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感情の宗教

 投稿者:管理人  投稿日:2014年12月 8日(月)18時51分22秒 i60-34-192-122.s42.a014.ap.plala.or.jp
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  『感情の宗教』其れこそは邪宗の異名である。

本より、己(おのれ)の感情を主(ぬし)として、物事の正邪を判ずるは、此れまったく正義には非ず。
まして其れが、宗教の根本である本尊義に及ぶとなれば、是れこそは当に邪宗の姿となろう。

つまりは原田が云く、

『会員の皆さまの感情や歴史的な経緯を踏まえ、この(前会則に於ける)「一閻浮提総与・三大秘法の大御本尊」に
ついては、「弘安2年の大御本尊」を指すとの説明を行っていました』と。

つまり、創価学会は、平成14年、つまり、宗門から破門されてから11年後に改正した本尊義は、実は、会員の感情や
其の経緯を踏まえて変えたものであり、本門戒壇の大御本尊を信受する、という本尊義は、全て会員の感情や其の経緯を
踏まえてのものであった、と言うものである。

ならば、其れ以前、つまりは宗門から破門された平成3年から、平成14年の間は、どーであったのか。
なんだ、この間に於いては、弘安2年の大御本尊を正意(信受の対象)として来た、と言うのか。
という事はつまり、今回の言い分からすれば、平成3年から平成14年までは、会員の感情や経緯を無視して来た、
という事か。何とか言いなさい。

そして、改正後の平成14年から先月の11月までは、弘安2年の大御本尊を信受するとは、実は会員の感情や其の経緯
を踏まえてのものだった、と云うならば、つまりは、其の実質の本尊義に於ては、弘安2年の大御本尊は、一閻浮提総与・
三大秘法の大御本尊ではなかった、という事であるのか。

其の事も併せて返答せよ。勿論、私見己義などは要らんぞ。
創価学会員として、創価学会の教義から、其の整合性を示しなさい。

何? 今、後付教義を検討中だと? 呆笑。ふざけるものではない。

>学会は「弘安2年の御本尊を受持しない」と言っただけなのに、
>宗門は大白法で号外だして「戒壇本尊否定した」と発表しちゃったわけだ。
>と言うことは、もう「学会は当寺の御本尊を拝んでいる」と、彼らは言えなくなったわけだな。

そーか。原田が受持しない、と言ったのは、決して、戒壇の大御本尊を否定したものではない、と言うのだな。
しかしな、信仰に於いて、その本尊を受持しない、という事は、その本尊をして、信仰の対象から除外する、つまり、
否定の意に値する、という事である。

即ち、

『大聖人に於ける仏法の本質は「根本の法である南無妙法蓮華経を具現された三大秘法」を信じる事にあります。
具体的には、広宣流布を願い、御本尊を受持し弘めるという自行化他の実践であり』とは、原田の公言であるが、
つまり「大聖人に於ける仏法の本質とは、則ち御本尊を受持して自行化他の実践をする」との言い分からすれば、
其れこそ原田が公言した『弘安二年の大御本尊を受持しない』とは、つまりは、本門戒壇の大御本尊を信受しない、
つまりは其の信仰に於いて、応に「大御本尊から訣別した」という意になるのであり、実に其れこそは大御本尊に於る
一閻浮提総与の大義を応に「否定」したものとなるのである。

いや、そんな事はない、と云うならば、その信仰からして否定しない一閻浮提総与の大御本尊を何故に受持しないのか。
何故、此の一閻浮提に住する末法の衆生として、今まで通りに信受しないのか。して、否定しない本尊から決別するとは、
一体如何なる信仰義であるのか。

お前らは、そーゆー事を、しっかり説明しなければならない。

無論、以下の発言、

乃(すなわ)ち、

「身延山といえば、日蓮大聖人を末法の御本仏と仰がずに「日蓮大菩薩」と称しており、また「板本尊偽作論」を唱えて
大御本尊を否定し、更に、御本尊を店先にぶら下げ、御守本尊をカードにして販売している謗法の山である」

                                    【フェイク 1406号(13.08.22 発行分)】

「戒壇の御本尊」とは宗祖日蓮大聖人の出世の本懐であり、日寛上人が「三大秘法の随一なり」と仰せの大御本尊である」

                                       【新・教宣ハンドブック6頁】

「大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない」

                                 【平成5年9月16日、アメリカSGI最高会議】

との整合性。

加えて、日蓮正宗改革同盟の発言、つまり、

「大聖人直結の信心を貫かれた日寛上人の御本尊は、創価学会が授与するにふさわしい御本尊であるということであり
ます。今回のお形木御本尊(今現在、お前らが毎日拝んでいる本尊)は、日寛上人が大聖人出世の本懐たる「一閻浮提総与」の
大御本尊を御書写されたものであり「大御本尊根本」の信心は、従来と些かも変わりありません」

との整合性についても、お前らは、説明しなければならない。

よいか。ここでいう説明とは、則ち、教義としての整合性である!

無論、上記に挙(あ)げた発言4項は、須らく、お前らからして、大謗法化した『日顕宗』の時に成されたものである。

したがって、「大謗法の地にある弘安2年の御本尊は受持しない」とした原田の公言と、大謗法の地にあろうとも、
大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない、とした
先月までの教義について、その整合性たるものを説明して貰わねばならん。

ったく、

>と言うことは、もう「学会は当寺の御本尊を拝んでいる」と、彼らは言えなくなったわけだな。

などと。

よいか、それこそは、谷川派が目論んだ事であり、だからこその大御本尊の不受持・不信受・則ちは否定なのである。
本より、否定とは、何も、大御本尊を偽作と断定した、との意で言っているのではない。ったく、そんな事も解からん
から、タンコブ原田に舐められるのである。哀。

其れよりも何よりも、「学会は日蓮正宗の御本尊を拝んでいる」と言われたくなかったら、早々に大誓堂安置の板本尊
から、日蓮正宗第64世・日昇上人の御判形を削除し、加えて、お前らが毎日拝んでいる、創価の見解からして日蓮大聖人
直結の御正師だという日蓮正宗第26世・日寛上人の紙本尊から、応に其の花押を消し去るべきであろうが。

違うか。この当方の言い様に間違いなかろうて! よいか、矛盾なき論説とは実に此の事をして言うのである!

其れよりも、その論説指導にして、まったくの矛盾撞着たるは、以下の池田の発言である!

云く、

『大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本であることは、これからも少しも変わらない』と。

ったく、一閻浮提総与の大御本尊が信心の根本である事は、これからも少しも変わらないって、どーすんだよ、これ!

果たして、これからも少しも変わらない信心の根本(大聖人の出世の本懐である一閻浮提総与の大御本尊への信受)を、
先月になって、もう、関係ねーから、やーめた、とは、一体どーゆー法義であるのか。哀笑。

よいか! お前らは、池田を出しなさい! 池田に其の矛盾を説明させなさい!

>本日聖教
>池田先生、奥様が(12月)7日、神奈川文化会館を訪問してくださった。

ならば、出せ!

其れとも、すべてがウソなのか!

お前らの本尊義は、もはや破綻しているのである!

仍って、枝葉末節の論議は、一切不要である!!

ったく、感情で教義する痴れ者め!

破廉恥とは、応にお前ら創価学会の事である!!
 
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