2014-12-09
■[history]Joel Isaac「ドナルド・デイヴィドソンとアメリカにおける分析的革命、1940-1970」
先日朝日カルチャーセンターの以下の講義に参加した。
【新設】独学者のための社会学入門|朝日カルチャーセンター|新宿教室|講座詳細
内容はネットに書いてはいけないことになっているので特に触れないが、行動科学の遺産というものがあると。
比喩的に言うと、世界各地に超古代文明の遺産が散らばっているのだが、文明が消え去ってしまったため、それらがかつてひとつの文明に属していたことは忘れ去られてしまった。そんな感じで、行動科学の遺産は、人文学のいろいろなところに散らばっている。
で、個人的に分析哲学における行動科学の影響が気になっていたので、これを読んだ。大変におもしろかった。
これまで戦後のアメリカ哲学の分析哲学化の歴史は、亡命してきたウィーン学派の哲学がアメリカに根付いていく過程として語られてきた。その構図自体は基本的には間違っていない。しかし、それだけではない。ひとつに、アメリカにおける分析哲学の興隆は、二十世紀中盤の数理的行動科学運動の一部として見た方がいい。また、学問制度の変化もあったと、著者は書いている。
しかも、その典型的な人物の一人がドナルド・デイヴィドソンなのだと。
本論文では、上のような動きを見るために、いわずとしれた分析哲学のクラシックである、デイヴィドソンの1963年の「行為・理由・原因」とその前後が詳しく語られている。
スタンフォードとデイヴィドソン
デイヴィドソンは1950年にスタンフォードに着任している。しかし、この時点のデイヴィドソンというのは、クワインとのつながりはあったし、分析哲学も学んではいたが、基本的には、プラトンについての論文で学位を取った古典哲学の教師だった。
で、当時の戦後のスタンフォード大学というのは、後のシリコンバレーと聞くとピンとくるんじゃないかと思うんだけど、戦後になってガンガン資金を集めて、急速に成長しているところだった。
スタンフォードがデイヴィドソンに与えた影響として、著者は二つあげている。
ひとつは、豊富な資金と人手不足の環境。デイヴィドソンはひとりであらゆる分野を教えないといけなかった。ただ、資金はあったので、いろんな人をゲストとして呼んだ。ギルバート・ライル、クワイン、ストローソン、J.L.オースティン、アンスコム、ダメット、グライス、etc.。そういう中で、デイヴィドソンは行為論について学んだ。
もうひとつは人的環境。ここがまさに行動科学の影響なのだが、フォード財団の行動科学部門から支援を受けたスタンフォード価値論プロジェクト[Stanford Value Theory Project]というものがあって、分野横断的にいろんな人々が投入されていたと。その中にいたのが、科学哲学者のPatrick Suppesと、ゲーム理論の立役者のひとりで、元ランド研究所にいたJ.C.C.McKinsey。で、デイヴィドソンはこの二人に教わりながら、意思決定理論の研究をしていた。三人で論文も書いている。これどういう背景があるかというと、要するに冷戦中で、リスクとか合理的決定の研究にガンガン資金が流れ込む状況だったらしい。特にスッペスは、いろんな資金を取ってきていたらしい。
たまたまぐぐっていて見つけたのだけど、スッペスはラザースフェルドともつながりがあったらしい。
http://www.tohoku-gakuin.ac.jp/research/journal/bk2012/pdf/bk2012no09_05.pdf
著者はデイヴィドソンの行為論における三つのファクターをあげている。
これは、上のような背景を置いてみると、しっくりくるのではないかと思うんだけど。
また、当時のスタンフォードにいた人々の名前があがっているのだけど、George Kreisel、Dana Scott、Solomon Feferman、William Tait、Jaako Hintikka、Richard Jeffrey、David Nivison。それにスッペスとデイヴィドソン。私も知らない人が結構いるけど、冷戦中で、意思決定論、リスク研究、ゲーム理論が流行っていたと聞くと、なるほどという感じじゃないかな。
背景
さらに、著者はもう少し大きな背景を描いていて、これも非常におもしろい。
まず、アメリカに亡命してきたウィーン学派の人たちは何をやっていたかというと、帰納的推論の研究をしていた。彼らはもちろんこれを科学の基礎付けのためにやっっていたのだが、それが主観確率とベイズ推論の研究につながり、戦争中のオペレーションズ・リサーチへ影響を与えたという流れがあるんだそうだ。戦中のオペレーションズ・リサーチって何やっていたかというと、効率的な爆弾の落し方とか、そういうことを研究していた。著者によると、頻度主義と主観確率の対立がある中で、戦争が主観確率を後押ししたと。
その流れが戦後もつづいていて、当時の科学哲学と、オペレーションズ・リサーチみたいな数理的な応用研究というのは、わりと密接なつながりがあったらしい。ランド研究所にはラッセルの教え子の哲学者、論理学者もいたし、クワインが来たこともあった。
これはちょっとびっくりするような話だ。
もうひとつ重要な背景は価値論。決定理論は主観確率と効用理論を結びつけたわけだけど、当時の「効用理論」というのは別に経済学の専売ではなくて、学際的な領域だったんだと。統計学者、心理学者、哲学者、経済学者が確率論と帰納論理と意思決定を、価値の理論に結びつけることに興味を持っていた。
そして、まさにデイヴィドソンは、論理学、科学哲学、経済学、統計学、心理学がいりまじった方法論の中で仕事をしていた。スッペスとマッキンゼーと共著で論文を出した後、デイヴィドソンは形式的価値論に関するセミナーを開いたが、そこで扱われた文献には、ラパポートのゲーム理論、ヘアの『道徳の言語』、ケネス・アローの『社会的選択と個人的評価』、トゥールミンの倫理学の仕事、ジョン・ロールズの『二つの規則概念』、カウフマンの社会科学の方法論についての論文などが含まれていた。
そしてそれらすべてを結びつけていた理論的なフレームワークは、「実践的推論」だったののではないかと、著者はまとめている。
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