット)は、「主なる神」と呼ばれる宗教的イメージの覆い(ヴェール)の背後に隠れている。聖書が、カルトを急激に発展させようと残虐行為を叱咤激励(煽動)するのは、モーセ率いる新興カルトの神の指示としては珍しいことではない。聖書には「イスラエルの主なる神は言った。門から門へ出没し、全ての兄弟を、全ての友人を、全ての近隣者を撃ち殺せ」(旧約聖書 出エジプト記 32章27節)とある。この文章の「門」とは、市場が開かれ商売が行われていた城壁都市の場所を指している。この一節が象徴的に意味するものは、現在、市場の力として認識されているものを裏付けていると考えられる。殺人の奨励は、商業を象徴するものとして特殊ではない。現代の市場の慣習として、競争相手を「殺す」という象徴的な表現はよく用いられる。商売の競争相手を殺す手段は、通常、マネーの価格である。今日の株式投資の用語を見ると、劇的な価格上昇によって、市場で「殺す」ことが出来るのを心待ちにしているのが分かる。

出エジプト記の中に隠匿(いんとく)された経済霊のカルトの到来は、経済的な利益の獲得が人類の駆動力となる時代が始まったことを示している。「経済霊が育(はぐく)むものは、意識的であれ無意識的であれ、商売において特段の決まりきった行動様式を取らせる複雑な精神思想」であり、主にマネーの計算が駆動力となっている(Fanfani,Amintore,Catholicism,Protestantism and Capitalism,Whitefriars Press Ltd.,London,1935,P.20 邦訳はアミントレ・ファンファーニ著, 佐々木専三郎 訳『カトリシズム・プロテスタンティズム・資本主義』未來社 1968年刊行)。

人々の心の中に棲みついている経済霊は、商売と市場にだけ存在するものではない。政府機関も同様に感染している。例えば1980年の会議で、アメリカの内国歳入庁は、国際租税条約のことを宗教に喩(たと)えて話した。租税条約の交渉を行う過程で、アメリカの役人は租税の観念を二種類に分けた。「第一に神学理論上の問題があり、次に教義としてどう適用するかの問題がある」と彼は言った(Ault,1980,P.59)。この宗教を使った喩え話は、教義が終わるまで続いた。「税金の異端」という議論も出たし、「税金の十戒」という表現もあった。その後で、「所得税の原則の神学理論」について対話が持たれた。最終的には「米国の租税条約規則と、外国の総合企業の株主税制の相互作用」として、(モロク神の)税制宗教を述べるところまで延々とプレゼンテーションは続いた(前掲書 P.62-63)。経済霊とその神モロクの圧倒的支配は、特に米国ではそうであるが、現代の生活の全領域において顕著である。


■聖書に基づく宗教に共通する倫理観の破棄(詐欺の性癖)

法律制定を支配する経済霊のモロク的パワーの典型例は、米国の金融法制の中に見ることが出来る。アメリカの政治神話があくまで政治神話である所以(ゆえん)は、合衆国憲法の法的建前としては政府が金融機関をコントロールし、公正な競争と人々の安心を確保するよう規制することになっていることだ。真実は全く逆である。米国の銀行が政策を思いのままにしているだけでなく、合衆国憲法に反する現行法制においては、米国に支店を持つ外国の銀行は、連邦政府の銀行法から完全に適用除外になっている。この矛盾にはびっくりさせられる。米国の銀行が、自らの深謀遠慮で外国の銀行を適用除外にしておきながら、外国との競争について文句を言うのはどういうことか?自分達の利益の為にロビイストを使って議会に圧力を掛け法律を作らせていながら、外国の銀行によって不公正な状況に置かれていると自ら言えるのは何故か?旧約聖書が奨励している詐欺の実例が、或る最有力な銀行家の見せかけの「不平不満」の中に現れている。彼は、外国の銀行に有利な法制を廃止することに尽力するのではなく、こんな政策を誘導する為に、銀行の役員達が困って泣いているという嘘をでっち上げた〔※関連資料(1『Credit as a Public Utility』翻訳・2・3・4軍需産業の利益・5「対日年次改革要望書」とTPP・6)〕。

彼が提案した法律案の狙いは、いわゆる外国優遇を撤廃することではなく、大恐慌の時以来、大商人の銀行家達による悪法を禁じる安全装置――全米に施行されていた、金利の上限と銀行業務範囲の制限――を撤廃することをこっそりと法案に盛り込むことだった(Wriston,Walter,Risk&Other Four-Letter Words,Harper&Row,NY,NY,1986,P.70-71)。

これは重大なことだが、経済霊とマネーが聖書に登場するや、人間と神との関係に極めて大きな変化が起きた。ジュリアン・ジェインズ Julian Jaynes(1920-1997)教授は、彼の『二分脳の故障が意識を生んだ』という著書の中で、「マネーを発明する以前は、神々の声を聞くことが可能であった」(Jaynes,Julian,The Origin of Consciousness in the Breakdown of the Bicameral Mind,Houghton Muffin Co.,Boston,1976,P.79 邦訳はジュリアン・ジェインズ著, 柴田裕之 訳『神々の沈黙―意識の誕生と文明の興亡』紀伊国屋書店 2005年刊行)と我々に教えてくれている。現在我が物顔に大手を振るに至っているマネーと経済霊(マネーを強迫神経症的に信奉する想念)の到来(聖書の時代)と時を同じくして、人類が神々の声を聞く能力を失ったらしいとは、何とも衝撃的な事件ではあるまいか。神々の声を聞くことが出来ない人間集団には、もはや経済霊が吹き込む邪悪な思考に対抗するのはとても不可能であったろう。

経済霊が旧約聖書の神(モロク)に由来する駆動力であることに宗教指導者達が気付かないままでいるのは、モロクのオカルト・パワーによる目くらましかも知れない。旧約聖書の神が、自ら「選んだ人々」と接触を始めたのは経済的な関心によるものであった事実を忘れてはならない。詐欺による財産獲得を後方支援する存在として、経済霊との関わりが始まったことは特筆すべき特徴である。この倫理観の破棄は、聖書の諸宗教に共通して教えられていることと、気持ち悪いぐらい矛盾している。多くの聖書の物語に要約して述べられているこの詐欺の性癖こそが、逆神モロクとそのカルトであるマネーの経済霊が人類に入り込んできた証拠である。経済霊とモロク神が、精霊の宗教のヴェールを被(かぶ)って何百年も活動してきたことは、数々の証拠によって裏付けられている。現代の伝統宗教が、新興カルト(無論、このカルトも後述するナチスは別格として大半は新興マネーを信奉しているが)に対して熾烈(しれつ)に抵抗しているのは、同様に新興カルトを敵とするモロクとの相互関係の証拠であると捉えることも出来るだろう。

■経済的矛盾をテコに12人企業家と「使徒(専門職)」がキリスト教(新興カルト)を創始

経済霊が齎(もたら)してきた道徳的矛盾を超克するという大義名分を掲げて、周期的にカルト的性質の新たな観念が現れ出てくる可能性は十分あり得る。共産主義が歴史的な矛盾を原動力として形成されたという考え方はその一例である。共産主義運動においては、世界の進化の原動力は経済的な矛盾から来ているというのが基本的なドグマである。

キリスト教の勃興の原動力として経済的矛盾が存在したことは極めて明確に知ることが出来る。経済霊の最初の世界帝国であるローマの経済事情は、かつて中流階級であった人々がマネー本来の駆動力によって次々に社会の周縁に追いやられている状態だった。経済機会が縮小し、もはやローマ帝国の中流階級を支えることが出来なくなっていた状況に直面した人々が、12人(訳注.原著にある11が誤植。2008年11月22日著者確認)の企業家と「使徒」と呼ばれる専門職の指導の下に生き残りを賭けて組織したのが最初のキリスト教会であったという明らかな例がある。

帝国が日の出の勢いであった頃、拡大する富を目前にしながら経済的に周縁に追いやられるという矛盾に陥った中流階級出身の人々は、生き残りの為に共同体的なカルトを結成した。全般的に公民権が存在しなかったことと、希望の無い大きな絶望感を抱えていたことについては、奴隷達であろうと、益々周縁に追いやられる中流階級であろうと、ローマ人であれば共通するものであった。

罪を社会共通の分母として認識するキリスト教カルトは、階級に関係無く全ての人に救済を与えた。これによって齎(もたら)された社会意識の水平化は、帝国の上流階級の多くの女性に受け容れられ、彼女達はカルトを支援する資金や資産を提供した。このキリスト教カルトが発展してキリスト教会となり、最終的には帝国全体の官僚組織を飲み込んでいくのであるから、驚くべき話である。

キリスト教初期のカルトにチャンスを与えた環境と、国際共産主義に発展したカルトを取巻いていた環境の類似性も特筆すべきである。双方とも人々の経済認識や経済状況が「変革」への大きな原動力となっていた。共産主義のカルトは、外交官であり政治学者であるかの有名なヘンリー・キッシンジャー Henry Alfred Kissinger(1923-)が「一つの宗教」であると呼ぶに至った地球規模の信仰体系へと発展していった。既成の秩序と新興カルトの戦いが20世紀の歴史そのものであるかのようである。ドイツの民族社会主義とイタリアのファシズムは二つのカルトじみた勢力であったが、両者とも利子稼ぎの経済霊とモロク神にとって直接的な脅威となった。


■邪神モロク(既存の利子稼ぎ体制)に敢然と挑んだヒトラー民族社会主義カルト

ドイツの民族社会主義をカルトであると考えた人は少なからず存在する。実際に党幹部の中には、指導者アドルフ・ヒトラーを救世主として考えていた者もいた。ヨーゼフ・ゲッベルス Paul Joseph Goebbels(1897-1945)〔※関連資料(1)及び『赤い楯』より【系図30】を参照〕は、ヒトラーの演説を聞き、党の集会でヒトラーに会った後で、「この男は何者なのか?半分人間であり、半分は神である!真のキリストか、それともヨハネに過ぎないのか?」(Reuth,Ralf Georg,Goebbels,Harcount&Brace,New York,1993,P.67)と感想を述べている。ヒトラーは自分を救世主であるという考えは拒絶し、ただの洗礼者ヨハネに過ぎないと認めている。「私は救世主ではない」とヒトラーは宣言した。「救世主は私の後にやって来る。私はただ本当の民族共同体を築きたいという意志を持っている。それは、神学的でもあり経済的でもある包括的なものであるが、基本的には政治的な任務である」(Wagener,Otto,Hitler:Memoirs of a Confidant,edited by Turner Jr.,Henry Ashby,translated by Hein,Ruth,Yale University Press,New Haven and London,1985,P.172)〔※関連資料(1・2・3・4・5・6)〕。

ジャーナリストのドニ・ド・ルージュモン Denis de Rougemont(1906-1985)は1935年3月11日にドイツの或る町でヒトラーの演説集会に参加した経験から、民族社会主義の中にカルト的な性質があることに気付いたと報道している。ドニは友人とドイツの政治情勢について話をしていた。集団的な魂や精神というものがあるのか?それは民族社会主義のような大衆運動の熱気に惑わされ酔ってしまうような人々を相手に、個人の魂など無いと説得する弁論術的な常套句(じょうとうく)に過ぎないのか?と、ドニが質問すると、友人は数ブロック先のホールで開催されるヒトラーの演説を一緒に聴きに行こうと強く勧めた。

その時は午後3時だった。ホールの入り口は5時まで開かなかった。演説が始まったのは9時だった。友人は、6時間も後に予定されていた演説を聞く為に、午後3時の段階で直ぐに出掛けようと言い張ったのである。総統は午前11時にホールのバルコニーに一瞬だけ顔を出していたという。SA(突撃隊)とSS(親衛隊)は既に広場に微動もせずに整列し、雰囲気を醸成していた。ドニと友人は、何とか2時間を過ごした後、午後5時を少し過ぎてホールに入場することが出来た。その後の数時間の体験と観察についてドニは次のように報告している。



正方形の塔のような空間の中央に丸い舞台があり、そのまた中央に演壇が置かれていた。演壇には赤い布が掛けてあり、強烈なスポットライトを浴びて、そこだけが煌煌(こうこう)と輝いていた。茶色の制服の塊が三階のギャラリーまで埋め尽くしていた。光と影の厳しい交錯で彼らの顔は殆んど見えなかった。ドラムの音は、時おり笛のファンファーレで遮られた。

私は労働者の一群の中にいた。若い男女である。少女達は質素な服装をしていた。会話は殆んど無い。双眼鏡があちこちで手渡されている。時々時間を尋ねる声がする。ホールの外側にいる10万人ほどの信奉者にも、幹部を歓迎する声が届いたであろう。何人かの少女が失神した。空気の良い場所に搬送する。7時だった。誰一人として苛立っていない。誰も文句を言わない。8時になって、総統ではないが、誰か帝国の要人がホールに登場した。ゲーリング Hermann Wilhelm Göring(1893-1946)、ブロンベルク Werner Eduard Fritz von Blomberg(1878-1946)、そして将官達が、歓喜の万歳で迎えられた。州知事が鼻にかかった声で挨拶するが殆んど聴き取れない。私はもう四時間近く立ちっ放しだった。この労苦に見合ったことがこれから起きるのだろうか?

すると群衆の中にざわめきが広がり、ホールの外側でトランペットが鳴った。ホール内のアーク灯は消され、スポットライトは一階のギャラリーの一つのドアに集中した。入り口に登場したのは、茶色の服を着た、無帽の小さな男だった。彼の笑顔は恍惚(こうこつ)としていた。(北米の人々はヒトラーが笑っている写真を見たことがあるだろうか?)

4万人の4万の右腕が同時に上った。男はとてもゆっくりと進み、聴衆に気を配って、ゆっくりと会釈した。この聖なる仕草は、リズミカルに響く雷のような万歳の大喝采を惹き起こした。彼は一歩ずつ前に進む。最後に彼は聴衆の敬礼を受け止めた。6分続いた。群衆は立ったまま、リズミカルに叫び、身体は硬直している。群衆の目は、恍惚の笑みを浮かべ、照明を当てられた一人の男の顔に釘付けになっていた。暗がりの中で群衆の顔には滂沱(ぼうだ)の感涙が流れる。

突然、静寂が訪れる。男は力強く腕を差し出した。彼は視線を天井に向け、党歌が地面から湧き上がってくるかのようだ。この時私は理解した。これは何か興奮状態と脈拍の高まりによってでなければ理解不可能な何かである。私が経験したのは「聖なる戦慄」、魂を土に結び付ける聖霊とでも言うべきものだった。

私は政治集会、大衆集会に参加するものと思っていたが、これはカルトの祝典だった。私が見たものは礼拝だった。私にとって未知の宗教の、大いなる神聖儀式だった。

4万人が即座に一体となって上げた声を忘れることは無いだろう。新しい時代がここに始まった。いがみ合う時代ではなく、愛の時代の始まりである。私は人々の魂から愛の叫びを聞いた。恍惚の笑みを浮かべた一人の男に所有された民族の厳粛で力強い叫びを。純粋で質素で、友であり、不屈の解放者である彼は神だった。



ドニ・ド・ルージュモンは帰国してからしばし熟考し、このように結論付けている。「キリスト教徒よ、地下墓地へ帰れ。キリスト教は敗北した。控え目な儀式に、小規模な集会、哀れな聖歌、どれもが全部葬り去られた。残っているのは、あなたの信仰だけだ。しかし、それこそが本当の戦いが始まる場所である」(Dorozynski,Alexandre,et al.,La Manipulation des Esprits,Press Select Ltee,Montreal,1982,P.80-83)。政治的な観念と、聖書の宗教のヴェールに隠れたモロク神との間の戦いに、大きな社会の公益が巻き込まれるかも知れないという可能性を前にして、思考は凍り付いてしまう。

ドイツの大衆運動の他にも、第2次世界大戦中の日本も、既存の経済秩序を脅かす一種のカルト観念のようなものとして考えられていたと言えるかも知れない。第2次世界大戦の政治的な事例からは、ヒトラー崇拝のドイツと、天皇崇拝の日本は、地球上で特別なカルトであったことと、神の概念において独特であったという意味で、旧約聖書の預言者達によく似た状態であったと言える。
 

金融システムの闇の超起源 その5

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年11月 1日(土)02時02分51秒
返信・引用 編集済
  http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11888412958.html

≪R.D. Willing 著『マネー/金融システムの闇の超起源』より抜粋(5)≫
2014-07-03 22:21:17
テーマ:R・デュアン・ウィリング
(4頁からの続き)

〔Richard Duane Willing 著, 為清勝彦 訳『マネー/金融システムの闇の超起源―地球を滅ぼす人類最後の宗教』 第4章 偶然(アクシデント)が生んだ「マネー」 より抜粋、要約 P.94-P.109〕

■「信用(クレジット)」=「借金(デッド)」=「貸付金(ローン)」=「マネー」という性(たち)の悪い「二重思考(ダブル・シンク)」

聖書に書かれている言葉は暗号文のようなものであると、大方の意見は一致している。聖書の文字には、創造主である神から人間に向けた宇宙的なメッセージが含まれていると主張する学派もある。それによると、古代の書記官は、さも予(あらかじ)め宇宙的なスケールで計画されたものがあるかのように、また何らかの形で時が満ちれば「特定の」真実が表に出るように聖書を記述したそうである。

ブレーズ・パスカル Blaise Pascal(1623-1662、訳注.「人間は考える葦である」で有名なフランスの数学者、物理学者、哲学者、思想家、宗教家)は、聖書に記されている符号的表現は二重の意味を持っている可能性があると言っている。二重の意味と言えば、「二重思考(ダブル・シンク)」という形を取って現れるものを思い浮べよう。マネー創造の本当の意味を理解する為には、そのような“ひねくれた”思考形式が必須である。つまり、現代の銀行マネーは全て、借り手に借金出来る資格があるかどうかという「信用(クレジット Credit)」として生まれ、同時に、その「借金(デット Debt)」は、“「マネー」を産む”「貸付金(ローン Loan)」だということである。

現代のマネーに内在する二重思考は、極めて重要なオーウェル的特徴を備えている。ジョージ・オーウェル George Orwell(Eric Arthur Blair 1903-1950)はその著『1984年 Nineteen Eighty-Four』(Secker and Warburg 1949年刊行)で二重思考を次のように露悪(ろあく)的に定義した。「完全に誠実でありながら、目的も明確に保持しつつ、意識的な嘘をつくこと。その内容を本気で信じながら、手の込んだ嘘をつくこと」〔※関連資料(1・2・3・4マイナンバー制度の外注他)〕。

この種の嘘の一例が、銀行のローン(貸付金)は、預金から作り出されるという嘘である。同時に間違って信じられているのが、マネーには、金や銀が必要であるということである。古代の遺物から推論すれば、金や銀は元々神々に対する畏敬を示すものとして保有されていたものが、最終的に富の象徴として見られるようになったのである。

事実は、銀行の預金になるマネーは例外無くローンから発生している。このことは、この惑星のあらゆる金融学の学校で、入門コースであろうと応用コースであろうと、極普通に教えられていることである。然(しか)るにこの事実を、我々が揃いも揃って否定し、無視していることが、都合よく「カルト273」に巨大な力を与えているのであり、モロク神の存在を許しているのである。このように経済霊にとって不都合な事実については、二重思考によって、「忘れられ、然る後に、もし必要になったなら、必要な期間だけ忘却の中から引っ張り出される。経済霊の威光は、都合の悪い事実が存在することを否定出来る能力にあり、同時に、その否定した事実のことを常に利用し続ける能力にある」(Orwell,George,1984,Penguin Books,Middlesex,England,1949,P.183)。

マネーについての二重思考は、信用は借金であり、借金は貸付金であり、貸付金はマネーであるという終わりなき同時発生の反復現象である。この無限アルゴリズム(無限処理手順、訳注.コンピュータの処理手順、プログラミングをする時の論理的な筋道)から生み出された富(資産)のことを実物を反映した通貨と混同してはならない。ここで言う資産とは、いわゆる銀行が資産と呼ぶもの全てである。更に重要なことであるが、マネーは実物ではないことを認識すべきだ。「マネーは流通している信用である」(Carswell,John,The South Sea Bubble,Cresent Press,London,1960,P. South Sea Bubble,Cresent Press,London,1960,P.124)。マネーが実物であると思い込む癖を、精神的に断ち切らなければ、信用は借金であり、借金は貸付金であり、貸付金はマネーであるというシステムを理解することは出来ない。マネーは信用を土台にした富の無限増殖処理手順(無限増殖アルゴリズム)であり、それに対し、貨幣や硬貨は、取引を成立させる為の交換手段としての通貨(小道具)に過ぎない。


■マネー(二重思考)以前の商取引は、神の心を会得した聖職者が仕切っていた

後にマネーとなった二重思考のアルゴリズム(インチキ)が発見されたのは、どうも偶然の産物であったようである。マネーが登場する以前の時代では、あらゆる商取引は、神の心を会得した聖職者が仕切っていたようである。全ての取引は、神殿の職員によって認証を受け、記録される必要があった。商取引の双方の当事者にとって何が公平なのかを聖職者が判断し、その判断に従って、誰が誰に対して何を負っているのかを記録した文書を保管するのが神殿であった。社会の秩序と経済的公正さは、神殿の経営とスタッフの見識に委ねられていた。

記録が残っている範囲で際この時代の古代エジプトは、まだマネーが存在していない時代であったが、穀物が交易の交換手段として使用されていた。価値を定め、支払いを済ませる為に、一連の物理的な軽量がなされた。記録に残っている昔の複雑な社会の様子からは、こうした軽量を行うに当って、広範な知識と精巧な技術による判断が必要であったことが窺(うかが)える。

ファラオ(王)達の商売に使用された大量の錘(おもり)は、通常は、単純な形状をしており、硬い石で出来ていた。錘(おもり)の殆んどには印が付いていなかったが、こうした錘を使って実際に重さを量っていたということは、尺度がばらばらであったことを示している。どのような単位や尺度に用いるものかを識別する印が付いていることは稀(まれ)であった。別の尺度で表すと幾らになるのかという換算をする為の印も無かった。やがて、最も標準的な公称重量として、長石(地殻中に普遍的に存在する鉱物)から作られた錘が標準となった(James,TGH,Introduction to Ancient Egypt,British Museum Pub.Co.,London 197 Ancient Egypt,British Museum Pub.Co.,London 1979,P.222)。

多様な錘(おもり)と計量単位は、マネーの仕組みと相容れるものではなく、聖書でも非難されているものであるガ、マネー登場以前の時代の価格設定としては最も納得出来る方法であったようである。マネーの無い状況で、需要を満たし、報酬を与える為には、実用的かつ迅速に生産物を配分出来る方策が必要だった。多様な錘と計量単位が使用されたことは、取引の判断を行う神殿のスタッフに特別な技能が備わっていたことを物語っている。

この本質的にオカルト(秘教)的な知識は、恐らく一般人には知らされること無く、経済的な事項に関する聖職者の日常的な業務として行われていたのだろう。神殿のオカルト秘儀への参入には、公平で慎重な商品の配分を確保する為の、多種多様な錘(おもり)と計量単位の使い方を学習することが含まれていたことは間違いない。様々な商品の価格や」、功績に応じた賃金を設定し、管理する仕事は、聖職者の生活の重要な部分であったはずである。物質が欠乏した時に、商品の価格と配分、購買力を調整することは、社会が上手く機能する為に不可欠であったはずである。

マネー出現前の古代エジプトの知恵は、南北アメリ大陸の市場のルールにも通じるものがあったようである。コルテス Hernán Cortés(1485-1547)は、メキシコに到着した時(1519年)、アステカ族がマネーを使用していないことを発見した。これら失われた文明が言外に語る重要な現実は、マネーに頼らない軽量システムに基づき、自然と調和しながら繁栄する公平な社会を賢明に追求しようとする社会のあり方である。価格設定と分配、種蒔きと収穫は、神殿に勤務する高位の知者によって調節されていたと結論付けることが出来る。多様な錘(おもり)と計量単位こそが、社会管理の合意形成を可能にしたと言えるのかも知れない。

農民達が、聖職者を通じて神の指示に従い協力したのは、経済的な期待に基づくものであったことは疑問の余地が無い。その経済的な期待とは、お決まりの内容であるが、「神殿の精鋭達は、我々の中で最も貧しい者を、どれほど良くしてくれるのか?」(Neubert,Otto,Tutankhamun and the Valley of the Kings,Mayflower Books,London,1957,P.126)という要望に対する応答である。いつも教会に行っている人は、この理念はキリスト教にとっても重要なものであることが、直ぐに分かるだろう。


■マネー(抽象的概念)の使用が有害な社会権力(モロクの呪い)を発生させた

市場にマネーが登場した時、人々の思考に決定的な突然変異が発生した。マネーがやって来るまでは、芸術的とも言える技能で多様な錘(おもり)と計量法を使用し、種子を取引の手段として利用していた。マネーが入って来た為に、これら多様な錘と計量法は、不法なものになってしまった。聖書によると、神はこう言った。「様々な錘に、様々計量、何れも神に醜態を晒すようなものである」(旧約聖書 箴言(しんげん) 20章10節)。この禁止は、明らかに、マネー社会の要請に通じるものである。マネーの計算に基づいて動いている現在のマネー経済にとって、多様な物質によって計量するシステムなどというものは、事実上、考えることすら出来ないものである。

一般的な解釈としては、公正な取引を実現する為に、多様な錘と計量法を禁止するのだという見解を取る。この見解は、マネーが登場する以前の、市場の慣習の実態を見過ごしており、マネーを使用することによって発生する可能性のある有害な社会権力のことを隠している。有害な社会権力を操るマネーは共同体の圧倒的多数にとっては実に不利益なことなのだ。マネーが使用されるようになれば、それまで慣れ親しんでいた、見て触って分かる具体的なものの代わりに、抽象的な概念が導入されることになり、それによって商取引の判断を行うのに必要な能力が変質することになる。マネーが導入されることによって、ものの考え方が全面的に変わってしまうのである。マネーの到来は、利子の付かない交換手段を使っていた市場にとって神の恵みであるはずだったが、実際には、マネーはモロク神の呪いとなり、「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率」の高利パワーとなって社会全体を呑み込んでしまったのである。

モロク神とマネーの発見以前の古代社会において、共同体の一部の人々が、その他一般と比較して、明らかに傑出した商売活動を行っていることが神殿の書記官には分かっていたはずである。記録を見れば、誰が最も活発に商売しているかが分かるし、その結果、誰が幾らの負債を抱え、誰に何を未払いであるのかも分かったことであろう。恐らく釣鐘状の曲線となっていて、常に共同体の半分は、聖職者の決断によって、他の裕福な半分から守られていることが示されたことであろう。更に、共同体の商取引の八割は、人口のたった二割によってなされていることが、神殿の書記官には明らかだったはずである。活発な商取引を行う者の中には、取引をする度にいつも債券を生み出すような、才能豊かな者がいることも明らかであったろう。


■無から有を創造する「金融の神殿(中央銀行)」誕生の経緯

商取引に成功した者の請求総額として神殿の権威が認証した額は、その取引者の「信用(クレジット)」となる。経済霊のマネー経済においては、このような顧客に対する請求額を累積させたものが、売掛金となる。この額こそが、最終的に現在のマネーとなり、銀行預金残高に転換するものの初期形態である。粘土板に取引を記録する担当をしていた書記官は、誰が最も利益を上げている商人であるかを熟知していたであろう。天才的な商人達は、複雑多岐にわたる取引を行っていたはずであり、共同体の多くの人々を相手先とする債権を抱えていたに違いない。(中略)

聖職者は、活発な商人と顧客の間に立って、品質や分量に関する事項を裁決する為に、いつも大忙しであっただろう。誰に対して何が支払われる予定であるのかを示す記録を持つ神殿は社会の中心的存在であった。将来の支払いに関する調整については、色々な知恵を出すことが求められたであろうし、その方法は、身分と特権の中で内部化され、より複雑になっていったに違いない。高潔な聖職者達は、こうした諸問題を、多様な錘(おもり)と多様な計量法を駆使して解決したに違いないのである(James,TGH,Introduction to Ancient Egypt,British Museum Pub.Co.,London 197 Ancient Egypt,British Museum Pub.Co.,London 1979,P.222)。

才能ある商人は自らの家族や近親者が生産した以上のものを手に入れることが出来ることが、神殿の記録者には明らかだった。交換する技能が無い人々はそれなりの生活しか出来なかった。交換の技能を磨くことは、良い生活を得る為の登竜門として幼少期から教育されていたに違いない。交換の慣習は、マネー経済が到来しても変わらなかったことは特筆すべきである。交換は、商取引へと繋がる駆け引きである。交換は、今でも車を買う時など、色々な買い物をする時に一般的な行為である。そして、今日も当時も、誰か(何か)が交換を認証しない限り、取引きは成立しない。今日ではマネーの金額が認証機能を持つが、マネーの無い当時では、より大きな価値を手放した人に支払われるべき残高を記録する聖職者によって、取引に拘束力が与えられた。

成功した商人達は、累積した大きな債権が神殿の口座に記録されており、書記官とも顔馴染みであっただろう。商人達が保有していた債権の規模は、その承認の信用力を証明するものであった。そして、或る日、革新的な(または、恐らく手間が掛かることが嫌いな)書記官が人類の歴史を変えてしまう。若干の銀(混合物)に神殿の判を押したものが、或る商人の売掛の全部を意味することにしてしまったのである。公式な「トークン token(代用通貨、券)」によるものなのか、非公式なトークンなのか分からないが、神殿の記録の中に信用が存在することを示したこの事件(アクシデント)が、経済霊のマネーの始まりである。マネーの起源は、物々交換の不便さの解消にあったわけではないのは明らかであり、何か全く別の、心理的な、或いは管理上の出来事から発生したことなのである。

現在学校で教えられているようにマネーは物々交換の不便さから生み出されたものではなく、神殿で粘土板に同じようなことを繰り返し記入する煩雑(はんざつ)さこそがマネー誕生の理由である。

この長らく忘れられていた事件によって、「信用」は神殿の聖職者の管理から逃げ出し、経済霊(営利主義)となって出没することになったのである。かくして商人達は、わざわざ神殿に出向いて取引を認証して貰わなくともよくなった。一枚の「トークン(代用通貨)」は、神殿に記録されている信用の量を要約して示していた。このトークンが後(のち)に硬貨となるわけだが、売り手と買い手双方にとって、神殿まで旅をして勤務時間内に書記官の聖職者に取引を記録して認証して貰う代わりとなった。売り手の商人は、硬貨を受け取ることによって、計量や品質の問題について神殿の権威から実質的に自由になったことを即座に把握しただろう。売り手と買い手は、互いに合意した範囲内で、実質的に神殿の権威に頼ること無く、取引を成立出来るようになった。「買ってしまったものは買い手の責任」という市場の慣習は、この時に商売の用語集に追加されたに違いない。

現在我々が創造するマネーとは違って、恐らく最初の硬貨は特定の価値を示すものではなかった。それは売り手にとっては、トークンを提示する買い手が、口約束で決めた交換対象となる量を、売掛と信用として神殿に持っていることを示す証拠に過ぎなかった。硬貨の創造という単純な行為によって解き放たれた力は、伝説の神々の力に匹敵する。

一つまみの銀に印を付けただけで、経済霊の力は解き放たれ、地球上を徘徊(はいかい)し、他の全ての宗教を呑み込んでしまうまでになった。最初の一つまみの銀が使われてから、それほど時間が経つこともなく、これは記録されたものとは無関係に発行出来るものだと閃(ひらめ)く。経済霊が解き放たれただけでなく、聖職者達も同様に重荷から解放された。聖職者達は、粘土板の記録にある信用とは関係無く硬貨を発行することが出来た。聖職者達は、本当に神々のようになったのである。何も無いところから創造することが出来るのだ。モロク神は、経済霊とマネーを通じて、音も立てずに人類の中に入り込む。

このようにして、現代の金融となった経済霊は、信用は借金であり、借金は貸付金であり、貸付金はマネーであるという二重思考の頭の体操を通じた世界支配への第一歩を踏み出した。あらゆる現代のマネーは、銀行が信用力を審査・判断した結果行う貸付金の形態で生まれる(Priestly)。そして貸付金は、誰かの負債になる。

一部の部族、人種、人々がマネーに関して卓越した能力を持つのは、或る共通の信念、つまり、約束した通りに払うという共通の信頼感を持っているからである。この信頼が、金融の神殿(今では一般的に中央銀行と呼ばれている)が仕組んだ負債としての貸付金マネーや未払債務の姿となって現われたものが、現代のあらゆるマネーの基盤である。この架空エンジンを動かす根源の力が、モロク神の命令に従い地球に敵対する「宇宙的存在」である可能性については、一顧だにされない。

■自然に敵対する「宇宙的存在」が硬貨を生んだ証拠(度量衡尺度)

硬貨の誕生と共に、超自然的な、と言うよりも自然に敵対する力が、地球船に乗ってやって来たのではないかという疑問を裏付ける事実がある。人類の太古の祖先の時代より、この惑星状で共通して使用されてきた基本的な計測単位は、正確な地球の寸法に基づいた比率に由来している。

どのようにして地球の寸法を正確に導き出すことが出来たのか、解明されていない。

初期の硬貨は全て重さの単位も兼ねており、重さは容積の単位に由来している事実がある。これらの尺度は、地球の物理的なサイズを正確に割り算したり、掛け算したものである。古代に使用された体積の尺度は、硬貨の切りのよい数を表していたことが発見されている。

多くの場合、硬貨の重量はきっちりと割り算され、それぞれの国の歴史上、マネーが使用された時代に応じて、当該地域の重量の単位となった。

硬貨の歴史からは、更に幾つかの驚くべき事実が明らかになる。地理的に何千マイルも離れた場所で、年代的にも何千年も違う文化で、ぴったり同じ重量の硬貨が発見されている(Chatelain,Maurice,Our Ancestors Came from Outer Space,Dell Pub.,New York,1979,P.159-161)。不思議にも金(ゴールド)を特別扱いしたこと、そして、金と銀の交換比率も、世界的に共通認識の様だ。ティアワナコ Tiahuanaco(ボリビア)のインカ人の金の重量は、地中海沿岸全域で何千年も使用された1タレントの金とぴったり同じ重量であった(前掲書 P.205)。インカのもう一つの金の単位は、地中海の2タレントの金とぴったり等しいものだった。こうした類似性は偶然では片付けられない(前掲書 P.209)。

神々が空からやって来て神殿を建築したという伝説は世界的に共通している。空から降りてきた存在が、硬貨鋳造によって世界全体に交換価値の尺度を設定したのかも知れないと思えば、大いに想像を掻き立てられる。神殿における聖職者の役割はどの文化においても記録に関しており、「天空の存在」との接触も神話や伝承の中に共通している。度量衡(どりょうこう)の尺度が地球の物理的な寸法に由来し、その尺度の割合としての硬貨に均一性があるということは、我々が現在マネーと呼ぶものが発明された時に、何か目的を持った大きな力が現れ、介入したことを示唆している。

マネーによって可能となった利子の支配が生み出した経済の力。この経済力が、地球の世話人としての責務を脅かしているように思える今日、興味深い伝説のことが頭を過(よ)ぎった。最初に、創世記1章26節で、創造主の神が天使に対して人間を創るように指示した時、天使は断った。賢明なる天使は、人間はどうも地球の完成に役立たないようだという意見を持っていた。だが、神はしつこくこだわった。

更に神は、全て存在するものは神の言葉から出来ている、天使も例外ではないと、忠告した。そして更に、神が創るように命じたものは神だけが破壊することが出来ると、天使に警告した。

こうして天使達は、命令された通りに人間を作った。天使達は知恵を働かせ、マネーの力を誤って用いることにより、神を冒瀆(ぼうとく)する行為をする能力を人間に与えた。人間達が利子に夢中になり、生物圏をないがしろにするのを見て、神は、自ら創造した人間に失望するだろうと計算したのである。この為、人間のマネーの習慣は、神が創造した地球への攻撃となり、神は、自ら創造を命じた人間を破壊せざるを得ないことになる。

言うまでもないことであるが、生物圏を傷付ける行為を矯正(きょうせい)する為、そして、地球の世話人に復帰する為には、マネーに関する様々な思い込みを捨て去ることが求められる。生物圏を元に戻し保全する為に必要なコストを賄(まかな)う為には、「人々の信頼」を動力とした、負債や利子とは無縁のマネーを創造しなければならない。株式資本は、株主ではなく、公共の利益に奉仕するように、直ちに改められなければならない。

「人々の信頼」は、もはやモロク神に捧げる高利を稼ぐ為の、政府債務と呼ばれるものに代表されるような私有財産であり続けてはならない。「人々の信頼」は、我々の存続の為にこそ必要なのであって、「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率」と一緒に中央銀行という経済霊の保護預り所に任せておくわけにはいかないのである。

〔資料〕Anti-Rothschild Alliance<反ロスチャイルド同盟>
http://rothschild.ehoh.net/

〔資料〕メタトロン Metatron - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%82%B9%E3%83%A9

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9F%E3%83%88%E3%83%A9%E6%95%99

〔資料〕メタトロンの魔力|いつも一緒(旧Legacy of Ashes) 2009年8月14日
http://angel.ap.teacup.com/gamenotatsujin/22.html
 

金融システムの闇の超起源 その4

 投稿者:Legacy of Ashesの管理人  投稿日:2014年11月 1日(土)01時59分17秒
返信・引用 編集済
  http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11886842437.html

≪R.D. Willing 著『マネー/金融システムの闇の超起源』より抜粋(4)≫
2014-06-30 22:48:21
テーマ:R・デュアン・ウィリング
(3頁からの続き)

〔Richard Duane Willing 著, 為清勝彦 訳『マネー/金融システムの闇の超起源―地球を滅ぼす人類最後の宗教』 第3章 信用(クレジット)による思考の支配(マインド・コントロール) より抜粋、要約 P.74-P.92〕

■ヒトラーの「新しい意識(より高次元の記憶)」は、モロク神と経済霊による呪縛を解き放つ!

(中略)ユダヤ・キリスト教のヴェールに隠れて(寄生して)成長を続けて来たモロクの意識によって抑圧(封印、汚染)されてきた「より高次元の記憶」への復帰が実現する可能性が急迫しているようだ。アドルフ・ヒトラー Adolf Hitler(1889-1945)は、彼が「神意」と呼んだ潜在意識の精霊次元とコンタクトし、深いトランスに入った状態で、意味不明な言葉を口走り、「新しい意識」のことを予言した。ヒトラーが語った「新しい心」、もしくは、「新しい人間」は、「超人(スーパーマン)」と誤訳されることが多い。「新しい心」とは、テレパシーで意思疎通し、「単なる知的な思考」を超越した直観力を持ち、本源的存在の声を聴く能力を備えたものなのだ(Revenscroft,Trevor,The Spear of Destiny,G.P.Putnam,NY,NY,1973,P.249)。

このような心が輝きを増せば、既成の宗教の教義にとって脅威となることは疑いの余地が無い。今直ぐに第二バチカン公会議 Concilium Vaticanum Secundum(1962~1965、訳注.第二バチカン公会議は、1962年~65年、教皇ヨハネ23世によって開催され、パウロ6世によって引き継がれたカトリック教会の世界会議である。「現代化」をテーマにした議論が行われ、それまで中世の世界に引き篭もっていたカトリック教会の大きな方針転換となった)の宣言(1963年)に従った旧来の教義と戒めを更に開かれたものに書き換えれば、「新しい心」の力を、受容し対処することが出来るかも知れない〔※関連資料(1ナチスとバチカン・2バチカンのユダヤ化・3超巨大カルト「バチカン」研究・4バチカン株式会社・5ヴァージニア会社・6・7・8・9二つのアメリカと二つの日本と『自殺する日本』・10・11・12バイデン曰く「目前の課題は新世界秩序の創造だ」・13・14・15ヒトラーの予言・16YouTube「この国の所有者は真実を分かっているのさ。アメリカンドリームってのは寝ていないと信じようが無いってことをね」)及び『赤い楯』より【系図74・75・誰が頭取を殺したか・スイスの暗黒部】を参照〕。かくて、精神性の高い内容に書き換えられた教義によって、聖書二千年の束縛から心が解き放たれるならば、聖書に寄生していたモロク神と経済霊は破局の危険に晒されることになるだろう。

心(mind)が、人の中の何処(どこ)にあるのかについては、様々な見方がなされてきた。エジプト人は、心臓に心があると考えていた。最近では、心は脳の働きであると考えられている。心は宇宙にあるという可能性もあるだろう。普(あまね)く遍在すると共に、何処にも存在しないということである。人間の心が正確に何処にあるかはともかくとして、人間の行動は心が制御していると、事実上、考えられている。信じることは、心の動きである。心と脳と知性が共同作業をして、自分の信じていることを、何とか人に教え伝え(説教し)、或る種の教義に変換することも出来る。宗教書は創造主である神について語り、科学は意識について語る。

〔資料〕ジッドゥ・クリシュナムルティ Jiddu Krishnamurti(1895-1986) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%83%E3%83%89%E3%82%A5%E3%83%BB%E3%82%AF%E3%83%AA%E3%82%B7%E3%83%A5%E3%83%8A%E3%83%A0%E3%83%AB%E3%83%86%E3%82%A3

http://reveillet.exblog.jp/17982473/

http://homepage1.nifty.com/spr/dis65/disl03.htm

http://homepage1.nifty.com/spr/index.htm

〔資料〕G.I .Gurdjieff『大人としての願望 二つの河』より一部抜粋
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-10991731031.html


■宗教に寄生し利用してきた(「借金と利子は払え!」)モロク神の正体が暴露される

「新しい心」の出現によって、一見するだけでは気付かないように権力の中に隠れ続けて来たモロク神と経済霊の秘密が、暴露されることになる。教義の大幅な書き換えによって、教会の組織を正当化し未来に向けて維持することは出来よう。と同時に、この経済・社会を支配している根本的な勢力は、精霊などではなく、モロク神と経済霊であることが白日の下に晒されることになるのは間違いない。「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率の神」モロクの神話が暴かれたならば、直ぐに経済思想は修正されることになるだろう。現代経済理論が齎(もたら)してきた有害で悲惨な結末を、神の計画(アジェンダ)の一部なのだから仕方無いという言い訳で誤魔化して容認することの馬鹿馬鹿しさも明らかになる。人間の命が――モロク神がマネー価格を操縦するのだが――「商品」として評価される理不尽なこともなくなるはずである。

更に、モロク神の秘密のヴェール(化けの皮)が剥(は)がれてその正体がばれてしまえば、既成の宗教への畏敬の念もたちまちにして失われてしまう可能性がある。宗教が支えてきた倫理体系が崩れることで、一時的に社会秩序は不安定になるだろう。宗教が説く倫理は、モロクと経済霊の為の債務返済と利子支払の約束には必要にして絶対不可欠な要素である。そもそも宗教が最初に発明された時の動機は、借金の改宗を促進する為であったことには確かな証拠がある。モロク神は、宗教の教義に全面的に依存することによって、その「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率」のパワーを、隠匿(いんとく)しながら発揮することが出来ている。我々が宗教だと思っているものに隠れることが出来なければ、モロクの構造は、地球の世話人という人類の根本的な義務に反する力であることが、丸見えになってしまう。生物圏が汚されているのは、経済霊が暴れている明白な証拠である。

我々が地球の世話人としての職務を遂行出来ていないことは、まさに聖書の神が制圧しようとした邪悪な力によって逆に乗っ取られてしまったことを証明している。聖書の宗教は、モロク神の組織に依存を深めてきた為に、「反逆の神」モロクの力を逆に増強することになってしまった。解放された意識によって目覚めた「新しい心」が、聖書の教えのヴェールの向うにモロク神が蠢(うごめ)いていることに気付いた時、心霊界の戦いは、現実界の戦いとなって展開することであろう。

多くの宗教神話や伝承は、心霊界の戦いを伝えている。諸々の宗派の預言者達も精霊達の格闘について語っている。聖書の教えでは、善霊と悪霊の戦いがあることを述べている。この心霊次元の戦いは、光と真実の力が、過ちと暗闇の力と対抗していると説明されることもある。この宇宙の鬩(せめ)ぎ合いが、地球上で人間が試行錯誤していることに反映され、自然圏と人類の結末を決定する。預言にある「暗闇と過ち」はどう顕現するか?本書では、生物圏の汚染、そして、時間の経過と共にマネーが不自然に成長するというとんでもない信念を持つ過ち、とする。今日の公害によって黒くなった空は、モロク神の連勝と経済霊の悪行を物語っている。

真実の精神と光の力を備えた創造主の神の力とは逆に、モロク神は暗闇と過ちを齎(もたら)す。このことはこれからも何度も述べるように明らかに証明されている。モロク神には、自然と調和した繁栄を齎(もたら)す力が無いことがはっきりしている。世界銀行 World Bank、IMF(国際通貨基金)、中央銀行ネットワークなどのモロクの組織は、その意思決定の仕組みからして、自然のバランスに配慮して共存していくことは不可能である〔※関連資料(1・2・3・4・5)〕。これらモロクの組織は、よく世界経済にとって前進的と誤信されているが、「高利貸しをしないこと」、「水を汚さない」という最低限のルールを遵守(じゅんしゅ)させる力が無いこと、そして、数千年に亘(わた)ってこのタブー(規範)が軽視されてきたことは、現代人類の集合意識に対し、モロクが圧倒的な支配力を持っていることを語っている。

預言では、モロクは、聖書の信仰をゆっくりと打ち負かしていくものと認識されている。その進展の様は、中央銀行 Central Bank と呼ばれる秘密結社が、如何にして信用力(クレジット)を独占してきたか、そして19世紀に入って如何にして宗教が科学に完全に追い越されてしまったかの過程の中に見出すことが出来る。科学の論理という概念が出現し、それが完全なる知恵であるという思い上がりは、この時代に特有の思考であるが、この概念が最も威圧的に振舞うのは、マネーの創造を支える信用の仕組みに適用された時である。

科学的な思考に立脚すれば、異次元の存在に気付く人々が現れていることや、異次元の存在の証拠すら現れていることは、現在の科学の前提となっている法則を否定することになりかねず、新たに取り組まなければならない厄介な問題となる。奇(く)しくもローマ法王はその説教で、大前提として「真実は常に合理的とは限らない。特に超自然的な、宗教的な領域ではそうである」(Maxence,1979,P.164)ということを忘れてはならないと警告している。この言葉はマネーの領域にも直ぐに当てはまることになるということを追記しておこう。

本書の読者には、「新しい心」が備わっている可能性が十分ある。その大きな器の「新しい心」で今起きていることを具(つぶさ)に認識されることを大いに期待している。旧来の考え方を思い切って拒絶すれば、今までモロク神に操られていたシナプス(神経回路)に与える衝撃は途轍(とてつ)もなく大きい。ちょうどマネーのカルト(「カルト273」として後述する)が勃興(ぼっこう)した聖書の第二神殿(訳注.古代エルサレムに存在したというユダヤ教の礼拝の中心地、エルサレム神殿の第二神殿。後述の通り、著者ウィリング氏は、この神殿が実質的には最初の神殿であると指摘している。一般的には、紀元前10世紀にソロモン王が建設した第一神殿、バビロン捕囚からの解放後の紀元前515年にゼルバベル Zerubbabel(597BCE?-?)の指揮でほぼ同じ場所に再建された第二神殿、紀元前20年にヘロデ大王によって完全改築に近い形で大拡張された神殿(ヘロデ神殿)がある。ユダヤ戦争においてユダヤ人が立て篭もった為、紀元70年のローマ帝国軍の攻撃によって破壊された。現在「嘆きの壁 Wailing Wall」と呼ばれる部分は、このヘロデ神殿を取巻いていた外壁の西側の部分とされ、ユダヤ人は「西の壁」と呼んでいる〔※関連資料(1・2・3“ビルナの賢者”エリヤ・ベン・シュロモ・ザルマン曰く「フルヴァ・シナゴーグが三度目に再建された時、第三神殿の建設が始まる」聖書の展開通りに事件を起こす・4)〕。この部分を含め外壁はその基礎部分がほぼ全て残されている。参考:Wikipedia)の時代に経験したものに匹敵する規模になるかも知れない。闇(偽り)と光(真実)の心霊界での戦いは、過去百年の間に熾烈(しれつ)を極めている。今や銀行の「与信」という無から有(マネー)を作り出す詐欺行為を公々然と実施している真っ最中であるから、シナプスへの大激震は十分にあり得ることである。


■生物圏を蕩尽(とうじん)し破壊し、マネーを捏造(ねつぞう)するモロク神

例えば、ロンドンの銀行と、イラクの油田、石油が100万バレル積載可能なタンカー船がドバイにあるというシンプルな世界を仮定してみよう。銀行の経営状態は健全であるが、貸し出す資金は底をついていると想像していただきたい。石油を汲み出す契約は、1950年代に締結された99年の長期前払いリース契約になっており、1バレル数ペニーの僅かな単価であったとする。現在の市場価格は、1バレル60ドルだから70ドルの範囲で取引されている。油田から石油を汲み上げて、タンカーに積み込むだけである。石油を積むことによって、石油100万バレルの船荷証券(ふなにしょうけん)が生み出される。この石油船荷証券を銀行に持ち込む。銀行はその書類を受け取るだけで即座に虚空から7000万ドルを作り出すことになる。

作り出された7000万ドルのマネーは口座に入金される。口座に入ったマネーはいつでも出金したり、投資することが可能になる。また、追加貸出の為の準備金となる。銀行システムの預金準備率の関係から、起点の油田では1バレル当りほんの僅かな金額であったものが、1バレル70ドルの単価で100万バレルの石油を積んだ一隻のタンカーとなり、7億ドル以上の新たなマネーを作り出すことが可能になる。こうして見ると明らかであるが、ユーゴスラビアとイラクの「罪業」(モロク神にとって)は、石油を安売りする姿勢を明確に示したことであった。ユーゴスラビアは1バレル10ドルで石油を売っていた。イラクは、小麦1ブッシェルにつき3ドルで、更に米ドルではなくユーロ通貨で取引を計算した単価で石油取引をしていた。「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率の神」、高貴なるモロクは、怒り狂ったに違いない。

エネルギーの基礎となる燃料と商売を、交換の仕組みと結び付ける、この有史以前から存在する力の、この圧倒的なスケールは何なのか?その余りの大掛かりな仕組みに、驚愕(きょうがく)し、はたと思考が止まってしまう。公害と無縁のフリーエネルギーのことを立証しようとしている人々は十分に覚悟すべきである。モロク神と経済霊のネットワークは、マネーの創造をコントロールすることを通じて支配しているのであるから、その支配の仕組みの存亡を賭けた凄まじい戦争に突入せざるを得ない。極めて単純なことであるが、自然を汚染しないエネルギーを実現する為には、マネーのコントロールと創造のあり方を再考し、モロク神と経済霊の手が及ばないところに解放する必要があるのだ。生物圏と調和することの出来る普遍的なフリーエネルギーを追及する科学者が、心霊界の戦争に足を踏み入れたことに気付くのはいつのことであろうか。

この単純なモデルで示したように、マネー創造の仕組みは石油の消費に依存しているのだが、ここでもう一つの事実が判明した。マネーの創造は、公益の手段に穀物が使われていた頃と全く同じように、今日でも消費というものに依存している。しかし、輸送の為のエネルギーとして穀物を消費していた昔とは違って、石油の消費は汚染を伴うものであり、生物圏を脅かす有害物質を生み出す。自動車に使用するガソリンが排気ガス汚染を齎(もたら)すことは広く認知されているが、もう一つの避けることの出来ない産物は、ガソリンの内部燃焼による排熱である。一台のエンジンから80℃の熱が排出されている。(中略)

それだけでなく、石油の内部燃焼は、自然の空気を死の一酸化炭素に変え、更に二酸化硫黄に変えることで、母なる自然を侮辱する。白金が充填(じゅうてん)された触媒式排出ガス浄化装置は、死の一酸化物で出来た陰鬱(いんうつ)な灰色の雲を、有害な二酸化硫黄の黄色のスモッグに変える。このスモッグが大気と混合することによって、酸性雨が降り、森林を破壊し、惑星全体のインフラを溶かしてしまう。都市の下水管や排水システムのポンプやバルブは、酸性雨の水に含まれる腐食性の酸によって急速に腐蝕している。これらの設備の修理や交換は加速的に増大しているが、そのコストは政府の予算に新たに追加されることになる。地球の歴史においてこれほど日常的に自然のバランスに対し、熱と化学的な衝撃を与えた時代は無かった。

母なる自然の冷却システムに熱を加えて妨害すれば、様々な影響が現われることになる。この熱が北極の氷原を溶かしてしまうのだろうか?海水温が上昇して、ハリケーンや嵐は巨大化し、熾烈(しれつ)になる。大陸を水浸しにするハリケーンは、「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率の神」モロクを崇拝することへの母なる自然のお仕置きなのだろうか?これ以上の証拠は無くとも、生物圏と経済システムの間には根本的な矛盾があると察しをつけるには十分である。政府の債務とか利率とか株式市場といったモロク神の空想物語を基盤としたマネー・システム。この時代遅れの概念や習慣は、緊急に捨て去らねばならない。中央銀行がコントロールするマネーという有害なシステムを拒絶し、利子も政府債務も必要の無い、母なる自然の生物圏と共存出来るマネー・システムを採用しなければならない。

債務の流通(流動債務)からマネーが創造される過程は、市場へと進化し、銀行は船荷証券に代表される債券に利率や割引率を付けて売ることが出来るようになった。債権に様々な利率を付けて売買する力は、モロク神にとって最高に住み心地のよい場所である。経済霊による金融市場の発明は、地球の世話人としての仕事に全く貢献していない。マネー創造の単純な構造を隠す為の奮闘努力は、現実の戦争や政治となって現われ続けている。マネー創造、利子、デリバティブ、金融市場の仕組みのことを、何か市場の力の深遠な神秘であるかのように思い込んでいるが、この迷信のヴェールが、「新しい心」の出現によって剥(は)ぎ取られることは明らかである。生物圏を蕩尽(とうじん)し破壊することがモロク神の「高利貸しの儀式」を満足させる。その為に交換手段を創造する。(中略)

「与信が利子を伴う負債である」という思い込みは、モロク神のマインド・コントロールによって信じ込まされているものである。永久に消えない政府債務、利子付きのマネー、株式取引市場に共通する「利益率」という発想は、モロク神と経済霊の体系的な神学理論であると言うことが出来る。今や全ての国のマネーは利払いの必要な債務の形態を持ち、国民の信用から抽出されているという事実は、実質的には、最高神モロクに「十分の一税」(訳注.原文tithe(タイズ)。農作物などの収穫量の十分の一を宗教組織に納めること)〔※「十分の一税」について関連資料(1・2)〕を納めていることを意味する。利子の負担と共に、増大し続ける債務は、もっともっと多くのマネーを利払いの為に要求することになるのは自明である。利払いを支えるマネーを創造する為に、より高い石油価格が必要になるのも明らかである。時が満ちれば、定年退職者の生活とインフラ整備を支える社会保障と、利払いが必要な国の債務を両立させることは経済的に不可能であることが、はっきりするであろう。生物圏にとって悪性癌であると同時に、知的思考としても嘘を付いていることになる債務、利子、市場という仕組みを皆で容認することは、宇宙に対する反逆に違いない。


■債務と利子に無縁なマネー・システムを実施したリンカーン(グリーンバック)とヒトラー

「信用というものは利率なくしても機能し得る」という発想は、モロク神と経済霊の宗教にとって忌み嫌うべきものである。注意深く調べてみるならば、四人の米国大統領の暗殺――エイブラハム・リンカーン Abraham Lincoln(1809-1865暗殺 大統領任期:1861~1865)、ジェームズ・エイブラム・ガーフィールド James Abram Garfield(1831-1881暗殺 大統領任期:1881年3月4日~1881年9月19日)、ウィリアム・マッキンリー William McKinley(1843-1901暗殺 大統領任期:1897~1901)、ジョン・F・ケネディ John Fitzgerald Kennedy(1917-1963暗殺 大統領任期:1961~1963)――と二つの世界大戦の究極の目的は、債務や利払いが無くとも人々の「全面的な相互信頼と信用」がマネーとして機能し得るという発想を抑圧することであったことが理解出来る。

信用、つまり、「人々の全面的な相互信頼と信用」が国のマネーとなり、利払いも政府債務も発生させる必要が無いことの事例は、エイブラハム・リンカーン大統領によって最初に実現され、同様に、アメリカ南北戦争 American Civil War(1861~1865)の時の南部連合国 Confederate States of America(CSA)でも達成されている。70年後にはドイツの民族社会主義政権が、この画期的な発明に追随(ついずい)した。リンカーンは、南北戦争時の状況に加えて、彼が「神意」と呼んだ神秘的な覚醒を受けて感応し、債務と利子に無縁のグリーンバック(緑背紙幣)マネーを生み出した。アドルフ・ヒトラー Adolf Hitler(1889-1945)も、彼が「神意」と呼んだ神秘的な力によって衝き動かされていたことが、多くの人々によって認められているが、ドイツ本国と、民族社会主義イデオロギーによって占領したヨーロッパ各国に、債務と利子に無縁なマネー・システムを導入した。こうした共通点を持つ二つの政権が互いに相容れない性質を持つことには驚嘆させられる。しかし、両者共、「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率の神」モロクの力に反抗したという意味では共通しているのである(訳注.「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率の神」モロクに命懸けで楯突くことの出来た、稀に見る真っ当な為政者、リンカーンとヒトラー。二人の功績は、歴史の真実と共に闇に埋もれてしまった)。

国の債務が利子を支払わなければならないという考えを受け容れることは、邪悪な反逆の力によってマインド・コントロールされていることを意味する。尽きることの無い疑問として、そもそもどうようにして恵まれた極少数者のコントロールの下に信用のコントロールが置かれることになったのか?後章で論及するが、「カルト273」というマネーのカルト集団の権力がその答えであることには根拠がある。この選ばれたカルトは、特別に選ばれた273人の組織で始まったのであるが、モロク神に仕える経済霊の仕事を任されることで、人類の中で繁栄してきた。「カルト273」の力は、通常はその能力が隠匿(いんとく)されているため気付かないのであるが、何故主権国家がそもそも銀行システムを立法により設立しておきながらも、その同じ銀行に依存するようになってしまうのかを説明してくれる。「カルト273」とその仲間である、高利貸しの特権(Privileged)と、情報(Informed)と、知能(Gifted)に恵まれたエリート達=PIG(豚ども。訳注.原文では、特権 Privileged、情報 Informed、知能の恵まれた Gifted のイニシャルでPIGとなっている。豚という意味も込めたものだろう)に、永続的に利子を払い続ける政府債務とは、途轍(とてつ)もなく馬鹿げた話である。銀行カルト、市場、高利貸しのPIGエリートによって課された制約を言い訳にして、経済的な絶望を正当化し、生物圏を汚染して傷つけることを正当化することは、何とも腹立たしい。

「宇宙の神意」と人類の関係は、神と人類の盟約の時に始まる、創世記1章26節に、神は「地上のもの全てを治めよ」と言ったとされる。この約束は、当事者間の契約関係であり、地球管理の互恵的な取引に依拠している。人類は母なる地球を世話する「用務員」でなければならない。「治める」という言葉は、神への忠実義務と不可分である。この取引は、人類が自然と調和しながら栄えることが期待されているのである。人々が、自然のバランスを崩したり、ましてやモロク神に阿呆のように平身低頭することは、全く想定されていないのである。聖書のこの後の節で明らかになるが、神は、人類が約束の取引を完遂する能力があるかどうかを熟考している。創世記8章21節から22節に、「私は人間を理由として地球を破壊することはしない」と神は言っている。しかし、人類が地球の世話人としての責務を果たせなかった時、人類に何が起きるのかについては、聖書は不吉な沈黙を保っている。

聖書の教えは、「約束」のことを認識しているが、地球の世話人の約束を履行させることに失敗している。その失敗の証拠は言うまでもなく自然環境の汚染である。人類が自然と調和して共に繁栄することを明らかに妨げているのは、「信用には利息を支払う責務がなければならない」という歪んだ思い込みを注入し続けている、かのカルト組織である。「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率」によって利益を追求しようとする欲望は、まともな思考を狂わせる心の伝染病である。このような精神状態に陥ることを、聖書は創世記、出エジプト記、レビ記において、厳格に禁止している。皮肉なことに、人間の心に伝染するこの異常逸脱集団(カルト)が生き残る為には、聖書の宗教が説く契約を守る論理に頼らざるを得ない。現れ来る「新しい心」と立ち向かうことになった時、モロク神は、自らの力とカルトと共に、古代の聖者や預言者によって何度も預言された壮大なる終末戦争を繰り広げることになる。

この戦いで妥協することは非常に危険である。二つの世界観は真っ向からぶつかり合う。一方の世界観は、生命共同体という感覚を基盤とし。国としての一体感が人格の基本であり、相互扶助による経済的、技術的、社会的な進歩の中に、それぞれの個人の責任と役割を認識する考え方である。片やもう一方の世界観は、利己主義と、道徳の欠如、狡賢い詐欺を特徴とする。家も故郷も無い荒涼たる世界で、市場の力と呼ばれる経済の激流の中に生きる人間は、その人格をマネー価格で売買される「商品」レベルまで貶(おとし)められる。これが、「慢性的な政府債務・利子稼ぎのマネー・資本利益率の神、そしてあらゆる汚染の父」、モロクのドグマである。

〔資料〕資料室:ケネディー大統領が政府紙幣の発行を命じた“Executive Order 11110”、『The Money Masters』の翻訳テキスト他 - Anti-Rothschild Alliance
http://rothschild.ehoh.net/material/

http://rothschild.ehoh.net/link/movie_00.html

〔資料〕如何にして富が世界に貧困を齎すのか By Michael Parenti - Anti-Rothschild Alliance
http://rothschild.ehoh.net/material/12.html

http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11276978203.html

http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11579938710.html

〔資料〕≪Thomas Robert Malthus 著, 永井義雄 翻訳『人口論』 より抜粋(6)≫|MelancholiaⅠ
http://ameblo.jp/antibizwog/entry-11378175524.html

〔資料〕広瀬 隆 著『アメリカの経済支配者たち』(集英社 1999年刊行)より【図1~4】|Winterlandschaft mit Kirche~Roentgenium 資料保管庫・別館~
http://arsmagna2.jimdo.com/アメリカの経済支配者たち-図1-4/

〔資料〕富田俊基 著『国債の歴史―金利に凝縮された過去と未来』(東洋経済新報社 2006年刊行)
http://www.amazon.co.jp/%E5%9B%BD%E5%82%B5%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2%E2%80%95%E9%87%91%E5%88%A9%E3%81%AB%E5%87%9D%E7%B8%AE%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E9%81%8E%E5%8E%BB%E3%81%A8%E6%9C%AA%E6%9D%A5-%E5%AF%8C%E7%94%B0-%E4%BF%8A%E5%9F%BA/dp/4492620621

http://blog.goo.ne.jp/abc88abc/e/de36ede302bf95c81672e42797797fdd

http://www.kanekashi.com/blog/2011/11/001763.html

 

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